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第3章 キリスト教帝国内における聖会(紀元313年-476年)

2018-05-18 00:33:46 | 教会史
「第3章 キリスト教帝国内における聖会(紀元313年-476年)」『聖会史のはなし』浦川和三郎司教

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迫害の幕を閉じたのは誰でしたか。

迫害の幕を閉じたのは、コンスタンチヌス大帝でした。
時にコンスタンチヌスはガリア(今のフランス)におり、ローマにはマクセンチウス帝がおりまして、互いに天下を争いました。
紀元312年、コンスタンチヌスは兵をひきつれてローマに進軍しました。

その途中、燦然たる十字架が太陽面に顕われ、その下に「汝この旗印(はたじるし)もて勝つべし」という文字が読まれました。
よって、コンスタンチヌスは、軍旗にキリストの略字であるPとXを組み合わせた文字を縫い付けさせ、それに心から信頼をかけて進軍し、ローマを隔たること3キロメートル、ミルウィウスという橋のたもとで、敵と会戦して圧倒的大勝利を得、マクセンチウスは逃げて行くうち、川に落ちて溺死をしました。

翌年313年、コンスタンチヌス帝は、ミラノ市において勅令を発し、国民に信教の自由を許し、自分も率先してキリスト教徒となりました。
このようにして、250年の久しきにわたった迫害も、キリスト教側の大勝利をもって、めでたく幕となったのであります。

12
異教はそのまま滅びましたかコンスタンチヌス帝はキリスト教を異教と対等の地位におきました。

その子、コンスタンチヌスは、異教の祭りを禁じ、多少の圧迫を加えました。

その後を承けたのが、ユリアヌス背教帝で、熱心に異教の復興をはかり、いろいろと煩わしい法令を発して、キリスト教徒を苦しめました。
幸い、彼は即位2年目の紀元363年、パルチアと戦って重傷を負い、「ガリレア人(キリスト)よ、汝は終に勝ったなあ!」と叫んで死にました。
そのために、彼の企ては全く水の泡となりました。

391年、テオドシウス大帝は、異教の祭礼及び神社参拝を禁じ、394年には
「今からローマ市において異教を全廃す」という法令を発布しました。
そのために都市は全くキリスト教化し、異教の神々は村落に避難し、なお暫くは命脈を保つことができました。

13
聖会はコンスタンテヌスの与えた自由と保護をどのように利用しましたか

聖会はコンスタンチヌスの与えた自由と保護とを利用して、外に向かっては大いに福音を宣伝し、異教徒を改宗させるように努め、内にあっては天主の為に荘厳な聖堂を建設するかたわら、至るところに慈善事業を興し、病院を建て、孤児院、養老院などを設け、奴隷を解放するなど、目覚ましい活躍ぶりを見せました。

14
熱心な信者は、どのような生活を営むに至りましたか

新たに修道生活を始め、天主の掟はもちろん、その勧めたる清貧、貞潔、従順をも守るべしと誓願を立て、感ずべき聖徳の光を輝かすに至りました。
もとより修道生活はイエズス キリストの教え給うたもので、聖会の初めから心ある人々が実行してきたものではありましたが、しかし、それが歴史上に現れ出たのは、4世紀の頃で、場所は、上エジプトのテバイド地方でした。独修士聖パウルス、聖アントニウス、聖パコムス、聖バジリウス、聖アウグスチヌス、聖マルチヌスなどは、特に有名な修道士でありました。

15
修道士は、どのような修養に従事したのですか

これらの修道士は、祈祷、苦行、手工に従事し、大に聖徳の香を四隣に放ちました。
彼らの中から博学にして有徳な司教が多く輩出して、進んでは異端、異教の撲滅、聖教の伝播に当たり、退いては信者の教養、博愛事業に従事し、もって社会の面目を一新させました。

結び--
コンスタンチヌス大帝は、十字架によって勝利を得ましたので、以後、十字架を刑罰の道具に用いることを禁じました。
この時から、十字架は名誉の印となり、いたるところに装飾として用いられるようになりました。
天主の御摂理ばかりは、感ずるに余りありませんか。
ユダヤ人がキリストをはずかしめ、その御教を滅ぼすために用いた十字架が、かえって名誉の印となるに至ったということは。



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