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7-5-1 一修道僧の怒り

2023-09-18 19:21:45 | 世界史
『文芸復興の時代 世界の歴史7』社会思想社、1974年
5 斜陽のイタリア半島――イタリア・ルネサンスの片影Ⅱ――
1 一修道僧の怒り

 フィレンツェの繁栄は、思えばこのロレンツォの時代を絶頂としていた。
 彼の治世の晩年、奢侈(しゃし)、悦楽(えつらく)のフィレンツェのただなかにおいて、激烈な言葉で神を説き、終末の日、裁きの日が近いことを警告するひとりの修道僧があらわれたのだ。
 彼、ジロラモ・サボナローラは一四五二年、フェラーラの平凡な中流階級の家庭に生まれ、周囲は医学の道に進ませようとしたが、彼は孤独を愛して、世俗的生活をきらい、二十二歳のとき、ドメニコ派のある修道院にはいってしまった。
 「私を教団に走らせたものは、この世のみじめさ、堕落、人びとの愚劣である」と、彼は父母への別れの手紙に書いたという。
 それから修道僧として修行すること幾年か、サボナローラはやがてその破壊的で、予言的な説教をもって有名となった。
 弱々しく小柄で、胸はくぼみ、鼻はわしのようで、大きく黒い眼がランランと輝くこの僧は、一四八二年フィレンツェのサン・マルコ修道院に移籍された。

 彼はこの都市の享楽(きょうらく)的生活を非難し、その責任者としてロレンツォの独裁を攻撃するとともに、素朴な神への信仰にもどることを説いた。
 たとえば、早朝から席をうばいあい、場に溢れた聴衆の前でおこなわれる彼の説教を、速記でもするように書きとめたある市民は、「感動と涙のあまり」たびたび筆を中断し、あるひとはこの説教を「最後の審判(しんばん)の日の雷鳴(らいめい)」のように感じ、また聞き終わった人びとは「ひとことも発せず、死人のように帰って行く」ありさまであった。
 トルコ人など異教徒の侵入を恐れる不安感、退廃(たいはい)的なムード、そしてロトマ教皇をはじめとするカトリック教会の堕落――そこに、サボナローラの痛烈な叫びによって、人心がゆり動かされる理由があった。
 そして僧侶階級の腐敗を非難し、ローマを「傲慢(ごうまん)な娼婦(しょうふ)」とよぶ彼の言動は来るべき宗教改革運動のひとつの先駆とさえも、考えられるかもしれない。
 ロレンツォは、メディチ家の持病ともいうべき痛風に悩まされていた。
 しかし一四九二年春、まだ四十三歳の彼を臨終の床に追いやったものは、おそらくはガンであったろうと推測されている。
 サボナローラはメディチ家をおそう災難について、すでに予言していた。
 当時正体不明のガンが死因であったとすれば、この難病にとりつかれたロレンツォは、まさに不幸にみまわれたといえよう。
 パッツィ陰謀(いんぼう)事件後十四年、この一四九二年に世を去るまで、ロレンツォの政権は安定であったが、じつはメディチ家本来の銀行業は、彼の時代に衰えていたのである。
 それは中近東方面におけるトルコの進出、貿易の不振、フィレンツェ全体をささえていた毛織物業の衰えなど、外的な理由も考えられる。
 しかしひとつにはロレンツォが人文主義的教育をこそうけていたものの、「眠っていては金にならない」式のきびしい実務教育を身につけておらず、彼自身も実業に興味をもたなかったためであり、またこうしたロレンツォがさばききれないほど、メディチ家の金融網が複雑多岐になりすぎたためともいわれる。

 またメディチ家銀行の若干の支店がつまずいたことも影響した。
 元来支店はそれぞれ支配人に管理かゆだねられ、彼らは独自の決定をすることができた。
 これは支配人に人材をうれば、臨機応変にことを処理できて有利であるが、全体的な統制がないだけに、彼らの選択をあやまると、思わぬ結果をまねくこととなった。
 こうしてメディチ家の財がかたむいてくると、ロレンツォの幅が広い活動に要する経費はフィレンツェ市民たちの負担ともなり、このため市の財政がやりくりされたことは、市民たちのロレンツォに対する強い不満のたねであった。
 ロレンツォはメディチ銀行の損失を補うために、公金に手をつけたともいわれる。
 ロレッッオのもと、フィレンツェ市民たちは享楽的な生活に明け暮れたが、これは政治上の専制から人心をそらすための彼のねらいだったともいわれ、そうだとすれば、意識的にも人心のゆるみが助長されたこととなろう。
 なおロレンツォ健在の一四八〇年代から、フィレンツェの誇る天才たち、たとえばレオナルド・ダ・ビンチ、ラファエロ(一四八三~一五二〇)、ミケランジェロなどが、他の諸都市や諸国に、出かけたり、招かれたりして、一種の「頭脳の流出」が行なわれている。
 こうしたことも、フィレンツェ文化をしだいにさびしいものにしたことであろう。
 そして経済上の不振は、ロレンツォの学芸保護を不自由にした。
 しかもロレンツォをついだピエロ二世(一四七一~一五〇三)は、性格も精神も弱く、軽薄、衝動的で、「快楽と女性とを熱心に追いかける」だけの頼りない人物である。
 おりしもフランス王シャルル八世(在位一四八三~九八)の軍が、フィレンツェめざして進軍してくる――。




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