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3-2-2 周族の興隆

2018-05-18 20:27:38 | 世界史
『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年

2 殷より周へ

2 周族の興隆

 「周」の開国にまつわる物語も、また伝説につつまれている。
 その始祖たる后稷(こうしょく)の母は、帝嚳(こく)の正妃であった。
 ある日、野にでて巨人の足あとを見つけ、よろこんでふむと、たちまちみごもった。
 そして男の子をうんだ。不吉の子として、せまい巷(ちまた)にすてたが、馬も牛も避けて通った。
 氷の上にうつすと、鳥がきて羽でおおった。
 ついに母も、これは神の子てあると考え、やしなって「棄(き)」(すてご)と名づけた。
 やがて成人すると農耕をこのみ、よい土地を見つけては、種をまいてみのらせたので、人びとはみな、それにならった。
 それを聞いて堯(ぎょう)は、かれを農師にとりたてた。
 ついで舜(しゅん)は、稷(きび)の后(きみ)として大名にした。
 よって号して、后稷といった。この「稷」というのは、穀物のキビのことである。
 すなわち周の始祖の后視は、穀物の霊を人格化したものであり、農業の神であった、と考えられるであろう。
 周の歴史は、古公亶父(たんぽ)のころから、ようやく明るみにはいってくる。
 古公亶父は、また大王とも呼ばれ、后稷から十一代の後、と伝えられてきた。
 もっとも周族の祖先とかんがえられるものが、殷代の後期(武丁の時代)には、殷の記録にあらわれている。
 すなわち周は、殷王のもとに朝貢(ちょうこう)して(みつぎ物をささげて)、「侯」の称号をえた、というのであった。
 これは大名たるものの称号であるから、前十三世紀の初めごろには、周の勢力も大きなものとなっていたに違いない。
 そうして古公亶父の代になると、北方の遊牧民から圧迫をうけ、それまでいた豳(ひん)の地を去って、岐山(きざん)のふもとにうつった、という。
 のちの『孟子(もうし)』にも「大王は邠(ふん)をさる」と見えているから、豳(ひん)=邠(ふん)は山西の邠水(ふんすい)のほとりであって、そこから陝西(せんせい)の岐山へうつったのであろうか。
 この古公亶父には、太伯・虞仲(ぐちゅう)・季歴(きれき)という三人の子があった。やがて末子の季歴は、殷の王族の女をめとって、昌(しょう)という子を生んだが、昌には生まれながらにして聖人の相があった。
 古公は「わが周の世をおこすものは、昌であろう」といって、よろこんだ。
 古公の意中を知った太伯と虞仲(ぐちゅう)は、そこで季歴にあとをつがせようと思い、父のもとを去って遠く荊蛮(けいばん)の地へおもむいた。

 それは、いまの長江の下流、のちの「呉」の地であったという。
 太伯たちは、いれずみをし、髪をきって、蛮族たちの仲間にはいった。
 この太伯の子孫が、のちの「呉(ご)」の国を建てた、と伝えられるし、また日本人が太伯の子孫だ、という伝説までつくられている。
 こうして周では季歴が立った。しかし季歴は、殷王のために殺された。
 周の勢力が大きくなることを、殷がおそれたためであろう。ついで昌が立った。これが文王である。
 のちの長安の付近の豊(ほう)に都をうつし、国力はいよいよ高まった。
 殷の紂王(ちゅうおう=帝辛)は、昌に西伯の称号をさずけた。
 西方の諸国をひきいる資格をあたえたわけである。
 周の記録によると、殷の紂王はすこぶる暴逆であった、という。
 力がつよく、すばしこく、才智もすぐれていたが、酒宴と淫楽(いんらく)をこのみ、無道のふるまいが多かった。
 宮中には美女をあつめ、ことに妲己(だっき)への愛におぽれてからは、そのいうがままであった。
 酒の池をつくり、肉をかけて林とし、男女をはだかにして追わせながら、日夜の別なく痛飲した。
 ついには炮烙(ほうらく)の刑というものをつくる。
 これは銅の柱に油をぬって、火の上にわたし、その上を罪人に歩かせる。
 もちろん、すべって火のなかにおちた。いさめる者は殺された。
 周の文王もいったんは捕えられたが、美女や珍奇なものをたてまつって、許された。
 こうして人心は、殷をはなれた。
 しかし紂王にまつわる話は、はたして事実であったのか。
 これは、あくまでも周の側に伝えられた話なのである。
 実際のところ、紂王のころは殷の王権もつよくなっており、その国力も充実していた。
 しかし紂王は、東方の討伐に心をうばわれていた。
 そのすきに周は、渭水(いすい)から黄河にそって、着々と勢力をたくわえた。
 そして、その中原の一角に拠点をさだめ、付近の諸国を服属せしめつつ、殷と対立するほどの大国に発展していったのであった。
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