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カリフォルニアを奪れ リードの開拓魂

2017-04-29 12:44:58 | その他
魂のこだま

楽園に多勢の人がやってきてほしい

 サンフランシスコ湾の北岸を、十マイル(約十六キロ)も北上してゆくと、アメリカ西部では珍しくヨーロッパ的な風景が展開される。

 ぶどう波のように緑色で、うねりのある大丘陵地帯の一面が、見渡すかぎり葡萄畑で、その中に点在するアイボリー・カラーの石づくりの醸造庫は、中世の城のようだ。キラキラと明るい太陽を反射させる小川が無数に流れて、のどかなせせらぎが聞こえる。スイスかイタリア北部のベローナのあたりに来たような気がする。ナパ平原と呼ばれるこの地方は、スイス系イタリア人の葡萄栽培で、世界でも最高のワインの産地となっている。

 ナパは、インディアン語で魚のことだそうだ。ナパ平原をもっと北に行くと、やがて太平洋岸に屹立する高原地帯に入っていく。四千フィート(約千二百メートル)の標高をもつ断崖絶壁の河川の堤防の険しさは、デュッセルドルフからライン河を下るときのような感じをもたせてくれる。

 アプリコット、シェリー、プルム、ペアー、ピーチなどの果樹園が美しい。

 メキシコ軍の北部司令官だったバレヨ将軍が、ラチリマ・モンティス(山の涙)と呼んだ旧屋敷は保存され、州の公園課の所属となっているが、古い木造建築の本館に接続して建てられたスイス風の山小屋の中には、面白い骨董品が陳列されている。ナパ平原の東側はサクラメントだが、西側海岸を北上していくと、旧ロシア領だったロス要塞(フォート・ロス)が復元されている。

 ロマノフ王朝のシベリア総督兼アラスカ・カリフォルニア植民地総督だったアレキサンドリア・ロチェス伯爵が、探険隊を組織して北方のヘレナ火山に登頂したのは一八四一年、リード・ドナー隊がシエラで遭難したころよりわずかに五年前のことであった。

 ロス要塞からの引き揚げは分らないことでもないが、ロシアがアラスカを七百二十万ドルで売却(一八六七年)したのは理解に苦しむ。

 英国がオレゴン係争で妥協し、北緯四十九度線を国境とする確定協定をポーク大統領と締結したのは、リードがララミー砦に着く前の一八四六年六月だった。

 リード一家がセットルメント(開拓)の地として最初に選択したのが、このナパ平原であったわけだが、彼は故郷のスプリングフィールドに手紙を書いた。時に一八四七年七月二日、この手紙は、『スプリングブイールド・ジャーナル』紙に掲載された。

「大試練を越えて、ついにカリフォルニアの新天地に足を踏み入れました。この手紙の中で、私は苦難に満ちたわれわれの旅の歴史の報告を行なうことは言うまでもないことですが、その報告とともに、わが国に対する私のある種の警告も書かせていただくことになるでしょう。もしこれが普通の手紙であるなら、当然省略すべき事故のことや、細々とした事実にもあえて触れて書くつもりです」

『日記』では、つねに素っ気なく無感動な記録しか残さなかったリードが、両肩をいからせているのが注目されるが、手紙はカリフォルニアの現状報告から書き起こされている。

***

「小麦は ブッシェル(約二十七キロ)一ドルで売られています。ここでは、小麦需要には限界があります。大きな三歳牛の肉は獣体の四分の一が一ドルで、それが小売りになると一ポンド(約四百五十グラム)ニセント。豚肉は、見たこともない味わったこともないほどの品質です。最高のものでも一ポンド六セント。こんなによい豚をこんなに手間をかけず、金もかからずに飼える場所たるは、世界中またとないでしょう。塩も最高のものが湾内の砂浜で採れます。樽づくり用の材木が乏しいことが残念です。

 羊は、野生のものが群をなしているので、好きな羊を殺せばよいのです。一頭ニドル、バター一ポンド五十セント。チーズニ十五セント。鶏一羽五十セント。卵一ダース(十二個)五十セント。鶏はどこにでもいますが、七面鳥も最高です。

 小麦粉は百ポンド(約四十五キロ)八ドル。小麦粉が少々高いのは、製粉工場が少ないためです。馬一頭六ドルないし三十ドル。野生の雌馬は六ドルないし十ドルです。野菜栽培は気候も土地も完壁の状態。種子は冬にまきます。カボチャはわが生涯最大のものを見ました。年中、採れます。西瓜も同様。キャベツ、レタスは五月一日に採れます。どこででもポテトが採れ、コーンは六月六日ごろ採れて、そのころビーンズも食べられます。オニオンも非常に大きい。

 イチジクとオリーブだけは気まぐれな果物で、オレンジ、レモンはまだ試作されていません。ナパから三マイル(約五キロ)ないし四百マイル(約六百四十キロ)南の地が、オレンジとレモンの栽培に適していると思います。

 私と家族は合衆国で暮すより、やはりここに来てよかった、ずっと住みよいと信じています。事実、家族の健康状態がよくなったことは確実です。夏になっても働ける反面、冬のための仕込みの必要もありません。ただ、雨期のときだけ、家畜類の面倒をよく見てやる必要があります。といっても、一緒に乗り回してやる、歩かせてやる、掃除をして清潔にしてやればよいわけで、これはたいした労苦ではありません。

 砂糖、コーヒー、糖蜜はサンドイッチ島(ハワイ)からきます。棉とその他の生産品は合衆国からのものなので高価ですが、いまに競争で値段も下がることでしょう。鉄は一ポンド十セントないし十六セントで、製品では鍬が高いです。現在、小麦の収穫時ですが、なんといっても、ここよりはサクラメントが本場です。この間、サッター砦で二週間過ごしましたが、サッター大尉は、四百人のディガー・インディアンを使って小麦を刈っていました。彼の今年の収穫はなんと八万ブッシェル(約二百十六キロ)。

 ナパ平原の西にはソノマ平原があります。長さ二十マイル(約三十ニキロ)、幅一マイル(約一・六キロ)ないし三マイルの盆地で、サンフランシスコ湾につながっていますが、昨年の秋にシエラを越えたオーバーランダーが、このソノマ平原に定住しました。ここも快適な土地ですが、ナパとくらべると霧が多い。それは、ソノマ盆地の西側の海岸山脈が低くなっているため、海上の風がまともに吹きつけるからです。

 私たち家族は、絶対にナパに住みます。十六年前に、ミゾリーからやってきたヤント大尉という親切で有名な人がいます。彼は一日一頭のブロック(去勢雄牛)を殺しています。時に、一日ニ頭殺すときもあり、こんなに牛肉を食べたことはありません。当地の牛の最大の問題点は、脂肪が多すぎることです。

 ナパ平原は長さ三十マイル(約五十キロ)、幅三マイルで、大小のクリークが流れていますが、いま三つの製粉工場と一つの製材所を構築中です。私はこの平原を愛し、この平原に驚異を感じます。日中はかなりの暑さですが、それでも熱病や悪疫はありません。もうこれ以上お伝えしなくても、私が何を申し上げたいかお分りでしょう。

 できるだけ、多数の人がこの地にやってくるべきだ!といいたいのです」

祖国を愛し、人間を愛す

 リードは、新天地への大胆な勧誘状をしたためたのだが、次の文中に、彼らしい警句が入っていた。

「私はわが祖国を愛します。私がそうであっても、むろん、そうでない入もいることでしょう。せっかくやってきた新大陸の祖国を嫌って捨ててゆく人もいるでしょう。しかし、祖国愛のない何人のアメリカ人や移民たちが、この祖国を捨てようとも、アメリカ合衆国はどういう影響も受けはしますまい。そんな人間はいなくてもよろしいわけです・・・。

 しかし、ここではまるで事情が違います。万一、このカリフォルニアの地で、戦争が終ったとはいえ、メキシコ人の反乱が発生したとしましょう。そのとき、メキシコ人とアメリカ人の人間の数の差が、大問題となるのです。これをよく考えてください。

 この地への二千マイル(約三千二百キロ)の長いトレイルは、まことに困難な道程です。特に最後の三百マイル(約五百キロ)が至難のトレイルでした。そして、シエラネバダを越えることは、最悪の障壁です。峠の前後の八十マイル(約百三十キロ)というものは、誰も経験したことのないような最悪の状態でしたが、計画さえ綿密に立てて実行すれば、二十台のワゴン中、十九台は通過可能と信じます。

 私たちが体験した惨劇は、人災というべきであり、管理の失敗が原因でした。私たちのあの悲劇が、将来、もしあのシエラを越えて、カリフォルニアにやってこようとする人々の勇気をくじく前例になるようなことがあっては絶対にならないと私は念ずるのです。

 私が、もしキャラバンから追放されることなく、隊と終始行動をともにすることができていたならば、私は絶対に、雪が降る前にシエラを越えさせていたでしょう。降雪前に山を越えた運中は、それを認めています。いま、われわれが味わった不幸を顧みるに、いろいろな教訓を学びとることが可能であります。

 私の雇い人の二十八歳のエリオットは、ドナー・キャビンの中に行って、ドナー夫人のために最後の最善の、涙ぐましいまでの努力をはらいました。彼は、悲惨な状態のドナー・キャビンを修理し、整理し直しました。そんなことを十日か十二日間やったあと、ドナー・キャビンから彼がもとのキャビンに戻ってきたとき、もうすっかり痩せ衰えていたそうです。エリオットは、その二、三日後に死にました。エリオットは死の直前まで、年長者に尽くす奉仕の精神を忘れなかったのです。

 私の雇い人のジェームス・スミス(二十五歳)は最初の死亡者でしたが、彼の死因は精神的に早くあきらめすぎたためだったと思います。彼は肉体的に飢えてしまう前に、精神的にまいって死んだのです。デントンという男もそうです。デントンの死体が雪中で発見されたとき、彼は寝袋を担ぐようにして倒れていました。

 なぜ、彼があんな最悪の場所で、あんな最悪な状態であきらめてしまったのか、精神力の欠如で死んだことは、一目瞭然でした。

 シカゴから来たスタントンは、仲間を救うために、彼の体力の限界を越える働きをして、自分自身を犠牲にして死んだのです。ありとあらゆる超能力的努力のあと、神に捧げられたのがスタントンの命でした。

 そして最後に、シエラ救援隊員として散った若き士官候補生のウッドワース君への感謝を捧げなけれぼなりませんが、私が何を訴えようとしているか、ご判読くだされば幸甚です。

 全ての古き親しきスプリングフィールドの友人諸君に、この手紙を送ります。」

ジェームス・フレイザー・リード(アイルランド系の西部開拓者)

(大森実『カリフォルニアを奪れ リードの開拓魂』講談社、pp.262-270より)

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