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12-5 独裁者カエサルの業績

2018-04-13 02:36:31 | 世界史
『古代ヨーロッパ 世界の歴史2』社会思想社、1974年

12 カエサルとクレオパトラ

5 独裁者カエサルの業績

 エジプトを平定したカエサルは、東方に進み、父の遺領の回復を企てていたミトリダテス六世の子ファルナケスに向かい、ポントス西部のゼラで四時間の激闘ののちこれを壊滅させた。
 この知らせをカエサルがローマにいる自分の友人のひとりに書き送ったのが、「来た、見た、勝った」というわずか三語であった。いかにも武将らしい、簡潔明瞭な表現であった。
 彼は将軍であり、政治家であるとともに一流の文章家であることは、彼の著わした『ガリア戦記』などによっても証明される。この書物では、彼は自分の業績を述べるのに、「私は」と第一人称を用いず、「カエサルは」と第三人称を用いて、客観的に冷静に筆を進め、押しつけがましい方法でなく、自分の手柄はちゃんと明記しているのである。
 カエサルは東方を平定したのち、ひとまずローマに帰った。ローマやイタリアの状態はなお混乱し、民衆を煽動して暴動や蜂起を企てる輩(やから)もあったので、カエサルはこれを鎮定しなければならなかった。
 その間に、ルカトーをはじめとするポンペイウスを支持した閥族派の残党は、しだいに勢力を集結し、ポンペイウスの岳父スキピオを頭目とし、ヌミディア王ユバの援助をうけ、十軍団、騎兵一万五千を数える大軍を編成した。カエサルのほうは六軍団と騎兵二千をひきい、シチリアを経て、十二月末アフリカに着いた。
 紀元前四六年四月、カエサルはタプススの戦いでスキピオを破り、ついでユバをもうち負かした。

 スキピオはイスパニアに逃げようとしたが、海上でカエサル軍に捕えられそうになったので自殺した。
 ウティカを守っていた小カトーは、スキピオの敗戦に抗戦の気力を失い、カエサルがウティカに現われた日に、プラトンの『対話論』を読んで心を鎮(しず)めたのち、従容(しょうよう)として自ら命を絶った。
 カエサルは小カトーの命を助けたい気持ちがあったが、カエサルを暴君とみなす小カトーは、ローマ市民の自由を守って死んだのであった。
 彼は紀元前四六年十月、ローマで盛大な凱旋式を祝ったが、同胞ローマ人に対する戦勝では式が挙行できないので、ガリア、エジプト、ポントス、それにアフリカのユバ王という外敵に対する勝利という形式を整えた。
 このときまで六年間も獄につながれていた、ガリア首長ヴェルキングトリクスは行列にひき出され、そののち処刑された。
 クレオパトラの王妹やユバの四歳の王子も引きまわされた。
 イスパニアではポンペイウス派の残党が、大ポンペイウスの長男グナエウスと次男セタストゥスをかつぎ、原住民をも味方につけ、侮(あなど)ることのできない勢いを示した。
 紀元前四五年三月カエサルとグナエウスらのムンダの戦いは、激戦となった。
 カエサルは悪戦苦闘したが、優勢な騎兵隊がきめ手となって、最後の勝利をつかんだ。
 グナエウスはひとまず脱出したが、隠れ家で討たれた。
 セクストゥスは逃げのびることができた。
 こうしてイスパニアの戦いが終わるとともに、内乱はすべて平定し、カエサルの権力はゆるぎないものとなった。

 カエサルはすでに紀元前四九年と四七年の二度、独裁官になっていたが、四六年には向こう十年間の独裁官となり、ついに翌四五年末には、終身独裁官の地位についた。
 同時に四八年以来、執政官を兼ねていた。
 また終身職の大神官にはすでに紀元前六三年に就任していたことは前にのべたが、紀元前四六年からは戸口監察官をも兼ねた。
 凱旋将軍に一時的に与えられるインペラトルの栄称も彼は永続して保持していた。
 そしてすべての公式の席に出席するときには凱旋将軍の衣服をつけ、頭に月桂冠をいただくことが認められた。
 このほか、政務官指名権、元老院で最初に発言する権なども与えられ、今や名実ともに独裁者となった。
 確かに彼はスラのように引退する気持ちはなく、ローマ史上先例のない独裁者となった。
 カエサルはすでにアフリカから凱旋後、さまざまな改革に着手した。
 その第一は大神官の職務に関連して、これまで混乱していたローマの暦法を、エジプトからよびよせた天文学者の意見に従って改正した。
 すなわち紀元前四五年一月一日から新しい太陽暦を採用し、一年を三百六十五日と四分の一とし、四年ごとに二月に一日の閏日を設けた。
 このユリウス暦は一五八二年、ローマ教皇グレゴリウス十三世によって改正され、現在我々が使用している暦となった。
 第二にこれまで膨張していた穀物の無料受給者を整理して、三十二万人から十五万人にと大幅に減らした。
 その方法は無料配給によらなくても暮らせる者をうち切り、八万人の貧民を海外各地に植民させた。
 そのなかにはあのガイウス・グラックスが計画して失敗したカルタゴの復興が含まれ(実行されたのはアウグストゥスになってからである)、コリントもふたたび繁栄をとりもどした。
 またローマ市の住民の暴動の根源を絶つため、古来の同業組合をのぞいては政治結社を禁止し、またイタリアの大土地所有者が牧場を経営する場合には、その労働者の三分の一は自由民たるべきこととし、奴隷反乱の防止策をとった。
 そのほか法廷の秩序の回復をはかり、陪審員は元老院議員と騎士身分の者にかぎり、刑罰を厳正にし、執政官と法務官の前歴者の属州知事の任期を前者は二年、後者は一年にかぎり、長年在職して弊害を生じないようにした。
 とくに彼はイタリアの田園地域の都市化を計るとともに、これを属州に拡大し、上記のように多数の植民を送り、ローマ市民権やラテン市民権を属州民に惜しみなく与えた。
 こうして彼は都市国家ローマを広域領土国家ローマへと編成がえを行なった。
 元老院議員の数もしだいに増加し、九百人までにし、イタリアや属州の自分の子分を、元老院にどしどし送りこんだ。
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