城陽人のフォトアルバム

季節の移ろい、日々の情景、目に映る景色、町並みの風情や、カメラに映った画をそのままに貼り付けてゆきたいと思っております。

西国三十三ヶ所遍路旅<第六回>

2016年08月01日 | 西国三十三ケ所遍路旅
四国八十八ケ所遍路旅は平成22年(2010年)に打ち終わっていますので、今度は西国三十三ヶ所を遍路してみようと始めました。
実は「西国さん」は平成10年(1998年)に1度打ち終わっております。今回で2度目を打つことになります。
前回はマイカーで巡りましたが、今回は「お四国さん」を巡ったときと同じように、12回で満行するバスツアーに参加しました。
昔の人は歩いて回られたのでしょうが、現代では到底歩いて巡るのは至難の業です。ですから本当の意味の遍路旅にはなりませんが、取敢えず全行程を回って来ますので、このブログに記録してゆきたいと思っています。

では第6回を2014年8月1日に行ってきました。
と云っても、実は今回は回数としましては、第7回になります。
と云うのは以前に第十一回が挟まってしまったからなのです。
バスツアーの都合でこうなりました
今回は前回予告通り、6月に行く予定が諸事情により遅れてしまい行けなくなりました第6回目の札所を巡りました。今の所、今回と第7回もマイカーになるかもしれません

 
清水寺門前のお店屋さん清水道です。何時もはごった返している所ですが何故かこの日は静かでした

 
振り返ると階段の上には「音羽山清水寺」朱色の楼門が覆いかぶさるように聳え立っています


伽藍は幾度か焼失し現在の建物のほとんどは徳川家光が再建したといわれます


「本堂」には33年に一度開帳される秘仏十一面千手観音立像と化仏を載せた2本の腕を頭上高く掲げた御前立と28部衆、風神雷神像が並んでいます


奈良時代末、延鎮が夢告に従い、音羽山に金色に流れる水源で観音に化身された行叡居士と出逢い、側の霊木で観音像を彫り、祀るよう託されます。歳月が流れ妻の安産のために坂上田村麻呂が鹿を追って、不思議な流れをたどり延鎮に出会う。寺伝では延鎮の話に帰依し共に延暦二年(798)寺を建て、千手観音を本尊としたとしています。
 

向こうの見えるのは「釈迦堂」です。このときは平成の大修理で阿弥陀堂、堂ノ奥の院、朝倉堂、田村堂、隋求堂など全て覆いに被せられ見ることは出来ませんでした


寺は桓武天皇の勅願所となり、嵯峨天皇の時には鎮護国家の道場となり、観音信仰の高まりにつれ参拝者も増え、その様子は紫式部、清少納言、菅原考標女などの作品にも記されています


本堂東側・本堂は寛永十年(1633)に寝殿造り様式で再建され、


正面左右に入母屋造りの翼部を張り出す舞台となっています

余談)今昔物語に「8月9~16日の千日詣の功徳を、双六に負けた支払に当てた男がいた。観音に誓い証文を書くのなら受け取ろうと相手の男はその通り証文を受けたら、渡した男は牢に入れられ、受けた男は資産家の娘を娶り何不自由なく暮らした」と記されているそうな

 

こちらは舞台から見た泰産寺「子安の搭
奥の院(延鎮住房跡三面千手観音を祀る)を通り、近くで見ると三重搭になっています


本堂内には、聖武天皇の皇后光明子に安産をもたらした十一面観音を祀る


ここからの清水寺の眺めは洛中最高とされています。現在、修理中で朝倉堂、田村堂、三重搭が見られれば素晴らしい眺望だったのに残念です


かの有名な山号にもなった清らかな水の流れ落ちる「音羽の瀧」です


こちらも有名な「清水の舞台(懸造)」です。139本の柱で出来ており、「清水の舞台から飛び降りる」の言葉が出来ました。願掛け満願の日に度々飛び降りる人が出たため禁止令が出されました



清水坂に続く松原通りを西に下って続いてやって来ましたのは、この六道の辻(葬送の地だった鳥辺野の入口)に建つ「西国十七番六波羅蜜寺」碑


右の六道の辻から
 

左の南に向かって建っています


正面入り口は閉ざされており南の門から入ります。都七福神・弁財天が出迎えてくれます
 

本堂横には優しげなまなざしの「縁結び観音像」が見守っておられます

応和3年(963)空也による600巻の大般若経浄写供養と建立法要が営まれ西光寺として創健されました。9年の没後中信が伽藍を整え六波羅蜜時と改称したと伝えられます
寺は幾度も兵火に係り、本堂は貞治二年(1363)から3年かけ勧進元足利義詮により大修営され、又時代を超え秀吉も改修をしています


本尊十一面観世音立像は空也自刻の桧の一木造りの秘仏となっております


「此附近 平氏六波羅第 六波羅探題符」碑
平家一門はこの六波羅蜜寺境内一帯に邸宅があったようで、次の政権北条氏は本堂を中心に「六波羅探題」を置きました
 
 
本堂南には「阿古屋塚」「奉納 坂東玉三郎」とあります
 
 
平家滅亡後を描いた近松門左衛門「出世景清」の名場面「阿古屋の琴責め」の「阿古屋塚」です

平家残党影清を慕った白拍子阿古屋を捕らえ、庄司重忠は所在を問いただし詮議するため琴を弾かせるも、一点の乱れもないことに感動し、所在を知らないのは真実と知り釈放したと云う物語です


これがその塚です。鎌倉時代の作で、台座は石室の石蓋が用いられています


その隣は平家一族の長、平清盛の塚


多くの石の地蔵さんですが、宝物館には、貧しい娘に代わり、病死したを背負って山に運び野辺送りをしてくれたと云う定朝作の「山送り地蔵」または「鬘掛地蔵」と呼ばれているお地蔵様が祀られています


宝物館にはもう一体、元境内にあった運慶一族の菩提寺十輪院本尊の運慶作「夢見観音」が運慶湛慶坐像を両脇時として祀られています


「阿古屋地蔵尊」


この写真は8月8日~10日に行われる「萬灯会」の様子で灯明で大文字が点じられています



「平清盛坐像」写真
娘、建礼門院徳子が解任したときにはこのお寺で安産祈願がされております。
また、一条天皇の皇后定子の葬儀も催されておりこのお寺は朝廷の信仰も篤かったようです


「空也上人立像」写真
醍醐天皇の子であったにもかかわらず、21歳に剃髪し生涯沙弥空也で通し、天暦五年(951)疫病が蔓延した時、金色の十一面観世音菩薩像を刻み、車に乗せ曳き歩き茶と梅干、茗荷を入れた薬湯を病む人々に授け救済したため市の聖、阿弥陀の聖と呼ばれ敬慕されました
この像は鞍馬山中で修行し、殺された鹿を悲しみその皮を衣に、角を杖頭に付けて、念仏を唱えて市中を歩く姿を現しています。いつか教科書で見た気がします


先ほどの六波羅蜜寺の碑の側に「六道の辻(冥土とこの世の境の辻)」碑がありました


辻の角には「桂光山西福寺」さん ・洛陽四十八願所第三十一番禮所とあります
弘法大師が平安時代初期創建したという地蔵堂が前身であると言います。
本尊は阿弥陀如来です


伝空海作の地蔵菩薩で、空海が壇林皇后(嵯峨天皇の皇后)の皇子正良親王のためにこの地蔵尊に病気平癒の祈願をされ、後年仁明天皇として即位されたということから「子育地蔵尊」と呼ばれるようになったそうです


この向かいになにやら古そうな看板が掲げられていました
京都 菱六 元祖 麹種もやし
塩麹の麹をつくる種を種麹と云い、もやし屋(種麹屋)さんは種麹を作られています。ここ「菱六」さんは創業350年くらいと云い、助野社長も何代目なのか、はっきりわかりませんと云う。
全国に10軒足らずしかなく、非常に貴重な存在だそうです
種麹を「もやし」と呼ぶのは、酒造り業界だけとも云います。こんなお店だったんです


そのお隣もこれまた変わったお店です。「幽霊子育飴」とありますが本業は「お茶屋」さん


それにしてもお茶の看板はなくこの看板だけ


「母の愛情が生んだ感動の物語」
昔、女が夜毎に飴を買いに来るようになった。
 女が飴を買った翌朝に、代金を納めている銭箱あらためると、木の葉が1枚入っている事が続いた。不思議の思った当時の店主はある夜、女の後を追った。すると女は墓地のある鳥辺山で姿を消し、土中から赤ん坊の泣き声が聞こえた。そこは身ごもったまま亡くなった女性を埋めた墓だった。寺に事情を話して掘り返してみると、墓の中には飴をしゃぶった赤ん坊がいた。死後に生れた赤ん坊のために、幽霊となった女が飴を買いにきていたのであり、飴の代金として渡されていた木の葉は、女の墓に供えられていたシキミの葉だったのだ。

 

当時は箸に巻いた水飴となっている。死してなお我が子を思う母の愛情の表れとして400年以上も語り継がれている。その飴は幽霊子育て飴として今も広く人々に愛され続けている。(説明書より)


感動的な良い話の余韻のまま、次にやって来ましたのはそこより北西の方角「六角堂」です
西国十八番霊場 華道発祥の地



「六角堂頂法寺」・千社札が山門一杯に貼り付けられています。それだけお参りの数が多いと云うことでしょうか

 

礼堂及び本堂      「紫雲山頂法寺(六角堂)」
都が開かれる200年前、用明天皇二年(587)聖徳太子がこの地に清らかな水をたたえた池に沐浴するため木に念持仏を掛けた所仏像が離れなくなり、そこで六角の堂を建て安置したのが始まりと云われます
因みにこの右の柳ですが、枝を2本寄せておみくじを結ぶと良縁、所願が成就すると云われる「地ずりの柳」と云われます


唐破風の礼堂、前には邪鬼が支える香炉があります

六角造りの本堂には洛陽三十三観音めぐりの筆頭で、徳太子ゆかりの秘仏如意輪観音像がお祀りされています

弘仁十三年(822)には嵯峨天皇の勅願所に、長徳四年(998)には花山天皇の御幸を得て西国巡礼札所となり、貴族から庶民えの信仰へと、平安後期には巡礼の門前町が作られました


本堂東に掛けられた祀られている名札です
 

ビルの谷間に六角の本堂


その屋根には金色に輝く宝珠が載っています

 
「親鸞堂」
親鸞は建仁元年(1201)29歳の時、毎夜比叡山を下り、この六角堂に百日参籠され、夢中に四旬の偈分を授かり、浄土真宗の開祖となられました


その「夢想之像」と


六角堂参籠の姿を自刻されたと伝える「草鞋の御影」が安置されています


本堂東に太子沐浴の縁起を伝える池に、2歳の太子像を祀る六角の太子堂です


都会の中の境内にしては意外なほど広く「日彰稲荷」や

 

「祇園社」「唐嵜社」「天満宮」などもお祀りされていました


青銅製ですが、聖観音やご本尊と同じの如意輪観音もお祀りされております


こちら又可愛い姿をされていますが、一つだけ願いを叶えてくれると云う「一言願い地蔵」さまです
首をかしげられているのは、どうしようかなと悩んでおられるらしいです
第九番南円堂にも「一言観音」と云うのがありましたね
 

お地蔵様といえばこちらにはもう二つの内、京都御所をお守りするため、北を向いておられる「北向地蔵」様です。北向不動はよく聞きますが地蔵様は知りませんでした


妙なものが囲われています。何に使われるのかは定かではありませんが、昔は六角堂の真ん中にあり、京の中心に当たると云うので要石とか、へそ石とか呼ばれました


ところでここ六角堂は華道池坊は小野妹子が太子堂本尊に花を供える勤めが始まりと云われ、專慶專応の立花の様式が受け継がれてきているようです。
その專応の「專応口伝」書で、「塀に美しい花を挿すこと」を説いた花伝書で、池坊が伝える「よろしき面影をもととする」いけばなとの違いを説いています


花伝書の冒頭部分がモニュメントとされいます
 

ビルの谷から、閑静な寺町通りに面した「霊麀山行願寺(革堂)
開祖行円はある時身ごもった女鹿を射止めてしまい殺生の罪深さに感じ出家、千手陀羅尼経を書いた母鹿の革を衣とし、比叡山横川で修行に励み、革仙とか革聖人と呼ばれ人々を助け仏道を説き、寺は革堂と呼ばれました



元あった「一条加うだう(こうどう)」と彫られています。現在の地に移ったのは宝永五年(1708)の大火の後と云われます


山門を入ってすぐ左には「延命地蔵菩薩」「天道大日如来」がお祀りされています。後は手水舎


皮聖行円が寛弘元年(1004)に一乗小川の一条北辺堂を修復し行願寺と名付けたのに始まります。中世(室町時代以降)には町堂(寺が町の自治組織の集結の場となったもの)として上京の中心となっていきましたが、その後、寺地は寺町荒神口の南へ移り、現在地へは宝永五年(1708)の大火後に移ってきました
現本堂は文化十二年(1815)に再建されたものです
入母屋造りで、千鳥破風の向拝に桧皮葺の軒先がついています



本尊「十一面千手千眼観音」は行円自刻の加茂大明神より譲り受けた霊木で造られ秘仏になっています


お勤めを終えて境内を見て周りましょう。恋愛成就や水商売の人の願いを叶える「愛染堂」


都七福神の内、長寿・福徳をもたらす寿老人をお祀りする「寿老人堂」


「一条革堂寿老神堂本尊由緒書」
京都には三つの七福神を尊崇する会があり、何れも寿老人はこの革堂の寿老人を共に拝まれているのは、太閤殿下の霊験殊勝であるからだそうです。また本像は宝物館に納め、中島甚海尼(三十三ヶ所中唯一の尼寺)により西村公朝作の新像を現在は安置されています


鐘楼横には家内安全をお願いされる「鎮宅霊符尊神堂」があります。


この鐘楼も本堂と同じ大工棟梁により文化元年に(1804)造営され、行願寺建築一連の遺構として重要であり、本堂と共に京都市指定有形文化財に指定されています


天女が舞う姿が美しく彫られています


鐘楼のお隣は、十一面観音や如来の石仏もお祀りされています

 
「百体地蔵尊」


そのお隣に出世、財宝のご利益があると云う「出世弁財天堂」と五輪塔(地水火風空)のうち、水輪の石を四角く切り抜いたところに本尊を刻む霊木を譲り受けた加茂大明神を祀ったと伝えられる「五輪塔」

 

又境内は満僕に長くその中ほどに、左)行円上人布教之真影が彫られた碑や
  右)極楽浄土に咲く蓮などが見られました

今回は京都の町の真ん中でお参りしやすかったです。次回は四ヶ寺お参りの予定です

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