徳川吉宗のころ、美作の国で「山中(さんちゅう)一揆」がありました。
1726~27年(享保11~12)に美作国真島、大庭両郡(岡山県真庭郡)の山中一帯に起きた百姓一揆。1726年11月美作津山藩主松平浅五郎が夭折したため、10万石が5万石に減知された。山中は幕領に編入される公算から、納入した同年年貢の取り返しなどを求め、また新参役人の久保新平の藩政壟断への不満も絡み、領内動揺のおり、一部大庄屋が郷蔵から米持出しをしたので、激高した山中農民が牧村徳右衛門、見尾村弥次郎、日名田半六らを頭取に蜂起、久世の大庄屋宅などを打毀した(12月初~月末)。いったん収拾したが、翌27年正月早々に再燃、徳右衛門らの指導下に鉄砲、竹槍で武装して蜂起し、これも鉄砲、大筒を用意して鎮圧に赴いた藩庁軍と対峙、同月12日夜、土居村に集結していた主流勢が夜討ちされて一揆側はほぼ潰滅した。一揆勢は大量に切捨てられる一方、津山へ連行された頭取たちは3月、磔、獄門、死罪に処せられた。「引用」
F老人は今井絵美子氏の小説「美作の風」で知ったのですが、この地を訪れてみました。場所は、真庭市禾津、湯原クライミングセンターへ上がっていく道の脇です。
「義民の丘」。
この場所は、主犯格とされた「牧村徳右衛門」が捕らえられた場所であり、近くの河原で多くの人たちが斬首の刑が行われました。
藩主の夭折による減知が重なったとはいえ、悲劇的な事件でした。
このあと、白梅の湯でさっぱりして、道の駅「醍醐の里」で寝ました。
1726~27年(享保11~12)に美作国真島、大庭両郡(岡山県真庭郡)の山中一帯に起きた百姓一揆。1726年11月美作津山藩主松平浅五郎が夭折したため、10万石が5万石に減知された。山中は幕領に編入される公算から、納入した同年年貢の取り返しなどを求め、また新参役人の久保新平の藩政壟断への不満も絡み、領内動揺のおり、一部大庄屋が郷蔵から米持出しをしたので、激高した山中農民が牧村徳右衛門、見尾村弥次郎、日名田半六らを頭取に蜂起、久世の大庄屋宅などを打毀した(12月初~月末)。いったん収拾したが、翌27年正月早々に再燃、徳右衛門らの指導下に鉄砲、竹槍で武装して蜂起し、これも鉄砲、大筒を用意して鎮圧に赴いた藩庁軍と対峙、同月12日夜、土居村に集結していた主流勢が夜討ちされて一揆側はほぼ潰滅した。一揆勢は大量に切捨てられる一方、津山へ連行された頭取たちは3月、磔、獄門、死罪に処せられた。「引用」
F老人は今井絵美子氏の小説「美作の風」で知ったのですが、この地を訪れてみました。場所は、真庭市禾津、湯原クライミングセンターへ上がっていく道の脇です。
「義民の丘」。
この場所は、主犯格とされた「牧村徳右衛門」が捕らえられた場所であり、近くの河原で多くの人たちが斬首の刑が行われました。
藩主の夭折による減知が重なったとはいえ、悲劇的な事件でした。
このあと、白梅の湯でさっぱりして、道の駅「醍醐の里」で寝ました。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます