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志村辰弥神父『聖母マリアの崇敬』、6

2016-07-23 07:01:23 | 聖母崇敬
志村辰弥神父『聖母マリアの崇敬』

3、わが国と聖マリア

 わが国と聖母マリアわが国へはじめてキリスト教を伝えたのは、フランシスコ・ザビエルであります。かれは天文十八年(1549年)8月15日鹿児島へ上陸し、その日はちょうど聖母被昇天祭に当ったので、日本の布教をマリアのみ手に委ねたといわれます。

 日本の布教は、すばらしい発展をとげ、わずか五、六〇年の間に信徒三〇万を数えるにいたりました。ところが、天正十八年、豊臣秀吉の禁教令によって布教は阻止され、大部分が棄教しました。しかし、ある人々は信仰を堅持して殉教し、ある人々はかくれキリシタンとなって密かに信仰を保ち、ひとりの司祭、ひとりの修道者もないまま三百年の迫害に耐えてきました。その間、かれらの信仰の支えとなったのは、マリア観音としてあがめられたマリアに対する信心でした。

 やがて一九世紀のなかば、日本の開港に先立って、天保一五せ年(1844年)、パリ外国宣教会司祭フォルカード神父が日本教会の復興のために琉球へ派遣されました。かれはマリアに対して深い信心をもっていたので、那覇へ到着と同時に、アルクメーヌ艦上でミサをささげ、日本の布教をマリアのご保護にゆだねました。

 そして、「聖母マリアの潔きみ心(当時の名称)」の祝日を日本の一級大祝日として、5月1日に祝う認可をローマから得ました。

 元治二年(1865年)3月17日、長崎の大浦天主堂でプチジャン神父がかくれキリシタンを発見したのは、信徒が聖母像をみて神父に質問をかけたことにはじまります。こうしてマリアは、不思議な方法で信徒を守り、導いてくださったのです。その後、明治時代にはいり、信仰が認められたとはいえ、従来の偏見によって布教は困難でした。第二次世界大戦によってもたらされた信仰の自由は、敗戦といういたましい試練を通してではあったが、わが国民に救いの道が完全に開かれた点では、喜ぶべきことでした。

 これについても、マリアの不思議なはからいがうかがわれます。それは、開戦と終戦と平和条約がマリアの主要な祝日に当っていることです。すなわち、開戦は昭和一六年(1941年)12月8日、マリアの無原罪のおんやどりの祝日、終戦は昭和二〇年(1945年)8月15日、マリアの被昇天の祝日、講和条約は昭和二六年(1951年)9月8日、マリアの誕生の祝日ということになるのです。それら三つの大事件がマリアの祝日に当ることを偶然の結果と見るのは、偶然の確率からいって困難です。このようにして戦後は宣教にすばらしい発展をとげて、戦前百年間に勝ち得た信徒の数を戦後十年間で越えるほどになりました。

 現在、日本は経済大国に発展して国民生活は豊かになったために、人々は物質的幸福を求めて信仰から遠ざかり、改宗者は終戦直後には及ばないが、聖書はベストセラーとして広く読まれ、キリスト教文学もくまなく紹介されています。こうした国民の関心は、やがて時が満ちれば、たちまち開花する準備態勢と考えられ、マリアの恩恵が期待されています。しかし、1844年以来、日本の一級大祝日として祝われて来た「聖母マリアの汚れなきみ心」の祝日が、公会議の典礼刷新の機会に消されてしまったことは、かえすがえすも遺憾です。

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