『中世ヨーロッパ 世界の歴史5』社会思想社、1974年
8 くずれゆくアンジュー王国
――アンジュー王家の人々Ⅱ――
1 ヘンリー王の死
(挿絵はリチャード1世とフィリップ2世)
ジョンがアイルランドでもたもたしているあいだに、兄ジョフリーが、トーナメントで重傷を負って死んだ。
彼にはすでに一女エリナーがあり、死後男子アーサーが生まれたから、ブルターニュ侯領をジョンが継承するというわけにはいかなかった。だが、末っ子のジョンは、ここに、一歩、王冠へ近づいたのである。
ヘンリーとリチャードの仲は険悪であった。リチャードの許婚(いいなずけ)、フランス王女アリスは、まだヘンリーの宮廷にいて、ヘンリーとの関係をひそかにうわさされていた。
アキテーヌ侯領のジョンヘの分与という問題をめぐるさきの争いの結果、ヘンリーはリチャードを下位継承者に指名することを一時保留していた。
ヘンリーが王国を二分し、イングランドをジョンにあたえる可能性はなお残されていたのである。
事態の進行をいっそう促進させた事情に、フランス王の交替があった。
四十年あまり王位にあったルイ七世にかわり、一一八〇年九月、その息子フィリップが登場したのである。
フィリップは、その父ルイの、いわば端正で控えめな政治にくらべると、陰謀と策略を弄する、きたない政治のやりかたに長(た)けていた。
彼はアンジュー王国を分断し、イングランド王の大陸における知行を奪おうとくわだてた。
フィリップは、ヘンリーとアリスについてのうわさを流し、父と息子をいっそう仲違(なかたが)いさせようとはかった。
リチャードは、当時企画されていた十字軍への参加を希望していたこともあって、自分の立場を明確なものにしておきたかった。
自分の留守中、ヘンリーがジョンを王位継承者に指名し、諸侯伯が、ジョンに臣従の誓いをたてるような事態が生じることを、おそれたからであった。
一一八八年、事態は急速な展開をみせた。
まずアキテーヌ、ツールーズに反乱が起きた。
これは、ヘンリー王の指金(さしがね)によるものと取り沙汰された。
リチャードは、迅速に鎮圧に動いたが、そのとき、フィリップがアキテーヌ北東のペリーに兵を入れたのである。
ヘンリーは、当時ロンドンにいたのだが、大陸の不穏な形勢におどろいて、七月、海を渡った。夏じゅう、混乱がつづいた。
その間に、フィリップとリチャードのあいたに密約がなったらしい。
十一月、事態収拾のための会合が開かれた。
席上、フランス王フィリップは、リチャードを王位継承者と確認するよう、ヘンリーに要請した。
ヘンリーは、これを拒絶した。するとリチャードは、フィリップの前にひざまずき、彼に臣従の誓いをたてた。
この息子リチャードのドラマティックな反逆は、年老いて病をえたイングランド王ヘンリーの気力を奪った。
教皇の特使が必死に調停したが、その努力もむだであった。
翌年五月、リチャードとフィリップは行動を開始した。
メーヌ、ツーレーヌ、アンジューの領主たちに見捨てられ、老王ヘンリーは城から城へと追われた。
ついに、彼の生まれた土地ルーマンの城からも追われた王は、ノルマンディーにいけば、なお彼を助けようとする者もあっただろうに、家門の土地アンジューへの愛着たちがたかったのか、シノンに向かおうとした。
だが、その間に、リチャードの一党はツールをおさえ、王を捕えて、ツール近郊コロンピエールに会合の場を設けた。
一一八九年七月四日、この日はむし暑く、会合の時刻には、雷鳴とどろき、電光がふたりの王のあいだを裂いたという。
「憔悴(しょうすい)の色濃いイングランドの王は」とある年代記家は述べている。
「フランスの王フィリップの望みと意志とに、いさぎよく身をまかせた。
フランス王の提案する条件ないしその決定がいかようなものであれ、イングランド王は、なんら異議を申し立てることなく、これをひきうけて、実行することを水知したのである」。
要求は、リチャードとアリスの結婚、海峡の両側の諸侯伯がリチャードに対して臣従の誓いをたてること、さらにフランス王に対し二万マークの賠償金を支払うこと、この三点であった。
ヘンリーは、リチャードとフィリップに加担した者のリストを見せてほしいと、ひとつだけ要求をだした。
要求はいれられ、わたされた名簿をひらいた老王の視線は、最初の行に釘づけになった。
そこには、ジョンの名があったのだ。
できそこないの末っ子ジョンヘの溺愛が、王をこの破局に追いこんだのではなかったろうか。
ウィンチェスターの宮殿の一室に、王の命で描かれた壁画があった。
親鷲が四羽の子鷲の餌食にされているという比喩的な図柄の絵であった。
一羽の子鷲は、親鷲の首にのり、親鷲の目玉をつつこうとねらっている。
あるときヘンリーは、この絵を解説して、こういったという。
「四羽の子鷲は、俺の息子どもだ。こいつらは、死ぬまで俺を苦しめる。
いちばん若いのを、俺は、いま、たいそう愛しているが、こいつこそ、いつかは最後に、ほかのやつら以上に、てひどく、俺を傷つけることだろうよ」。
してみれば、ヘンリーは、今日あることを、すでに予期していたのではなかったか。
ここにこそアンジュー家の王者の真髄を読みとりたいとおもう。
いま、現実に、反逆者のリストの筆頭に、いちばんかわいがっていた末っ子の名をみたとき、年老いた父王は、生涯の終わりを知ったにちがいない。
老王ヘンリーは、シノンに送られ、二日後、七月六日、永遠の憩いについた。
8 くずれゆくアンジュー王国
――アンジュー王家の人々Ⅱ――
1 ヘンリー王の死
(挿絵はリチャード1世とフィリップ2世)
ジョンがアイルランドでもたもたしているあいだに、兄ジョフリーが、トーナメントで重傷を負って死んだ。
彼にはすでに一女エリナーがあり、死後男子アーサーが生まれたから、ブルターニュ侯領をジョンが継承するというわけにはいかなかった。だが、末っ子のジョンは、ここに、一歩、王冠へ近づいたのである。
ヘンリーとリチャードの仲は険悪であった。リチャードの許婚(いいなずけ)、フランス王女アリスは、まだヘンリーの宮廷にいて、ヘンリーとの関係をひそかにうわさされていた。
アキテーヌ侯領のジョンヘの分与という問題をめぐるさきの争いの結果、ヘンリーはリチャードを下位継承者に指名することを一時保留していた。
ヘンリーが王国を二分し、イングランドをジョンにあたえる可能性はなお残されていたのである。
事態の進行をいっそう促進させた事情に、フランス王の交替があった。
四十年あまり王位にあったルイ七世にかわり、一一八〇年九月、その息子フィリップが登場したのである。
フィリップは、その父ルイの、いわば端正で控えめな政治にくらべると、陰謀と策略を弄する、きたない政治のやりかたに長(た)けていた。
彼はアンジュー王国を分断し、イングランド王の大陸における知行を奪おうとくわだてた。
フィリップは、ヘンリーとアリスについてのうわさを流し、父と息子をいっそう仲違(なかたが)いさせようとはかった。
リチャードは、当時企画されていた十字軍への参加を希望していたこともあって、自分の立場を明確なものにしておきたかった。
自分の留守中、ヘンリーがジョンを王位継承者に指名し、諸侯伯が、ジョンに臣従の誓いをたてるような事態が生じることを、おそれたからであった。
一一八八年、事態は急速な展開をみせた。
まずアキテーヌ、ツールーズに反乱が起きた。
これは、ヘンリー王の指金(さしがね)によるものと取り沙汰された。
リチャードは、迅速に鎮圧に動いたが、そのとき、フィリップがアキテーヌ北東のペリーに兵を入れたのである。
ヘンリーは、当時ロンドンにいたのだが、大陸の不穏な形勢におどろいて、七月、海を渡った。夏じゅう、混乱がつづいた。
その間に、フィリップとリチャードのあいたに密約がなったらしい。
十一月、事態収拾のための会合が開かれた。
席上、フランス王フィリップは、リチャードを王位継承者と確認するよう、ヘンリーに要請した。
ヘンリーは、これを拒絶した。するとリチャードは、フィリップの前にひざまずき、彼に臣従の誓いをたてた。
この息子リチャードのドラマティックな反逆は、年老いて病をえたイングランド王ヘンリーの気力を奪った。
教皇の特使が必死に調停したが、その努力もむだであった。
翌年五月、リチャードとフィリップは行動を開始した。
メーヌ、ツーレーヌ、アンジューの領主たちに見捨てられ、老王ヘンリーは城から城へと追われた。
ついに、彼の生まれた土地ルーマンの城からも追われた王は、ノルマンディーにいけば、なお彼を助けようとする者もあっただろうに、家門の土地アンジューへの愛着たちがたかったのか、シノンに向かおうとした。
だが、その間に、リチャードの一党はツールをおさえ、王を捕えて、ツール近郊コロンピエールに会合の場を設けた。
一一八九年七月四日、この日はむし暑く、会合の時刻には、雷鳴とどろき、電光がふたりの王のあいだを裂いたという。
「憔悴(しょうすい)の色濃いイングランドの王は」とある年代記家は述べている。
「フランスの王フィリップの望みと意志とに、いさぎよく身をまかせた。
フランス王の提案する条件ないしその決定がいかようなものであれ、イングランド王は、なんら異議を申し立てることなく、これをひきうけて、実行することを水知したのである」。
要求は、リチャードとアリスの結婚、海峡の両側の諸侯伯がリチャードに対して臣従の誓いをたてること、さらにフランス王に対し二万マークの賠償金を支払うこと、この三点であった。
ヘンリーは、リチャードとフィリップに加担した者のリストを見せてほしいと、ひとつだけ要求をだした。
要求はいれられ、わたされた名簿をひらいた老王の視線は、最初の行に釘づけになった。
そこには、ジョンの名があったのだ。
できそこないの末っ子ジョンヘの溺愛が、王をこの破局に追いこんだのではなかったろうか。
ウィンチェスターの宮殿の一室に、王の命で描かれた壁画があった。
親鷲が四羽の子鷲の餌食にされているという比喩的な図柄の絵であった。
一羽の子鷲は、親鷲の首にのり、親鷲の目玉をつつこうとねらっている。
あるときヘンリーは、この絵を解説して、こういったという。
「四羽の子鷲は、俺の息子どもだ。こいつらは、死ぬまで俺を苦しめる。
いちばん若いのを、俺は、いま、たいそう愛しているが、こいつこそ、いつかは最後に、ほかのやつら以上に、てひどく、俺を傷つけることだろうよ」。
してみれば、ヘンリーは、今日あることを、すでに予期していたのではなかったか。
ここにこそアンジュー家の王者の真髄を読みとりたいとおもう。
いま、現実に、反逆者のリストの筆頭に、いちばんかわいがっていた末っ子の名をみたとき、年老いた父王は、生涯の終わりを知ったにちがいない。
老王ヘンリーは、シノンに送られ、二日後、七月六日、永遠の憩いについた。