「やっぱり、おかしい。病院に行く」というと、夫がガイドブックで日本語の通じる24時間体制の病院をみつけてくれました。
フロントに電話して、救急車が呼べるかどうか確認したり、誰か部屋まで迎えに来てもらえないかと交渉していましたが、とにかくフロントまできてくれといわれたらしく、わたしは這うようにしながらフロントまで降りました。
倒れこむようにソファに身体を預け、
「日本語の通じるスタッフがいるので、Santa Cruz病院にいきたい」
と苦しい息の下からやっとの思いで口にすると、フロントの男はカウンターから一歩も出ることなく、
「声が小さくておっしゃることがよく聞こえないんです」
とフロントらしい笑みを絶やすことなく英語で言い放ちました。
わたしは瞬間的・激烈的・天井知らず的に「チクショー、気取りやがって!」「覚えてろ、コノヤロウ!」と逆上したのですが、それを態度に表す行動がとれるはずもなく、精一杯の軽蔑をこめてチラッとそいつを一瞥して、「この顔を覚えとくぞ」と心に決めました。
フロントマンとは対照的に、ポーターのお兄ちゃんは体を寄せて言うことを聞き取ってくれ、タクシーまでしっかりと腕を取って支え、運転手に行き先も伝えてくれたのでおとなしくタクシーに乗り込みました。
タクシーは実際20分程度だったのかもしれないけれど、その間に意識を失うのじゃないかと何度も思うほど長く感じられました。
サンタクルーズ病院の急患にたどり着くと、すぐに車椅子に乗せられ、症状の説明のために日本語のできるスタッフが呼ばれ、服を脱がされてベッドに寝かされ、薬を飲まされ、採血をされ、点滴をされ・・・とすべてのことがあっという間に進んでいきました。
その後のことはあまり覚えていないのですが、レントゲンやら心電図やらの検査を受けたような記憶がうっすらとあります。
次に気づくと、夫は一度ホテルに戻り、持込の禁止されている私物(脱がされた衣服)を持ち帰った代わりに、わたしの保険証書を持って帰ってきたところだといっていました。
とすると、たぶん1時間近くが経過していたのでしょう。
少し痛みが治まってくると、わたしはベッドのままガラガラと心臓専門の集中治療室に運ばれていき、身体の状態を常時モニタリングするためのさまざまな機器につながれました。
周りには人がどんどん集まってきて、私の症状の詳しい聞き取りと状態の説明がはじまります。
最初に日本語で通訳をしてくれた日系人女性はすでに勤務時間を終えて帰宅したらしく、私は理解と想像と諦めのごった煮状態でポルトガル語の説明を聞くことになりました。
「どうやら心臓らしい症状なのだが、X線、心電図、血圧等に異常が見られない」とのこと。
しかし、その日はずっと痛みが波のように強くなったり弱くなったりしながら続き、痛みが強くなるたびに私はそれを病院のスタッフに伝えるように言われました。
そのたびに、医療スタッフがわらわらと私のベッドの周りに集まってきて、「痛みの様子は?」などと質問するのですが、不思議なことに、同じポルトガル語でも人によってわかりやすい人とまったくわからない人がいるのでした。
痛みが夜まで続いた時点で、この時の担当医師だったセルジオ先生が言いました。
「カテーテルの検査を行いたい。今は、英語も日本語もできるスタッフがいないので、ポルトガル語で説明する。
きちんと理解したうえで承諾を得るために、わからないことがあったら必ずストップをかけてほしい。」
わたしはポルトガル語はわからないのですが、よく似た言語であるスペイン語はわかります。このセルジオ先生は声が大きく、ゆっくりと一語ずつ区切って話してくれる上に、わからない単語があると違う語彙で言い換えたり、その単語の説明をしてくれながら話してくれる人でした。
説明の内容は、以下のようなものでした。
「足の付け根か腕からカテーテルを入れ、心臓の筋肉や血管に欠陥や詰まっている箇所がないかどうか調べたい。
検査自体は通常危険なものではないが、それでも1%の危険性がある。
それを理解したうえで、承諾するという意志を表明してほしい。」
そして詳しい検査の内容や方法が説明されたのですが、われながら驚くことにこれらの説明が本当にスムーズに理解できてしまったのです。
「説明はわかりました。カテーテルの検査に同意します」
と答えたときには、周りのスタッフも
「おい!ポルトガル語がわからずに運ばれてきたのに、これだけのことが通じちゃったぞ!」
と大興奮状態になっていました。
まもなく夫がホテルから駆けつけてきて、家族の同意書にサインしました。
昨日わたしは「結婚しても特に変化はなかった」と書きましたが、この時のことを思い出すと、夫と二人で「もし結婚してなかったら、大変だっただろうね」としみじみと思います。
カテーテルの検査については、わたしの中では、見知らぬ土地の言語のわからぬ国で腕やら胸やらに針や電極をつけられれ、とてつもなく痛い注射を腹に打たれてモニタリング機械につながれている状態では、もうどんなものでもドンと来いというような心持だったのでした。
でも。
施術台に寝かされ、頭上のX-RAYの機械を見上げると、製造元の会社が日本語で書かれていて、その住所がわたしの住む同じ町名の1丁目違いだったのを見たとき、なぜかぶわーっと涙が出てきました。
そもそも、カテーテルって何なのさ。
差し込むってことはわかったけど、それ、いったいどんな形状のどんなもの?
細~い細~い管を、心臓までずずいっと差し込むわけ?
じゃあ、何でももっと心臓に近い位置から刺さないのよ?
ポルトガル語の説明を理解しようと必死だったときには思いもつかなかったさまざまな疑問や心細さが、寝台に横たわったら一気に噴出してきたみたいでした。
それにしても、サンパウロのホテル、
せっかく雰囲気のある素敵な部屋だったのに、全然泊まることができなかったなあ。
フロントに電話して、救急車が呼べるかどうか確認したり、誰か部屋まで迎えに来てもらえないかと交渉していましたが、とにかくフロントまできてくれといわれたらしく、わたしは這うようにしながらフロントまで降りました。
倒れこむようにソファに身体を預け、
「日本語の通じるスタッフがいるので、Santa Cruz病院にいきたい」
と苦しい息の下からやっとの思いで口にすると、フロントの男はカウンターから一歩も出ることなく、
「声が小さくておっしゃることがよく聞こえないんです」
とフロントらしい笑みを絶やすことなく英語で言い放ちました。
わたしは瞬間的・激烈的・天井知らず的に「チクショー、気取りやがって!」「覚えてろ、コノヤロウ!」と逆上したのですが、それを態度に表す行動がとれるはずもなく、精一杯の軽蔑をこめてチラッとそいつを一瞥して、「この顔を覚えとくぞ」と心に決めました。
フロントマンとは対照的に、ポーターのお兄ちゃんは体を寄せて言うことを聞き取ってくれ、タクシーまでしっかりと腕を取って支え、運転手に行き先も伝えてくれたのでおとなしくタクシーに乗り込みました。
タクシーは実際20分程度だったのかもしれないけれど、その間に意識を失うのじゃないかと何度も思うほど長く感じられました。
サンタクルーズ病院の急患にたどり着くと、すぐに車椅子に乗せられ、症状の説明のために日本語のできるスタッフが呼ばれ、服を脱がされてベッドに寝かされ、薬を飲まされ、採血をされ、点滴をされ・・・とすべてのことがあっという間に進んでいきました。
その後のことはあまり覚えていないのですが、レントゲンやら心電図やらの検査を受けたような記憶がうっすらとあります。
次に気づくと、夫は一度ホテルに戻り、持込の禁止されている私物(脱がされた衣服)を持ち帰った代わりに、わたしの保険証書を持って帰ってきたところだといっていました。
とすると、たぶん1時間近くが経過していたのでしょう。
少し痛みが治まってくると、わたしはベッドのままガラガラと心臓専門の集中治療室に運ばれていき、身体の状態を常時モニタリングするためのさまざまな機器につながれました。
周りには人がどんどん集まってきて、私の症状の詳しい聞き取りと状態の説明がはじまります。
最初に日本語で通訳をしてくれた日系人女性はすでに勤務時間を終えて帰宅したらしく、私は理解と想像と諦めのごった煮状態でポルトガル語の説明を聞くことになりました。
「どうやら心臓らしい症状なのだが、X線、心電図、血圧等に異常が見られない」とのこと。
しかし、その日はずっと痛みが波のように強くなったり弱くなったりしながら続き、痛みが強くなるたびに私はそれを病院のスタッフに伝えるように言われました。
そのたびに、医療スタッフがわらわらと私のベッドの周りに集まってきて、「痛みの様子は?」などと質問するのですが、不思議なことに、同じポルトガル語でも人によってわかりやすい人とまったくわからない人がいるのでした。
痛みが夜まで続いた時点で、この時の担当医師だったセルジオ先生が言いました。
「カテーテルの検査を行いたい。今は、英語も日本語もできるスタッフがいないので、ポルトガル語で説明する。
きちんと理解したうえで承諾を得るために、わからないことがあったら必ずストップをかけてほしい。」
わたしはポルトガル語はわからないのですが、よく似た言語であるスペイン語はわかります。このセルジオ先生は声が大きく、ゆっくりと一語ずつ区切って話してくれる上に、わからない単語があると違う語彙で言い換えたり、その単語の説明をしてくれながら話してくれる人でした。
説明の内容は、以下のようなものでした。
「足の付け根か腕からカテーテルを入れ、心臓の筋肉や血管に欠陥や詰まっている箇所がないかどうか調べたい。
検査自体は通常危険なものではないが、それでも1%の危険性がある。
それを理解したうえで、承諾するという意志を表明してほしい。」
そして詳しい検査の内容や方法が説明されたのですが、われながら驚くことにこれらの説明が本当にスムーズに理解できてしまったのです。
「説明はわかりました。カテーテルの検査に同意します」
と答えたときには、周りのスタッフも
「おい!ポルトガル語がわからずに運ばれてきたのに、これだけのことが通じちゃったぞ!」
と大興奮状態になっていました。
まもなく夫がホテルから駆けつけてきて、家族の同意書にサインしました。
昨日わたしは「結婚しても特に変化はなかった」と書きましたが、この時のことを思い出すと、夫と二人で「もし結婚してなかったら、大変だっただろうね」としみじみと思います。
カテーテルの検査については、わたしの中では、見知らぬ土地の言語のわからぬ国で腕やら胸やらに針や電極をつけられれ、とてつもなく痛い注射を腹に打たれてモニタリング機械につながれている状態では、もうどんなものでもドンと来いというような心持だったのでした。
でも。
施術台に寝かされ、頭上のX-RAYの機械を見上げると、製造元の会社が日本語で書かれていて、その住所がわたしの住む同じ町名の1丁目違いだったのを見たとき、なぜかぶわーっと涙が出てきました。
そもそも、カテーテルって何なのさ。
差し込むってことはわかったけど、それ、いったいどんな形状のどんなもの?
細~い細~い管を、心臓までずずいっと差し込むわけ?
じゃあ、何でももっと心臓に近い位置から刺さないのよ?
ポルトガル語の説明を理解しようと必死だったときには思いもつかなかったさまざまな疑問や心細さが、寝台に横たわったら一気に噴出してきたみたいでした。
それにしても、サンパウロのホテル、
せっかく雰囲気のある素敵な部屋だったのに、全然泊まることができなかったなあ。
わしジョーの好きな?『荘子』に以下のようなことががあります。
「筌蹄―意を得て言を忘る」
<意味>
筌(せん)は魚に在る所以なり。魚を得て筌を忘る。蹄(てい)は、兎に在る所以なり。兎を得て蹄を忘る。言は、意にある所以なり。意を得て言を忘る。吾れ安くにか夫の言を忘るるの人を得て之と言わんや。
<現代訳>
筌は魚を捕らえるための道具である。魚を捕らえてしまえば、筌のことは忘れてしまうものだ。わなは兎を捕らえるための道具である。兎を捕らえてしまえば、わなのことは忘れてしまうものだ。言葉は意味を捕らえるための道具だ。意味を捕らえたあとは、言葉には用がなくなるものだから、忘れてしまえばよい。
私は、言葉を忘れることのできる人間を探し出して、ともに語りたいものだ。
相手に伝われば言葉だろうが、身振り手振りでも何でもいいんでしょう!
しかし、わしジョーの場合飲んで見聞きしたことは、次の日覚えていないのでどうしよううも無いですが・・・
たれぞ~が、アレルギー性の劇症(アナフラキシーショックみたいなの)じゃないかって予想してます。
ほんと大変だったんですね。
涙が出てきたところを読んで
その気持ちわかるような気がしました。
それにしてもフロントの態度びっくりです。
急病人見てその態度とは…。
(罵声浴びせたのかと思いました。)
通じればいいんですよね。
まあ、スペイン語とポルトガル語は似てるので、12日もいるうちに慣れてきましたが・・・。
わしジョーさんは、飲んでる間は完全に話通じてますよ。まさか、翌日全く覚えてないとは思えないくらい。
ようちゃん、罵声を浴びせるというか、気の利いた皮肉でもいえたら最高だったんですが、もう声を出すのもやっとの状態だったんです。
もう、これ以上は一言も声出せない、くらいの。
ポーターさんがちゃんと聞いてくれてタクシーに行き先告げてくれたのは、ほんと助かりました。
スタッフに日系人も多いし(理事長も日系人)、
何よりも清潔な病院。
客層もいい病院ですね。
しかし、病名などを説明するときに、ポルトガル語とかのロマンス語系は便利。
病名や身体の部分の名称などはラテン語そのままなので、ほとんど同じですから。
しかし、とてつもないことが起きましたね。
ご無事で帰国されて、なによりです。
確かに、身体の部位とかほとんど一緒なので助かりましたが、そもそも心筋とか心膜とか、どちらにしてもよくわからないですけど。