私の子ども時代、激しいいじめにあったことは、忘れられない思い出である。今思い返しても本の虫(=運動音痴)であったのはまあいいとしても、どうしてかわからないけれども、すこぶるわがままな性格だったと思う。
そんな子には友達も居ないし、通学路にたむろする子らにとっては格好のいじめの対象になるのは当然だったろう。
私が5年生の時、一級下であったが帰り道、いつも三人組に待ち伏せされた。それは映画「ネバーエンディングストーリー」の冒頭シーンそのものであった。うす笑いを浮かべながら、実に楽しそうに通り道で待っていた。それは私が帰り道を変えても、彼らは絶対にこの楽しい慰めを逃したくなかったらしく、手分けして執拗に追ってきた。逃げれば逃げるほど、余計彼らも夢中になるようだった。

ある時、大人の助けを得ようと、近所の理髪店とかの店に逃げ込んでみたが、私の記憶では今と違って、お店は助けてくれなかった。やがて公認のように彼らは学校でも会えばするようになり、ある時教室で執務をしている担任の先生に助けを得ようと、教室に逃げ込んだのだが、先生は顔すら上げようとしなかった。地域社会やたとえ教育現場であっても、いじめは子ども世界のことであって、大人たちには不介入の掟があるらしいことを骨身に知らされた。
それで恐怖と自分自身への情け無さから、とうとう「自殺したら楽になる」と思うほどに追い込まれ、実際にいっそのこと、そうしようかと思った。しかし同時に彼らの性情から言って、それでは彼らは決して反省することはなく、痛くもかゆくもない、ただ遊び道具、慰めがなくなったぐらいにしか思わないだろうと気づいた。それではあんまりにも私は悔し過ぎる。
それでどうせ殴られ蹴られ続けているのだから、この上は逃げるのを止め、三分の虫にも一部の魂、彼らに逆襲して襲いかかり、痛い思いをさせ、その結果怒り狂った彼らがたとえ私を半殺しにしようと、それで体が不具になろうと、良いではないかと決心した。
翌日、決行の日が来た。幸い学校では会わなかったが、帰り道に彼ら三人はいつものように待ち伏せていた。ただ私がいつものように逃げるのではなく、その日、彼らに向かって走って行き、たじろいでいる彼らの一番デカイが一番気が弱そうな奴に向かって、無茶苦茶に襲いかかって行った。慌てて他の二人が私を止めようとしたが、私自身は半狂乱のようになっており、執拗に狙い定めた子を叩くのを止めなかった。ついにその子が後退りをし、逃げ出した。私は追いかけた。彼は走って街中を逃げ、自分の家の中に逃げ帰った。私も叫び追いかけ、土足でその家に上がり、彼を組みつけ、そのほおを渾身の力で叩き続けた。
とうとうその子は泣き始めた。そして私は叩くのを止めた。近所の人たちはこのことの次第を皆見ていた。私はまだ十一歳、しかしそれまでの人生で最高の痛快事に興奮した。勝ったのだ。
三人組は翌日から、逆に目を避け私を避けるようになった。他所の家に土足で上がり込んだり、誰が見ても頬が真っ赤に腫れ上がらせた事件は、その日もそれから後も、誰からも褒められることもなかったが、咎められることもなかった。一番大きく変わったのは私自身であった。それ以後私は、不当だと思う事に対して、立ち向かうことを知ったからだ。男になったような気がした。

この件だけでなく、他にもひどい仕打ちがあったので、私は学校の教師というものにひどく不信感を抱くようになっていた。後年、民間企業を辞めようとした時、教職を選んだのは、子どもの真実さを見つけ、あんな教師たちにではなく、いじめをなくし子どもに寄り添うという反面教師になろうという意図があった。
しかし今教師を退職してイジメに強く思うことは、全く逆の考えである。イジメとケンカは違うと言われる。私もそう思っていた。しかしいじめの無い社会というものは、世界的に見ても類の無い平和で秩序を重んじ、思いやりを標榜するこの国ですら存在しない。子どもの時代こそ、イジメを克服し生きる力を身につけさせる、またとないチャンスである。大人は注意深く見守り、かつてそうだったように、やたら干渉しないようにしたい。イジメの種類によっては、命を守ることは重要である。しかし一番のポイントは、受けている子が、自力で打開できるようにすべきである。生きる力を確かに得る貴重な機会、千載一遇の機会を奪っては、一体いつ、子どもは自分の力で乗り越え解決する機会を得るのだろうか? 若者の自殺のニュースを聞く度に、私はこのことを強く思う。
ケパ
そんな子には友達も居ないし、通学路にたむろする子らにとっては格好のいじめの対象になるのは当然だったろう。
私が5年生の時、一級下であったが帰り道、いつも三人組に待ち伏せされた。それは映画「ネバーエンディングストーリー」の冒頭シーンそのものであった。うす笑いを浮かべながら、実に楽しそうに通り道で待っていた。それは私が帰り道を変えても、彼らは絶対にこの楽しい慰めを逃したくなかったらしく、手分けして執拗に追ってきた。逃げれば逃げるほど、余計彼らも夢中になるようだった。

ある時、大人の助けを得ようと、近所の理髪店とかの店に逃げ込んでみたが、私の記憶では今と違って、お店は助けてくれなかった。やがて公認のように彼らは学校でも会えばするようになり、ある時教室で執務をしている担任の先生に助けを得ようと、教室に逃げ込んだのだが、先生は顔すら上げようとしなかった。地域社会やたとえ教育現場であっても、いじめは子ども世界のことであって、大人たちには不介入の掟があるらしいことを骨身に知らされた。
それで恐怖と自分自身への情け無さから、とうとう「自殺したら楽になる」と思うほどに追い込まれ、実際にいっそのこと、そうしようかと思った。しかし同時に彼らの性情から言って、それでは彼らは決して反省することはなく、痛くもかゆくもない、ただ遊び道具、慰めがなくなったぐらいにしか思わないだろうと気づいた。それではあんまりにも私は悔し過ぎる。
それでどうせ殴られ蹴られ続けているのだから、この上は逃げるのを止め、三分の虫にも一部の魂、彼らに逆襲して襲いかかり、痛い思いをさせ、その結果怒り狂った彼らがたとえ私を半殺しにしようと、それで体が不具になろうと、良いではないかと決心した。
翌日、決行の日が来た。幸い学校では会わなかったが、帰り道に彼ら三人はいつものように待ち伏せていた。ただ私がいつものように逃げるのではなく、その日、彼らに向かって走って行き、たじろいでいる彼らの一番デカイが一番気が弱そうな奴に向かって、無茶苦茶に襲いかかって行った。慌てて他の二人が私を止めようとしたが、私自身は半狂乱のようになっており、執拗に狙い定めた子を叩くのを止めなかった。ついにその子が後退りをし、逃げ出した。私は追いかけた。彼は走って街中を逃げ、自分の家の中に逃げ帰った。私も叫び追いかけ、土足でその家に上がり、彼を組みつけ、そのほおを渾身の力で叩き続けた。
とうとうその子は泣き始めた。そして私は叩くのを止めた。近所の人たちはこのことの次第を皆見ていた。私はまだ十一歳、しかしそれまでの人生で最高の痛快事に興奮した。勝ったのだ。
三人組は翌日から、逆に目を避け私を避けるようになった。他所の家に土足で上がり込んだり、誰が見ても頬が真っ赤に腫れ上がらせた事件は、その日もそれから後も、誰からも褒められることもなかったが、咎められることもなかった。一番大きく変わったのは私自身であった。それ以後私は、不当だと思う事に対して、立ち向かうことを知ったからだ。男になったような気がした。

この件だけでなく、他にもひどい仕打ちがあったので、私は学校の教師というものにひどく不信感を抱くようになっていた。後年、民間企業を辞めようとした時、教職を選んだのは、子どもの真実さを見つけ、あんな教師たちにではなく、いじめをなくし子どもに寄り添うという反面教師になろうという意図があった。
しかし今教師を退職してイジメに強く思うことは、全く逆の考えである。イジメとケンカは違うと言われる。私もそう思っていた。しかしいじめの無い社会というものは、世界的に見ても類の無い平和で秩序を重んじ、思いやりを標榜するこの国ですら存在しない。子どもの時代こそ、イジメを克服し生きる力を身につけさせる、またとないチャンスである。大人は注意深く見守り、かつてそうだったように、やたら干渉しないようにしたい。イジメの種類によっては、命を守ることは重要である。しかし一番のポイントは、受けている子が、自力で打開できるようにすべきである。生きる力を確かに得る貴重な機会、千載一遇の機会を奪っては、一体いつ、子どもは自分の力で乗り越え解決する機会を得るのだろうか? 若者の自殺のニュースを聞く度に、私はこのことを強く思う。
ケパ