信じれば真実、疑えば妄想…

季節は巡り、繰り返しと積み重ねの日々に、
小さな希望と少しの刺激で、
今を楽しく、これからも楽しく

妄想劇場・韓信外伝 -春秋の光と影 「友人」

2018年01月31日 | 妄想劇場

Kensin

 

メジャーでは無いけど、 こんな小説あっても、 
良いかな・・・


アングラ小説です、不快感がある方は、
読むのを中断して下さい



Kansin


名家に生まれ、その責任を果たそうとした男がいた。
取り巻く親族を始めとする人々は、彼の生き様から
何を学んだのか。
人々から与えられた愛を愛で返す……。
返す愛が足りないからこそ、人は裏切るのだ。
彼は過去の失敗をもとに、ひたすらに人々に愛を
与えようとした。その生き方は壮絶だったが、
荒々しいものではない。
彼は確かに人々から愛されていたのだ。・・・

韓信外伝 -春秋の光と影 「友人」

悶々と考え込む子仲の態度にはお構いなしに、
太子は力なく呟いた。
「俺たちは、これから鄭てい国に向かう」
太子は子仲の目を見ず、独り言のように言った。
彼も自分のことで頭が一杯なのであった。
子仲はそのことに同情し、ひとまず自分の問題は
脇に寄せることにした。

「鄭は小国でございます。晋や斉などの大国間の
利害関係のはざまにあって、政情が常に安定しない
国ですから、長居はしない方が懸命でしょう」

「ああ、そのつもりだ。しかし、内乱がおきている
宋国に滞在し続けるよりはましだ。そうではないか?」
「仰る通りでございます」

まったく、運命とは思うようにならないものだと
感じざるを得ない子仲であった。
もし太子がただの市井の男に過ぎない存在で
あったなら、どこに住もうが誰からも気にかけられない
というのに。そして今ごろは野良仕事をしながら、
邑ゆうの純朴な娘と恋に落ち、里りの仲間に祝福され、
吉日を選んで祝言をあげていただろう。

単にきらびやかな服を着て、馬車に乗ることができる
だけの特権ではないか。哀れである、とさえ思った。
そればかりの特権を得るかわりに、失われるものは
生まれ育った土地への思いであったり、
家族との絆であったり、命そのものであった。

「いっそのこと」
子仲は話しづらそうな口調で切り出した。
その様子には、彼自身にも自分の意見に確信が
持てないことがありありと浮かんでいた。

「鄭国に入ったあと、ご身分を平民とされて日々の
平凡な暮らしと向き合う、というのはどうでしょうか」
太子建は、これを聞き苦笑いを浮かべた。

子仲の意見に心を動かされたわけではなかったが、
最低限それは太子の青ざめた表情を和ませる効果は
あったらしい。つまり太子は、子仲の言葉を冗談と
受け取ったのだ。

「子仲が俺のことを気遣ってそのようなことを言って
くれるのは嬉しい。しかし、俺にも意地がある。
このまま逃げ隠れして一生を終えるような人生で
よいものか。いつか、立場を逆転させて父を見返して
やりたいのだ」

ああ、これだ。人の世に争いが絶えない理由が
ここにあった。
やられたらやりかえす、復讐があらたなる復讐を呼ぶ、
その無限ともいえる憎しみの循環が人の世を
苦しませている。
しかも多くの人々は、そのことに気付かないのだ。

太子は太傅伍奢の愛情を受けて育てられ、穏やかな
性格を持つ人物であった。
そのような彼にもかかわらず、復讐心を捨てきれぬとは
……子仲は太子の前途に不安を感じた。

「ときに……」落ち着いてきた太子は、話題を
転じようとした。
      「費無忌の殺害は、果たせたのか?」
「いえ、実は……」子仲は口ごもった。

費無忌を殺害することが正しいと信じて行動した
彼だったが、いまではそのことが本当に
正しかったのかどうかと自問することが多いのである。

あるいは、失敗に終わって良かったのではないかと…
…。しかしそれを太子に話すことは、憚られた。
「申し訳ありません。あと一歩のところまで迫りましたが、
奴の右腕を斬り落としたのが精一杯でした。
太傅伍奢と伍尚の処刑も止められませんでした」

「そうか……」
太子は、子仲の失敗を責めなかったが、それ以上
この話題を深く掘り下げようとしなかった。
馬車の列は睢陽の西の城門を出て、緑野を駆けた。

その先頭にいる伍子胥の姿が、後方の子仲の目に
時おり映る。子仲は思う。親兄弟を斬殺されたあの男は、
人の世に巣食う復讐心の循環を断ち切ることが
できるのだろうか、と。・・・

・・・つづく



Photo_2




愚人は過去を、賢人は現在を、狂人は未来を語る・・ 




Izon111111_3 


依存症は、酒や薬物などの物質が引き起こす
印象が強いが、近年では、本人の意思の問題と
思われてきた痴漢や万引などの行為も、
治療が必要な依存症と捉えられている。
      
“新型依存”とも言うべき新しいケースは次々と
増え続けている。
女性の”新型依存”も種類が豊富。しかも、
依存症になる背景が男性とはまた異なるという。

「女性は男性よりもセロトニンの生産能力が低く、
不安になりやすい。そのため、”負の強化”
(ネガティブな事象を避ける行動)のために
依存症になりやすいのです」
(心理学者・杉山 崇氏)

例えば、女性に多いのがマスク依存だ。
当事者の橘真弓さん(仮名・22歳)はこう語る。

「最初は鼻炎対策とすっぴん隠しのためでしたが、
口元をマスクに包まれていると、人目に
さらされずに済む安心感がある。
今ではマスクがないとハダカで外を歩いている
みたいで、不安で仕方ないんです」

また、男性が支配欲や優越感を満たしたくて
性依存や性犯罪に走るのに対し、
女性の性依存は不安感や自信のなさが動機に
見え隠れする。
      
加藤千花さん(仮名・27歳)の電マ依存も
またしかりだ。
「毎日4~5回、不安やストレスが多いときは
10回ぐらい電マを使います。
男性にしてもらうのが申し訳なくて、機械に
無感情に責められたほうが安心して興奮
できるんです」

肉食女子を自称する田邉由美さん(仮名・25歳)が
SEX依存になったのも、自己肯定感が
足りなかったからだという。

「美人ではない私でも、性的アピールをすれば
”男が落ちる”のが楽しくて、自尊心が満たされた。
弱音を吐いたり甘えたりするのは苦手ですが、
SEXしている間だけは相手との距離が縮まった
気がするんです」

女は自己肯定感がグラついたとき、依存に
走りやすいようだ。・・・

※ 【杉山 崇氏】
心理学者、神奈川大学人間科学部教授。




Ae6d8b8711211111



 

58363711

 
コメント

妄想劇場・妄想物語

2018年01月30日 | 妄想劇場

V015111111112 



Logo511 



4911111111 


2児を産み、1児を捨てた弓枝の人生。
自ら生んだ子供を手放す「ワケあり」の母親たち。

我が子に対して恐怖を抱く母親
「小学1年の息子が私の胸を触った時、ものすごい
恐怖を感じました。
もう息子の下腹部を見るだけでダメです。怖い。
この子がもう少し大きくなったら絶対に一緒に
暮らせない。今でもそう思っています」

子供を捨てた経験のある江口弓枝(仮名、41歳)は、
強い口調でそう語った。

小学生の男の子が甘えて胸を触ることなどあるだろう。
だが、弓枝はそのことを許せないばかりか、
息子の下腹部を見ることさえ嫌がった。

きっとこの子は男となって自分を襲うのかもしれない。
わずか6歳の子供に対してそんな恐怖を抱いたのだ。

一体なぜ彼女はそんなふうに考えるようになったのか。
なぜ息子を心から愛すのではなく、恐怖を抱くように
なったのか。それは子供を捨てた理由と
関係があるのか。・・・

義父と義兄から性的虐待

徳島県の小さな町で、弓枝は若い夫婦の長女として
生まれた。だが、両親は不仲から間もなく離婚を決意。
母親が幼い弓枝を引き取ることになった。

小学校1年の時、母親は別の男性と再婚し、彼の家に
移り住んだ。男性も離婚経験があり、息子が1人いた。
新しい家では、義父、母親、義兄(小学6年)、そして
弓枝の四人が暮らすことになった。



Bta11111 


体を愛撫したり、キスをしてきたりするのはもちろん、
股間を押し付けてくることも度々だった。
それを知ってか知らずか、義兄も同じようなことを
はじめる。

弓枝の部屋にそっと入ってきて服を脱げと命じ、
局部をまじまじとのぞき込み、指などで触ったり
したのだ。

弓枝はそれが嫌で仕方がなかった。
口に出せば、母親の幸せを壊すことになるし、
自分たちが路頭に迷うことは明らかだ。
幼い弓枝は性的虐待に耐え、秘密を1人で
抱え込んだ。

性的虐待が終わったのは、小学五年生の時。
母親と義父の関係が悪化して、離婚が決まったのだ。
弓枝は母親につれられて家を出ていくことになった。

「いい子」でいることを強いられて その後、弓枝は
暗い過去の記憶に蓋をし、中学、高校時代をすごす。
母親はそんな娘の苦しみを想像すらして
いなかったようだ。
日中は市内のスーパーでパートをし、夜は弓枝を
アパートに置いてスナックに働きに出た。

そんな中でも、母親は1人の女性として奔放に
振舞った。
夜はいろんな男に送り届けてもらい、休日は
厚化粧をして楽しそうにデートに出かける。
娘の前で男の愚痴をこぼすことも少なくなかった。
夜中に独りぼっちで心細い日は、アパートの階段に
すわって朝まで母親の帰りを待った。

このように母親は好き勝手していたにもかかわらず、
弓枝には「いい子」であることを強いた。
家事をこなし、勉強もトップでなければ許さなかった。
弓枝はその期待に応えなければ捨てられるのでは
ないかと、懸命に家でも学校でも優等生を装った。
先生からは絶えず褒められ、成績も1位、2位を
争うほどだった。

見た目にもまじめな弓枝だったが、なぜか中学生
以降も性被害に遭いつづけた。
もっとも多かったのが、電車での痴漢だ。
1車両に数人しか乗っていない田舎の電車なのに、
男がわざと横にすわってきて制服の中に手を入れて
体をまさぐるのだ。

ある日、弓枝は怖くなって電車から降りた瞬間に走って
逃げようとした。すると、男も全速力で追いかけてくる。
なんとか電話ボックスに逃げ込んだが、男は
電話ボックスを叩いて「開けろ! 開けろ!」と
怒鳴り散らす。弓枝は泣きながら母親に電話をして
叫んだ。「お母さん、助けて。お願いだから早く来て!」
助けが来るまで、気を失うほど恐ろしい思いをした。

大学は、千葉大学の看護学部に進んだ。
母親から「お金がないから私大には行かせられない」と
きつく言われていたので、猛勉強して国立大学への
入学を決めたのだ。

1年の頃は、仕送りが足りず、都内の叔父と叔母の
家に下宿させてもらっていた。だが、今度はその叔父から
性的いやがらせを受けた。

風呂に入っていればのぞかれ、寝ていれば布団の中に
入ってきて体をまさぐられる。
部屋に無理やり引きずり込まれて強姦されそうになり、
悲鳴を上げてかろうじて逃げ延びたこともあった。

ちなみに、彼女は秀でて美しいわけでも、スタイルが
いいわけでもない。むしろ、地味で暗いイメージさえある。
なぜここまで性被害に遭うのか。もしかしたら幼い頃に
性的虐待を受けた傷が、加害者たちの目に透けて
見えるほど表出していたのではないか。

大学1年の終わりに、彼女は一人暮らしを決意して
その家から離れる。当時のことを弓枝は次のように語る。

「あの当時の私は男性を怖がる一方で、ものすごく
孤独でした。誰も自分のことをわかってくれない。
みんなが自分に害を与えると思っていたんです。
でも、心が弱くて男性嫌いになることもできませんでした。
むしろ、恐怖や寂しさを紛らわすように男性に依存した。

顕著だったのが、大学1年から2年の時に付き合っていた
男性でした。私は24時間傍にいなければ落ち着かなくなり、
ストーカーのようになりました。

1日に100回以上連絡を取ったり、どこにいるのか
知りたくていそうなところで何時間も待ち伏せしたり。
その男性なしでは生きていけないような気持に
なったんです」

弓枝は大学2年の春と、半年後の秋、その男性の子供を
たてつづけに妊娠をする。
男性には結婚の意志はなかったが、弓枝はなんとしてでも
産みたいと思った。

これに猛反対したのが、母親だった。電話でそのことを
話した直後、母親は徳島から東京のアパートに
駆け込んできた。そして包丁を首元に突きつけて叫んだ。

「学生結婚も許さないし、出産も許さない。
あんたをそんな不良に育てた覚えはない。すぐに
中絶しなければ殺すわよ!」
徳島にいた時と同じく、母親は弓枝に「いい子」で
あることを求めたのである。

弓枝は母親に言われると逆らうことができず、
中絶手術を受けた。愛する人の子を殺してしまった
罪悪感に泣き崩れた。

育児ノイローゼに

大学卒業後、弓枝は看護師にはならず、派遣社員として
いくつかの職を転々とした。
大学時代に熱愛した男性とは2度の中絶を機に別れたが、
気持ちはずいぶん落ち着いていた。

30歳の時、仕事で知り合った3歳年上の男性と結婚。
彼は子供が大好きで、絵に描いたようなやさしい
性格だった。無意識のうちに、そんな男性を選んで
いたのだろう。

新婚の数年間は、弓枝は人生でもっとも幸せだった。
多少の経済的な余裕もあり、休みごとに小旅行へ
出かけたり、ショッピングに行ったりした。

良き妻であることも忘れなかった。家中をきれいにして、
インテリアにもこだわる。食事も手造りで、夫にできるだけ
おいしいものを食べさせてあげようとした。
完璧主義の彼女ならではの結婚生活だといえよう。

そんな生活が崩壊したのは、長男を出産してからだった。

後に発達障害だと診断される息子は、乳幼児期から
まったく手に負えない子だった。
夜中でも一度泣き出したら止まることはなく、2歳、3歳に
なってもまったく意思の疎通ができなかった。
弓枝は、息子との向き合い方がわからず、
「育児ノイローゼ」になった。

彼女の言葉だ。

「小さなころから、『いい子』であれと言われつづけて
きたことから、『いい子主義』『完璧主義』だったんです。
でも、自分の意志通りにならない子供が生まれたことで、
それが限界に達してしまった。
理想の自分像みたいなものが崩壊してしまったんです。



Bts111 


弓枝が家族に対して取った行動は、まさに
「虐待」と呼ぶべきものだった。
たとえば、ある日、息子が病気になって嘔吐した。
すると、吐いたものを片付ける、
病院へつれて行く、といったことを順序立ててできず、

「吐くな!」「泣くな!」と息子を何度も殴りつけて
しまうのだ。当然、息子はわけがわからずに余計泣く。
彼女はさらに混乱して暴力をふるう。
そのくり返しである。

こうしたことは毎日つづいた。お皿を壊す、
ご飯を落とす、おもちゃを投げる。そんな些細なことで
いちいちパニックになり、息子がぐったりするまで
叩きのめすのだ。
そのせいで、息子の体には常に生々しいアザや
傷が絶えなかった。

「最初は息子が言うことを聞かないせいだと思って
いました。でも、だんだんと息子を憎んでいるんじゃ
ないかと考え直すようになりました。

オムツを取る時に、性器が見えるじゃないですか。
すると、昔受けた性的虐待や痴漢のことが
フラッシュバックして、ものすごく息子が男であることが
怖くなるようになったんです。

男が目の前にいるのが恐ろしい。
そんな感情から息子を憎らしく思い、泣いたり、
騒いだりするだけで、頭に血が上って
暴力をふるってしまうんです」
 
精神の均等を崩したことで、これまで記憶の
奥底に隠していたトラウマが表出するように
なったのだろう。

弓子の男への憎しみは、息子だけでなく夫にも
「逆DV」という形で向けられた。
夫であっても、家に男がいることが息苦しくてならず、
彼が息子の面倒を見ないとか、話を聞いていない
というだけで、パニックになり、怒鳴り散らして
手を上げた。

一度、夫を床に押し倒し、近くにあった棒で
顔のあたりを殴りつけたことがあった。すると、
その先端が首にざくりと刺さって、大量の血が
噴き出した。

夫が慌てて救急車を呼んで助かったが、不審に思った
医師が警察へ連絡。
後日警察が捜査にやってきた。
やさしい夫は「僕が自分で自殺未遂をしたんです」と
言って弓枝をかばったという。

彼女はこの時のことを言う。

「パニックになっている時はわけがわからなく
なるんです。
夫の首を切った時も、血だらけになっているのを
見てハッと我に返った感じ。
その時になって、何やってんだろって思うんですが、
暴れている間は錯乱状態なんです」

解離性障害のように、頭のスイッチが変わって
しまっているのだろう。
だから、自分では抑制がきかず、毎日のように
ほとんど理由もなく子供や夫に暴力をふるってしまう。

夫はどれだけ暴力を受けても、「子供が第一」と言って
離婚しようとしなかった。

2人目の面倒など見られない

弓枝が二度目の妊娠をしたのは、39歳の時だった。
わかった瞬間、弓枝は絶望の底に叩き落された。
長男を育てることができない自分が、
2人目の面倒など到底みられないと思ったのだ。



Btq2111 


学生時代に中絶手術を受けて以来、ずっと殺して
しまった子供たちに謝りつづけてきた。
あんなつらい経験は二度としたくなかったんです。

それで、次男を産んで特別養子に出すことに
決めました。
殺さずに済むし、合法的に手放すことができると
思ったんです」

弓枝はインターネットで特別養子を支援する団体を
調べて連絡した。
1つ目は「精神を病んでいる母親からの依頼は
受けられない」と断られ、2件目は「自費で九州の
施設まで来るように」と言われた。

3つ目の「Babyぽけっと」だけは無条件で引き
受けてくれた。それで、彼女は地元の病院で
次男を産み、家に連れ帰ることなく退院と同時に
特別養子に出したのだ。

「育てられない子を産むな」という声もあるが
弓枝は、次男を手放したことを「正解だった」と
話している。

「私の精神状態は今も落ち着いていません。
小1の息子の発達障害はひどくなる一方で、
私も毎日パニックになって怒鳴り散らし、
手を上げています。

虐待だとわかっていますが、止めることが
できないんです。
次男を手放して正解だったと思っています。
私のもとにいるよりは、平穏な家庭で育った方が
ずっとよかったはずです」

話を聞く限り、彼女が子供を捨てた背景には
3つの重要なポイントがある。

1つ目は、弓枝の母親との関係である。
彼女は母親に求められるままに「完璧ないい子」を
演じつづけてきた。
おそらくそれが家庭で生き抜く方法だったのだろう。

2つ目は、性的虐待である。これによって彼女が心の
奥に爆弾を抱えることになったのは明らかだ。

そして3つ目が、息子の発達障害である。



Ba4511111 


弓枝は語る。

「私は男の人をまったく信じていません。
嫌悪の対象でしかない。
絶対に暴力をふるう人間としか考えられないんです。

長男は今小1ですが、あと数年すれば性欲を持つ
大人になる。私にはそれが恐怖なんです。
だから今後もどんどん暴力がエスカレート
するんじゃないかって自分でも自分が怖い。

今は夫に対しても同じです。
あれだけやさしくしてくれているんですが、どこかで
信用できないんです。
大人の男2人が家にいると考えるだけで、私は
将来が見えません。かといって、この精神状態で
夫と別れて生きていくことなんてできない。

もちろん、母親に助けを求められるわけもない。
自分でもどうしていいかわからないんです」

このような話を聞くかぎり、彼女は40歳をすぎてもなお、
性的虐待の呪縛に囚われているだろう。
そしてそれが子供への虐待、そして育児放棄に
つながっているのだ。

彼女は自らのことを「育児ノイローゼ」と表現していた。
だが、そうなった背景には、一言では終わらせられない
深い問題が横たわっている。

そこに光を当てなければ、なぜ彼女が息子に
暴力をふるい、次男を捨てたのかということは
わからない。

彼女は言う。 「世間では、育てられないなら産むな
という意見があります。
でも、育てられなければ、育てられる人に幸せに
育てててもらえればいいと私は思っていますし、
今もそれはまちがいじゃなかったと思っています」 そ

の意見が、せめてもの慰めのように聞こえた。
次男は関西のある夫婦に引き取られ、
幸せに育てられているという。・・・・ 




A213



Ae6d8b8711211111


s:eNozsjJkhIPUZENDA6NkM19/lwJ/06RA45JyJjMTAyZjMwMmAyYEcHBwAAADJAix]




58363711_2

 

コメント

妄想劇場・特別編

2018年01月29日 | 妄想劇場

V0151111112 



昨日という日は歴史、今日という日はプレゼント
    明日という日はミステリ




Bg11111 


大学生だった1975年の初め、初めて商業的に
成功したパソコン「Altair 8800」を特集した雑誌
「ポピュラー・エレクトロニクス」を友人の
ポール・アレンが見せてくれました。
私たちには同じ考えがよぎりました。

「革命に乗り遅れてしまう!」

ソフトウェアによって世界が変わるのは間違い
ないですし、今すぐデジタル革命に加わらないと
間に合わなくなると怖くなりました。

この会話で私は学生生活に終わりを告げ、
マイクロソフトが始まりました。
次の100年でこのようなチャンスはもっと生まれる
でしょう。

素晴らしいアイデアがいとも簡単に一瞬で世界に
広まるので、イノベーションが加速度的に進展し、
開発できる分野も広がるからです。

人々の生産性や創造性を向上させる人工知能の
活用は始まったばかりです。
生物科学は有望で、将来人々はより長くより健康に
暮らせるようになるかもしれません。

クリーンエネルギーは、大きな進歩を遂げて安価で
利用しやすくなり、貧困の減少や気候変動の緩和に
役立つでしょう。

このような進歩の可能性にはワクワクします。
何百万人もの命を救い、生活を改善できます。
しかし、必ず実現するとは限りません。

このような進歩を起こすには、全部はうまくいかない
けれども、たったひとつのブレイクスルーによって
世界は変えられると確信しながら、たくさんの
クレージーな考えに喜んで賭けないといけません。

イノベーションの力を信じ、革命的なアイデアに
賭けるべきです。
次の100年間に我々が必要としているのは、
それをやり続けられる人です。
・・・・・




Title1111111111 


『生きるということは一度しかない。
リハーサルなんかありはしない。
たった1度だけである。』

私にこんなすさまじい教えを教えてくれた1人の
若者がいた。

富山県の砺波(となみ)という町で、ガンで亡くなった
井村和清さんである。
彼は医師であったが、右膝に巣くった悪性腫瘍の
転移を防ぐため、右脚を切断した。
しかし、その甲斐もなく、腫瘍は両肺に転移していた。

そして昭和54年1月、亡くなったのである。
享年31歳であった。

彼は医師であったから、自分の病状をよく
知っていた。だが彼には明日はなかった。
その彼が遺書を残している。
その遺書は
『ありがとう、みなさん』と題されている。

彼は2人の子供に「心の優しい、思いやりの
ある子に育ってほしい」と書き、

「私は今、熱がある。咳きこんで苦しい。
私はあと、いくらもお前たちのそばにいて
あげることができない。

だから、お前たちが倒れても手を貸して
あげることができない。

お前たちは倒れても倒れても自分の力で
立ち上がるんだ。お前たちがいつまでも、
いつまでも、幸せでありますように。

雪の降る夜に父より」・・・

そしてまた彼は、こんな遺書も残していた。

「ようやくパパと言えるようになった娘と、
まだお腹にいるふたりめの子供のことを思うとき、
胸が砕けそうになります。這ってでももう1度と
思うのです。

しかし、これは私の力では、どうすることもできない。
肺への転移を知った時に覚悟はしていたものの、
私の背中は一瞬凍りました。

その転移巣はひとつやふたつではないのです。
レントゲン室を出るとき、私は決心していました。
歩けるところまで歩いていこう。

その日の夕暮れ、アパートの駐車場に車を
置きながら、私は不思議な光景を見ていました。
世の中がとても明るいのです。

スーパーへ来る買い物客が輝いてみえる。
走りまわる子供たちが輝いてみえる。
犬が、垂れはじめた稲穂が、雑草が、電柱が
輝いてみえるのです。
アパートへ戻ってみた妻もまた、手をあわせたいほど
尊くみえました」

「郷里へ戻ると父が毎朝、近くの神社へ私のために
参拝してくれていることを知りました。
友人のひとりは、山深い所にある泉の水を汲み、
長い道程を担いできてくれました。

『これは霊泉の水で、どんな病気にでも効くと
言われている。俺はおまえに何もしてやれなくて
悲しいので、おまえは笑うかもしれないが、
これを担いできた。』

彼はそう言って、1斗(18リットル)上もありそうな
量の水を置いてゆきました。

また私が咳きこみ、苦しそうにしていると、
何も分からぬ娘までが、私の背中をさすりに
来てくれるのです。

みんなが私の荷物を担ぎあげてくれている。
ありがたいことだと感謝せずにはいられません。

皆さん、どうもありがとう。
這ってでももう1度戻って、残してきた仕事を
したいと願う気持ちは強いのですが、
(咳)きこむたびに咽喉をふるわせて出てくる
血液を見ていますと、もはやこれまでか、
との心境にもなります。
どうも、ありがとう。」・・・・・・

;日一日と悪化する病気に、もう猶予はできない。
ここまでくれば、いつ机に向かうことができなく
なるかもしれない。とにかく『あとがき』を
書くことにした。

「頼みがあります。もし私が死にましたら、
残るふたりの子供たちを、どうかよろしく
お願い致します。

私が自分の命の限界を知ったとき、私にはまだ
飛鳥ひとりしか子供はありませんでした。
そのとき、私はなんとしても、もうひとり子供が
欲しいと思ったのです。
それは希望というよりは、むしろ祈りの
ようなものでした。

(中略)

祈りは通じ、ふたりめの子供が妻の胎内に
宿ったのです。
妻はこれはあなたの執念の子ね、と言って
笑いましたが、私はどうしても、妻と飛鳥を、
母ひとり子ひとりにしたくなかったのです。

3人が力を合わせれば、たとえ私がいなくても、
生きぬいてゆける。
妻がもし艱難に出逢うことがあっても、
子供たちふたりが心を合わせれば、細い体の
妻をきっと助けてくれる。そう信じています」

そして、彼の死後、「誰よりも悲しむであろう
父母を慰めてやって下さい」と頼み、
「ありがとう、みなさん。世の中で死ぬまえに
これだけ言いたいことを言い、
それを聞いてもらえる人は滅多にいません。

その点、私は幸せです。ありがとう、みなさん。
人の心はいいものですね。思いやりと思いやり。
それらが重なりあう波間に、私は幸福に漂い、
眠りにつこうとしています。

幸せです。ありがとう、みなさん、
ほんとうに、ありがとう」

1人の若者が生きることの大事さを教えてくれた
生の記録である。
彼は最後の最後まで、人間万歳を
歌いあげたのである。

最後の最後まで
『ありがとう』をいい続けたのである。

生きるということは1度しかない。
リハーサルなんかありはしない。
たった1度だけである。

どうか「生きる」ことを大事にしてほしい。
・・・




こうして、こうすりゃ、こうなるものと、
      知りつつ、 こうして、こうなった 
・・・





B27



Ae6d8b8711211111




「六本木ワルツ」 







58363711

 

コメント

妄想劇場・番外編「痴人の愛」

2018年01月28日 | 妄想劇場

V015111111_2 



なぜ、美人はいつもつまらない男と 
結婚するんだろう? 
賢い男は美人と結婚しないからさ。・・・




115995125_o31111111111111111111_2 


私は既にその頃ナオミを恋していたかどうか、それは
自分にはよく分りません。
そう、たしかに恋してはいたのでしょうが、自分自身の
つもりでは寧ろ彼女を育ててやり、立派な婦人に
仕込んでやるのが楽しみなので、ただそれだけでも
満足出来るように思っていたのです。

が、その年の夏、会社の方から二週間の休暇が
出たので、毎年の例で私は帰省することになり、
ナオミを浅草の実家へ預け、大森の家に戸締りをして、
さて田舎へ行って見ると、その二週間と云いうものが、
たまらなく私には単調で、淋しく感ぜられたものです。

あの児こが居ないとこんなにもつまらないものなのか、
これが恋愛の初まりなのではないかと、その時初めて
考えました。
そして母親のてまえいい加減に云い繕って、予定を
早めて東京へ着くと、もう夜の十時過ぎでした
けれど、いきなり上野の停車場からナオミの家まで
タクシーを走らせました。

「ナオミちゃん、帰って来たよ。角に自動車が
待たしてあるから、これから直すぐに大森へ行こう」
「そう、じゃ今直ぐ行くわ」と云って、彼女は私を
格子こうしの外へ待たして置いて、やがて小さな
風呂敷ふろしき包を提げながら出て来ました。

それは大そう蒸し暑い晩のことでしたが、
ナオミは白っぽい、ふわふわした、薄紫の
葡萄ぶどうの模様のあるモスリンの単衣を纏まとって、
幅のひろい、派手な鴇色ときいろのリボンで
髪を結んでいました。

そのモスリンは先達せんだってのお盆に買って
やったので、彼女はそれを留守の間に、自分の家で
仕立てて貰って着ていたのです。

「ナオミちゃん、毎日何をしていたんだい?」
車が賑にぎやかな広小路の方へ走り出すと、
私は彼女と並んで腰かけ、こころもち彼女の方へ
顔をすり寄せるようにしながら云いました。

「あたし毎日活動写真を見に行ってたわ」
「じゃ、別に淋しくはなかったろうね」
「ええ、別に淋しいことなんかなかったけれど、…」
そう云って彼女はちょっと考えて、
「でも譲治さんは、思ったより早く帰って来たのね」

「田舎にいたってつまらないから、予定を切り上げて
来ちまったんだよ。やっぱり東京が一番だなア」
私はそう云ってほっと溜息ためいきをつきながら、
窓の外にちらちらしている都会の夜の花やかな
灯影ほかげを、云いようのない懐なつかしい気持で
眺めたものです。

「だけどあたし、夏は田舎もいいと思うわ」
「そりゃ田舎にもよりけりだよ、僕の家なんか
草深い百姓家で、近所の景色は平凡だし、
名所古蹟こせきがある訳じゃなし、
真っ昼間から蚊だの蠅はえだのがぶんぶん
呻うなって、とても暑くってやり切れやしない」

「まあ、そんな所?」
「そんな所さ」
「あたし、何処か、海水浴へ行きたいなあ」
突然そう云ったナオミの口調には、だだッ児のような
可愛らしさがありました。

「じゃ、近いうちに涼しい処ところへ連れて行こうか、
鎌倉がいいかね、それとも箱根かね」
「温泉よりは海がいいわ、行きたいなア、ほんとうに」

その無邪気そうな声だけを聞いていると、
矢張以前のナオミに違いないのでしたが、
何だかほんの十日ばかり見なかった間に、
急に身体からだが伸び伸びと育って来たようで、
モスリンの単衣の下に息づいている円みを持った
肩の形や乳房のあたりを、私はそっと盗み見しました。

「この着物はよく似合うね、誰に縫って貰ったの?」と、
暫く立ってから私は云いました。
「おッ母かさんが縫ってくれたの」
「内の評判はどうだったい、見立てが上手だと
云わなかったかい」

「ええ、云ったわ、悪くはないけれど、あんまり
柄がハイカラ過ぎるッて、―」
「おッ母さんがそう云うのかい」
「ええ、そう、内の人たちにゃなんにも分りゃしないのよ」
そう云って彼女は、遠い所を視つめるような眼つきを
しながら、「みんながあたしを、すっかり変ったって
云ってたわ」

「どんな風に変ったって?」
「恐ろしくハイカラになっちゃったって」
「そりゃそうだろう、僕が見たってそうだからなあ」
「そうかしら。遍日本髪に結って御覧て云われたけれど、
あたしイヤだから結わなかったわ」

「じゃあそのリボンは?」
「これ? これはあたしが仲店なかみせへ行って
自分で買ったの。どう?」と云って、頸くびをひねって、
さらさらとした油気のない髪の毛を風に吹かせながら、
そこにひらひら舞っている鴇色の布を私の方へ示しました。

「ああ、よく映るね、こうした方が日本髪よりいいかも
知れないね」
「ふん」と、彼女は、その獅子ししッ鼻ぱなの先を、
ちょいとしゃくって意を得たように笑いました。
悪く云えば小生意気なこの鼻先の笑い方が彼女の
癖ではありましたけれど、それが却かえって私の眼には
大へん悧巧りこうそうに見えたものです。

ナオミがしきりに「鎌倉へ連れてッてよう!」とねだるので、
ほんの二三日の滞在のつもりで出かけたのは八月の
初め頃でした。
「なぜ二三日でなけりゃいけないの? 
行くなら十日か一週間ぐらい行っていなけりゃつまらないわ」

彼女はそう云って、出がけにちょっと不平そうな顔を
しましたが、何分私は会社の方が忙がしいという
口実の下に郷里を引き揚げて来たのですから、
それがバレると母親の手前、少し工合が悪いのでした。

が、そんなことをいうと却って彼女が肩身の狭い思いを
するであろうと察して、「ま、今年は二三日で我慢をして、
来年は何処か変ったところへゆっくり連れて行って
上げるから。―ね、いいじゃないか」

「だって、たった二三日じゃあ」
「そりゃそうだけれども、泳ぎたけりゃ帰って来てから、
大森の海岸で泳げばいいじゃないか」
「あんな汚い海で泳げはしないわ」
「そんな分らないことを云うもんじゃないよ、ね、
いい児だからそうおし、その代り何か着物を買って
やるから。

そう、そう、お前は洋服が欲しいと云っていたじゃないか、
だから洋服を拵こしらえて上げよう」
その「洋服」というえさに釣られて、彼女はやっと納得が
行ったのでした。


・・・つづく

Logo111111 




Button123


中学生の頃、車庫の奥の納戸で探し物をしていたら、
父と母の独身時代のラブレターがドサッと入った
木箱を発見してしまった。
おっ何だ何だ?と読んでいると、これが歯の浮くような
事が書いてある。

母ちゃんなんか普段あんなに父ちゃんの悪口を
言っているのに独身時代の手紙の末尾には
いきなり、「永遠の愛を」なんて書いてあった。

父ちゃんも普段はテレビでナイター見てビール
飲んで屁ぇぶっこいている癖に、
「最近は文学の重要性に目覚めて一生懸命
太宰を読んでいます」とか書いてあって爆笑した。

あの母ちゃんが昔は夢見る恋愛少女で、
あの父ちゃんがかつてエセ文学青年だった
というのは喜劇だな、こりゃたえられんわと思って
ゲラゲラ笑いながら手紙を読んでいるうちに
父ちゃんが車で帰ってきた。

「おっ、何を読んでいる?」
「うん、父ちゃんと母ちゃんのラブレター見つけたんで
読んでるんだ」
「馬鹿野郎!そんなもんどこにあった?
読むんじゃねー!」

「でもさ『永遠の愛を』とか『君を一生守りたい』とか
書いてあるし」(ニヤリ)
「読み上げんでもいい!」
「うー、腹痛てえ!ウヒャヒャ、ウヒャヒャ!」と
笑っていたら最初は赤面していた父ちゃんも
ついにキレてオレにドロップキックを浴びせ
かけてきた。痛かった。・・・

ちなみに父ちゃんと母ちゃんの馴れ初めは
高校が男子校・女子校隣り合わせでクラブ活動で
知り合って恋愛感情が芽生えたものらしい。
・・・




歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
  世は歌につれ、人生、絵模様、万華鏡… 






58363711

 

コメント

妄想劇場・歌物語

2018年01月27日 | 妄想劇場

V015111111511111 



努力する者は希望を語り、怠け者は不満を語る。



115995125_o311111111111111 


”水原弘”、あるいは、”黒い花びら”を
よく知らなくても、現在も各地に点在する、
アース製薬殺虫剤のあのホーロー看板を
ご存知の方も多いことでしょう

全国の看板コレクターからも一目置かれるこの
看板。そんな強烈なインパクトを残した看板
(テレビCM)は、実は水原の全盛期と呼ばれるもの
からはほど遠い、晩年に近いものだったのです・・・。



Mizu2 


高校生のときに、ラジオ番組「素人ジャズ喉自慢」で
優勝した水原は、ジャズ喫茶で歌っているところを、
ワタナベ・プロ社長、渡辺美佐にスカウトされ芸能界入り。

秋吉敏子のバンド・ボーイを務め、山口軍一の
ハワイアン・バンド、ルアナ・ハワイアンズを経た後、
ダニー飯田に引っ張られるカタチで
パラダイス・キングにヴォーカリストとして加入。
エルビス・プレスリーの熱狂を日本に持ってきた、

日劇ウエスタン・カーニバルの第2回興行から
水原は出演し、”ロカビリー三人男”
(平尾昌晃、ミッキー・カーチス、山下敬二郎)に次ぐ

三羽烏、守屋浩、井上ひろしと並ぶ、”三人ひろし”と
呼ばれ注目を集めました。

昭和33年(1958年)にパラダイス・キングを脱退。
その後任には、ザ・ドリフターズを脱退した
(当時はギター担当)ばかりで、当時17歳の坂本九が
就いたことは云うまでもないでしょう。

パラキン脱退後は、自らのバンド、水原弘と
ブルーソックスを率いて、ロカビリアンとしての活動を
行なっていました。

翌、昭和34年(1959年)に、夏木陽介主演の東宝映画
『青春を賭けろ』に歌手役として出演。
ここで劇中歌として歌われたのが、永六輔・作詞、
中村八大・作曲、当時新進気鋭の”六・八コンビ”の
記念すべき初作「黒い花びら」だったのです。

当代一流のジャズピアニストであった中村が手掛けた
モダンなフィーリング、そこに乗る”甘い低音”と称された
魅惑のバリトン・ヴォイス。

フランク永井、白根一男らを触発した歌謡界の一大
”低音ブーム”を巻き起こし、同年に設立された
第1回日本レコード大賞を見事受賞。
もちろん、その年の紅白歌合戦(第10回)への出場も
果たしました。 

前年に、日本作曲家協会初代会長・古賀政男、
平井賢らがアメリカの”グラミー賞”を現地に視察し、
模倣したものが、この日本レコード大賞だったのです。

遡ること半世紀。栄えある第1回の大賞を受賞した
「黒い花びら」は、”男の失恋の痛手”というさほど
珍しくもない、”女々しい”テーマを無骨な男が歌った
にも関わらず、当時としては異例の30万枚以上の
レコード・セールスを叩き出し、

歌詞の意味も分からない子供までが口ずさむ、
国民的な大ヒットを記録しました。
”ムード歌謡元年”と呼ぶ人も多い昭和34年(1959年)。
フランク永井&松尾和子「東京ナイトクラブ」、ペギー葉山
「南国土佐を後にして」、スリー・キャッツ
「黄色いサクランボ」といった名曲の誕生もこの年。

また、「皇太子ご成婚」、「長島の天覧試合」など、
テレビ放送の国内拡充に沿った社会ニュース、
新しい娯楽に日本中の国民が沸いた、
そんな年でもありました。

同じく昭和34年(1959年)には”黒い”シリーズの第2弾、
岡田真澄・主演映画「青春を吹き鳴らせ」の
挿入歌となった
「黒い落葉/黄昏のビギン」(黒いシリーズ三部作の
完結編は「黒い貝殻」)をリリース。B面曲の
「黄昏のビギン」は、ちあきなおみの名カヴァーでも
おなじみとなりました。

「みな殺しの歌 拳銃よさらば」(昭和35年・東宝)、
「嵐を呼ぶ楽団」(昭和35年・宝塚)など、水原は、
やがて映画界にも進出。そこで、勝新太郎と出会い、
その破天荒ぶりと男気に憧れ、勝を真似た豪遊ぶりが
始まることとなります。

晩年の水原を苦しめる酒・博打三昧の代償となる
借金・病気との戦いは、図らずも無頼派”オミズ”と
国民から愛された瞬間から、同時に幕を開けたと
云っても過言ではないでしょう。

禁じられた恋のボレロ」(昭和36年)、TV映画
「月曜日の男」同名主題歌(昭和36年、主演・
待田京介)などコンスタントにシングル盤をリリースするも、
「黒い花びら」以降は、これといったヒットにも恵まれず、
水原は、酒びたりの日々に沈んでいったのでした。

持ち前の気風のよさ、業界屈指の酒豪ならではの
飲みっぷりで、銀座の高級クラブを梯子する水原。
「奢られ酒ほどまずいものはない」と、次から次へと
ボトルを空ける。

「黒い花びら」のヒットで手にした印税、ギャラが底を
つくのももはや時間の問題でした。
銭がなくとも酒を酌む。ここが、本物の酒飲みの
マズイところ。落ち目になればなるほど派手になる
豪遊・放蕩ぶりは、当然”借金地獄”というカタチで
己に帰ってきたのでした。

さらには、違法賭博によるスキャンダルが
追い討ちをかけ、昭和40年(1965年)を迎える
頃になると水原は、ブラウン管の前から姿を消し、
完全に”過去のヒト”として語られるようになって
しまったのです。

水原のどん底生活を救ったのは、彼の人間性に
惚れ込んでいた仲間・同僚たちでした。
その一人、当時のマネージャー、長良じゅんは
復活プロジェクトを画策し奔走。

昭和42年(1967年)、当時ヒットメイカーとして
名を馳せていた作詞家・川内康範に起死回生の
命運を託し、そこで生まれたのが「君こそわが命」
(作曲・猪俣公章)でした。

ミリオン・セラーを記録した”奇跡のカムバック”と
呼ばれたこの復活劇は、その年の暮れの第9回
レコード大賞歌唱賞受賞、5年ぶりの紅白出場という
カタチで結実を迎えました。 

「愛の渚」「慟哭のブルース」「こころ泣き」
「恋のかげろう」など、大ヒットには及ばなかった
ものの、復活後は、それまでの”黒くニヒルな”
イメージを覆す、キレのあるリズム歌謡などを
中心に歌った水原。

中でも、”ハマクラ”こと浜口庫之助が作詞・作曲を
手掛けた「へんな女」(昭和45年)は、
「ウパウパティンティン♪ウパウパティン♪」と
一度耳にしたら、忘れようにも忘れられない強烈な
パンチラインで、ジャパニーズ・ストレンジ・クラシックの
最高峰に位置しているということは、和モノ
・ヴァイナルハンター界隈では特に有名な話です。 

が、順風は長くは続かず・・・一度身に染み付いた
悪癖というものは、ちょっとやそっとじゃ削ぎ落とす
ことができなかったのです。
奇跡の復活劇から3年。心の隙間を埋めきれなかった
水原は、再び酒に溺れ、借金にまみれ、すでに、
多少のヒットを飛ばしたところでは、全く首の回らない
状態にまでその額を膨れ上がらせていたのでした。

所属するレコード会社や、事務所は、借金の
肩代わりに、水原を馬車馬のように働かせました。
過酷なスケジュールによるドサ回り営業で歌い
続けた水原。

睡眠もロクにとらず全国を回るも、出演料が手元に
残ることはない・・・

自業自得と云えども、さすがに水原の体は悲鳴を上げ、
破滅の一途を辿りました。  

昭和53年(1978年)6月23日、北九州のクラブに
出演した水原は、宿泊先のホテルで大量の血を吐き、
意識不明の重体に陥りました。
危篤状態が続いた後の7月5日未明、肝硬変のため
42年の短い生涯を閉じたのでした。
・・・







兄貴分と慕った勝新太郎がそうであったように、
借金取りに追い立てられても、決して止まることの
なかった水原の豪遊癖。酒も博打も”芸の肥やし”と
賛歌されていた時代、・・・ 

芸人たるものかくあるべきを”トゥーマッチ”に
体現した見返りとして待っていたものは、あまりにも
残酷な報酬に他なりませんでした。

これを刹那の代償と呼ぶか、見栄の代償と呼ぶのか、
壮烈な人生行路に身を投じ、逞しく歌い抜き、 
散り散りとなった黒い花びら、そして、
「昭和の歌謡界を疾風のように駆け抜けた男」・・・

ほめそやす者とほめそやされる者、いつだって
骨抜きにされるのは後者。・・・




Logo142111 



1341111111 


人の言動で心が動いてしまいそうになる時、
それを防いでくれる「六秒の奇跡」と呼ばれる
方法があります。

例えば、誰かから激しく叱られたり罵倒
されたりしたような場合、
「あっ、いま動揺してしまっているな、
傷ついたな」と客観的な目で自分を観察し、
六秒間呼吸を整えて心を静めるのです。

そうすれば、マイナスの思いが消えていき、
気持ちを乗っ取られずに済むと言われています。
刺激に対してすぐに反応してしまえば、
感情の虜になってしまいます。

自分を冷静に観察するこの練習を続けて
いくうちに、人の言うことはそれほど深いものでも
真実に根ざしたものでもないことが
分かってきます。

そして「人の目ばかりを気にして生きる自分、
欠点の多い自分であっても、大自然から
生かされている尊い存在なのだ」という自覚が
芽生えてきて、いつの間にか自分を受け入れる
ことができ、自分自身と仲よしになって
いくことでしょう。

セルフイメージを高める一番の方法は、
このように人間は大自然によって生かされて
いることを実感し、それに感謝することです。

人間を生かしてくれるのは大自然だけでは
ありません。
親や学校の先生、友人、隣近所の人たち、
職場の上司や同僚など多くの人たちの支えが
なくては、私たちは生きていくことができません。

自分に愛情を注ぎ、育ててくれようとした人たちに
思いを馳せてみることも自己肯定に繋がります。
もちろん、人間は成長するにしたがって多くの
失敗や挫折を経験します。

そのことがトラウマになって先に進めなくなる人が
いるかもしれません。
そういう時は小さな成功を自分で認めて、自信を
積み上げていくことです。

「きょうも頑張って仕事ができた」
「お客様から喜んでいただけた」
「道に落ちていたゴミを拾った」
というような些細なことでも
「ああ、いいことができた」と喜ぶ習慣を
つけることが大切なのです。

まるで親が小さな子供を褒めて育てるように、
当たり前と思えるようなことでも自分で
自分のいいところを見つけて教育していく中で、
いつの間にかセルフイメージは高まって
いくことでしょう。

顔の形が異なるように、人間の個性も
皆違います。
共通しているのはただ一つ、奇跡的な命を
授かって生かされていることです。
その素晴らしさに気づいていただくことが
私の何よりの願いです・・・




A131111



58363711

 

コメント