気まぐれ徒然かすみ草

近藤かすみ 

京都に生きて 短歌と遊ぶ

箸先にひとつぶひとつぶ摘みたる煮豆それぞれ照る光もつ

いとしきもの 田村よしてる 

2016-12-12 18:42:47 | つれづれ
きはまりて針箱投げし母の子の、投げつけられし父の子のわれ

「教師なんて糞食らへ」吐き捨て去りし少年あれは俺かも知れぬ

日溜りに爪切りをればすでに亡きちちははのこと思ひ出でたり

通勤の電車にゆられ唐突に職場放棄を空想したり

一人娘(ご)を嫁がせてのち妻も吾も猫の名を呼ぶことの増えたり

半世紀の歳月経(ふ)りし地図帳にいまはなき国、いまはなき町

卒業式前夜の床(とこ)でくりかへし生徒らの名を諳んじゐたり

軍隊の日々を多くは語らざりし父の形見の水筒ひとつ

枇杷の木の葉蔭に鳩の鳴くこゑがはつかくぐもる七月正午(まひる)

自転車を必死に漕げどつぎつぎと追ひぬかれゆく長き坂道

  2016年新年歌会の歌
贈られし秋田犬に「ゆめ」と名付けたるウラジーミル・ウラジーミロヴィチ・プーチン

(田村よしてる いとしきもの 六花書林)

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短歌人同人で、昨年12月28日に急逝された田村よしてる(善昭)氏の遺歌集を読む。

田村さんは、小池光氏と同じ高校の教師をしておられ、その縁で短歌を始めたられた。同じく同僚の野村裕心氏と共に、小池さんと親しくしておられて、われわれは「のむらたむら」とお笑いコンビのように呼んでいた。小池さんが水戸黄門ならば、支える助さん格さん的な存在だった。

一首目、両親のけんかの場面だろう。緊迫感がある。その場にいるしかない幼い作者の目。短歌定型に場面がうまく収まっている。読点を置いて読みやすい。四首目。昭和のころ、「蒸発」という言葉があった。平成になってから「プチ家出」という言葉もあったことを思い出す。誰もそういう気持ちになることがある。六首目は発見のうた。下句のリフレインが利いている。七首目。ああ、いい先生だったんだなあ、と思う。それだけで充分だ。十首目は、本人も出るつもりで出られなかった新年歌会の詠草。詠草の〆切の12月20日には元気だったのに・・・。自分の人生や生活と離れて、見たものから取材している、これからはこういう方向に進むつもりだったのかと読んだ。可能性はいっぱいあったのに。

歌は、人柄のままに温かく善良である。わかりやすい。このところ、細かいところを見てはあれこれ言う歌会に参加して疲れている頭には、この素朴さにほっとする。佳い歌である。歌会で、「これは教師あるあるだね」とか「既視感がある」などとわかったようなことを言ってしまいそうな自分を恥ずかしく思った。

夏の全国集会で一緒に司会をしたこと、何かの会の途中でお土産を買ったことなど、思い出す。いつも笑顔でやさしい田村さんだった。

謹んでご冥福をお祈りいたします。


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