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3-9-5 遠交近攻の策

2018-09-13 22:13:37 | 世界史
『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年

9 富国と強兵

5 遠交近攻の策

 長平の決戦を、よく勝利へみちびいたのは、白起である。そのとき都の咸陽にあって、この国運をかけての戦争を、たくみな外交によって有利にみちびいた者は、宰相の范雎(はんしょ)であった。
 范雎は、魏の人である。はじめ、大夫の須賈(しゅか)につかえた。
 ところが、ふとしたことから国の秘密を外国にもらした、と疑われ、ひどい罰をうけた。
 はげしく笞(むち)うたれて、あばらは折れ、歯は欠けた。
 死んだふりをすると、からだを簀(す)巻きにして、便所にころがされた。
 そして酔客たちが、かわるがわる小便をかけるのである。ようやく番人にたのみこみ、死んだことにして逃がしてもらった。
 名もあらためて、張禄といった。鄭安平(ていあんぺい)が、これをかくまった。
 そのころ、秦の昭襄王の使者として、王稽(おうけい)が魏にやってきた。
 鄭安平にむかって、秦に連れ帰るほどの賢人はいないか、とたずねる。そこで張禄(范雎)を推挙した。
 こうして范雎(はんしょ)は、秦にはいる。一年あまりにして、昭襄王に謁見する機会をえた。

 そこで説いたのが、遠交近攻の策である。遠い強国とは交わりをむすび、近い国を攻めることにすれば、天下に覇者となることも、たやすいであろう、というのであった。
 それより范雎は、日ましに王の信任をえた。
 ついに昭襄王の四十一年(前二六六)、秦の宰相に任ぜられた。ただし、名は張禄と称している。
 やがて秦が、近国たる魏や韓を攻めようとしている、と聞いて、魏の国から須賈(しゅか)が使者となっておもむいた。
 范雎は、姿をやつして、その宿舎へたずねてゆく。須賈はおどろいた。
 「お前、生きていたのか」。
 「はい」と答えると、須賈はわらっていった。
 「ここには、遊説(ゆうぜい)にきたのか」。
 「いえ、魏の国で、おとがめを受けまして、この国に逃げてきただけのことでございます」。
 「では、どうやって暮らしているのだ」。
 「ひとにやとわれて、賃かせぎをいたしております」。
 須賈はあわれんで、ともに飲み食いし、じぶんの着ていた紬(つむぎ)の綿入れをあたえた。
 「ときに秦の国では、張君が宰相となって国事を取りしきっているというが、わしの使命も、張君の考えひとつなのだ。お前、宰相と親しい方を知ってはおるまいか」。
 すると范雎は言った。自分の主人が、宰相と親しいから、さっそく手配をしよう、ということで、馬車を用意し、みずから御(ぎょ)して、宰相の役所へむかった。
 ところが范雎は、門のところで降り、なかへはいったまま、いつまで待ってもでてこない。
 門番にきくと、さきほどの御者こそ、宰相そのひとだ、というのである。須賈(しゅか)は大いにおどろいた。
 おそれのあまり、肌(はだ)をぬいで膝行(しっこう)し、門番を通じて、宰相に罪を謝そうとした。
 いまや范雎は、多くの者を左右にしたがえて、須賈を引見する。
 須賈は、あたまを地につけて拝し、私は死罪にあたります、と連呼した。そこで范雎はいった。
 「お前の罪は三つある。かつて雎を、外国に内通したとそしった。私が便所に入れられたとき、とめなかった。小便をかけられたとき、見すごした。しかしお前は、さきほど綿入れをめぐみ、故旧の情を寄せてくれた。その心に免じて、殺さずにゆるしてやろう」。
 そうして須賈が帰国するに際し、わかれの宴がもよおされたが、須賈は堂の下に、罪人とならんですわらされた。
 前には馬のかいばが置かれ、ふたりの罪人が両側からはさんで、須賈に食べさせた。范雎は、堂上から申しわたした。
 「わしにかわって魏王に告げよ。わしを罰した宰相の首を持ってまいれ。さもなくば、たちまち大梁の郡を攻めおとすであろう、とな」。
 これをきいて魏の宰相は、おそれて趙に逃げた。超王は、秦をおそれて討つ手をむけた。ついに自殺した。
 趙王は、その首を秦にとどけた。秦が長平にて趙の大軍を破ったのは、それから八年後のことである。
 スパイを放って趙王をあざむき、名将の廉頗をしりぞけて、趙括を将軍とさせたのは、范雎の謀略であった。


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