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聖アンセルモ大司教教会博士   St. Anselmus Archiep. et D.

2017-04-21 08:47:29 | 聖人伝
聖アンセルモ大司教教会博士   St. Anselmus Archiep. et D.  記念日 4月21日

 中世期の大学者大人物と讃えられる聖アンセルモは、1034年イタリアのピエモント州アオスタ市の富貴の家に生まれた。子供の頃から信心の業を好み、修道院に入って一生を天主に献げようと志した。しかし血気盛んな青年時代を迎えると、いつかそうした殊勝な考えを忘れ果て、浅はかにも放蕩に身を持ち崩すようになった。父も折々は意見したが一向にききめがない。それで思い切って厳罰を加えようとすると、アンセルモは家を飛び出してフランスへ行き、三年というものを行方定めぬ流浪の中に過ごした。けれどもそういう彼の良心もついには目覚めずにはいなかった。彼は前非を後悔し、その償いにそれからは、専心学問の研究を始め、その目的の為、当時碩学として名高かったランドフランク師が修院長を勤めているノルマンディー州ベックの修道院を訪れた。ランドフランクは痛悔の情著しい青年アンセルモの入院を許したが、やがてその精神的才能の甚だすぐれている事を認め、学問のみならず霊的方面にも懇切な指導をおしまなかった。かくてアンセルモは長い試練と容易ならぬ戦いの後、漸く1060年ベネディクト会の修道服を纏う身とはなったのである。それは彼が26歳の時の事であった。

 それからのアンセルモは旧に倍して熱心に徳を積み、間もなく全院修道者の鑑と仰がれるに至り、三年後には早くも修院長に選任された。彼は年輩こそまだ若けれ、並びない聡明さを以て全院を治め、立派な成績を挙げ、しかも部下には極めて寛大に、己に至って厳格であった。そして昼は多くの学生に神学を教授し、夜は大方祈りと黙想に時を過ごした。なお彼は殆ど毎日のように大斉を行い、十字架を眺めてはいつもわが前半生の罪を悔いて涙せぬ事はなく、主の御旨に適わぬ事は心して避けるのであった。

 彼の博学と聖徳との聞こえが次第に天下に轟き渡るにつれ、夥しい学生の群れがその修道院に押し寄せて来た。1093年には英王グィレルモから彼を英国第一の大聖堂カンタベリーの大司教に任命する旨の沙汰があり、英国民も歓呼してこれを迎えたが、アンセルモは老躯その任に堪えずとして之を辞退した。けれども人々は彼を殆ど無理無体に病床にある王の枕べへ連れ行き、その手から司教任命の印なる司牧杖を受け取らせてしまった。で、アンセルモも、王が没収した聖会の財産を返却する事と、正当の教皇ウルバノ二世を認める事とを誓うのを聞いてから、遂に司教就任を受諾した。

 しかしこの司教職は彼にどれほど多くの心労を招来したか知れなかった。王は病癒えるや否や前の誓約など忘れた如く、事毎に聖会に圧迫干渉を加えた。アンセルモはこういう王の不当な処置を出来うる限り諫止しようとした。為に王の逆鱗に触れ、身の安全を保つ為に、二度までも英国を去らねばならなかった。が、彼の叡智と慈父の如き愛とは、遂に聖会と王との間に平和をもたらす事に成功した。老大司教は数々の心労と努力とに憔悴しながらも、勝利を得て英国に帰った。とは言え彼はその後幾ばくもなく重病に罹り、最後の一月は食物さえも摂り得ず、1009年の聖週中の水曜日、遂にこの涙の谷を去って主の御許に急いだ。

 その後カンタベリー司教座教会にある彼の墓に於いては数多の奇跡が行われた。彼と同時代の人、篤信なるトリテニオ修院長はアンセルモを「彼の信仰は極めて深く、叡智は一世を蓋い、その行いは聖にして心は敬虔に、その弁舌は爽やかにして生活は人の模範を仰ぐに足りた。彼は全力を挙げて事業を行い、孜々としてたゆまず聖書を黙想し、あらゆる徳に秀でていた」激賞しているが、蓋し適評であろう。

教訓

 聖アンセルモは一旦若気の過失からよからぬ道に踏み込んだが、選善を決心するや躊躇せずその実行に取りかかり、聖書を研究し、修院に入った。いかに良い事でも決心だけでは何の役にも立たぬ。之を実行に移してこそ、始めてその価値を生ずるのである。


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