カフェロゴ Café de Logos

カフェロゴは文系、理系を問わず、言葉で語れるものなら何でも気楽にお喋りできる言論カフェ活動です。

哲学カフェ・〈生まれない権利〉を考える・まとめ

2020-01-14 | 哲学系


ペンとノートを会場に哲学カフェ: <生まれない権利を考える>が開催されました。
17名の参加者に恵まれ、活発な議論が展開されました。

まず、ファシリテーターの方から「生まれない権利」についての説明と、欧米の訴訟事例、そして<生まれない権利>の争点について、
①存在自体が損害になっている(当人にとって)
②苦痛を負って出生させられたこと自体についての損害
③十分な情報を原告の親にあたえていなかったことをもって医師の加害行為とみなす
の3点を挙げた上で、「生まれない権利を認めるべきか?認めないべきか?」
という議論点が提示されました。
以下は、参加者による議論の箇条書きを参考にまとめたものです。


Aさん:ファシリテーターがこの問題を取り上げた動機を教えてほしい。

ファシリテーター:出生前診断における「優生思想」に関心があったが、〈生まれない権利〉は本人自体が訴訟を起こしていることに衝撃を受けた。しかし、この権利は不可能ではないか?いっぽうで、司法で認められ始めている現実と、ベネターの『生まれない方が良かった』を読んで、問題関心が再燃した。

Bさん:当人が訴えているが、これは死ぬことができる権利でもあるのか?

Cさん:イコールではないと思う。死ぬ権利は安楽死、自殺の権利であって〈生まれない権利〉とは異なる。

Dさん:「生まれる/生まれない」は本人が選択できない点において、自殺の権利とは異なる。生まれたしまった後で、生まれない権利を主張するのは矛盾している。

Cさん:「生まれてしまった」という権利のこと。

Eさん:遡れないことに対して保障できるのか?「権利」と呼んでいいのか。仏教によればこの世は苦しみに満ちている。かといって、急いで死ぬことではないという思想。良くない状態で生まれる、というのはありがちなことではないか。

Fさん:「権利」にひっかかる。自分の生を否定する=つらい、痛いことをネガティブに捉えられてしまうことの問題では。「権利」という言葉を使わざるを得ないことの社会的な問題であり、そう思う必要のない社会であればよい。

ファシリテーター:「障害を苦として言われないような社会を作りましょう」というのはよく言われまていますね。

Gさん:訴訟して、何をほしかった??お金で解決なんですかね?

Cさん:損害を償って欲しい。責任をとって欲しい。「請求できる権利」がある。「中絶」もできるはずなのに!なんで僕は生まれてしまったんだ・・・という訴え。

Gさん:医療費に関わる訴訟?惨めな生に対する訴訟?

Dさん:そもそも「訴える権利」ということは、「苦しみ」を周りの人に認めて欲しいのか?

ファシリテーター:生まれる・生まれないは自己決定できることではないのに、権利を主張できるのか?

Hさん:自己決定はできないけど、親がやるべき「中絶」をさせなかった。親の責任が問われる??

ファシリテーター:確かに親を訴えるケースも可能性としては生じてくる。インドでは「生まれたことに同意していない」訴訟が起きている。・・・訴えられたらどうしますか??

Eさん:めんどくせえ…って感じ。

Fさん:スピリチュアルでは、子供は完璧な計画のもとに、完璧な親を選ぶ。

ファシリテーター:その仮説によれば 「自己責任」という話になりますね(笑)

Iさん:生まれる前には当人には分からないはず。そう考えるに至った流れも問題では?ー環境、親、教育…どこまで、本人は本気なのかが、読み切れない。お金のため?

Jさん:生まれた時点では、そのような思考になっていないはず。「生まれる・生まれない」ではなく、ちゃんとした教育を受けられなかった問題

ファシリテーター:結果的に自分が問題ということになりますね

Kさん:生の価値、生きていることの価値・無価値をどう捉えるのか?現代社会の歪み。生に対して上下をつける考え方が出てきているのでは?

ファシリテーター:本人は「生きるに値しない」と言っている。であれば、この権利を主張していい?

Fさん:裁判をおこした、という意味では周囲にとって価値ある命なのではないか。

Dさん:ちょっと間違えると相模原事件につながる。

ファシリテーター:たしかに相模原事件は優生思想の投影だったけれど、あれは植松被告という他者が障害者に対して『生きるに値しない生』と価値づけた事件。しかし、〈生まれない権利〉は当人が自らの生を「生きるに値しない生」と価値づけてしまっている点が大きな違い。これを当人が認めてしまうと、相模原事件を批判する境界が崩れていってしまう恐れはないか。障害者本人が自らを生きるに値しないというなら、権利として認めるべきか?

Gさん:なぜ主張したいんだろう?承認?福利、福祉は得なければいけないけど。

ファシリテーター:「生まれない権利=死ぬ権利」ではない。そもそも、溯って「生まれたこと」をなかったことにするわけにはいかないけれど、「生まれてしまったこと」への苦痛を訴えている。これは持続する生きるに値しない生への苦痛を訴えるものであって、だからといって「死ぬこと」を求めているわけではない。

Eさん:関係者に謝って欲しいだけ?

ファシリテーター:何に対して謝って欲しいのか?

Gさん:謝って欲しいのは傲慢ではないか?生きたくないけど、死にたくない。金を得て何がしたいの?ひっかかるのは、「生」を生きたくない、ということなのか?

ファシリテーター:生きたくないけど、死にたいというわけではない。

Gさん:お金って現世のものじゃないですか。どう使いたいのか。     

Cさん:あくまでも、生きている現実の訴え。自分は「不幸」である、と言いたい。

Aさん:<生まれない権利>の裁判の妥当性は?訴えられるのは親?医者?行政?どういう点が「不幸」だから訴えたいのか。国によって、権利の捉え方が違う。
   
ファシリテーター:もともとは<生まれない権利>という裁判ではなかった。医師の判断ミスに対する医療過誤事件の訴訟。。

Kさん:生命に対して、どこまで人は介入できるのか。中絶はしていい??現在はさらにひどくなっている。

Aさん:生まれることを否定することで、存在を認めて欲しい。要は「生きたい」。 YesーNoでは括れない。「無」な状態。

Cさん:アイデンティティの一部として「生まれない方がよかった」と。

Fさん:障害があるとしても、そこには親の「産みたい権利」・「産む権利」・「産まない権利」の3種類がある。

ファシリテーター:河合香織の『選べなかった生命』ではロングフルバース訴訟の原告母親が、「出生前診断で障害がわかっていれば中絶していた」問う訴状文面を「中絶の蓋然性が高かった」に訂正した。そこには「中絶した」と言い切れないけど、たしかにある状態=<中動態>的なものがあるのでは。

Cさん:当人は、まだ何も定められていない。

ファシリテーター:自分の生を「生きるに値しない」と、自分が判断する。

Eさん;主張するということは、本人だけの問題には止まらない。優生思想になりかねない、そのむずむずするところが法的問題とは別に気になる。

Cさん:障害者団体は反対するでしょう。

Dさん;何を得ようとしているのか。承認?選択の不自由?選択する権利を奪われた権利?

ファシリテーター:こだわりたいのは、胎児の選択権はあるのか?という点。

Eさん:選んだのは他者、引き受けたのは自分。このムカつき。

Jさん:生まれない権利として、すべての人間に認めることになる。誰でも訴えられることになるし、誰を訴える?

Aさん:〈生まれない権利〉は寅さん流に言うと「それをいっちゃおしまいよ」という問題じゃないか。

Mさん:障害を知りたいか、知りたくないかの別は難しい。はっきりした障害でなければ、分からない。同じような人が診断なしに生まれないように、他者に承認させるため。

ファシリテーター:〈生まれない権利〉は出生前診断を受けた上での問題ではある。

Nさん:海外によっては、障害だから、という理由だけで施設に閉じ込められることもある。障害者が権利を主張することは必要だろう。

Fさん:権利を主張するのは、社会に対して。スピリチュアルで、障害の人は強い魂をもつ。人間が生まれてくるのは、世界をより良くしていくため。肩書きをもって生まれる。

Cさん:障害に対して、世の中はまだ対応し切れていない。つらい人生を歩いているから、権利を主張している。似ているのは、人道の罪のように後から価値づけられていっている。「生まれない権利」というのも、振り返った中で言われている。

ファシリテーター:障害が切実ならば、それでもこの権利を認めるべきなのか?

Dさん:あくまで裁判上の権利。社会の中で、権利としては認められない。

ファシリテーター:医療過誤の問題から派生して、障害者自身が自分の生を否定する問題になってしまっている。いっぽうで、それを否定しにくいのはなぜなのか?欧米では訴訟で「権利」として認められていることの問題をどう考えるべきか。

Dさん:権利と言ってはいけない。主張していいけども、そもそも権利なのか??

Gさん:その昔、Eさんが「自分の人生を引き受け直す」ということを言っていたことを思い出した。「権利」として認めるべきではない。自分の生をどうにもできる、という考えが傲慢だと思う。

Eさん:イノセンスの主張。「おれのせいじゃない!」からこそ、引き受ける!ということがあるのではないか、ということを言った覚えがある。自分の責任ではないがゆえに、引き受けられる。〈生まれること〉には自分の責任はない、「おれのせいじゃない」。そうであるがゆえに、その生を引き受ける責任があるのではないかな、ということ。この論理はあり得なくはないのでは。

Oさん:本人が訴えられないほどの障害だとどうなのか。自分の生の判断能力がない場合、この権利はどうなる?彼らに訴える“権利”はあるのか?

Dさん:これは「いつから人間なのか」という話になる。

ファシリテーター:加藤秀一は「〈生まれない権利〉の「騙り」の危険性を射て聞いている。他者が本人のあるいは「そうであったかもしれない」可能性の存在の代弁をすることの危険性を指摘している。これは別の障害者の「騙り」につながるのでは?「可能性」だったものに「権利」を認める危険性のこと。

ファシリテーター:皆さんは「自分に責任はないがゆうえに引き受けることができる」という理論にはガッテンしますか??資料には地球温暖化をはじめ、危険な将来の世界で「子供を産みません」と主張するカナダの女子高生の記事を載せてある。そんな主張をする彼女にとって、「自分の責任ではないが故に引き受けること」は何を意味するか?

Eさん:「しゃらくさいことを言う権利」としての、「生まれない権利」。むしろ認めていこう!!ということじゃないの。

Oさん:文句を言えない、という現代社会の問題。

Gさん;今までの「しょうがない」と受け入れてきたのは、他人の人生であって、いったんは否定するけれども、そのあとで引き受けるとうことなんじゃないかな。つまり「人生を立てる」ということが、すなわち「自分に責任はないがゆえにこの制を引き受けることができる」ということじゃないか。

ファシリテーター:訴えて何が欲しかったか、というと、訴えることで「自己を立てる」ということか。

Cさん:すると、この理論は訴えることができない人に対しても、そういう権利があるんだな、と見ることにならないか?

ファシリテーター:いや、それは「騙り」ながら、他者の生を私有化するという危険性があるでしょ。

Eさん:「いったん訴えてみっかぁ!!」という文化

Cさん:アメリカにおける訴訟技術というという事情が大きく反映しているんじゃないかな。

Kさん:自分の責任の中に、他者の責任が含まれている事情がある。他者と自分は分けられるのか?という問題があるのでは。

Pさん:障害者のなかに、当事者の中に「優生思想」がある面白さ。中途失明の人間にとって差別を受ける苦しさ、差別を内面化してしまうことがある。「自分の責任ではないがゆえに葛藤の中で引き受けていく」ということは、 責任が自分ではないことを確認することでもあるが、さらに選択を迫られてしまう。けっきょく、人間は他者が用意してくれるものを待ち続けていかないといけないのか?と。

Kさん:様々な人の「属性」、しかし、アイデンティティに注意する必要がある。人の多面性・多様性を削ぎ落とすことになっている危険性に注意しなければいけない。

コメントを投稿