もみの木はきれいな棺になるということ 電飾を君と見に行く
これは君を帰すための灯 靴紐をかがんで結ぶ背中を照らす
地下書庫に棚を動かすボタンあり『野火』の背にふれし指先で押す
マネキンの脱衣うつくし夜の隅にほの白い片腕をはずされ
彫り深き秋とおもえり歳時記の挿し絵に鳥はみなつばさ閉じ
言葉より声が聴きたい初夏のひかりにさす傘、雨にさす傘
モノクロの写真に眼鏡の山は見ゆ死とは視界を置いてゆくこと
眼と心をひとすじつなぐ道があり夕鵙などもそこを通りぬ
ひらくものきれいなまひる 門、手紙、脚などへまた白い手が来る
どこか遠くでわたしを濡らしていた雨がこの世へ移りこの世を濡らす
(大森静佳 てのひらを燃やす 角川書店)
********************************
大森静佳の第一歌集『てのひらを燃やす』を読む。
2010年、「硝子の駒」で角川短歌賞を受賞した連作にはじまり、学生時代の四年間の歌が収められている。一言で言えば、相聞歌集。若い一時期にしかできない歌が、眩しく迫ってくる。しかし、相聞以外にも独自の視点で表現された歌があり、今回は相聞以外の歌から、特に優れていると思ったものを引いてみた。
一首目。三句目から四句目にかけて、句またがり句われがある上、一字あけまでして強調していて、面白い作りの歌。棺と電飾の取り合わせが意外。
三首目。『野火』の書名の選択が良い。危険なボタンに触れたような不穏さが感じられる。
四首目。題材の選び方が面白く、すこし怖く美しい。
六首目。上句は肉感的なものを欲しているようにも読めるが、言葉、声なので清潔感がある。下句、日傘と雨傘の対比が効いている。
七首目。眼鏡の山に対する把握がユニーク、死者の思い(無念さ)を示唆しているのだろうか。
八首目。夕鵙を登場させて詩情を感じさせる。
九首目。上句はひらがなばかりで、下句には「、」が出て来て、表記に工夫がありる。白い手は謎。
十首目。作者は、あの世かこの世か、どこにいるのだろうかと不思議さを感じさせる。
この歌集のキーワードは、手。あとがきには、「人間にできる最も美しいことと最も醜いこと、そのどちらにも手が関わる」とある。
今後、相聞はもちろんのこと、いろいろな題材を独自の視点で表現して行ってほしいと思った。
これは君を帰すための灯 靴紐をかがんで結ぶ背中を照らす
地下書庫に棚を動かすボタンあり『野火』の背にふれし指先で押す
マネキンの脱衣うつくし夜の隅にほの白い片腕をはずされ
彫り深き秋とおもえり歳時記の挿し絵に鳥はみなつばさ閉じ
言葉より声が聴きたい初夏のひかりにさす傘、雨にさす傘
モノクロの写真に眼鏡の山は見ゆ死とは視界を置いてゆくこと
眼と心をひとすじつなぐ道があり夕鵙などもそこを通りぬ
ひらくものきれいなまひる 門、手紙、脚などへまた白い手が来る
どこか遠くでわたしを濡らしていた雨がこの世へ移りこの世を濡らす
(大森静佳 てのひらを燃やす 角川書店)
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大森静佳の第一歌集『てのひらを燃やす』を読む。
2010年、「硝子の駒」で角川短歌賞を受賞した連作にはじまり、学生時代の四年間の歌が収められている。一言で言えば、相聞歌集。若い一時期にしかできない歌が、眩しく迫ってくる。しかし、相聞以外にも独自の視点で表現された歌があり、今回は相聞以外の歌から、特に優れていると思ったものを引いてみた。
一首目。三句目から四句目にかけて、句またがり句われがある上、一字あけまでして強調していて、面白い作りの歌。棺と電飾の取り合わせが意外。
三首目。『野火』の書名の選択が良い。危険なボタンに触れたような不穏さが感じられる。
四首目。題材の選び方が面白く、すこし怖く美しい。
六首目。上句は肉感的なものを欲しているようにも読めるが、言葉、声なので清潔感がある。下句、日傘と雨傘の対比が効いている。
七首目。眼鏡の山に対する把握がユニーク、死者の思い(無念さ)を示唆しているのだろうか。
八首目。夕鵙を登場させて詩情を感じさせる。
九首目。上句はひらがなばかりで、下句には「、」が出て来て、表記に工夫がありる。白い手は謎。
十首目。作者は、あの世かこの世か、どこにいるのだろうかと不思議さを感じさせる。
この歌集のキーワードは、手。あとがきには、「人間にできる最も美しいことと最も醜いこと、そのどちらにも手が関わる」とある。
今後、相聞はもちろんのこと、いろいろな題材を独自の視点で表現して行ってほしいと思った。
まあありえないことなのだが朦朧態として観てありえる表現不能ととらえるに至る。幻想をいだくのは自由なのだが真実がないので軽薄なものになっている。わたしのいわんとするところが解かっていただけるだろうか。どこかで見たうすっぺらな詩の観念がある。
そこがどこだったか、今となってはさだかではないけれど、なつかしくもあまねく雨はふるのだなあ。
と、疑問ももたずぼんやりかんがえました。
第9首では、
〈泉水のかげより白い手の出でてしづかに鯉をまさぐる夕べ〉({朝日歌壇」没)、おなじ手かなあと。
ほかに、第8首がのこりました。
私のような凡庸な受け手をも相手にしなければならないのは、歌詠みの宿命でしょう。
受け取りかたのちがいをつきつけられるのは勉強になります。
きのうから、ボランティアの仕事に掛りきりですが、まだ終わりません。
このブログが話題を提供できれば、幸いです。
しかしながら、このうたで満足するなと作者にいうのは親心かもしれない。芸術、詩の創造は無限だからである。まだまだ未熟だと思うのが正解で今後の彼女のためにいいのだがなかなか天狗の鼻はひっこまない。
あるひとは「この世かあの世か」といい、あるひとは「夢の内ではないか」という。
「そのどれもがただしいですよ」という余白空間をのこしたことで、この場合は成功であるようにおもいます。
作歌の契機は自由であって作品が受け手におよぼす心的情景ないしは良し悪しの判定までは残念ながら責任は負いがたい。
「真実」の在りどころについてもおなじことがいえる。
みなさま、私も入れてくださいね。はじめこの方のお歌をいいと思ったのに、今回ここでとられたものを読んで、あれ、大森静香ってこんなだっけと思いました。それが今朝大汗の後(夏風邪の)熱がとれて、体がまだしんなりしているような時に、読み返してみたらすんなりと入ってきたのです。
相聞以外となっていてもやはり相聞、棒のような難解さは実は自分を守るもの、この人は自分だけを詠っているのだなーと。私の読みは感覚的なので、分かったという時が到達点です。男の人とはちょっと違うかもしれないですが。
ひとは進化するし、そもそも歌詠みにとって「棒のような難解さ」、「実は自分を守るもの」、「自分だけを詠っているのだなー」は基本姿勢。
日常との乖離を埋める、つまりは狂ってしまわないためのぎりぎりの自己表現であるようにも思います。
心身ともに充たされているひとは詠わないし芸術もしない。