ブックエンド

永年、埃を被った重石の山を整頓と日々意気込。
図書目録作成奮闘日記の目論見。

「火焔土器を訪ねる旅」

2010年09月28日 | 雑文
埋蔵文化センター友の会のバス見学 「火焔土器を訪れる旅」に参加しました。
9/25 AM7:30 前日の雨と打って変わり晴天となり埋文センター前でバス乗車。
AM11:00昼食の料亭山磯の廊下に「六十余州名所図」が展示されており、早速、越中の舟橋と飛騨の駕篭渡を探した。
AM12:00馬高縄文館で、初めて火焔土器に観ることができました。その存在感がすばらしい。このオブジェクトにして“芸術は爆発だ“という言葉が頷ける。
新潟県立歴史博物館にて、新潟県の縄文・弥生時代の歴史を解説いただく。
PM6:00富山着 解散
火焔土器と聞くと、社会科の教科書に必ずといっていいほど写真が掲載され、「縄文文化の華」で、縄文中期に一定高度な文明と技術集団が存在したのではと想像していました。
しかし、今回の見学の旅で、抱いていたイメージと異なっていることに驚いています。
火焔型土器の奇抜なデコレーションが、縄文中期の5家族ほどの小さな集落で分業化されず普段に作られ、什器として使われていた。縄文人の宗教観(死生観?)が、生活全般に不可分のものとして存在していたからこそ土器のなかにオコゲが残っているのでしょうね。祭器だ・什器だと区分する意味が無いのでしょうね。
什器としては使い難く、特別な技能を必要としないにせよ労力と時間を要したであろう火焔の盛り付けに、なぜに、彼らは創造性を注ぎ込んだか?
かたくなに様式を守り集落のアイデンティティを盛り付ける彼らはミステリアスな世界だ。
この土器様式が日本海沿岸に広がっていることは世界観と言語を共有したある種民族に近い存在を伺わせないだろうか。…こんなロマンを掻き立ててしまいそうです。


馬高縄文館前にて

火焔土器(最初にほぼ完品状態で発掘された火焔型土器)

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。