命のカウントダウン(健康余命3605日)

トレッキング、カメラ、陶芸、スキー、釣り、カヌー、遊びなら何でも大好き。仕事も好き、時間がない!

それで、私も考えた!

2019-10-25 01:24:40 | 日記
トイレに机椅子を押し込んだのがばれたので・・・
次にどうすればいいのか・・・・

私は、当事者に言いました。
明日は、早朝に丈夫なロープを持参しるようにと

翌日、彼は私にロープを渡してにやりと笑いながら学校を去っていきました。
うまいことやってや!と、言い残して

私は、皆が登校してくる前にロープワークを駆使しました。
そうして、教室からは彼の机も椅子も消え失せて、トイレにもその存在はなくて・・・
私の作戦はまんまとうまくいくように思えたのですが・・・・・
2時限目の中頃でした。グラウンドで体育をしていた肉体派教師が教室に怒鳴り込んできたのです。
「何だあれは!!!」
授業していた先生は、目を白黒させて動転しています
「窓から机が・・・・」
と言って、体育教師が指さした先には・・・・
私がロープでつるした机といすがありました。

まあ、楽しい時代でございましたよ

自由だった高校時代のいたずら

2019-10-25 01:11:11 | 日記
前日したように、私が京都の公立高校に通っていた1971年から1973年までは、京都は共産党の支配下に置かれていて、中国共産党支配下の人々は自由度がないようですが、当時の京都の若者は、自由を謳歌しておりました。そのおかげで、京都の公立高校から京都大学への進学は最低レベルでした。でも、私は、当時の京都の公立高校の自由さは世界最高レベルだったのではないかと思っています。そこから、世界最高レベルの人々が生まれたとは思っていませんが、自由度の大きさは幸せレベルと共通すると思っていますので、私たちの同級生は、最上級に幸せな高校生活を送れたのではないかと思っています。
当時の蜷川府政の売り文句が「15の春は泣かせない」でした。
その文句通り、私たちは高校受験では競争率1.1倍程度で、名前を書いたら通るやろう てな感じで・・・・15の春は泣きませんでしたが・・・・
ぬるま湯につかったせいで・・・・ほぼ全員が・・・・
18の春に泣きました!!

そんな時代のお話です。
高校で、出席を取りますよね。
最初のころはさぼっている奴に頼まれて、声色を使ったりして何とかごまかしていたのですが・・・・
空席があることを気づかれてしまって・・・・
ここ、誰やねん!!!

それで、その空席の主に・・・
おまえ、何とかしろよな!!
私、いじめられっ子だったようです。今から考えると
それで、考えまして、
そいつの机といすを、トイレに押し込みました。

2日ほどはそれでうまくいったのですが・・・・
トイレに机といすが押し込まれていると通報したやつがいて・・・・

それで、他の案を提示せよと脅迫されました。
続きはcm2の後でじゃないですよね。
すみませんが次回に

週休3日制の破綻

2019-10-25 00:23:32 | 日記
前回、高校3年生の時に週休3日制を勝手に制度化していて、結構うまく運んでいたという話をしました。でも卒業間際になってそれが破綻したのです。
なんと私、インフルエンザにかかってしまい40度近い発熱で、身動きすることすら困難になってしまいました。
今だったら、インフルエンザに罹患したら最低でも5日間は出席停止で、その間は出席したと扱ってもらえます。でも、昔はそんな制度なかったのです。それで、私、どうしても行けなかった2日間だけ休みました。すると、その2日で、出席日数が2/3に満たない教科が発生したのであります。

それで、何をしたかと言いますと・・・・もう時効だから白状しますが・・・・
授業中、先生が画数の多い漢字を板書されているすきに出席簿をひったくって、砂消しゴムでボールペンの記録を改ざんしたり、他にも少々悪事を働きました。

まあ、そんなことばかりしていた過去がありますので・・・・
自分の娘、息子が学校に行かなくても・・・・避難できない私なのでございます。

続、週休3日制について

2019-10-25 00:23:32 | 日記
前回、現在の自分の診療所が週休3日制に近いと書いたのですが・・・・
考えてみれば・・・・・
48年ほど前、私が高校3年生だった時に、週休3日制度を自分勝手に実施しておりました。

1971、1972、1973年の3年間、私は京都府立洛北高等学校に在籍しておりました。
その頃の京都府は、蜷川府政下にありました。与党が共産党という日本国の中で唯一無二の体制だったのです。


京都は、言わずもがな、日本のことであり歴史深い街なのですが・・・・
先進性に富んだ街でもあるのです。京都人は伝統を守っているだけでは満足しないのです。良いものがあれば取り入れる柔軟性も持っています。京都には「日本初」として誕生したものが、数多くあるのです。
小学校、画学校、発電所、路面電車、映画上映、中央卸売市場、国際会議場など枚挙にいとまがないほどです。
それはさておき、京都人は新し物好きの面も大いにあるのです。それで、私が高校生の頃は、京都府政は共産党の支配下にありました。高校は、一学区一校。すなわち、公立高校は良く学校が一校しかなくて、選択不可能でした。
なので、小学校の同窓生のほとんどは中学でも顔を合わせ、ほとんど同じメンバーが高校でも顔を合わせることになりました。
高校生活は本当に自由度が高くて、授業を休んでも、だれにも注意されることはありませんでした。
それで、学年を重ねるごとにさぼり癖が悪化していき、3年生になったころには、朝は学校近くの喫茶店でさぼり仲間と顔を合わせ、午前10時のパチンコ屋の開店には皆勤。開いたチューリップを閉じるだけで毎日500円ほどの収入を得て、喫茶店の支払いに充てておりました。

そうそう、週休3日制の話でしたね。
高校、ずる休みしても誰にも文句を言われない素敵な学校だったのですが、文部省の規定だけはクリアしろよなと言われておりました。
その文部省の規定というのが、規定された出席日数の2/3以上の出席があることというものでした。
その当時は土曜日も授業がりましたので、週に6日授業でした。
それで、その1/3は休んでも良いなと考えまして・・・・
今週は月火、来週は水木、再来週は金土休もうと、計画的な週休3日制度をひいたのでありました。

とてもうまく運用できていたのですけどねぇ。
最後の最後でアクシデントが・・・・・
それは、また、明日以降に・・・・