信じれば真実、疑えば妄想…

季節は巡り、繰り返しと積み重ねの日々に、
小さな希望と少しの刺激で、
今を楽しく、これからも楽しく

妄想劇場・一考編

2018年06月23日 | 妄想劇場

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過去に起きていることから浮かび上がってくる
真実もある。・・・

 

Sakura

旧ソ連の雰囲気が色濃く残るウズベキスタンの地に、
多くの日本人抑留者たちが眠っていることを
ご存知でしょうか。
春になるとこの日本人墓地の周辺は美しい桜で
埋め尽くされます。

ウズベキスタンの桜

中央アジアの内陸部にあるウズベキスタンの
首都・タシケントに、1,500人の観客を収容する
壮麗なレンガ作りのナヴォイ・オペラ・バレエ
劇場がある。

1966(昭和41)年4月、震度8の大地震が市を襲い、
市内の建物の2/3が倒壊した中でも、この劇場は
びくともせず、市民の避難所となった。

劇場の外壁にはプレートがはめ込まれ、ロシア語、
日本語、英語、ウズベク語でこう記されている。

1945年から1946年にかけて極東から強制移送された
数百名の日本国民が、このアリシェル・ナヴォイー
名称劇場の建設に参加し、その完成に貢献した。

劇場周辺の庭には染井吉野や枝垂れ桜、八重桜など
30本の桜が植えられ、春には美しい花を咲かせる。
ナヴォイ劇場だけでなく、タシケント市の中央公園にも
600本の桜が植えられ、「さくら公園」と呼ばれている。

さらに、そこに通じる大通りに250本、大統領官邸にも
100本の桜が植えられている。
すべて日本から苗木を空輸し、日本人の造園の
専門家がついて、ウズベキスタンの人々が
植樹したものだ。

ウズベキスタンに、なぜこれほどの桜が
植えられたのか?・・・


「なんとか、日本人のお墓を整備して
もらえないだろうか」
事の発端は、2000(平成12)年10月19日夕刻、
ナヴォイ劇場とその前庭広場で「日本の祭り」が
開かれた時だった。

当時の在ウズベキスタン大使・中山恭子氏が
同国の伝統音楽や、宮崎からやってきた
親善訪問団による「木剣踊り」などを見ていると、
訪問団の2人が大使に相談したいことがあると
言ってきた。

その1人、池田明義さんは戦後、シベリアに
抑留され、ウズベキスタンのベカバードという
場所で強制労働に就いていた。
そこには一緒に働いていた仲間のお墓が
あるはずなので、ぜひ墓参りがしたい、という。

中山大使は急遽、タクシーや通訳の手配をして
案内させた。
翌日の夕方、池田さんは戻ってきて、大使に
報告した。
「自分達が作った水力発電所は今も立派に
動いている。

でも、お墓に行ったらとても悲しかった。
ベカバードの日本人墓地は、荒れ果てたままに
なっている」と唇を噛み締めていた。そして
「なんとか、日本人のお墓を整備してもらえない
だろうか」と言い残して、日本に帰っていった。

その後、すぐに中山大使はベカバード市を訪れた。
市長のジャロリジン・ナスレジノフさんが、まず
水力発電所に案内してくれた。

シルダリアという大河から水を引いて大きな
貯水湖を作り、そこから6~7本の太いパイプで
水を落として発電する、という巨大な発電所である。

水力発電所は赤レンガ作りの立派なものであり、
貯水池も向こう岸が霞むほどの大きなものだった。
ベカバード市長は、案内しながら、こう話してくれた。

ベカバードはこの発電所が建てられた当時
砂漠でしたが、この発電所や運河のおかげで
今は緑豊かな大勢の人が住む町になりました。

ここで風速50メートルを超える突風が吹いた時にも、
周辺の建物は全て壊れてしまいましたが、
この水力発電所だけはビクともせずに動いていました。
55年間、毎日、1日も休まずウズベキスタンに
電力を供給してくれています。

中山大使が立ち尽くしてしまった光景と、
現地の方々の思いとは

「何という風景でしょう」

それからベカバード市の共同墓地にある日本人
墓地に向かった。
ウズベク人、トルコ人、ロシア人などの
それぞれのお国ぶりの墓地の中心部辺りに、
大きな野原があった。案内してくれた人が
「ここが日本人のお墓です」という。

何もない枯れ野原で、目についたのは小さな
垣根だけだった。
その中に入り、足元を見ると、ちょうど人が
横たわっているような盛り土が、幾筋もはるか
遠くまで並んでいた。

墓標もない。ただ頭のあたりに、はがき大の小さな
鉄板が刺してあり、記号と6桁の数字が彫ってあった。
捕虜の番号だろう。大使は立ちすくんだ。

何という風景でしょう。一体どうしたらいいのだろう。
しばらくの間、その場に立ち尽くしてしまいました。

「あそこに眠っているのは、自分の大切な
友達なんだ」
墓地を訪れた後、市長は中山大使を、
日本人のことをよく覚えているという90歳の
老人の家に連れていってくれた。
子や孫、曾孫に囲まれた賑やかな一家だった。

老人は「お墓をお参りしてくれたのか。
あそこに眠っているのは、自分の大切な
友達なんだ。どうも有難う。お参りしてくれて
有難う」とお礼を言った。

大使が「日本人のことを覚えていらっしゃいますか」
と聞くと、こう答えた。
それはもう、よく覚えているよ。
自分は若い頃タシケントに住んでいたが、
ベカバードに水力発電所を造ることになり、
ここで働くようにと言われてやってきた。

日本人抑留者が3,000人ほどやってきて、
すぐに仕事を始めた。
日本人っていうのはとってもいい人達だった。
几帳面で、自分の仕事をとても大切にするんだ。
時間がきても仕事が終わらなければまだ続けている。

うまくいかない時にもいろいろ工夫してやり遂げる。
また、誰かが病気になるとみんなで助け合っていた。
日本人が作るものは全ていいものだった。
本当にすごい人達だった。とても大切な
友達だったんだ。

こういう話を老人からいつも聞かされて、家族も
町の人々も皆、日本人のお墓は大切にしなければ
いけないと思ってきたという。

整備するだけの余裕はなかったけれど、
草を刈ったり掃除をしたりして日本人墓地を
大切に保存してくれていた。

同様に、ウズベキスタン全体では、大戦後、
2万5,000人の日本人抑留者が強制労働に
従事して、道路や運河、発電所、市庁舎、
学校などを作った。
ナヴォイ劇場はその1つである。
どの地方でも、日本人が勤勉に働いていた様が
語り継がれていた。

「父はここで眠るのが一番幸せだと思いました」
中山大使は「誰もがお参りにいけるように
お墓を整備したい」と思ったが、作業に
取りかかる前に、まず埋葬者の遺族の意思を
確認することとした。

日本に遺骨を持って帰りたい、という人も
いるのではないか、と思ったからだ。

遺族を探し出すのは難儀したが、「父の遺骨を
どうしても日本に持って戻りたい」という人が
見つかった。
とりあえず現状を見てみたい、とのことで、
元抑留者たちと一緒にウズベキスタンにやってきた。

その人の父親のお墓は、コカンド市にあった。
地元の人々が赤い鳥居を立ててくれている。
その人は墓地を訪問した後、中山大使にこう語った。

ウズベキスタンまで来て本当に良かった。
父はここで眠るのが一番幸せだと思いました。
お墓を訪ねたら大層綺麗になっていた。
お花を飾ってくれていたし、箒(ほうき)の
目まで立っていた。

そして、周りにいたウズベキスタンの人々に
話を聞いたら、みんなが「ここで働いていた人達は
本当に優れた人達だった。尊敬している。
だからお墓を守っている」と話してくれた。

父が、みんなに、こんなにまで温かく見守られて
いるとは思ってもいませんでした。
父の遺骨を日本に持って帰るために、兄弟で
少しずつ貯金をしてきました。
でも、日本に帰ったら、兄弟達にきちんと話をして
納得してもらいます。

父はきっと、ここで仲間達と一緒に眠るのが
一番幸せなのだろう……
そういうふうに感じたからです。
そして、貯めてきたお金は代わる代わるお墓参りに
来るのに使いたいと思います。

こうして、元抑留者や遺族の間では、「遺骨を日本に
持ち帰るより、戦友達と一緒に、ウズベキスタンの
人々に温かく見守られながら、ここで眠るのが
一番いいだろう。

それに反対する人は関係者の中にはいないだろう」
という結論となり、墓地整備に踏み切ることになった。

多くのウズベキスタン人ボランティアが
墓地整備に参加

「日本人墓地の整備はウズベキスタン政府が
責任を持って行う」
こうして大使館側では資料収集を始め、また
日本側でも呼応して募金活動が始まった。

約2,000万円の浄財が集まり、整備の目処が
ついた所で、ウズベキスタン政府に日本人墓地の
整備をしたい、とお願いした所、スルタノフ首相から
すぐに返事が返って来た。

ウズベキスタンで亡くなった方のお墓なのだから、
日本人墓地の整備は、日本との友好関係の証として
ウズベキスタン政府が責任を持って行う。
これまで出来ていなかったことは大変恥ずかしい。
さっそく整備作業に取り掛かります。

対外経済関係省が中心となって、墓地整備の
作業が始まった。同省のエリヤル・ガニエフ大臣が
自ら各地の墓地を訪れて、「ここに車が通れる
道を作れ」などと具体的な指示をした。

それぞれの地域では、住民達が集まって石を切り出し、
磨き、垣根を作り、墓石の周囲になるべく雑草が
生えないように砂利を敷き、丁寧に作業を進めてくれた。
政府の声がかりがあるとはいえ、多くの人が
ボランテイアで参加してくれた。

各地域で大勢の人々が作業に参加したため、
1年ほどで全ての墓地整備が完了した。
白い墓石が並び、それぞれの墓地に「鎮魂の碑」、
4つの市に「抑留者記念碑」も建立された。

「ここに桜を植えたい」

墓地整備が進んでいる最中にも、中山大使は
最初に訪れたベカバード市の墓地の殺風景な
光景が忘れられなかった。

亡くなった当時、ほとんどが20代、30代の若者でした。
何とかして日本に帰ろうと耐えていたことでしょう。
日本を思って毎日を過ごしていたに違いありません。
帰郷がかなわず50数年間訪ねる人もないまま、
日本から遠く離れたウズベキスタンの地で
眠っているのです。

周囲の墓地には、木が大きく育ち墓を守っています。
野原のような殺風景な日本人墓地に立った時、
ここに桜を植えたいと強く思いました。

春になれば綺麗な花を咲かせてくれるだろう。
何年か経てば太い枝が墓を覆ってくれるだろう。
きっと異国の地に眠る霊達も喜んでくれるに違いない。

そこで中山大使は、集まっていた募金の一部を
桜の苗木に使えないか、と協力者たちに相談した。
元抑留者からも「抑留されていた頃、もう一度
日本に戻って桜の花を見たいと思って頑張った」
という話も出て、皆、大賛成だった。

ウズベキスタン側からも、「建設中のタシケント市の
中央公園を日本の桜で埋められないだろうか」
という提案があった。
こうして冒頭に記したように、各日本人墓地とともに、
中央公園とそれに続く大通り、大統領官邸、
ナヴォイ劇場などで、合計1,300本もの桜の苗木を
植えるという国家的大事業が始まったのである。

墓地整備でさらに確かなものとなった両国の「絆」
「ふるさと」の歌

2002(平成14)年春には全ての墓地整備が完了し、
白い墓石が並び、いつでもお線香をあげてお参り
出来るようになった。
それぞれの墓地に「鎮魂の碑」、4つの市に
「抑留者記念碑」も建立された。

同年5月、鎮魂の碑と抑留者記念碑の除幕式に
日本から麻生太郎日本・ウズベキスタン自民党
友好議連会長、中山成彬同事務局長はじめ、
遺族、元抑留者、ボランティアなど多くの人々が
タシケントに集まった。

式の後で3つのグループに分かれて、各地にある
全ての墓地を訪ね、花を供え、お線香を焚いて、
時には日本酒を注いでお参りをした。

誰からともなく「ふるさと」の歌が流れ、
全員が声を合わせた。人々の頼に涙が伝った。

鎮魂の碑や抑留者記念碑の費用は日本で集まった
募金で賄ったが、実際に石を切り出し、墓石を磨き、
道を造り、桜を植えてお墓の世話をしてくれてたのは
地元の人々だった。

ウズベキスタン側はそうした作業にかかる
費用について、本来、自分達がやるべきことだからと
一切受け取らなかった。

それではと墓地整備のためとして全国から
寄せられた募金で、13カ所の日本人墓地の
地域の学校に日本製のコンピュータを寄付した。
教育熱心なウズベキスタンの人々は
大変喜んだという。

この春も、ウズベキスタンの桜は見事な
花を咲かせました。
墓を護ってくれているウズベキスタンの人々とともに、
墓地に横たわる日本の抑留者たちも、美しい
桜の花を愛でながら、遠い祖国の山河に思いを
寄せたことだろう。
・・・



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うちの母方のバアちゃんの話

母方のジイちゃん、バアちゃんはアメリカ人で、
うちの父は日本人 母はアメリカ人

出張でアメリカにきていた父交際は、当時
むちゃくちゃ反対された特にバアちゃんが、
日本人だけはダメ と猛反対

しかし、母も、そこはアメリカの女の性格
持ち前の気の強さと揺るぎない意志で、
絶対一緒になる!と突っ走った

バアちゃんが母を往復ビンタ、絶交する!と
怒鳴りちらしても母は効かなかった
(母は車ぶっ飛ばして家出して一事音信不通に
なったりしていた)

とうとうお金を貯めた母は父の住む日本東京へ
行く日になった
バアちゃんは、空港に見送りに一緒にいきたいと告げた
穏やかなバアちゃんに??と感じつつ、空港で
バアちゃんに会った

バアちゃんが何かを差し出した
古くて小さい日本のお守りと、古びた写真
母は初めてみる物だったから
(お守りというものすら知らなかった)
無造作に中を開けた

そこには、古くてシワシワの小さな白い紙と米粒
ひとつが入っていた
古くてシワシワ紙を読んでみた

日本語で『ローザ、君を愛している』と書いてあり、
英語で、綺麗な字でアイラブユーとあった。
バアちゃんを見ると泣いていた。

わけをきくと、バアちゃんは結婚するまえ、大昔、
日本人と恋に落ちた。
写真に移っている、背の低く、丸い典型的昔の
眼鏡をした優しそうな日本人。
それがバアちゃんが恋に落ちた彼だった。

しかし、戦後すぐのアメリカと日本。
戦争の傷跡からか周囲は二人の結婚に大反対。
日本にいる彼の親も大反対。
連れ戻すように、彼の親がアメリカにきて、彼を
強制的に連れ帰ってしまった。

バアちゃんは、何ヶ月か泣いて泣いて毎日を過ごした。
自殺未遂まではかった。
そして、日本から一通の手紙が届く。
中には、そのお守りがあった。
『ローザ、君を愛している』

読めない日本語だったが、住所も書いてあり、
バアちゃんは彼への愛を確信し、彼に会いに日本へ。
どうにかして、彼の住む家付近についた。
近くを通った人に、住所をみせ、家をきくと
顔色が変わった。

つたない英語で『dead』と言われた。
半信半疑で家についた。
生気のない母が迎えた。
彼は自殺していた。

あのお守りは、彼が厳しい両親の目をかい潜り
送った彼からのメッセージだった。
あれを書いた数日後自殺した。

彼は死んだ、、アメリカにもどり、その後の狂乱ぶりは、
街でも有名になるくらいバアちゃんは病んだ。
セラピーを何年も受けた。
どうにかして彼を忘れ日本を忘れ、(暗示療法?)
ジイちゃんと結婚。・・・

『まさかオマエ(母)が日本人と恋に落ちるとはね、、
私は光男(元カレ)を忘れようと、何年も必死だった。
本心は光男がいない世界なら、死にたかった。

あれから日本人とは関わらないように関わら
ないないようにしてた。
日本がトラウマになってたから猛反対した。
怖かったから。悪かったね。・・・

だけど日本人を好きになったと聞いたとき、
ほんとうは嬉しかった。』とバアちゃんが
号泣しながら語ったという。

写真には幸せそうに寄り添う光男と若いバアちゃん。
不思議なのは、バアちゃんも母さんも何も知らない
日本人に一瞬で恋に落ちた。

光男(さん)が日本に連れ戻される前、泣き出した
バアちゃんに
『もし二人が引き裂かれて、離ればなれになっても、
僕は絶対生まれ変わってでも君にあいにくる。
君がおばあちゃんになってても、僕は絶対に君に
あいにくるよ。

その時は、僕はすました顔で日本語で初めましてって
笑って、桜を見せてあげよう。
僕を忘れてもかまわない、だけど、そのときは思い出して
ほしい。』と言っていた。

母ちゃんが初めて父ちゃんをバアちゃんちに
連れてきたとき、緊張しまくった父ちゃんは、
散々練習した英語虚しく咄嗟に初めましてって言って、
中で日本桜が舞い散るスノードームのようなものを
バアちゃんにプレゼントした。

(誰にも話してないエピソードだから、バアちゃんは
むちゃくちゃビックリした)
バアちゃん嬉しかったってさ、光男さん、ありがとう。

・・・


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