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13-3 暴君ネロの歩んだ道

2018-04-24 02:24:10 | 世界史
『古代ヨーロッパ 世界の歴史2』社会思想社、1974年

13 暴君ネロと使徒パウロ

3 暴君ネロの歩んだ道

 アウグストゥスのつぎに元首となったティベリウスはクラウディウス氏の出で、ユリウス氏の養子となったので、この二つの氏が合流してユリウス・クラウディウス朝が成立した。
 そしてティベリウスから三代めの元首がネロである。
 ネロは本来、健康で快活な子で、スポーツや音楽に関心をもち、詩の才能もなくはなかったが、「かあさん子」として飼育される運命をにない、前の元首クラウディウスにネロを連れ子として妃になったアグリッピナがクラウディウスを毒殺してネロを元首にした。
 すると今度は母と権力を争うはめになってしまった。
 アグリッピナはネロが元首になっても、今までのようにネロを支配して、女帝のようにふるまおうとした。
 しかしネロはもはや母のいいなりにならず、セネカやプルスの力をかりて、政治に口を出すことを封じた。
 ストアの哲人セネカも、もとはといえば、アグリッピナが追放の解除をとりなし、ネロの家庭教師にとりたて、プルスも彼女の口ききで近衛軍司令官に任ぜられたのであったが、ふたりとも元首としてのネロの立場を守ろうとしたのである。
 あくの強いアグリッピナは引きさがるどころか、今まで日蔭者(ひかげもの)にしていたブリタニクスに目をかけ、彼を元首にしようと策動した。
 追いつめられたネロは母ゆずりの残忍性を現わし、会食の席上でブリタニクスを毒殺した。
 それでもアグリッピナは負けていず、さらに新しく彼女の実子を迫いおとす手段をめぐらした。
 そのころ、ネロは遊び仲間で、のちの元首オトーの美貌の妻ポッパエア・サビナを愛人とし、オトーをていよくルシタニア(イスパニアの一部)総督にまつりあげて、追っぱらったが、ボッパエアにとっても、アグリッピナが目を光らせているあいだは、オクタヴィアをおしのけて、ネロの正妻になれないと思って、ネロにいろいろとたきつけた。
 アグリッピナも負けていず、ネロを誘惑して母から愛人になりかわり、わが子と不倫の関係を結んだといわれる。

 こうしてネロは、自己嫌悪とポッパエアのそそのかしによって、恐ろしい決意を固めた彼は五九年、母をナポリ湾の別荘で歓待したあと、海上の船中でひそかに殺そうとして失敗すると、すぐさま彼女の別荘に刺客をおくった 彼女は頭に一撃をうけて、あえぎながらも寝間着をまくって下腹を出し、「ここを突いて、さあ。ここからネロが生まれたのだから」と精いっぱいの抵抗を見せ、悪女の業(ごう)を身にうけて死んだ。
 そのあとネロはセネカの知恵を惜りてアグリッピナが政治的陰謀をはかり、ネロを暗殺させようとして失敗して自殺したと公表した。
 彼女の過去を知る世人はこの説明に半信半疑であった。
 ついでネロはオクタヴィアを離婚し、ポッパエアと正式に結婚した。
 貞淑な妃であったオクタヴィアは悲運にもカンパニアに追放され、これに同情して民衆が騒ぎだすと、さらにナポリ湾沖あいの孤島に流され、ついに処刑された。
 それでもネロは治世初期の約五年間はセネカやプルスの補佐をうけ、元老院と協調して善政を施したが、やがてプルスが病死し、セネカもネロの信望を失って引退すると、プルスの地位をついだ悪賢いディゲリヌスが、さらにネロに悪業をたきつけ、政治は乱れた。
 有力者を処刑、追放し、その財産を没収して、乱費で穴のあいた財政をうめ合わせたが、それくらいでは財政の欠乏には追いつけなかった。
 六四年には首都ローマは中心地区からおこった怪火で大半が焼け野原となり、これに関連してキリスト者の迫害が行なわれたが、これについてはあとでのべよう。
 翌六五年には元老院議員ピソを中心とする陰謀が発覚し、多くの有力者が連座し、処刑された。
 そのなかにはネロの芸術の指導者で、「エレガンスの判定人」といわれたペトロニウスや、気鋭の詩人ルカヌスもいた。
 ルカヌスの伯父にあたるセネカにも加担の嫌疑がかけられ、自決を命じられた。
 彼はこの時代に自殺の方法として流行していた手足の血管の切開をしたが死にきれず、毒薬をのみ、さらに熱湯の風呂にはいり、発汗室に運ばれ、熱気によって息をひきとった。
 こうしてストアの哲人でネロの指南番(しなんばん)、同時に海外貿易や高利貸しで巨富を積み、時代の矛盾を象徴した人物も死んでいった。
 他方、スポーツや芸術の愛好者であり、その天分をもつと自負していたネロは、六六年、宿望のギリシア旅行を実行し、オリンピアやデルフィなどの戦車競走や詩歌のコンクールに出場した。
 八百長(やおちょう)によって優勝し、六八年ローマに帰還したときには、なんと千八百八個の栄冠をたずさえていた。
 しかしこの年ついに彼の年貢の納めどきがきた。
 ガリアでの反乱につづき、イスパニアでガルバがその地の軍隊によって、元首にかつぎあげられた。
 ボッパエアを寢とられたオトーも、ガルパを支持した。近衛軍はネロを見限り、元老院も彼を公敵と宣言した。
 ネロはローマ郊外に脱出したが、もはや逃れようもなく、側近の者たちも自決を勧めた。
 それでもネロは生命に未練があって、「なんという惜しい芸術家が、私とともに消え去ることだろう」とくりかえし、つぶやいた。
 しかし、ついに彼を生け捕りにする追っ手の馬蹄の音が近づいてきた。
 彼は、「早駆けに走る軍馬の蹄(ひずめ)の音、わが耳を打つ」というホメロスの詩句をくちずさみ、剣でのどをついた。
 暴君として恐れられたネロも、民衆には奇妙な人気があった、そのような恐怖と期待を混じえた彼の追憶は、後代までのこり、第二、第三のネロと袮する人物が、属州各地に現われた。
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