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第5回『〈政治〉の危機とアーレント』を読む会・まとめ

2018-01-25 | 『〈政治〉の危機とアーレント』を読む


数年に一度の大寒波の日、予定通り第五回『〈政治〉の危機とアーレント』を読む会が開催されました。
しかも、福島市の某所では大雪の夜にもかかわらず、極上のプリンと大量の肉・アン・カレーまんを持ち寄っての開催です。
皆さん、平日のお仕事後だというのに、頭が下がると同時に感謝の念でいっぱいです。
しかし、そんなことにおかまいなしに、今回扱った第5章「『人間の条件』に至る思索」は難解な内容が盛りだくさんです。
レジュメを作成したワタクシも含めて、一同、沈黙の時間が続きました。
とりわけ第1節と第3節は本書のオリジナリティが色濃く出ている個所であると同時に、もっとも哲学的な記述が多いところです。
これまでのように、自分たちの経験をもとになかなか語りにくい様子でした。

その内容の難解さと膨大な量(一節が一章に値すると思われます)を踏まえ、急遽、第1節は報告者の要約でまとめ、第3節はカットし、第2節を中心に検討することにしました。
既にふれたように、アーレントの研究書としては第1節・第3節こそ重要だと思われますが、今回の読書会の趣旨が「市民が読むハンナ・アーレント」だということを踏まえれば、やはり「全体主義」の問題を中心的に論じた第2節こそ、参加者の関心に沿うものと考えたからです。
とはいえ、今回の読書会ほど沈黙が支配した会はないので、以下はレジメをまとめながら徒然考えたことを中心に書き連ねていきます。

まず、第1節『全体主義の起源』が生まれる経過―「哲学と社会学」です。
「哲学と社会学」というエッセイはマルクス主義を批判したカール・マンハイムの『イデオロギーとユートピア』に対して、アーレントが批判を加えた論文です。
だからといって、アーレントはマルクス主義を擁護しているわけではなく、むしろ両者に含まれてる精神の居場所の危機を明らかにした、というのが佐藤さんの読みです。
この論文の難解さはマルクス主義に対する理解が多少必要となる点にありますが、それ以上に冷戦が崩壊して思想的アクチュアリティが失われた今日の状況下で読むことにあるのだと思われます。
これは読書会の話題にも上がったことですが、この節は学生運動を経験してある程度マルクス主義にリアリティをもっていた世代と、「マルクスって誰?」という世代とでは、理解度もリアリティもまったく異なるでしょう。
ただし、仮にマルクス主義にリアリティをもつ立場であっても、マンハイム、さらにはアーレントのマルクス主義批判を読み込むのは思考の枠をずらされる困難がつきまといます。
かろうじてマンハイムの批判は理解できるとしても、アーレントのそれはさらにもうひとひねり加わるので、なかなか理解するのが容易ではありません。

まず、マルクス主義の科学的客観的認識に対するマンハイムの批判。
そもそも、マルクス主義は資本主義下において人々の意識や精神が資本家側の価値観に洗脳されている実態を、「イデオロギー」と名づけて批判してきたわけですが、誰しも時代の子である以上、支配されている労働者だけが客観的科学的に歴史や社会構造を認識できるというのは嘘だという批判をしたわけです。
学校教育なぞは典型的なイデオロギー装置であることは、既にアルチュセールという哲学者が言ったことです。
さも、まっとうな人間教育しているといいながらも、学校の教師などは資本主義の支配層のためのイデオロギーを子どもたちに刷り込んでいるわけですね。
「部活動を一生懸命やればいい企業に勤められるぞ」という理屈は進路指導上の常套句となっていますが、これは同時に、どんな理不尽な仕事にも耐え抜く資本家にとって都合のいい労働力を生産しているといえば、笑い話では済まないでしょう。
イデオロギーというのは、こうした学校だけではなく、様々なメディアを通じて政治的文化的に(上部構造で)形成されるものですが、なんといってもそのもとになっているのが経済の生産関係(下部構造)だったと指摘したのがマルクスだったわけです。
つまり、僕らの意識は資本主義という経済構造でつくられちゃっているんだよということを見抜けというのがマルクス主義だったわけですね。

しかし、マンハイムは、それに劣らず支配されている労働者側もまた、現実から自由に物事をとらえられるわけではないと批判し、現実を起点とした思想は、すべからく支配者のイデオロギーか被支配者のユートピアという虚構に陥ると論じたわけです。
なるほど、われわれの意識はその時代社会に影響を受けていることは疑いえないでしょう。
これに関して、しばしば北朝鮮を全体主義的な洗脳社会として批判する側が洗脳されていないとどうしていえるのか、という問題にも通じます。
「ワタシは客観的だ、中立的だ」という人ほど、意外と何かの価値観に固執するというのは珍しいことではありません。

では、われわれの精神はすべて自分の外側にあるイデオロギーや価値観に染まり切っているのでしょうか。
アーレントによれば、マンハイムはそのように問いながら、現実から遊離した「故郷喪失」のところにこそ精神の居場所がある、としたのが『イデオロギーとユートピア』という本だったというわけです。
これに関しては、参加者から「現実」って何って考えるとわからなくなる。
あまりにも現実がつらすぎるとき、現実とは関係ないところに精神が引きこもるといいうのです。
これは実に的を射た発言だと思いました。
まさに、マンハイムは現実から逃避したところに精神の本当の居場所を見出しました。
マルクス主義のように現実に即して精神を動かせばイデオロギーかユートピアに陥る。
精神とはそういうものから遊離してこそ生きられるのだ、と。
これは、案外と現代人がなじんでいる思考パターンではないでしょうか。
しかし、アーレントのマンハイム批判はまさにそこに向けられます。

アーレントは、マルクス主義が経済的利害の必然性をもとに資本主義批判と社会主義の理想を描く問題を指摘します。
経済的な利害を「現実」と見なすならば、その現実の強制力に従って歴史は資本主義を解体し共産主義へ向かうというのは、まさマルクス主義の史的唯物論という理論でした。
なるほど、現実が意識や精神を拘束する力をもつこという点をアーレントは否定しません。その点ではマンハイムと意見を異にしません。
しかし、同時に精神は現実に必ずしも拘束されずに、その必然性の強制力に「NO!」という自分の態度を示すことができます。
「武士は食わねど高楊枝」ということではありませんが、生きる欲望に必然的に従うわけではないのが人間的な精神のありようだというわけです。
したがって、精神はマンハイムのように現実から遊離したところに居場所があるのではなく、まさに直面する現実と対峙し、かつその経済的利害のような必然性に服従するのでもなく、自分自身でその現実にどのような態度で臨むのかを決められるところにその居場所があるというわけです。
そして、その精神の活動においてこそ、まさに「現実」が構成されるのだというわけです。
精神と現実はバラバラにあるものではない、ということはシビアな現実にさらされた人からすれば暴力的に響くかもしれません。
しかし、それでもなお精神が現実とは別ものではなく、現実に差し向けられた問いにどうこたえるかという事態において生きられるというのは、なかなか面白い発見なのではないでしょうか。
著者によればこれはアーレントが恩師であるハイデガーやヤスパースとは異なる自分自身の哲学をつかみとった初めての論文として注目に値するといいいます。
さて、このような精神と現実の関係を皆さんはどのように受け止めるでしょうか?

昨日の読書会では、第1節の要約をここまでかみ砕いて説明できたとは思えませんが、特に参加者のレスポンスもなく消化不良の空気が重く感じられたこともあり、第1節には30分もかけずに、サクサクと先に進みました。


第2節は「『全体主義の起源』の文化的起源の考察」です
「近代社会では経済的利害に関わる社会の仕組みが現実と見なされる」という議論は、これまでの読書会でも一貫してきたテーゼです。
つまり、政治が経済(カネ)に侵食されたことが危機なのだという話ですね。その結果、近代社会は経済的運営と富の無限増大を主たる目的とし、人間はそのための手段に過ぎないという論理がまかり通ることになります。
その結果、「経済的には余分で社会的には根扱ぎにされた人々」は全体主義という装置によって抹殺すればよいという発想がくり返し生まれてくるというのが、著者の読みです。
相模原事件でも露骨に加害者がこの論理を表明したことでもあることは、まだまだ記憶に新しいでしょう。
この場合の「余計もの」というのは、たとえば生産に役立たないものととらえてみると明確になると思われます。
子ども、高齢者、障がい者、同性愛者…
いまでこそ「ダイバーシティ」 という言葉が表すように多様な生き方を認め合おうという流れも生まれてきましたが、他方でヘイトスピーチのように十年前までは公に声を上げることが憚れるような排外主義も台頭しています。
こうした社会現象に関しては、既に読書会で何度か触れましたが、問題は近代社会が憲法で人権を保障する一方で「余計もの」を生み出す経済システムをとっているという矛盾です。
国民として人権を認めつつも、しかし生産拡大を至上主義とする資本主義を経済システムをとる以上、「役に立たない存在」「余計なもの」との折り合いをどのようにつければよいのか。

社会権に基づいた社会福祉制度がその部分をカヴァーしてきたことは言うまでもありませんが、しかし佐藤さんが指摘する通り、高度経済成長がストップし、財政状況も悪化する一方であるにもかかわらず福祉に頼らざるを得ない存在をどうするのか、という問題です。
生活保護受給者へのバッシングなどは、その露骨な反動現象であることは間違いありません。
さらに、今日の日本で深刻化しているのは、「貧しい人ほど福祉の充実を望まない」という現象があることです(「福祉の逆説 充実を支持する層は 」小熊英二,朝日新聞,2018年1月25日,参照。)
そこでの引用を借りれば、「雨宮は09年の「年越し派遣村」には支持が集まったのと対照的に、12年には生活保護叩きが広がったことへの変化をこう述べる。「多くの人がこの国の『格差と貧困』に麻痺し、諦め、『そんなもんなのだ』と受け入れていく過程そのものに思えた」ということである。
つまり、自分自身が「余計もの」であることさえも認定せざるを得ないほど、深刻化しているのが日本社会だとは言えないでしょう。
くり返しいうと、「余計もの」とされた存在への過激な攻撃は、「生産性」という論理を内在した近代社会の矛盾の現れに外なりません。
では、その攻撃性が一斉に爆発するのはどのようなときなのか?

アーレントは「全体主義」という言葉を用いてそのことを説明しますが、その担い手である「大衆」を次のように定義します。
すなわち、「公的な問題に関心をもたず、自分たちの利害を何らかの形で代表する組織をもちえないときに「大衆」はいつでも存在する」。
このあたりのアーレントの論はなかなか難しいのですが、佐藤さんの解釈に従えば、議会制民主主義がタテマエとする「一国の住民はすべての公的問題に積極的に関心をもつ市民である」という前提と「支持政党があって、その政党に代表されている」という前提を幻想だということが知れ渡り、しかも、議会多数派に「民衆の多数が代表されていない」と大衆が感じるときに、その民主制度は危機に陥るといいます。
いずれも、中学高校の公民科の授業ではそのような「市民」になることを目標に教えるわけですが、アーレントによれば、それはそもそも幻想だというわけです。
いや、幻想というのが厳しすぎるのであれば、私たちの市民社会はこのフィクションを前提にしなければ回らない社会を維持構築しているということを認識しなければなりません。
そもそも、近代市民社会を正統化する社会契約論などは、原初状態(法がない自然状態)から人々が契約を交わして国家をつくったというのですが、そのような事実はあるはずもないことは自明のことでしょう。
問題は、そのようなフィクションのうえに暗黙の合意が成り立っていた政治が「嘘だ」と思われてしまったときに何が起こるのか、ということでしょう。

佐藤さんは現代の社会で言えば、この「大衆」は「無党派層」という存在に現れていると見ます。
議論の中では、この無党派層のなかにはむしろ正しい政治判断のもとで動いている人々もいるのではないかという意見も上がりました。
たしかに、シールズなど若い世代の政治的活躍は党派性にとらわれないという点で人々を惹きつけ、かつ自由な行動をとっています。
そのような存在がもちろんいることは認めますが、しかし無党派層の多くが付和雷同的な浮遊層であることも否めないでしょう。
問題は、平時ではなく危機の瞬間にこのような「大衆」が一気にどのような方向へ動くのか、ということです。
これまでの議論を前提にすれば、大衆は「根無し草」のようにプロパティを奪われた存在であるということが重要なポイントでしょう。
興味深いのは、アーレントは大衆の成立が教育の平等化・平均化によるのではなく、近代の階級利害制度の崩壊にあると見た点です。
われわれからすれば階級社会が存在するのは封建制の名残や、それこそ不平等な世界の象徴であるかのように捉えてしまいます。
もちろん、アーレントは階級社会が必要だといいたいわけではないでしょう。
問題は自分の「所属」する場所が奪われたとき、人は孤立した「根無し草」になってしまうという事態です。
その結果、「大衆は競争原理の中で著しく孤立したがゆえに自己中心的になっていった」のであり、「自己喪失の現象こそが大衆の成立において重要」だということになるわけです。

したがって、「孤立」というキーワードが『全体主義の起源』の重要なポイントであり、そのことが複数者のあいだで交わされる「活動」概念の分析を際立たせた『人間の条件』の研究へ向かわせたというのが、第2節の趣旨になります。
そもそも、アーレントが「どうしてこのような全体主義が生まれたのか?」と全体主義の研究に向かわせたのは、ヒトラーやナチスの異常な残虐性などではありませんでした。
それは、昨日までの友人や信頼していた人々がなぜナチス支持に転向したのか、なぜいっせいにナチスに自発的に協力し迎合したのかという問題にありました。
その意味で言えば、いかにして「ふつうのドイツ人」の精神が全体主義と親和的になるのか?という問いが、彼女の根本的な問題だったわけです。

そのことを問うためにもまずは、「なぜユダヤ人絶滅が可能になったのか?」が明らかにされます。
それについて、ユダヤ人の絶滅は「人口政策」の一環として計画的で大量生産的に行われたという点が重要です。
「人口政策」という場合には色々ありますが、まず思い浮かぶのはナチスの優生思想に基づく政策でしょう。
T4計画と呼ばれる障がい者の安楽死政策は、まさに生産社会にとっての「余計もの」を排除することが社会全体のためであるとした政策ですが、重要なのは「本人にとってもその方が幸せだ」論じた点でしょう。
これによってその政策の実行者には主観的には罪を感じないやり方で数百万の殺戮を組織することができたわけです。
この罪悪感を覚えないイデオロギーを導入したという点は押さえておく必要があるでしょう。

次に、「合法的統治と専制政治の区別を無意味化した」という点が挙げられます。
専制政治は法を無視するが、全体主義運動は「歴史の法則」・「自然法」に依拠するというのが、アーレントの分析です。
どういうことか?
実定法の「法」は社会の安定を維持するためのものですが、それに対し、全体主義運動では歴史/自然の法則性の実現が重視され、人間社会はその「法則」実現のための素材となるといいます。
この場合、自然の法則にはダーウィン主義の「進化論」における「適者生存」や「優勝劣敗」という考え方が、あたかも自然の法則であり、その法則に則った政策こそが、自然や歴史の進化・進歩に則った正しい政策だとしたわけです。
さらに、ここには優等人種と劣等人種の区分も設けられ、医学界はまじめに瞳や髪の色、骨格などを測定し、「基準」に即した評価を下す研究に取り組んだわけです。
今から見れば明らかに「嘘」とわかるような似非科学も動員されたわけですが、こうした「法則」にとって「例外」や「偶然」は邪魔な存在なわけです。
そして、この例外や偶然とは人間の個性そのものであることを、アーレントは徹底して擁護します。
「ユダヤ人」という進化にとっての例外的存在=「余計もの」とされた彼女の身をもって知った恐怖が、その根底にあることは否めないでしょう。

ところで、アーレントにおいて「全体主義」とは、イデオロギーの支配と組織的なテロによって特色づけられる民衆自身の積極的関与による運動のことです。
この場合、「テロ」とは自然と歴史の「法則」を実現する運動に邪魔な劣等人種や生きるに値しない人間を除去する行動であり、「イデオロギー」はテロに支えられた法則の実現対応する観念形態とされます。
イデオロギーはこの歴史の法則に結びつけて、一個の事件や出来事があたかもその法則に従って進んでいるかのように説明し、そこに適合しないものを除去するのがテロ行動だということになるでしょう。
重要なのは、イデオロギーが「全体」を説明するものとして生成し運動するものであり、その思考は一切の感覚的な経験から独立したものだという点です。
根無し草となり孤立した人間にとっては、自身の感覚を通じて経験したことよりも、数学のような論理が精神に強制力を強く働く性質を、アーレントは見抜いていました。
哲学的にはあいまいで偶発的な「経験」は、法則性を告げ知らせる「理性」よりも劣ったものと扱われてた歴史がありますが、アーレントの場合、現実の経験から遊離した法則の首尾一貫した論理ほど、人間を残酷な思考に陥らせることに適合的なものはないということになります。
目の前でひとが殺されることに人間は強烈な抵抗を覚えるものでしょうが、そうした現実をつきつけない論理の強制的な性質によって、人はいくらでも絶滅に加担できるというのが、アーレントの発見でした。

この話はオウム真理教事件に当てはめてみると理解しやすかもしれません。
なぜ、あのようにまじめに人生を考えようとしたエリートたちがテロ行為に走ったのか。
そこには隔絶された世界の中で生成された終末思想の論理を貫徹させてしまうイデオロギー的思考を見ることも可能ではないでしょうか。

現実から生み出されない演繹的論理および首尾一貫性、論理的強制力の支配。
金融業に勤める参加者からは、まさに理論のフレームを立ててから統計的に処理する日常的な業務から、そのことを理解できるといいます。
その際、「例外」はどのように処理するのかと尋ねたところ、「無視する」との答えでした。
異常値は理論や法則にとって邪魔だということが、先端の金融業界の業務では当たり前だ問うことが窺われます。
問題は、それが社会の全領域で貫徹されることでしょう。
そして、これがイデオロギー的思考だとするならば、その思考はいかにして生み出されるのかが問われなければなりません。
それが「孤独」という問題と関係することになります。
“Loneliness is not solitude”という言葉は、そのことを端的に表すものでしょう。

アーレントは「孤独」という語をめぐってIsolation/loneliness/solitudeという用語を用いながら3つに区分します。
まずは政治的孤立を示すIsolationです。
政治的にパージされて孤立することがありますが、人はそのような状況に陥っても自伝や政治思想、小説を書きしるすことができます。その時の制作に没頭する孤独な営みがIsolationです。
これはこれで、政治的な活動に取り組む人にとってはシビアな状況ですが、他者との世界を失ってもなお制作に向き合える自己は失っていません。
深刻なのは、見捨てられた孤独を意味するLonelinessです。
これは本書で一貫して論じられてきた自分らしくいられるプライヴァシーとしての精神を奪われた孤独を意味しています。
これをアーレントは「根無し草」として生きる全体主義の人間性であるとし、「思考」という自己内対話の相手である自分自身からも見捨てられている状態だといいます。
全体主義と思考停止を結びつけたのはアーレントの大発見ですが、これが大衆の日常経験であるという点で真剣に検討されなければならない問題といえるでしょう。
最後に、自分自身といっしょにいることができる孤独を意味するsolitudeです。
「思考」が自己内対話を意味するとすれば、まさに自分自身を仲間にしつつ孤独でいられる状態がsolitudeでしょう。
重要なのは、この状態は一人でいれば可能になるものではないという点です。
アーレントは思考ができるためには、自分の仲間たちと議論できる世界が必要だといいます。
仲間と議論した後に、帰宅して一人になってあらためて仲間たちとの議論を自分自身で吟味しなおすことが思考なのだというわけです。
その点で他者とともにある世界と自分自身とともにある精神を往還できることが、思考の条件だということになりますが、まさに全体主義の社会にあっては、ともに語り合う仲間を喪失したことでlonelinessに陥ってしまうというのです。

こうした全体主義をめぐる孤立・孤独の問題が、なぜ人々との語り合いに基づく「政治」を分析する『人間の条件』へ向かわせたかは以上のような視点から明らかになるかと思います。
とはいえ、今回はあまりにも内容が難しかったせいか、報告が拙かったせいか、ほとんど議論らしい議論ができませんでした。
その点で「政治」的協同の経験は不十分であったかもしれませんが、後ほど読書会後のsolitudeを楽しんでいるという感想もいただきました。
時に、こうした難解なテキストに向き合って沈黙することは、「思考」のかけがえのない経験に結びついているのだろうと信じてやまない大雪の夜でした。
次回はいよいよ最終回。
そして一月後には、著者である佐藤和夫さんを招いての読書会&討議が開催されます。
こうご期待!(渡部 純)

2 コメント

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充実した読書会だったと思います。 (きつねいぬ)
2018-01-25 17:43:27
純ちゃん、レジュメお疲れさまでした。
私はこの章、なるほどなー、と思って聞いていました。特に異論はなし!
>現実から生み出されない演繹的論理およ
>び首尾一貫性、論理的強制力の支配
この論理が「全域化」するということには強い恐怖を覚えます。

ただ、ここで分析されている「全体主義」とか「大衆」と、21世紀の新自由主義的な経済論理の全域化およびナショナリズムのバックラッシュみたいな現象とは、密接な連続性を持ちつつも、ある種手触りの違い(善し悪しは分からないけれど)を感じるのも事実です。
その辺りを性急に語ろうとすると言葉を失う、そういう場所に立っている感じがしました。
アーレント→佐藤和夫→渡部純
の語りそれ自体は腑に落ちるし、どなたかが言っておられてたように、その後それら複数の言葉たちを頭の中で反芻しながら対話することができました。
個人的には実り多い回でしたよ。
言葉にならない場合でも、対話がないとは限らないかも。
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あ、書き忘れたことが一つ。 (きつねいぬ)
2018-01-25 17:52:53
ただ、どんなに孤独でも厳しくても、「新しく始めることはできる」というアーレントの強い姿勢は、ほとんど「信仰告白」に近いのでは?とも感じました。単なる感想です。
つまり、そこはついて行けないんですよね。無理じゃん、て思う。
その時おそらく、私は「凡庸な悪」の側にいる。
國分功一郎×大澤真幸が対談で言っていた話の方向性をなぞれば、アーレントは存在しない「意志」「自由」を見つけたかったんじゃないかって話にもなるんだけれど、他方
千葉雅也×國分功一郎の対談では、
「その道筋を通れば、普通アーレントはそっち<自由>に行くでしょう。」
といい、國分さんは分からないフリをしている(とまではいわないが敢えてそこでは伝統的な哲学者の立場を取っている)んじゃないか、と指摘しています。

その辺りをぐるぐる考えています。
つまり、アーレントの言う「大衆」とは別の「自閉系」の者ども(私の中の複数ある心性の一部としての)のことを考えている、ということです。
非政治的で、引きこもりがちだったりもし、自分のリズムとロジックでしか動けない人たち、刺激になれることができず、立ち止まらざるをえない人たち、そういう者たちとこの「大衆」の関係はどうなるんだろう、というような(漠然とした)疑問。
つまり、佐藤和夫によって読まれたアーレントは、より20世紀的なのでは?という疑問ですね。
私の中では強く共感するストーリーです。國分さんの考えよりはずっと佐藤和夫さんのこの本の方がずっと身近です。
アーレントは分からないところがあるけれど、佐藤和夫さんの語りは分からないとこなどないような気がしてきます。

でも、というところかな。
その辺りを聞いてみたいです。
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