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3-9-4 長平の攻防

2018-09-10 02:40:01 | 世界史
『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年

9 富国と強兵

4 長平の攻防

 廉頗(れんぱ)につぐ名将が、趙奢(ちょうしゃ)であった。
 恵文王の二十九年(前二七〇)には、さんざんに秦軍を破っている。
 それから四年後に、恵文王は死んだ。子の孝成王が立った。
 孝成王の七年(前二五九)、秦はいよいよ大軍を発して趙を攻めた。
 このとき、すでに趙奢は死んでいたので、廉頗が将軍となって、長平に出撃した。
 しかも趙の軍は、かたく守ってうごかない。対陣が長びいて、遠征してきた秦軍はつかれた。
 よって秦はスパイを放ち、趙の国内にはいっていわせた、「秦は、趙奢の子の括(かつ)が将軍となることを、おそれている」。
 これを孝成王は信じてしまった。さっそく趙括を将軍にしようとした。藺相如(りんそうじょ)は反対した。
「括は、父の兵書を読んだばかりで、変に応ずる処置を知りません」。
 孝成王は、ききいれなかった。
 たしかに趙括は、わかいころから兵法をまなび、兵事を論じては、父の趙奢でさえも勝てなかった。
 しかし趙奢はいった、「兵は死地なり。しかし括は、たやすくこれを言う。もし、これを将とすれば、趙の軍を破る者は、かならず括ならん」。
 趙括の着任を知ると、秦はひそかに名将の白起を上将軍とし、全軍をひきいさせた。
 白起は二手の伏兵をそなえて、趙軍の出撃をさそった。まず奇襲の兵を発し、わざと敗走させる。
 趙軍は勝ちに乗じて追撃した。そして秦軍の陣地にまでせまった。
 このとき秦の伏兵の一手、二万五千人が趙軍のうしろを断った。
 別の一手、五千騎は趙軍と長平の塁壁の間を断った。そうして、さらに軽装の兵をくりだした。
 趙軍は分断され、糧道まで絶たれた。やむなく堡塁をきずいて固くまもり、援軍を待った。
 これをきくと秦王はみずから出陣し、十五歳以上の者を徴発して、大挙して長平におもむかせた。
 かくて趙軍をかこむこと四十六日、もはや長平に食糧はなかった。
 趙括は血路をひらこうとして打って出たが、必死の突撃も効はなかった。
 趙括みずからも白兵戦を演じ、矢にあたって死んだ。
 趙軍は戦意をうしない、士卒四十万人が降伏した。
 白起は考えた。これら趙の士卒も、生かしておけば、いつ変心して反乱をおこすか、わからない。
 そこで年少の二百四十人を趙にかえしたほか、四十万人をことごとく穴埋(あなう)めにしてしまった。
 この地帯は黄土地帯で、水蝕(すいしょく)によってできた穴が、ときには周囲八キロから十キロにもおよぶものがある。
 ここに追いこめば、いっぺんに何十万人も殺すことができるのであった。
 長平の攻防に、こうして趙は四十五万もの兵力をうしなった。
 これを転機として、趙の国力も衰退にむかうのである。いよいよ強勢となったのが、秦であった。
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