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3-12-3 文帝の一代

2018-10-09 16:38:23 | 世界史
『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年

12 太后と皇帝

3 文帝の一代

 文帝の母は薄(はく)氏の出身であった。
 かつて高祖に愛され、一子をうんだが、その後はかえりみられなかった。
 そのために呂太后からもにくまれることなく、子が代王となるや、宮中から出て代(自分の領地)におもむいた。
 代王は、その位にあること十七年にして、呂太后が死んだ。
 呂氏一族はほろぼされ、群臣は、代王の徳望と、薄氏の仁慈をたたえ、むかえて文帝とした。
 母の薄夫人は皇太后とあがめられた。よって薄太后という。子の文帝におくれること二年にして死んだ。
 文帝は在位二十三年、その諡(おくりな)のごとく、ひたすら仁政にはげみ、節倹をむねとした。
 とくに農業をおもんじて、田に課する税をいくたびも減免したこと、苛酷な刑罰を廃止したことは、仁政としてたたえられた。
 さらに徳望があって学殖ゆたかな者を、地方から推挙させた。
 ひろく賢才をもとめたのである。それまでおさえられていた言論の自由も、みとめられた。
 こうして登場してきた者のひとりに、賈誼(かぎ)がいる。まだ二十余歳であった。
 しかも漢の国家の危機について、するどく指摘した。
 平和な天下になったとはいえ、なお痛哭(つうこく)すべきもの、流涕(りゅうてい)すべきもの、長太息(ちようたいそく=長いためいき)すぺきものあり、というのである。
 もっとも憂うべきものは、諸王国が強大すぎること、されば王侯の大きな領地は削減(さくげん)すべし、と賈誼(かぎ)は主張した。
 たしかに大国の領地は数郡にまたがり、諸王俣の領地を合計すれば、天下の総郡数の三分の二にもおよぶ。
 皇帝の直轄(ちょっかつ)する郡は、全体の三分の一にすぎなかった。
 それでも文帝は、あえて強い処置をとることはさけた。
 しかし文帝の代に、淮南(わいなん)王国は三分され、斉王国は六分されたのである。
 賈誼(かぎ)の意見は生かされたのであった。
 また賈誼は、開明の政治をとなえた。暦をあらため、服色をかえ、制度をただし、官名をさだめ、礼楽(れいがく)をおこすべし、というのである。
 さすがの文帝も、そこまでの改革にはふみきれなかった。政府にも、宮中にも、守旧の気風はなお強い。
 そのころの宮中を支配していたのは、やはり黄老の説であった。その中心は、竇(とう)皇后である。
 竇皇后は、もと呂太后につかえる宮女であった。
 太后は諸国の王に宮女をあたえたが、そのなかに、わかき日の竇姫(とうき)もふくまれた。
 河北の出身であったので、竇姫は実家にちかい趙の国にゆきたいと願い、役人にも頼んでおいた。
 しかるに役人はわすれてしまって、代(だい)へゆく一行にくわえた。
 竇姫は泣く泣く代へおもむいた。そこで代王の寵愛をえて、一女と二男をうんだ。
 さて代王が文帝となる。
 かねて正妃とのあいだに四人の男子があったが、代王が帝位につく前後に、母も子も次々に死去した。
 ついに竇妃の長男が太子に立てられ(後の景帝)、竇妃は皇后となった。
 この人が黄老の説をこのんだのである。
 文帝も、太子も、竇氏の一族も、みな黄老の書をよろこぶようになった。それは無為をたっとぶ。
 改革や術策は、すべて人為であり、したがって偽なるものとして排されねばならなかった。


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