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「霊は存在するか?」まとめ

2017-12-24 | 哲学系
ぼぶ★れのん対カント。
すごいおもしろかった。
思わず深夜まで盛り上がってしまった。
ありがとう、ぼぶ!

というわけで、まずは渡部の方からカントの『視霊者の夢』の要約を簡単に説明した後、すぐにぼぶの心霊体験談に突入。
ぼぶからは自分の心霊体験談は信じてもらわなくてもいいし、疑問点はどんどんん突っ込んでほしいという希望が出されました。
その上で、彼は「血」なのかおばあさんの血筋によく霊感の強い人たちがいたという話から始められました。
おじさんに至っては「狐憑き」の症状がしばしば起こり、予言が的中するところを何度も見たというのです。
そして、小学校三年生のときに、はじめて不思議な経験をしたそうです。
その中でも、今回ぼぶがテキストとして選んだ心霊体験談は、中学校時代の文化祭でお化け屋敷をつくっていたときの話でした。
いい感じでお化け屋敷の制作が進み、いよいよ完成に近づいた夕暮れ時、その教室の暗闇のなかでぼぶは同級生のH君とともに突如女性の生首が降ってきたことをいっしょに見てしまったというのです。
その時の女性の顔、動悸の激しさは今でも思い出すそうですが、いっせいに逃げ出した後、同級生たちは混乱に陥り、恐怖だけが包み込んだその教室で、とりあえずその日はいったん帰ろうということになり、帰宅したそうです。
その帰り道、Hくんといっしょに下校していたぼぶは、ふたたび電流が走ったような瞬間を経験したそうです。
同時に近所の犬たちが一斉に吠え出し、不穏な感じがしたまま帰宅し、トイレに入ると今度は生暖かい風が首の周りにまとわりつき、変な感じだなぁと思って首の周りを手でさわったところ、今度は緑色のスライム状の物体がついていることに驚いたそうです。
気持ちが悪くて急いで洗ってしまったそうですが、今思えばあれは霊現象の何かをつかむ証拠物体だったじゃ中と悔しそうに語ります。
すると、H君から電話が入り、「今どうしている?」と聞かれたそうです。彼もまた帰宅後の不穏な感じに不安を感じたようでした。
実は、別の同級生のK君から「本当に見たのか?」と聞かれたそうです。
K君はポルターガイスト現象などをよく経験し、霊感が強い同級生なのだそうですが、彼はその日眠ることができなかったとのことでした
そして、「誰にも言うなよ」ということを条件に、実はそのお化け屋敷制作に使った教室は、かつて柔道場があった場所で、そこで女性が亡くなる事故があったということを教えてくれたというのです。

さらに、不思議体験は継続します。
高校生になったぼぶは、そのときの心霊体験談を二人の同級生に話したところ、特に彼女らが怖がりもせずに、妙に納得しながら聞いている様子を不審に思ったそうです。
そして、彼女らに「こわくないの?」と聞いたところ、「だって、その生首の女性、あなたの後ろにいるんだよねぇ」と教えてくれたというのです。
その二人の同級生は二人ともいわゆる霊感の強いひとだったらしく、お化け屋敷の霊がぼぶに憑いていることを一緒に見えたそうなのです。

ここでぼぶから、自分だけが見たものは幻想かもしれないけれど、複数人で同時に見た現象については、どう説明すればよいのか、そのことを皆さんと一緒に考えたいという明晰な問いが提起されました。
お化け屋敷の中でH君といっしょに見た生首も、それがぼぶの後ろに憑いた現象を見た二人の同級生も、複数で不思議な霊現象を共有しています。
これをぼぶは「共時性」と呼びました。
さて、この共時性を伴う霊現象をどう説明すべきか、論点は一つに絞られました。

ちなみにカントは、霊は物質によって満たされた空間の中にもありうるという存在で、霊的存在はそれを集めてみたところで、個体のようにしっかり固まって全体をつくることができないといいます。
そうであるがゆえに、カントは霊的なものの存在は否定しなのですが、それを色や形のような物質的なもので捉えることは矛盾であり、そのような現象として認識できないと考えています。
それに対して金縛りを経験されたことがある参加者は、その時の説明できない圧迫感を受ける事実から霊なるものの存在を認める意見が挙げられます。
しかし、圧迫感があるというのは、やはり物理的現象なのではないか。
いやいや、それは空気のようなもので、説明がつかない経験なのだといいます。
たとえば、「この場所はなんかやばい感じがする」という具合に、いわく言い難い「空気」を感じたことはないか、という問いかけには少なからぬ人が賛同します。
でも、それは万人が感じるものではないよね。
たとえば、墓地にいけば必ずそういう圧迫感を感じるかというと、そんなことはない。
それってなんなんだろう。
いや、でもさ、金縛りは目覚めていないよ。
あれは肉体が眠ったままで、実は自分で試したことがあるけれど、目も開いていないし、まだ夢の領域だよ。
ただ、夢と違うのは、夢は自分の意志とは別に勝手にストーリーが進んでいくけれど、金縛りの場合は少なくとも自分の意志を働かせようとする。
それが身体に伝わらないから圧迫を感じるのであって、別にこの世ならぬものが物理的にのしかかってくるわけじゃない。

それでも、なにかを感じる人には感じる?
霊って、そんな偶然的で相対的なものなんだろうか。
たとえば、死者の多さで言えば、広島、長崎、沖縄のような戦争の被害が甚大なところでは、いたるところで霊現象が起きてもおかしくないではないか。
その意味で言うと、何か事件性があったから霊現象が起きるというのはおかしい気がする。
あの世があるとすれば、そんな秩序だったものじゃなくて、こちらの意識や理性で捉えられるようなものじゃないんじゃないの?
だから、突然変なところに現れたりするんであって、彼岸と此岸をむすぶ霊界の通路みたいなものがあるというのも嘘くさいし、いちいち説明をつけられること自体が胡散臭い。
その点からいえば、何か事件事故があったことと心霊現象が因果的に関係するというのは、此岸の人びとの論理でしかなく、けっして彼岸の論理とつながっているなんてわからないはずだよね。

これに関してカントはこんな風に言ってます。
異常なのはその〔霊〕現象が…めったにないことである。人間の魂が霊としてもつ表象は、その意識が一個の人間として肉体的器官の印象に基づいて脳裏に描く表象とはまったくちがっている。そういうわけで可視の世界と同時に不可視の世界にもメンバーとして属しているのは確かに同じ主体だが、決して同じ人間ではない。/なぜなら、この世についての表象は、そもそも状態が異なってるから、あの世の状態に伴ってくる観念ではない。そこで私が霊として考えていることは、普通の人間としての私によって想起されることではない。【p.59-60】

カントさんはむしろ霊現象がめったにないのが異常だというのですが、けっきょく彼岸と此岸の世界は状態が違うのに、なぜか霊現象は此岸の肉体的な経験でもって霊現象のイメージをつくるのは変だといっているわけです。
因果関係で出来事を結びつけて理解するのは、カントの用語では現象世界を秩序付けて認識する悟性の作用なわけですが、それを感覚を超えた彼岸の世界と結びつけて捉えることはまさに誤用だというのです。

森達也は「オカルト」で霊現象などオカルト現象は100%嘘だと言い切れないのだが、その出現があまりに偶然的なので証明は難しいことを述べています。
カントも霊的存在そのものは否定していませんが、やはり現象世界で人間の感覚に基づいた認識ではとらえられないといいます。
どうも、人間の理性や知性とは別の論理で物事が成り立っているのが霊現象なのかもしれません。

それでも五感で霊現象を経験したという話は尽きません。
ある新築の家で何も置いていないのに麝香のような香りがする部屋があり、そこが霊と関係するのではないかという指摘を受けてからお払いをしたところ、においが消えたという体験談を話された方もいます。
これも霊現象は物理現象と関係しないという定義からすれば矛盾します。
にもかかわらず、お盆に祖母の霊が現れるときは必ずたいてもいない線香のにおいがするという経験談も出されました。

ちょっとまて。
お盆には祖霊が彼岸から帰ってくるから、その時期に霊はたくさん現れるという説。
それって、なんで日本だけなんだ。
霊が全世界不屁的な現象なら、みんな共通の時期に出没するはずじゃあないか。
しかも、霊現象そのものも国によって現れ方が違ったりするのはなんでだ?
このことからしても、霊現象が物理的な形で現れることに矛盾はないか?

じゃ、ぼぶたちが共時的に見た霊現象ってなんだ?どう説明するんだよ?
これに関しては、心霊現象ではなくUFOの目撃体験をしたことがある参加者から、複数で見たという話が挙げられます。
そこにいた人たちはみんな間違いなく同一の不可思議な現象を目撃しているにもかかわらず、特に他に拡散はしない。
それはなぜなんだろう?
けっきょく、見た人にしか信じてもらえないという構造があるのか。
それを「秘密の思い出」と表現した人もいます。
たしかにそうかもしれない。けれど、それは単に精神状態がシンクロしたもので、それが同時に見た不可思議な現象として共有されるんじゃないか。
つまり、お化け屋敷の霊で言えば、緊張した心理状態で何かを見た瞬間にそれが「生首らしきもの」に見えたものが、後から事故現場の話などの情報が付け加わっていく中で、徐々に「生首」という形象として共有されていったのではないか。
この話にはかなり説得力がありました。
幽霊観たり、枯れ尾花。
たしかに、何かを見たのだろう。けれど、それが「生首」だったかどうかは、実はドラマ、物語によって後付けで形成されていったのではないか。
それが共時性という現象なのではないか。

しかし、しかし、それでもなぜか皆さん、錯覚とは区別された霊的なものの存在は否定しきれないようです。
それを突然、霊的なものが自分の名前を呼ぶ声を聞くという人もいました。
そこまでいくと、なぜそれが霊現象といえるのかどうか、どう判別するのかを問う必要があります。
ぼぶは、霊を見たことがあると答えただけで、某哲学教授に試験答案を破られた経験があるそうです。
霊を幻影や錯覚と確信している人にとっては、そび経験自体が霊的存在を認めたということを意味し、堪えがたいことなのでしょう。
カントも霊の存在は認めるものの、厳格に経験概念としてとらえることは不可能であるといいます。
しかし、そんな彼の文体もまた、実は歯切れが悪い。

ぼぶは、たしかに理性や科学的なものとして霊は捉えることはできないかもしれない。
それでも、理性や感性とは区別された「魂」という次元で感じるものが人間にはあるんじゃないかと問います。
彼は、その例として意識不明になり、もう回復することはないとされたご親戚の病床で声をかけると、突然その方が涙を流したという体験談を話してくれました。
奇跡的にその方は回復されたそうですが、意識がない状態のときに涙を流した出来事を話すと、本人はそんな記憶はないといったそうです。
つまり、意識の有無とは別の次元で何かを感じる器官が人間にはあるのではないか。
それが「魂」なるものであり、意識をつかさどる理性とは区別されたそれがある限り、ぼぶは脳死は人の死だと認めることもできないといいます。
それが「祈り」など非合理とされながらも、人間がどんどん失っていってしまっている文化と関係があるのかもしれません。
もっと言ってしまえば、もしかすると「魂」なるもの、特別な人だけが感知できるチューナーみたいな機能を持つのかもしれません。
だから、カントは、
「この種の幻影は下品で通俗的なものではなく、その〔魂の〕器官が異常に刺激を受けやすい人に限って生じるものである」
「我々はおそらく来世においては新しい経験と新しい概念を通じて、われわれの思考する自我の中でまだ我々に隠されている諸力について教えられるまで、ただ待つほかないだろう」
というわけです。

実に、実に面白い回でした。
ぼぶ、ありがとう。
これで素敵な新年を迎えられそうです。皆さん、良いお年を。(文:渡部純)