JBpress (近藤 大介:ジャーナリスト)
2024年9月26日
9月20日、記者会見で日本産水産物の輸入再開について発表する中国外務省の毛寧副報道局長(写真:共同通信社)
深圳で刺された日本人男児が亡くなった翌日、日中で交わされた「重要な合意」
9月18日、中国広東省深圳で、日本人学校に通う10歳の日本人男児が、44歳の失業者の中国人男性に刃物で襲われ、翌日に死亡する事件が起こった。この問題は、いままさに佳境に入っている自民党総裁選でも、9人の候補者たちが揃って怒りを表明するなど、新たな日中問題の火種となっている。
22日には柘植芳文外務副大臣が急遽、訪中して、翌日に孫衛東中国外交部副部長に抗議。国連総会が開かれているニューヨークでも、日本時間の24日に上川陽子外相が、中国の王毅外相と会談し、抗議した。
中国の王毅外相と会談した上川陽子外相。深圳市で起きた日本人男児刺殺事件について容疑者の厳正な処罰を申し入れたが、王毅氏から「日本側は事件を冷静かつ理性的に扱うべきであり、政治問題化し、拡大させることを避けるべきだ」などと釘を刺され、握手までしてきた(写真:新華社/共同通信イメージズ )
この一週間というもの、まさに深圳の凶悪事件に、日中関係は振り回された感がある。だがそんな中で、20日に日中間で「重要な合意」がなされていた。
中国は昨年8月24日から、福島第一原発のALPS処理水(トリチウムを除くすべての放射性物質を安全基準を満たすまで浄化した水)が、太平洋に放出され始めたことを理由に、日本産水産物の輸入を禁止してきた。その輸入を段階的に再開していくという合意だ。9月20日午後、日本外務省と中国外交部が、ほぼ同時に発表した。
だがこの両国の発表文、内容が微妙に違うのである。合意した内容は一つのはずなので、おかしな話だ。
悪事を働いた日本を中国が叱ったかのような表現
まず発表文のタイトルが、日本側は「日中間の共有された認識」となっている。一方の中国側は、「中日双方が福島第一原発の核汚染水の海洋排出問題で達した共通認識」。つまり日本側では、「何について」共有されたかが明記されていないが、中国側は「核汚染水の海洋排出問題」と明記している。「核汚染水」とは、「ALPS処理水」の中国側の呼称で、危険さを強調するためにこう呼んでいるものと思われる。
次に「前文」は、日本側では以下の通りだ。
「日本と中国の関係当局は、福島第一原子力発電所におけるALPS処理水の海洋放出に関し、建設的な態度をもって協議と対話を通じて問題を解決する方法を見いだしていくという首脳間の共通認識に基づき、累次にわたって意思疎通を継続し、以下の認識を共有するに至った」
ところが、中国側ではこうなっている。
「2023年8月24日、日本政府は一方的に、福島第一原発の核汚染水の海洋排水を始動させた。中国は、最も重要な利益相関国の一つとして、この無責任なやり方に、決然と反対してきた。同時に、われわれは日本が国内外の懸念に真摯に応じ、自身の責任をしっかりと履行するよう促してきた。利益相関国が実質的に参加でき、独立した、有効な、長期的な国際的なモニタリングのシステムを、全面的に構築して配備し、合わせて中国の独立したサンプリングに同意するよう促してきた。
両国の主管部門は先頃、福島第一原発の核汚染水の海洋排出問題について、継続して何度も折衝を重ね、以下の共通認識に達した」
このように、「前文」からして、ずいぶんと異なっているのである。中国側の文章を読んでいると、さも日本側が「悪事」を行っていたので、中国側が譴責(けんせき)して改めさせたような体裁だ。
日本側では「関心」だが中国側では「懸念」
実際に、日中間で合意した内容は、4項目である。以下、日中双方の発表文を、項目ごとに併記してみる(中国側発表文の日本語訳は近藤)。
日本側①「日本側は、ALPS処理水の海洋放出をIAEA安全基準及び国際法に整合的に実施し、人体や環境に負の影響を及ぼさないよう最大限努力するとともに、海洋の環境及び生態への影響に関する評価を継続的に行っていく旨を明確にした」
中国側①「日本は、国際法の義務を切実に履行することを明確にした。そして人体と環境に負の影響を与えないよう最大限の努力を尽くすこと、合わせて引き続き海洋環境及び海洋生態の影響評価を行っていくことを明確にした」
ほぼ同じだが、若干の表現が異なっている。なおIAEAは、日本のALPS処理水に「安全のお墨付き」を与えた国際原子力機関である。
日本側②「日本側は、中国を含む全てのステークホルダー国の関心を踏まえ、IAEAの枠組みの下で海洋放出の重要な段階における長期的かつ国際的なモニタリングが拡充されることを歓迎するとともに、中国を含む全てのステークホルダー国がこれに有効に参加し、それら参加国による独立したサンプリングや分析機関間比較が実施されることを確保する」
中国側②「中国などの全ての利益相関国(ステークホルダー国)の懸念に基づいて、日本側はIAEAの枠組みの下で設立された、海洋排出の重要な段階における長期的かつ国際的なモニタリングがカバーすることを歓迎する。併せて、中国などの全ての利益相関国が有効に参画することを確保し、それら参与国の独立したサンプリングや分析機関間の比較が実施されることを確保する」
日本側では「中国を含む」と、中国が「ワン・オブ・ゼム」のように書かれているが、中国側では「中国などの」と、中国が中心であるかのように書かれている。また、日本側では「ステークホルダー国の関心」となっているが、中国側では「ステークホルダー国の懸念」となっている。「関心」と「懸念」では大きく意味が異なる。
決して「輸入再開ありき」ではない中国
日本側③「双方は、生態環境及び人々の健康に対して責任ある態度をもって、科学的見地から建設的な対話を継続し、ALPS処理水の海洋放出に関する関心事項を適切に取り扱うことで一致した」
中国側③「双方は一致して合意した。生態環境と人々の生命健康に高度に責任を持つ態度をもって、科学に基づいて建設的な対話を継続し、海洋排出の懸念を適切に処理していく」
日本側では、「責任ある態度」となっているが、中国側では「高度に責任を持つ態度」。また日本側では「ALPS処理水の海洋放出に関する関心事項」だが、中国側では「海洋排出の懸念」となっている。②に続き、「関心」と「懸念」のすり替えが行われている。
日本側④「中国側は、中国の関連法令及びWTOルールに基づき、日本産水産物に対して緊急的・予防的な一時停止措置を講じた旨を説明した。中国側は、IAEAの枠組みの下での長期的かつ国際的なモニタリングに有効に参加し、参加国による独立したサンプリング等のモニタリング活動を実施後、科学的証拠に基づき、当該措置の調整に着手し、基準に合致した日本産水産物の輸入を着実に回復させる」
中国側④「中国側は、中国の関連する法令とWTOの規定に基づき、中国が日本を原産地とする水産物に対して緊急予防的に臨時措置を取ってきたことを示した。中国側は、IAEAの枠組みの下での長期的、国際的な独立したサンプリングなどのモニタリング活動に、有効に参与していく。そしてその活動を実施した後、科学的根拠に基づいて関連措置の調整に着手し、基準に合致した日本産水産物の輸入を徐々に回復させていく」
WTOは、日中両国が加盟している世界貿易機関である。この部分は日中の表記で、決定的に異なっている。日本側では「日本産水産物の輸入を着実に回復させる」とあるが、中国側では「日本産水産物の輸入を徐々に回復させていく」となっているのだ。「徐々に」の中国語の原文は「逐步」(ジューブ)だが、「段階的に、一歩一歩」という意味であって、「着実に」とは絶対に訳せない。
さらに言えば、日本側の文章は、一文を長くして、さもすぐにでも輸入再開が実現するかのような文章効果を与えている。だが中国側では、あくまでも第一段階は、長期的かつ国際的な(複雑な)モニタリング活動である。それが終わって、第二段階として分析結果を出す。その後に、ようやく「徐々に回復させていく」と述べているのだ。
つまり、非常に先の長い話なのだ。私は一応、日本政府関係者にも確認してみたが、こう答えた。
「まだまだこれから長期戦であり、ちゃぶ台返しをいつ中国がやってくるか知れない。まったく楽観視していない」
ではなぜ、中国側は突然、日本に「光明」を与えるかのようなカードを切ってきたのか?
深圳の事件とは無関係
日本の一部メディアは、「18日に深圳で冒頭述べた痛ましい事件が起こったので、その話題をそらす目的で20日に日本に譲歩を見せた」と解説していた。
私は、この見方はまったく違うと思う。なぜなら、水産物輸入再開の案件は、以前から日中間で詰めた話し合いを何度も行ってきたからだ。20日の中国外交部の会見でも、日本人記者に同じことを聞かれ、毛寧報道官は明確に否定した。
実のところ、私のような長年の「中国ウォッチャー」から見れば、今回の中国側の行動は、「異例」である。
通常なら中国は、内閣支持率が2割を切った日本の政権を、相手にしなくなる。なぜなら、平均で約半年で崩壊するからだ。それよりも、日本の新たな政権の誕生を待って、新政権に「花を持たせる」ことで、親中政権にしようとする。
今回は特に、8月14日に岸田文雄首相が「退陣宣言」をしており、9月27日には事実上の新首相が決まる。そんな「政権末期の末期」に、中国が「日本カード」を切るのは、極めて異例なのだ。一度だけ、2010年5月末、「鳩山由紀夫政権の末期の末期」に温家宝首相が来日したことがあったが、その時は、温首相の帰国直後に鳩山首相が辞めるとは、中国側は夢にも思っていなかった。
中国外交が「異例の措置」を取る時には、必ず深謀遠慮がある。私は今回、主に2つの目的があったと見ている。
総裁選に影響を与えようとの思惑
一つは、11月5日のアメリカ大統領選挙の前に、アメリカの同盟国である日本を、少しでも中国側に引きつけたいという思惑だ。もしもドナルド・トランプ前大統領が勝利して、中国を悪辣に非難する「勝利宣言」でも述べたなら、日本はそれに追随することになる。そうなると、「日本産水産物の輸入再開カード」は効かなくなる。
もう一つは、いままさに熾烈な選挙戦が展開されている自民党総裁選に、影響を与えようという思惑だ。中国は特に、8月15日に靖国神社を参拝した(中国から見た)「A級戦犯3人組」こと、高市早苗・小泉進次郎・小林鷹之の各候補に、絶対に勝利してほしくない。そのため、日本に「微笑外交」を見せることで、他の6候補に「追い風」を与えようとしたのだ。
今年8月15日の終戦記念日に靖国人者を参拝した高市早苗氏。小林鷹之氏、小泉進次郎氏も同日参拝した(写真:Rodrigo Reyes Marin/ZUMA Press Wire/共同通信イメージズ)
だが、そうした思惑も、深圳の児童刺殺事件によって、雲散霧消してしまった。「日本を中国に引きつける」どころか、「中国から一番離れようとしている」高市候補に、飛躍する材料を与えてしまった。
もしも高市候補が勝利したなら、中国は何かと難癖をつけて、「日本産水産物の輸入再開」の合意を引っ込めるかもしれない。
近藤 大介
ジャーナリスト。東京大学卒、国際情報学修士。中国、朝鮮半島を中心に東アジアでの豊富な取材経験を持つ。近著に『進撃の「ガチ中華」-中国を超えた?激ウマ中華料理店・探訪記』(講談社)、『ふしぎな中国』(講談社現代新書)、『未来の中国年表ー超高齢大国でこれから起こること』(講談社現代新書)、『二〇二五年、日中企業格差ー日本は中国の下請けになるか?』(PHP新書)、『習近平と米中衝突―「中華帝国」2021年の野望 』(NHK出版新書)、『ファーウェイと米中5G戦争』(講談社+α新書)、『中国人は日本の何に魅かれているのか』(秀和システム)、『アジア燃ゆ』(MdN新書)など。
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