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第4回『〈政治〉の危機とアーレント』を読む会・まとめ

2017-12-28 | 『〈政治〉の危機とアーレント』を読む
昨日の福島は大雪でしたが、10人もの人が集まり第4回の読書会が行われました。
もっともスカイプ参加にはそんなことは関係ありませんが、忘年会を兼ねた某所では、あらためて顔をつきあわせながら話し合う方が、ひとりでスカイプ参加しているよりも参加感が違うし、読み進める実感があると話されていました。
直接的なコミュニケーションの力って何なんでしょうね。

さて、今回はアーレントの政治思想の最も基本的な「労働」・「仕事」・「活動」という3つの概念を扱うという点で、いよいよ読書会の山場を迎えました。
中には、この章が最も面白いといってくださった方もいらっしゃいました。
が、しかし、「やっぱり相変わらずわからないね、というよりも本書の冒頭で読むことに挫折して以来、読書会のレジュメや議論を聞いてから読むことにしている」という方から次のような問いが投げかけられました。
「なぜ、著者はこういう難しい書き方をしているのか?たとえば、NHKの『100de名著』で講師を務めた仲正昌樹さんの『全体主義の起源』の解説文などはとても読みやすいのに、どうしてこうしたわかりにくい書き方を選んだのか?」
加えて、「なぜ、アーレントはわざわざなじみのない難解な用語を用いるのか?それは翻訳の問題なのか?」という問いも投げかけられました。
これに関しては、佐藤さんご自身から難解な『人間の条件』を読んでみたいけれど読み進められていない大学院生を対象として書いたということを聞いたことがあります。
その点はぜひ著者と語る会で直接ご本人に質問してほしいと思うのですが、難解な用語に関しては想像する範囲で考えると、母語をドイツ語とするアーレントがアメリカに亡命して英語で論文を書かざるを得なかった事情もあるのかもしれません。
しかし、それ以上にしばしば指摘されることですが、翻訳の段階でどの言葉を選択するのかという問題はあるでしょう。
原書で読んだ方がむしろ読みやすいということは、よく耳にすることですが、翻訳を重ねる段階で日本語としては耳慣れない語句が用いられ、それがある程度固定化されて広まってしまうという面があることは否定できないでしょう。
それに関して、和光市で開かれている本書の読書会に参加された方は、やはりアーレントの用語は通常の意味とは異なるので、文脈や行間のなかから彼女が彼女が言わんとする意味をつかみだすしかないという感想をいただきました。
まぁ、いずれにせよ、難解な読解に挑戦しているという点では稀有な経験ですし、うんうんうなりながらアーレントを相手に思考することになんだかわけもわからず、こうして集まってくるわけですから、皆さん、何かを感じているんでしょう。

というわけで、今回は第4章「労働・仕事・活動」をレジュメに沿って議論していきました。
まず、この3つの概念をめぐる基本的な枠組みを概観するところから入ります。
西欧政治思想では「活動的生活」よりも「観想的生活」こそが最高としてきた点、ポリスの「不死」に対する疑念が「観照」という「永遠なものの経験」へ向かわせたという点、古代ギリシアにおいては「死すべき人間」の「活動」の儚さを「不死」のものにさせる歴史物語の伝統があった点です。
ここで、「活動的生活」と「観想的生活」ってなんだ?という質問が出されました。
前者は今回取り上げる労働・仕事・活動のことであり、基本的に身体が伴う活動のことで、後者は精神の営みだという理解で進めました。
ポイントは、「ポリス」を「世界」と読み替えてみれば、世界の存続に疑問を持つ時代には世界の存続にではなく、精神の生活に「永遠性」を見出す思想史があったという点は、核の時代を生きる我々にも当てはまるかもしれないということです。

そして、「労働」の問題に突入します。
アーレントとにおいて「労働」はかなり批判的に扱われる感があります。
たとえば、その批判は「労働がもつ他者との共同の忘却に向けられる」という点などはそうでしょう。
しかし、ふつう労働といえば、人々が共同しあうというイメージがあるけれど、これはどういう意味だ?
一同、「わからん」とうなります。
たしかに、労働疎外のように労働者同士が反目し合うという側面があることは働くものは誰でも経験があるでしょう。
ただ、ここでも通常の労働のイメージでとらえると訳が分からなくなるので、ひとまず「他者との共同の忘却に向けられる」営みを「労働」ととあえて見てはどうだろうか。
たしかに、自分の仕事上のノルマや数値目標を考えていれば、他者の存在は忘れるかもしれませんね。
さらに、労働は「背後に何も残さないこと、労苦の結果がそれに費やした労苦と同じくらい早く消費されてしまうこと」という一文をどう理解するか。
家事労働を考えれば理解しやすいかもしれません。
料理してもあっというまに食べてなくなる、洗濯してもすぐ汚れる…とりあえずそんな営みを「労働」と理解しておけばよいでしょう。

と、ここまでの話の中で、ある参加者から「ここまで労働を貶めて、いったいアーレントは何をしたいのか?」と怒気を込めた問いが投げかけられました。
何をしたいのか?
さしあたり、すぐに消費されて、この世界から亡くなることに対するアーレントの不安以上のものを読み取ることはできるのではないでしょうか。
でも、それってすごく西洋的なものいいで、日本なんか諸行無常の世界観だし、まったく真逆のとらえ方で理解できない。
そもそも、そんな消費されてこの世界から亡くなることへの否定感を、この広い世界でどれだけ通用するんだよ。
うーん、なかなか厳しい問いかけですが、一つ言えることは、やはりユダヤ難民として吹けば飛ぶような存在を経験したアーレントにとっては、やはりこの世界での不死への欲望というのは切実だったんじゃないですかね。
これは佐藤和夫の読みですが、アーレントはそこまで労働を貶めて解釈していなかった。
仕事後の一杯のビールの格別なうまさは、宝くじに当たる「幸運」とは違って、労苦がともうなうがゆえに「幸福」は生まれることを認めていたといいます。
ただし、その幸福感もまた、つかの間の儚いものであることには変わりがないのですが。
さらに、他者との共存が忘れられ、ひたすらカネや富の増殖が目的化された「労働」については、他者の世話に従事するケア労働には「活動」的が含まれているという点にふれ、「労働」という概念で労働の種類をひとくくりに区分されるというよりも、一つの職業の中には「労働」的な要素もあれば、「活動」的な要素があるという見方をすれば、一概に職業的労働一般を否定されたと思う必要はないのではないでしょうか。

続けて「仕事」です。
「労働」と「仕事」が区別される点は、生命維持のために消費されるものを対象にするか、個人の生命を超えて存続するものを対象にするかの違いといっていいでしょう。
『人間の条件』には「仕事は、すべての自然環境と際立って異なる物の「人工的」世界を作り出す。その物の世界の境界線の内部で、それぞれ個々の生命は安住の地を見いだすのであるが、他方、この世界そのものはそれら個々の生命を超えて永続するようにできている。そこで、仕事の人間的条件は世界性である」と定義されています。

やはり、ここでもなぜ永続的な建築物や都市の建築が重要なのか、という問いが提起されます。
さらに、いったいアーレントは耐用年数が何年以上なら「仕事」の対象とするのかと、やはり怒気を込めて問いただす声が上がりました。
だいたい、歴史を振り返ればさぁ、都市の存続に「不死」なんてありえないじゃないか。なにいってんの?
なんだか、皆さん、いつも以上にアーレントに突っかかってきますね。
生命の安住の地としての「世界」。
その「世界」が存続することへの配慮。
これが仕事の本質なのでしょう。
すると、またまた「アーレントはユダヤ人として虐殺されかねない経験をしたのに、なぜ一つ一つの生命を大切するという方向にいかずに「世界」への配慮なのか?という問いが投げかけられます。
たしかに。
ただ、アーレントが一人ひとりの生命を尊重していないということは考えられないのですが、そもそも、その生命が生きるための条件であるはずの「世界」に関心や配慮を寄せなくなったことを問題視しているんじゃないでしょうか。
「住まう場所」それ自体をもたないユダヤ民族というアーレントの背負った運命というかアイデンティティが、そうさせるのではないでしょうか。
アーレントは『全体主義の起源』で近代の人権思想の欺瞞を暴いてしまいます。
生まれながらにして誰もが持っている自然権としての「人権」は、国家権力によっても制限を受けないことは学校の社会科で習う基本事項ですが、実は、国家から追放された「難民」という存在は、自然にさらされたときにまったく「人権」というものが保障されない存在に貶められます。
つまり、国家権力に制限を受けないはずの人権がが、国家を失うと同時に破棄されてしまう矛盾を「難民」として切実に問うたわけです。
こう考えると、以下に個々の生命が大切だといっても、それが住まうことのできる「世界」の存続がなければ、いつでもその生は廃棄されるという恐怖が背景にあるのではないでしょうか。

さらに、「仕事」および「制作」には「目的と手段」のカテゴリーに支配される点が重要です。
都市や建物の建設にかかる「工作人」は、その手段として「道具」を用います。
しかしその道具が機械に変わっていくとともに、労働者に対して機械のリズムに合わせるように要求し始めるようになっていきます。
つまり、人間の労働負担を減らすという目的だった機会というの手段に、いつのまにか人間の自由が奪われてしまっているという事態ですね。
これに関しては、生活の豊かさを実現する目的をもっていたはずの原発が、いっきに世界を崩壊させかねないことに至った音は周知のことですし、さら核兵器が「抑止力」という名のもとに平和実現という目的の手段にされながら、いったん核戦争が始まれば人類そのものの自殺に至ることは容易に想像できるわけです。
つまり、近代科学技術は人間という目的のための手段であったはずなのに、いつの間にか逆転して手段に支配されているというのが、現代の危機ではないでしょうか。
そうした「目的―手段」というカテゴリーが「仕事」には内在しているという問題を、アーレントは喝破したということでしょう。
さらに、そもそも「何のための目的か?」と、身のまわりの目的が「有用性」(役に立つ)だけで終始してしまうことに問題を感じているという意見には多くの賛同がありました。

労働と仕事をめぐっては、今後AIの誕生により職業が減少することが懸念されていますが、それはある意味で人間的な活動的生活がより明確化していくんじゃないかという話にもなりました。
これは、AIによって労働がなくなっていくというわけではなく、おそらく質的に計算的な活動などのデータ処理はAIの方が量的にも正確さとしても人間を凌駕することは間違いないでしょうが、それとは区別される労働の活動性が見えるだろうということです。
外科手術や癌診断は明らかにAIの方が正確だというデータもありますが、その根拠は示してくれません。
その意味でコミュニケーションや職人的な勘のような部分がより一層問われてくるんじゃないかというわけです。
しかし、そうなると単純労働や考えたくないという人にとってはシビアな世界にますますなっていくでしょう。
AIによって労働・仕事がどのような変化をきたすのか、人間の条件の変化までもたらすのか興味深いところです。

と、ここまでで、予定時間をオーバーしてしまいましたが、皆さん、もう少し延長してもかまわないということで先を勧めました。
で、最後の「活動」です。
「話し合うことによってこそ人間は政治的な存在になる」
「人間が人間であるがゆえに直接コミュニケーションする存在であるということは人間が言葉で話し合うということによる」
「他者との語り合いの中にユニークネス(個性)を示していく」(第二の誕生)
「誰も自分の経験を誰かに変わってもらうことはできない。その経験を語るところにユニークネスが現れる」
いっきょに著者の「活動」にかける思いと興奮が爆発したかのような記述が連なります。

その中でも、「活動空間の条件」が「人々が互いの違いを認め合い、違いのゆえにこそ平等であること、コミュニケーションそのものに関心や喜びを向けうること」であるという点は一つ考えてもよい論点です。
学生運動に関わったことがある方から、「組織」の観点から個々の意見を主張しては全体の士気が下がるため、全体一致を要求されたことの経験が話されました。
個々の意見を尊重すれば「組織」としての統制が弱まり運動の力が萎え、しかし、個々の意見が無視されることにも同じ限界があり、その両者が一致するということをどうすればいいのかというのがいつの時代でも課題だったのではないかというわけです。
結論から言えば、おそらく次章で話題に上がると思うのですが、アーレントは基本的にその一致は望めないといいます。
その上で、お互いの違いを認めながら平等と個々人の自由を実現しつつ、協同のパワーを生み出すというわけです。
そんなのはユートピアに過ぎなのじゃないのか。

たとえば、「活動」といえばこの読書会などは、利害関係もないがゆえにその自由と平等を実現できている場であるともいえます。
しかし、これが何かの力を生むのだろうか。
終われば雲散霧消して次の一月を待つ間は何もないじゃないか。
たしかに、アーレントは「活動」の儚さも指摘しており、個々の存在が「不死」を目指すのであれば、「物語」として語り継がれることが必要だといいます。
この物語作者は本などで世界に書き残す以上、「仕事」の人であり、それによって儚い「活動」の「不死性」は建築物に匹敵する耐久性を可能にするということになります。
ちなみに、私のこのブログの記録は「仕事」ですね。ただ、紙媒体のような物質性がないので制作物といえるかは微妙ですが、G00が存続する程度の「不死性」はあるかもしれません。

今回、皆さんの中で少し理解が進んだとすれば、「労働」・「仕事」・「活動」という3つの人間の条件は相互に均衡しているものであって、どれかをなくせば人間の自由が実現するものではないという点でしょう。
さらにいえば、この3つの概念によって様々な営みが分類されるのではなく、それぞれの営みの中に3つの要素が混在しつつ、どの部分が強いのか弱いのかという視点をもてるようになったことではないでしょうか。
家事・市民運動・出産・教育などの営みには労働的もあれば・仕事的・活動的部分があります。
そう考えると、一概にサラリーマンだから、教師だから、販売員だからといって「労働」の徒労だけにとらわれる必要もないでしょう。
問題は、その中に3つの部分のどこかが偏ってしまいすぎることを相対化でk理宇思考をもてることではないでしょうか。

最後に、「活動」は必ずしも優れた能力でありません。
そこには何をしでかすかわからないがゆえの自由、すなわち「不可予言性」という性質が備わり、そうであるがゆえに仕出かしてしまったこと元に戻すことはできない問題を引き起こす「不可逆性」という性質が備わります。
人間は、その過ちを自分自身で修復することはできません。
そうであるが故にアーレントは「赦し」という能力があることを指摘します。
従来、「赦し」は宗教的な能力だったわけですが、彼女はそれを超越的な能力ではなく〈政治的〉に実現可能な能力であるとしたわけです。
「撫順の奇跡」や「真実和解委員会」という実践には、具体的にその思想が結実しているともいえるでしょう。
この「赦し」があるがゆえに、人々は新たな「始める」ことができるというわけです。
そしてもう一つ、予測不可能な活動に安定を確保するための「約束」という能力があります。
「赦し」が過去の出来事に対応するのに対し、「約束」は未来に対応する力ですが、これによって人間の予測不可能で不可逆的な「活動」の自由から世界を守るための安定をもたらすわけです。

さて、思い付きで始めたこの読書会も後半に入りました。
2017年も年の瀬です。
こうして語り合える仲間に恵まれた一年でしたことをあらためて感謝申し上げます。(文:渡部 純)

2 コメント

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Unknown (Unknown)
2017-12-28 13:31:50
今回(第4回)は、とっても面白かったです。
素朴な疑問の呟きを敢えて言葉にすることで、 アーレントが「人間の条件」を書く、という行為の現場に、少しだけ近づくことができたような気がします。

つまり、なんというか、
「労働・仕事・活動」
とかいうという言葉たちをアーレントが定義していくその言葉の身振りが、読み手である 「私」の中に様々な違和感やら葛藤を生み出していく……そしてそれはべつにアーレントが目指した 「異和感」ではないのだろうけれど、読み手(私
)の中にアレントが前提としている思考の地平の有り様が少しづつ見えてくる……そんな印象を持ちました。

「労働」についていえば、自分の生命を保つためには否応なく、人間が生き物である限り 生きるための 「奴隷仕事」をやる以外にはない、それを欠いては人間の前提条件てある 「生命」が保てない、その生命維持の最も重要な営み、私的な前提条件が、 「労働」として流出してしまっている、という 「リアリティ」がそこにあるのかな、と。

そう考えていくと、かなり納得できるようにも思えてきます。

それにしても、仕事についても活動についても同様だけど、この文章の 「下手くそさ加減」は、いったいどうしたことだろう、とも思わずにいられません。

物語を共有しようとするのなら、こんな書き方はしない方がいいと思うし、それは 「欧米哲学の歴史の積み重ねをたどりなおしている」とか、 「ユダヤ人」という出自だとか、使用している言語だとかということに還元できる底の話ではないような気がして仕方がないです。

無論 「下手くそ」というのは読み手(私)の知識や読解力の不足、というところが大なのはいうまでもないし、単に知識の不足という問題ばかりではなく、むしろ 「OS」が違うというレベルのことかもしれないとも思いつつ、でもフランスのポスト構造主義の人たちのある種レトリカルな 過度に 「表現的」であることが語るべきことと密接に結びついている、的な感じ(あくまで一例ですが)とも明らかに違うような気もするのです。

解説を散々に読んでやっと 「そういうこと?」と思い始めるという意味では、 「カント」のテキストの分からなさにも、近いような気もします(カントのことを、アーレントは口を極めて罵ってるようですが)。

そんなぼんやりしたことを考えていくと、ハイデガー哲学との関わりはどうだったんどろう、などともふと思い、誰か簡単にせつめいしてくれないかなあ、と怠惰な希望も抱きます。

話がそれました。

ベースにユダヤ人迫害、難民としての苦しさ、 「私的」なるものの蔓延による 「公的」なるものの喪失、そしてそこの 「公的」なものを生み出す前提としての 「私的」なものの 「場所」の重要性、なとなど、そーゆーことどもを前提にした上で、この 「労働・仕事・活動」の分析は読まねばならないのだ、ということを、アーレントに対する 「悪態」をつきながら純ちゃんの応答を聴くということを繰り返している内に 「体感」しつつあります。

離脱前に 「納得、納得」といったのはそんな意味でした。

ても、これは注意しないと、 「 『アーレント』を読む」になっちゃうな、とも思いました。

なんだろう、アーレントを忖度しちゃう、みたいな?全く忖度しないと 「家事労働には価値がない」みたいなことをかんがえてしまいかねないし、 「アーレント」という人物を想定してその 「アーレント」という物語を読もうとしてしまうと、微妙にどんなテキストを読む行為なのか自分の立ち位置が分からなくなる、みたいな。

できればそのどちらでもなくアーレントを読んでみたい、という欲望を駆り立てるようなテキストであることは間違いないです。

テキスト自体がある種の 「暴力」を孕んでいる、というか、テキスト自体が暴力的、というより、 「暴力と向き合っている」的?というか。
それはアーレントの個人史を重ねれば一瞬よく分かるような気にもなるんだけれど、アーレントのテキストの持つ 「力」は、その彼女の個人史の物語(のみ)に源泉を持つ、のではない、とも感じるのですよ。

あー、ややこしい。むしろ 「女性」の 「哲学者」の手に負えなさというのにちかい、といったらこの評言自体が 「ジェンダーバイアス」かかりまくり、ってことにされてしまうのかな。

でも、そのあたりに興味が湧いてきます。取り合えずば 「暴力」論のツボ。

「外部」の感触といっていい。

以上とりとめなく。
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Unknown (Unknown)
2017-12-29 11:47:55
詳細なコメントありがとうございます。
アーレントの悪文は本当に困ったものですね。
が、しかし、今までにない思考の言語化を既存の言語で書くという困難がにじみ出ているともいえるんじゃないでしょうか。
それを読むことに拘泥すると、アーレントの思考ばかり追っちゃって、自分の思考がどこかに行っちゃうこともあるし、逆にそこへの抵抗感からなかなか彼女の文章に入り込めないということもありますよね。
アーレントの人生を「忖度」して読むと、限定的な読みになっちゃうし、そこに止まらないから面白いんだけれど、それ抜きにもやはり理解しえない。
まぁ、面倒くさいですが、その難しさと自分を退治・対話させることが哲学することの醍醐味なんだと思うんです。
ま、こういうじれったさに段々面白みを感じ始めると、もう思考が止まらなくなるわけです。
そんな感染力に皆さんも毒され始めているんじゃないか、と期待するのですが

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