気まぐれ徒然かすみ草

近藤かすみ 

京都に生きて 短歌と遊ぶ

箸先にひとつぶひとつぶ摘みたる煮豆それぞれ照る光もつ

今日の朝日歌壇

2011-03-21 22:04:34 | 朝日歌壇
どんなときも話を聴いていてくれる湯呑み茶碗の底にいる夫(ひと)
(福島市 美原凍子)

出荷する葱揃えつつ膝を付く春の畑の土柔らかし
(三重県 喜多功)

あと少し自分自身でありたくて駅のスタンドコーヒーを抱く
(横浜市 桑原由吏子)

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一首目。作者の美原凍子さんは、福島県とのこと、地震の被害に遭っておられないか心配になる。たしか福島に引っ越される前は、室蘭におられたと思う。新聞歌壇でお名前を見るだけなのに、古い知りあいのような気持ちで、無事でいてほしいと思ってしまう。
作者の夫は亡くなられたのか、離れて暮らしているのか、わからないが、茶碗の底ということは、現実に言葉を交わすことがないと読める。ただ話を聴いてくれるだけで作者は癒されているようだ。「聴」という漢字からも話すのは一方的に作者であるようだ。夫に「ひと」とルビをふるのは珍しい。
山崎方代の歌に「こんなにも湯呑茶碗はあたたかくしどろもどろに吾はおるなり」を思い出させる。
二首目。農家の葱の出荷風景。私は都会育ちなので、よくわからないが、土の匂いのする労働の歌として好感を持つ。収穫の喜びも感じられる。
三首目。作者は、出勤前にちょっと駅のスタンドでコーヒーを飲んでいる。これから向かう職場では、自分自身でなく、職業人とならなければならないので、その前の隙間のような時間を惜しんでいる様子。ただ、スタンドコーヒーと、続いて読めてしまうので、「スタンドにコーヒーを抱く」とすると、そのような誤読は避けられるのではないか。

ひさしぶりの朝日歌壇は、地震の前に投稿された歌のようだ。次の回からは、きっと震災の歌が津波のように押し寄せることだろう。短歌にすることで、心のうちを吐きだして気持ちが軽くなる。作らずにはおられない気持ちの人がたくさんいるだろう。短歌を作る人なら、だれもが、何首か作っているはず。短歌はそれを受け入れて、包んでくれる詩形だとおもう。