気まぐれ徒然かすみ草

近藤かすみ 

京都に生きて 短歌と遊ぶ

箸先にひとつぶひとつぶ摘みたる煮豆それぞれ照る光もつ

燠火  大島史洋  つづき

2009-12-09 01:47:52 | つれづれ
表現に類型はあり人生に類型はなし と言えるかどうか

ここはどこどこにでもなる街として私は歩む冬の舗道を

白鳥の曲げたる首が把手にて水撒くときに活き活きとせり

わが歌のつましさ年々きわまれば心素直にあり得るごとし

幼子と遊ぶ茂吉の晩年を時空を越えてわが愛(かな)しまむ

白萩の下に楚々たる水引の二株ありて昼静かなる

こともなく日は過ぎゆくをいま少し深く悲しめみずからのため

日曜のさみしい男がイヤホーンはずしてしばし静寂にいる

胸せまる健気なる世のがんばりにナショナルの歌が今も流れる

文学と思想が互いにきしみあうそんな青臭い世はありしもの

(大島史洋 燠火 雁書館)

*******************************

『燠火』は作者の第八歌集で、1996年から1998年までの三年間の作品443首をおさめている。発行は2002年4月。
きっと作者は几帳面で、今できた歌をすぐに発表しないタイプではないかと思う。ストックを寝かせておいて、もう表現が動かないと確信してはじめて発表するのではないだろうか。数年前の歌を歌集として出すのも、ストックを残しておきたいからだと考えるのは失礼かもしれないが、些細なことを大切に詠う作者だから、そんな気がした。

二首目。「どこにでもなる街」という言葉が新鮮。ふしぎな浮遊感のある一首。
六首目。すっきりした写生の歌。控えめな表現だが、こころ惹かれる。色の対比が美しい。
九首目。ナショナルはいまはパナソニックになったが「明るいナショナル」の歌は耳の底に残っている。昭和の健気なるがんばりに納得する。


最新の画像もっと見る