カトリック情報 Catholics in Japan

スマホからアクセスの方は、画面やや下までスクロールし、「カテゴリ」からコンテンツを読んで下さい。目次として機能します。

「第5章 蛮族と聖会」『聖会史のはなし』浦川和三郎司教

2018-06-21 01:35:13 | 教会史
「第5章 蛮族と聖会」『聖会史のはなし』浦川和三郎司教

22
その後、ローマ帝国はどのような運命に見舞われましたか。

ローマ帝国は、北の方から侵入してきた蛮族に踏みつぶされ、滅ぼされてしまいました。ただ残ったのは聖会だけで、次から次へと流れ込む蛮族を食い止め、ギリシア、ローマの文芸を保護して、その命脈を保ったのは、実に聖会の力でした。

23
どのような蛮族が侵入してきたのですか。

ローマ帝国は、ライン河、ドナウ川を境としていましたが、それらの川の向こうには、ゲルマン族が住んでいまして、しばしばローマ帝国内に侵入を試みたものでした。
5世紀のころ、ローマの勢力が衰えるに乗じ、西ゴート族、東ゴート族は相次いでイタリアになだれ込み、西ゴート族は進んでイスパニアを取り、フランク族はガリアを、アングロサクソン族はイギリスを占領し、ブルゴンド族は東フランスに、ロンバルド族は北イタリアに国を建てました。
そして、それらの蛮族の中で、フランク族と、アングロサクソン族とは、偶像教徒でしたが、その他はすべてアリウス派の異端を奉じていて、随分とカトリックを迫害しました。

24
蛮族に抵抗を試みたものはいなかったのですか

ローマ帝国は、十分の兵力を有せず、官吏は敵兵が近づくや、おそれて逃亡しましたので、民衆を励まして防戦につとめたのは、ただ、カトリックの司教たちだけでした。
聖アウグスチヌスは、ワンダル族がヒッポの城を囲んだときに、城兵を励まして、最後まで抵抗させ、オルレアンの司教、聖ユニアンも、市民を引き立てて、アッチラの大軍を食い止めさせました。

彼らは百計尽きて、また、どうすることもできなくなるに至るや、十字架を先頭に立て、敵前に進んで説諭を試みました。
こうして、トロイの司教聖ルー、教皇聖大レオは、アッチラに説いて退軍させ、
聖女ジュヌヴィエ-ヴはパリを救いました。

それにしても蛮族の通過した後は、ただ一面の荒野原で、家は焼かれ、耕地は荒らされ、商業は中絶し、警察は跡をたち、世はこぞって野蛮の状態に逆戻りしました。
このときに当たって、社会の公益を図り、弱きをたすけ、悩めるを慰め、物質上、道徳上の再興を指導したものは、ただ、司教たちのみでした。
彼らこそ、実に都市村落の首領、かつ保護者であったのであります。

25
蛮族はどのようにして改宗しましたか

フランク族のクローヴィス王は、聖女クロチルダというカトリック婦人を妃としていましたので、その勧めにより、また、ひとつは戦いに臨んで負けそうになったとき、「クロチルダの神よ、我を助け給え」と祈って、大勝利を得たために改宗し、紀元496年、部下3000人と、レンスの天主堂で洗礼を受けました。
蛮族中で真っ先にカトリックに改宗したのは、このクローヴィスでしたから、
フランスは「聖会の長女」と呼ばれるに至りました。

26
聖会はどのようにして、これらの蛮族を文化に導きましたか

ヨーロッパの諸民族を改宗させ、これに文化を導き入れる為に働いたのは、ベネディクト会の修道士たちでした。
一体、ローマ帝国を滅ぼして、その跡に国を建てた蛮族は、血に渇くトラ、血に渇くオオカミのような荒々しい野蛮人でした。
たとえ洗礼は受けても、なかなか以てその野性を失わず、相変わらず戦闘、略奪、殺戮をこれ事としたものです。
でも、ベネディクト会の修道士たちは、いたるところに学校を建て、養育院、病院などを設け、戦好きの武人等に謙遜、柔和を説き、次第に戦争の悲惨な状況を厭わせ、そのかわりに、文芸や科学の研究に心を向かわせるように努めました。
なお、一般民衆には、定住と労働の鑑を垂れるいっぽう、また、山林を開墾し、沼沢を干し、鋤を操り、ぶどうを栽培し、果樹を接ぎ木し、道路を開き、水路を設けて感慨の便を図るように教えました。

要するにベネディクト会の修道士は、蛮族の侵略によって踏み倒され、瓦や石のごろごろした廃墟からヨーロッパを再興したのです。
文芸と農耕と青年教育とをもって、この復興事業を完成したのでありました。

27
古代の名著、大作が今日まで伝わったのは、誰のおかげでしたか

宗教に関すると否とを問わず、古代の名著大作が今日まで遺ったのは、かれら修道士のおかげでした。
当時、活版術は発見されていなかったので、彼らは余暇を利用して、古い書物の写本に従事し、聖書は申すまでもなく、ギリシア、ローマの詩歌、文学、哲学書などをこつこつと筆写し、これを広く世にわかち、当世の文運を助けると共に、またそれを後世に伝えてくれました。

28
ベネディクト会からどのような人物が輩出しましたか

ベネディクト会の修道院は、最も盛大に赴いたときには、3万7千を数え、それから24名の教皇、幾千名の司教、5000人以上の聖人を輩出しました。

29
教育事業に対する功績はどうでしたか

各修道院には、2種の学校が附属していました。
ひとつは、院内にあって、修道志願者を教育し、一つは院外にあって、世俗の青少年を収容したものでした。

修道院学校の外に、小教区には小学校があり、司教座下の都市には司教学校があり、文法、修辞学、幾何、天文、算数、詩文、音楽などを教授したものです。

結び--
聖パウロは「信心は万事に益あり」と申しましたが、実際宗教は、霊魂の救いを第一に志しているのですけれども、しかし、それによってまた国家、社会も多大の恩恵をこうむるに至りました。
「ミツバチが巣を作るように、司教達はフランスを築きあげた」
と、イギリスの有名な歴史家、ギボンは言っています。


よろしければ、フェイスブックのカトリックグループにもご参加ください。FBではここと異なり掲載が途切れることもありません。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。