最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●宇宙人のシッポ

2011-11-27 20:32:29 | 日記




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 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
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凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /
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 子育て最前線の育児論byはやし浩司   12月 9日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●「宇宙人の存在」(はやし浩司がつかんだ、ささやかな証拠)

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 MSN・ニュースサイトに、こんな興味深い記事が載っている。

 ノーベル科学賞を受賞した、ポール・クルーグマン氏が、11月10日、自身が担当す
る米ニューヨークタイムズ紙のレギュラーコラムで、先日ホワイトハウスが宇宙人との接
触を否定した発表について、厳しく批判したというのだ。

 「Fools」「Fools」と冒頭から冗談か真剣からともかく激しい批判の口調で書
き始めている「Space:The Final Stimulus」と題して論を展開して
いる。

 「宇宙人の存在こそが、次の経済の希望になるということをわかっていないのか」と政
府を批判したという(以上、MSNニュース・サイトより)。

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●宇宙人の存在

 私は気がつかなかったが、この記事によれば、ホワイトハウスが、宇宙人との接触を否
定したらしい。
それについて、ノーベル科学賞を受賞した、ポール・クルーグマン氏が、「バカ、バカ!」
と一蹴。
その上で、「宇宙人の存在こそが、次の経済の希望になるということをわかっていないのか」
と政府を批判した、というのだ。

●希望

 宇宙人の存在は、たしかに大きな希望である。
恐ろしい宇宙人もいるそうだが、逆説的に考えるなら、そういう宇宙人は少数派。

もし宇宙人がいて、その宇宙人が邪悪で、攻撃的であったとするなら、その宇宙人はとっ
くの昔に自滅していたはず。
破滅的な兵器も、同時にもっているはず。
その兵器で、自滅していたはず。

 宇宙を自由に行き来できるような科学力をもっている宇宙人がいるとするなら、その宇
宙人は、同時に、穏やかで平和的。
そうでなければ、……たとえば人間のように半世紀ごとに大きな戦争を繰り返すような宇
宙人なら、この宇宙では生きてはいかれない。
とっくの昔に自滅していたはず。

 もしそこに宇宙人がいるとするなら、穏やかで平和的。
そういう宇宙人に接触することは、希望以外の何ものでない。

●宇宙人がいるという証拠

 それにしても不思議なのは、なぜこの場に及んでも、アメリカ政府やNASAは、宇宙
人の存在を否定するかということ。
もうここまでわかっているのだから、いいかげんに事実を認めたらよい。
繰り返しになるが、私がつかんだ、「ささやかな証拠」をここに再掲載する。

 なおここに紹介する「火星上空を飛ぶUFO」について、知人の1人は、「カメラのレン
ズについたゴミ」と評している。
が、カメラをいじったことのある人なら、みな知っている。
レンズについたゴミは、こんなふうには、写らない。

 さらにおかしなことに、その後発表された写真には、このUFOは写っていない。
消されている。
NASAはなぜ、そんな小細工ばかり、繰り返すのか?

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●宇宙人はいる!(2011年5月に書いた原稿より)


++++++++++++++++++++


「はやし浩司」という1人の、小さな人間が住む、
そのまた小さな世界。
その中で、はやし浩司ははやし浩司なりに、
宇宙人の存在を確信した。


それは私の人生の中でも、特筆すべきできごと
といってもよい。
「他人を介していない」という意味において、
また私自身が確信できるという意味において、
特筆すべきことできごとといってもよい。


小さな、そのまた小さな証明だが、しかし
それ以上の証明が、この私にできるだろうか。
組織力も、調査力もない。
どこまでも小さな私である。
あなたと同じ、小さな人間である。


何はさておき、ここに新聞のコピー(1)と、
火星で撮影された写真(2)を、並べて掲載する。


(1)の記事は、私が2000年11月25日(土)に、
中日新聞に寄稿したエッセーである。
「2000年」という年号に注意しておいてほしい。


(2)の写真は、2003年6月10日に打ち上げられた、
アメリカの火星探査機「スピリット」が、地球に
送ってきた写真である。
スピリットは、2004年1月3日に火星に到達している。
つまりこの写真は、どんなに早くて、2004年1月
3日以後に撮影されたものということになる。


この「2004年」という年号に注意しておいてほしい。
その上で、私自身が描いた新聞上のイラストと、
スピリットが送ってきた写真を見比べてみてほしい。


もし逆、つまり私が描いたイラストがスピリットが
送ってきた写真よりあとということなら、私が
スピリットの送ってきた写真を模してイラストを
描いたと疑われてもしかたない。
しかし私のほうが、先に書いている。
2000年の11月である。
スピリットがこの写真を送ってきたのは、少なくとも
2004年1月以後である。
私がスピリットの送ってきた写真を模してイラストを
描いたということは、ありえない!


つまりこれが、私という小さな人間の、ささやかな、
実にささやかな「証拠」ということになる。
「宇宙人は存在する」という、ささやかな証拠
ということになる。


+++++++++++++++


(1)


2000年月1125日発表の原稿
★2000年、私が発表したコラム


★原稿より(上、写真版の読みづらい人は、どうか下をお読みください。)


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司


●見たぞ、UFO!(中日新聞記事より)(2000年11月)


見たものは見た。巨大なUFO、だ。
ハバが一、二キロはあった。しかも私と女房の二人で、それを見た。
見たことにはまちがいないのだが、何しろ二十五年近くも前のことで「ひょっとしたら…」
という迷いはある。が、その後、何回となく女房と確かめあったが、いつも結論は同じ。「ま
ちがいなく、あれはUFOだった」。


 その夜、私たちは、いつものようにアパートの近くを散歩していた。時刻は真夜中の一
二時を過ぎていた。そのときだ。何の気なしに空を見あげると、淡いだいだい色の丸いも
のが、並んで飛んでいるのがわかった。私は最初、それをヨタカか何かの鳥が並んで飛ん
でいるのだと思った。


そう思って、その数をゆっくりと数えはじめた。
あとで聞くと女房も同じことをしていたという。が、それを五、六個まで数えたとき、私
は背筋が凍りつくのを覚えた。
その丸いものを囲むように、夜空よりさらに黒い「く」の字型の物体がそこに現われたか
らだ。
私がヨタカだと思ったのは、その物体の窓らしきものだった。
「ああ」と声を出すと、その物体は突然速度をあげ、反対の方向に、音もなく飛び去って
いった。


 翌朝一番に浜松の航空自衛隊に電話をした。
その物体が基地のほうから飛んできたからだ。が、どの部署に電話をかけても「そういう
報告はありません」と。
もちろん私もそれがUFOとは思っていなかった。
私の知っていたUFOは、いわゆるアダムスキー型のもので、UFOに、まさかそれほど
までに巨大なものがあるとは思ってもみなかった。


が、このことを矢追純一氏(UFO研究家)に話すと、矢追氏は袋いっぱいのUFOの写
真を届けてくれた。
当時私はアルバイトで、日本テレビの「11PM」という番組の企画を手伝っていた。
矢追氏はその番組のディレクターをしていた。
あのユリ・ゲラーを日本へ連れてきた人でもある。
私と女房はその中の一枚の写真に釘づけになった。私たちが見たのと、まったく同じ形の
UFOがあったからだ。


 宇宙人がいるかいないかということになれば、私はいると思う。
人間だけが宇宙の生物と考えるのは、人間だけが地球上の生物と考えるくらい、おかしな
ことだ。
そしてその宇宙人(多分、そうなのだろうが…)が、UFOに乗って地球へやってきても
おかしくはない。
もしあの夜見たものが、目の錯覚だとか、飛行機の見まちがいだとか言う人がいたら、私
はその人と闘う。
闘っても意味がないが、闘う。私はウソを書いてまで、このコラム欄を汚したくないし、
第一ウソということになれば、私は女房の信頼を失うことになる。


 ……とまあ、教育コラムの中で、とんでもないことを書いてしまった。
この話をすると、「君は教育評論家を名乗っているのだから、そういう話はしないほうがよ
い。君の資質が疑われる」と言う人もいる。
しかし私はそういうふうにワクで判断されるのが、好きではない。文を書くといっても、
教育評論だけではない。
小説もエッセイも実用書も書く。ノンフィクションも得意な分野だ。東洋医学に関する本
も三冊書いたし、宗教論に関する本も五冊書いた。うち四冊は中国語にも翻訳されている。


そんなわけで私は、いつも「教育」というカベを超えた教育論を考えている。
たとえばこの世界では、UFOについて語るのはタブーになっている。だからこそあえて、
私はそれについて書いてみた。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司


イラスト拡大図(2000年11月の記事より)
★コラムの中のイラストの拡大図


d88cbd81.jpg
★火星探査機「スピリット」が送ってきた、火星上空を浮遊するUFO(2004年)


●火星上のUFO.jpg
★(UFOの拡大写真)


2004年に火星探査機「スピリット」によって撮影された火星上空のUFO
★別の本に紹介された、火星上空のUFO(「世界のUFO現象」(学研))


●宇宙人は、確かにいる!


 私はあの夜のことを忘れない。
あの夜、私とワイフは、UFOを見た。
が、当初、私は、それをUFOとは思わなかった。
私が聞いていたUFOは、円盤形のものをいう。
「く」の字型(ブーメラン型)のUFOなど、知るよしもなかった。
しかも、巨大だった。
天空をぐいと横切るほど、巨大だった。
新聞記事の中では、1、2キロと書いたが、実際のところ、よくわからない。
それよりも大きかったかもしれない。
あるいは小さかったかもしれない。
が、飛行機とは比較にならないほど、巨大だった。


 あの夜見たものを、もう一度、整理しておきたい。


(1)窓


 私もワイフも窓らしきものを目撃している。
大きな丸い窓(?)で、よく見ないとわからないほど、淡い橙色のものだった。
私はそれはジグザグに並んでいたように思うが、ワイフは、一直線だったと言っている。


(2)黒いシルエット


 私は黒いシルエット(輪郭)を見ているが、ワイフはよく覚えていないという。
最初はそのシルエットは見えなかった。
少しずつ黒くなって、真上にきたとき、黒いシルエットとなった。
黒いシルエットが、その背景の夜空よりも黒く、夜空に浮かびあがった。
月は出ていなかったように記憶している。


 私が記憶しているシルエットは、中日新聞紙上で発表したとおりである。
私はその形を忘れないように、当時、何かにメモした記憶がある。


(3)消え方


 私が見たそのUFOは、西の方角からゆっくりやってきて、真上に来たとき、突然
スピードをあげ、東の方角へ飛んでいった。
スーッという感じだった。
そのときのこと。
そのUFOは、遠ざかって消えるというよりは、空に溶け込むようにして
消えていった。
大きさは遠ざかるにつれて小さくなったように感じたが、そのまま透明になり、
消えていった。


 その先に白い小さな筋雲がいくつかあったように記憶している。
そのUFOは、雲の中に消えたのではない。


(4)自衛隊に電話


 その直後、私は電話帳で自衛隊基地の番号を知り、電話をかけた。
何度もかけたように記憶している。
その夜は、ほとんど一睡もせず、朝を待った。


 電話がやっとつながったのは、午前8時30分だったように記憶している。
つながった先は、たしか「管制室」だったと思う。
電話口の向こうの男性は、「そういう報告はあがっていません」とだけ、何度も
繰り返した。
私は「そんなはずはない!」と、何度も押し問答を繰り返した。
「あんな大きなものが上空を通過したのに、レーダーに映っていないはずがないだろ!」
と言った記憶がある。


(参考)(豊田ひろし氏のHPより抜粋)


『……火星の表面を移動し、水が存在した証拠を探る米航空宇宙局(NASA)の無人探
査車「スピリット」が米太平洋時間3日[2004年1月]午後8時35分(日本時間4日午後1
時35分)、火星に着陸、周囲の写真撮影に成功しました。


 スピリットは、火星の大気圏に時速1万9000キロ以上の高速で突入。パラシュートとロ
ケット噴射で減速するとともに、24個のエアバッグを膨らませて本体を包み、着陸後バウ
ンドを繰り返した末に無事停止しました。専門家が「地獄のようなもの」と呼ぶ、1400度
を超す高温と接地時の激しい衝撃に耐え、探査車は生き残りました。


 スピリットは2003年6月10日MER-A 1号機によって打ち上げられ,約7ヶ月弱で火星
に到着しました。


スピリットは今後約1週間かけて観測機器の機能を確認。その後約3カ月間、周囲を走り
回り、カメラや試料採取装置などを使って岩石や土壌の組成を分析、水の痕跡を探ること
で、生命の有無を確かめます。いままでは,すべてモノクロ写真の地上撮影でしたが,今回
は地上のカラー写真もはじめて撮影しました』(豊田ひろし氏のHPより)。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●希望論(2000年ごろ書いた原稿より)

 希望にせよ、その反対側にある絶望にせよ、おおかたのものは、虚妄である。
『希望とは、めざめている夢なり』(「断片」)と言った、アリストテレス。
『絶望の虚妄なることは、まさに希望と相同じ』(「野草」)と言った、魯迅などがいる。

さらに端的に、『希望は、つねに私たちを欺く、ペテン師である。
『私のばあい、希望をなくしたとき、はじめて幸福がおとずれた』(「格言と反省」)と言っ
た、シャンフォールがいる。

 このことは、子どもたちの世界を見ているとわかる。

 もう一〇年にもなるだろうか。
「たまごっち」というわけのわからないゲームが、子どもたちの世界で流行した。
その前後に、あのポケモンブームがあり、それが最近では、遊戯王、マジギャザというカ
ードゲームに移り変わってきている。

 そういう世界で、子どもたちは、昔も今も、流行に流されるまま、一喜一憂している。
一度私が操作をまちがえて、あの(たまごっち)を殺して(?)しまったことがある。
そのときその女の子(小一)は、狂ったように泣いた。「先生が、殺してしまったア!」と。
つまりその女の子は、(たまごっち)が死んだとき、絶望のどん底に落とされたことになる。

 同じように、その反対側に、希望がある。
ある受験塾のパンフレットにはこうある。

 「努力は必ず、報われる。希望の星を、君自身の手でつかめ。○×進学塾」と。

 こうした世界を総じてながめていると、おとなの世界も、それほど違わないことが、よ
くわかる。
希望にせよ、絶望にせよ、それはまさに虚妄の世界。
それにまつわる人間たちが、勝手につくりだした虚妄にすぎない。その虚妄にハマり、と
きに希望をもったり、ときに絶望したりする。

 ……となると、希望とは何か。絶望とは何か。
もう一度、考えなおしてみる必要がある。

キリスト教には、こんな説話がある。あのノアが、大洪水に際して、神にこうたずねる。「神
よ、こうして邪悪な人々を滅ぼすくらいなら、どうして最初から、完全な人間をつくらな
かったのか」と。

それに対して、神は、こう答える。「人間に希望を与えるため」と。
 少し話はそれるが、以前、こんなエッセー(中日新聞掲載済み)を書いたので、ここに
転載する。

++++++++++++++++++++

子どもに善と悪を教えるとき

●四割の善と四割の悪 

 社会に四割の善があり、四割の悪があるなら、子どもの世界にも、四割の善があり、四
割の悪がある。

子どもの世界は、まさにおとなの世界の縮図。
おとなの世界をなおさないで、子どもの世界だけをよくしようとしても、無理。子どもが
はじめて読んだカタカナが、「ホテル」であったり、「ソープ」であったりする(「クレヨン
しんちゃん」V1)。

つまり子どもの世界をよくしたいと思ったら、社会そのものと闘う。
時として教育をする者は、子どもにはきびしく、社会には甘くなりやすい。
あるいはそういうワナにハマりやすい。
ある中学校の教師は、部活の試合で自分の生徒が負けたりすると、冬でもその生徒を、プ
ールの中に放り投げていた。

その教師はその教師の信念をもってそうしていたのだろうが、では自分自身に対してはど
うなのか。自分に対しては、そこまできびしいのか。
社会に対しては、そこまできびしいのか。
親だってそうだ。子どもに「勉強しろ」と言う親は多い。しかし自分で勉強している親は、
少ない。
________________________________________
●善悪のハバから生まれる人間のドラマ

 話がそれたが、悪があることが悪いと言っているのではない。
人間の世界が、ほかの動物たちのように、特別によい人もいないが、特別に悪い人もいな
いというような世界になってしまったら、何とつまらないことか。

言いかえると、この善悪のハバこそが、人間の世界を豊かでおもしろいものにしている。
無数のドラマも、そこから生まれる。旧約聖書についても、こんな説話が残っている。

 ノアが、「どうして人間のような(不完全な)生き物をつくったのか。
(洪水で滅ぼすくらいなら、最初から、完全な生き物にすればよかったはずだ)」と、神に
聞いたときのこと。
神はこう答えている。

「希望を与えるため」と。

もし人間がすべて天使のようになってしまったら、人間はよりよい人間になるという希望
をなくしてしまう。
つまり人間は悪いこともするが、努力によってよい人間にもなれる。
神のような人間になることもできる。旧約聖書の中の神は、「それが希望だ」と。
________________________________________
●子どもの世界だけの問題ではない

 子どもの世界に何か問題を見つけたら、それは子どもの世界だけの問題ではない。
それがわかるかわからないかは、その人の問題意識の深さにもよるが、少なくとも子ども
の世界だけをどうこうしようとしても意味がない。
たとえば少し前、援助交際が話題になったが、それが問題ではない。
問題は、そういう環境を見て見ぬふりをしているあなた自身にある。
そうでないというのなら、あなたの仲間や、近隣の人が、そういうところで遊んでいるこ
とについて、あなたはどれほどそれと闘っているだろうか。

私の知人の中には五〇歳にもなるというのに、テレクラ通いをしている男がいる。
高校生の娘もいる。
そこで私はある日、その男にこう聞いた。「君の娘が中年の男と援助交際をしていたら、君
は許せるか」と。するとその男は笑いながら、こう言った。

「うちの娘は、そういうことはしないよ。うちの娘はまともだからね」と。

私は「相手の男を許せるか」という意味で聞いたのに、その知人は、「援助交際をする女性
が悪い」と。
こういうおめでたさが積もり積もって、社会をゆがめる。子どもの世界をゆがめる。
それが問題なのだ。
________________________________________
●悪と戦って、はじめて善人

 よいことをするから善人になるのではない。
悪いことをしないから、善人というわけでもない。
悪と戦ってはじめて、人は善人になる。
そういう視点をもったとき、あなたの社会を見る目は、大きく変わる。子どもの世界も変
わる。(中日新聞投稿済み)

++++++++++++++++++++++

 このエッセーの中で、私は「善悪論」について考えた。
その中に、「希望論」を織りまぜた。それはともかくも、旧約聖書の中の神は、「もし人間
がすべて天使のようになってしまったら、人間はよりよい人間になるという希望をなくし
てしまう。
つまり人間は悪いこともするが、努力によってよい人間にもなれる。
神のような人間になることもできる。それが希望だ」と教えている。

 となると、絶望とは、その反対の状態ということになる。キリスト教では、「堕落(だら
く)」という言葉を使って、それを説明する。
もちろんこれはキリスト教の立場にそった、希望論であり、絶望論ということになる。
だからほかの世界では、また違った考え方をする。

冒頭に書いた、アリストテレスにせよ、魯迅にせよ、彼らは彼らの立場で、希望論や絶望
論を説いた。
が、私は今のところ、どういうわけか、このキリスト教で教える説話にひかれる。
「人間は、努力によって、神のような人間にもなれる。それが希望だ」と。

 もちろん私は神を知らないし、神のような人間も知らない。
だからいきなり、「そういう人間になるのが希望だ」と言われても困る。
しかし何となく、この説話は正しいような気がする。
言いかえると、キリスト教でいう希望論や絶望論に立つと、ちまたの世界の希望論や絶望
論は、たしかに「虚妄」に思えてくる。
つい先日も、私は生徒たち(小四)にこう言った。授業の前に、遊戯王のカードについて、
ワイワイと騒いでいた。

 「(遊戯王の)カードなど、何枚集めても、意味ないよ。
強いカードをもっていると、心はハッピーになるかもしれないけど、それは幻想だよ。
幻想にだまされてはいけないよ。
ゲームはゲームだから、それを楽しむのは悪いことではないけど、どこかでしっかりと線
を引かないと、時間をムダにすることになるよ。
カードなんかより、自分の時間のほうが、はるかに大切ものだよ。
それだけは、忘れてはいけないよ」と。

 まあ、言うだけのことは言ってみた。しかしだからといって、子どもたちの趣味まで否
定するのは、正しくない。
もちろん私たちおとなにしても、一方でムダなことをしながら、心を休めたり、癒(いや)
したりする。
が、それはあくまでも「趣味」。決して希望ではない。
またそれがかなわないからといって、絶望する必要もない。
大切なことは、どこかで一線を引くこと。
でないと、自分を見失うことになる。時間をムダにすることになる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●ポール・クルーグマン氏(ノーベル科学賞受賞者)

 ポール・クルーグマン氏について、ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。

『ポール・クルーグマン(Paul Robin Krugman、1953年2月28日)は、アメリカの
経済学者、コラムニスト。
現在、プリンストン大学教授、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス教授を兼任。
1991年にジョン・ベーツ・クラーク賞、2004年にアストゥリアス皇太子賞社会科学部門、
2008年にはノーベル経済学賞を受賞した。

専門の国際経済学の分野以外でも積極的に発言しており、反ジョージ・W・ブッシュの旗
手としても知られる。

また、2008年の民主党大統領候補指名のキャンペーンでヒラリー・クリントン候補のメデ
ィケア政策を擁護し、一時的にバラク・オバマ陣営から批判が出たものの、結果的にはメ
ディケアに対してオバマ陣営が当初表明していた共和党寄りの方針を撤回させ、民主党の
本流の政策に転換させることに成功している。
ただし、この論争がしこりとなりクルーグマンは民主党の要職から外れることになった』
(以上、ウィキペディア百科事典より)と。

 ポール・クルーグマン氏については、そういう人であるということがわかった。
MSNニュースにあるように、「ノーベル科学賞」ではなく、「ノーベル経済学賞」。
そう言えば、「ノーベル科学賞」というのは、聞いたことがない。
正しくは「ノーベル経済学賞」。

 ともかくも、そういう人の発言であるだけに、たいへん興味深い。

●宇宙人はいる!

 宇宙人論では、私はかなり叩かれた。
事実、教育の世界で宇宙人を口にすると、即、変人扱いを受ける。
(ただし私は教室で、子どもたちに宇宙人の話をしたことはない。念のため。)

 「君は教育者を名乗るのだから、そういうことは口にしないほうがいい」と忠告してく
れた人もいる。
(私自身は、「教育者」を名乗ったことは、一度もないのだが……。)

 が、ここに書いたコラムのように、「見たものは、見た!」。
たったそれだけのことだが、この日本では、それすら、自由に言ったり書いたりすること
ができない。

 ……つまり、こうして一歩、一歩、アメリカ政府やNASAを追いつめていく。
彼らは、何かを隠している。
つまり何かを知っている。
それを知るのは、人類全体の「希望」でもある。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 ノア 人間を滅ぼすく
らいなら ポール・クルーグマン はやし浩司 火星上空のUFO ブーメラン型UFO)


Hiroshi Hayashi++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●時間という砂時計

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ワイフの老眼鏡が、合わなくなった。
老眼の度が進んでいるという。
眼科医で調べてもらうと、ドクターがそう言ったという。
そこで近くのメガネ屋へ。

大通りに出て右に曲がると、やがて橋を越える。
橋全体が高くなっていて、一瞬だが、見晴らしがよくなる。
川幅は50メートル前後はあるだろうか。
近くの佐鳴湖から浜名湖へ流れる、人工の用水である。

時は晩秋。
明るい日差しを浴びて、川面が光っていた。
が、見ると、ちょうど釣り人が、ルアーを川に投げ込むところだった。
カラフルな服を着ていた。

++++++++++++++++++++++

●人それぞれ……

 生き様は人、それぞれ。
私は私、あなたはあなた。
人は人。
しかしそれを見た瞬間、私はこう思った。
「ぼくには、できないな」と。

 ……こう書くからといって、魚釣りが、どうこう言うのではない。
また釣り人が、どうこう言うのではない。
先にも書いたように、人、それぞれ。
が、私にはできない。
そうでなくても、時間が足りない。
「忙しい」というのではない。
「時間が足りない」。

●レジュメ

 午前中は、今度浜北区の文化センターで講演をすることになった。
その資料をまとめた。
浜松市内では、今年度最後の講演会である。
総まとめ。
その日に向け、テンションを高めていく。
昨日から少しずつだが、運動量もふやした。

 そのため、つまり資料の整理のために、1~2時間ほどつぶした。
で、そのあと、もう一度、自動車G会の原稿に目を通す。
英文で要約説明文も、書かねばならない。
巻頭言で6ページ。
全世界で発行されるという。
それぞれの国の言語に翻訳されるという。
いろいろな原稿を書いてきたが、これほどまでの依頼は、はじめて。
気合いが入る。

●田丸謙二先生

 田丸謙二先生が、いかに偉大な人物であるかは、いまさらここに書くまでもない。
肩書(経歴)を並べたら、とても1枚の紙には収まらない。
その田丸謙二先生が、先日、ドイツで行われた「ハーバー記念講演会」に講師として招か
れた。
全世界から1000人近い、科学者が集まったという。
ノーベル賞受賞者も多数、いたという。

 が、何よりも驚くのは、今年、田丸謙二先生が、88歳であるということ。
常識的に見れば、ヨボヨボの老人ということになる。
その田丸先生に、自動車G会の原稿を送った。

●裸で勝負

 「田丸謙二先生へ、
今度自動車G会のために書いた原稿を送ります。
年1回発行され、全世界で配布されます。

 先生にお会いしたのが、1970年。
そのとき私は心に誓いました。
『この先生と、裸で勝負してやる』と。
先生は東大で、30代で教授になったとか。
東大でも最年少で教授になったと、先生は自慢していました。

 で、以来、42年。
先生から見れば、ヒヨコみたいかもしれませんが、いっさいの組織に属することもなく、
いっさいの肩書もなく、ここまでがんばってきました。
ぼくも、88歳までがんばってみます」と。

●魚釣り

 先にも書いたように、「とにかく時間がない」。
今の私は、その一言に尽きる。

 知りたいことは、山のようにある。
知らないことも、これまた山のようにある。
1冊の週刊誌を読んだだけでも、頭の中でバチバチと火花が飛ぶ。
だからといって、私の生き様が正しいとか、また人もそうであるべきとか、そんなふうに
考えているわけではない。
私は私。
人は人。

 が、今の私には、仮に100歩譲っても、魚釣りはできない。
食べ物に困って、その食材にということであるなら、話は別。
しかしすぐ、こう考えてしまう。
「……だから、それがどうしたの?」と。
つまり「魚を釣ったからといって、それがどうしたの?」と。

 私に当てはめてみると、その答が返ってこない。
どうしても返ってこない。

●健康余命まで、あと4年

 命は砂時計のようなもの。
「……ようなもの」ではなく、「命は砂時計」と断言してもよい。
刻一刻と、命は短くなっていく。
その心境は大病で、死を宣告された患者と同じ。
「あなたはがんです。余命はあと半年です」と宣告されれば、だれだって慌てる。
が、「あなたの寿命は、あと14年です」と言われても、慌てる人はいない。
が、どうして?

 たったの14年だぞ!
私は現在、64歳。
日本人の平均余命(男性)は、79歳前後。
もっともそれまで元気なら、まだよいほう。
その前、平均して10年間ほど、病魔と闘わねばならない。
(平均余命)から10年を引いた年齢。
これを「健康余命」という。
つまり健康でこうしてがんばれるのも、あと4年。
たったの4年だぞ!

 それを思ったら、とても魚を釣って時間をつぶす余裕などない。
少なくとも、私にはない。

●だからそれがどうしたの?

 私はよく自分に問いかける。
「だから、それがどうしたの?」と。

 そのときズシリとした答が返ってくるときもあれば、そうでないときもある。
その答がないとき、私は深い悔恨の念にとらわれる。
「時間を無駄にした」と。

 先に『命は砂時計』と書いた。
命は、砂時計の砂のように、刻一刻と、下へ落ちていく。
「砂」といっても、ただの砂ではない。
それがわからなければ、「金」に置き換えてもよい。

 若い人にしても、そうだ。
時間給はそれぞれちがうだろう。
しかし同時に、命は、1時間ごとに減っていく。
金銭で置き換えることはできない。
しかしまさに「金(ゴールド)」。
あるいは、はるかにそれ以上。

●定年退職者?

 のどかな風景。
どこにでも見られる風景。
このところ、プラス気になるのは、私の年代層の人たちが、急にふえてきたということ。
見た感じでは、定年退職者?
本当に魚釣りを楽しんでいるというよりは、暇つぶし?

 こう書くとたいへん失礼ということは、よくわかっている。
あるいは本当は、そういう人たちでも、こう叫びたいのかもしれない。
「もっと仕事をしたい」「もっと意味のあることをしたい」と。

 書き忘れたが、用水といっても、全国でも汚染度ナンバー5前後を争っている。
そんな湖から流れ出てくる用水の魚を釣って、食べる人はいない。
だとするなら、なおさら、「……だから、それがどうしたの?」となる。

●老後は孫の世話?

 が、たぶん、若い人たちはこう考えるにちがいない。
「人生も終わったのだから、ゆっくり休んだらどう?」と。

 私も若いころは、老人たちを見て、そう考えていた。
「老後は、庭いじりと孫の世話」と。

 しかし私のその年齢になった。
なってみて、こんなことがわかった。
青い空は、やはり青い空。
白い雲は、やはり白い雲。
老人組に入ったからといって、色があせてくるわけではない。
自分の髪の毛の白さにしても、顔のシワにしても、自分では見えない。
つまり心は、若いときと、何も変わっていない。

 若い人たちが、「庭いじりと孫の世話はできない」と思うのと同じように、私たちだって、
本音を言えば、それだけで時間をつぶすことはできない。
が、それよりも恐ろしいことが起きるようになる。

●底に穴のあいたバケツ

 これは推測でも何でもない。
医学的に証明された事実でもない。
しかし実感として、老人組に入ると、それがよくわかる。
つまり脳みその底に穴があいたような状態になる。
それがよくわかる。
その穴から、知識や経験、技術や能力が、どんどんと外へこぼれ出ていく。

 ほんの数か月前まで知っていたことが、消えてしまったり、ほんの数週間前までできた
ことができなくなったりする。
そんなことが連続して起きるようになる。

 ど忘れなど、日常茶飯事。
 
 それは恐怖以外の何物でもない。
が、闘う方法がないわけではない。
先に書いた田丸謙二先生は、50歳を過ぎて中国語を独学し、60歳のころ、中国の科学
院(もっとも権威のある学会)で、記念講演をしている。
もちろん中国語、で!

 そういう先生を鏡にすると、一瞬一秒、無駄にできる時間はない。
が、もしここで今、現在の状態の上にアグラをかいてしまったら……。
それこそ死の待合室にまっしぐら。
たわいもない世間話か、兄弟親類のゴシップ話。
そんな話に花を咲かせるようになる。
しかも繰り返し、繰り返し、同じ話をするようになる。

●終わりに

 だからといって、繰り返すが、魚釣りがどうのとか、それを楽しんでいる人がどうのと
か、そんなことを書いているのではない。
私は私。
あなたはあなた。
人は人。

 それぞれの人が、それぞれの人生を歩む。
大切なことは、それぞれの人がそれぞれの人の人生を認めあうこと。

わかっている!

 このエッセーを読んで、こう思っている人もいるにちがいない。
「はやし浩司もかわいそうな男だ」と。
「人生を楽しむことも知らない、あわれな男だ」と。

 しかし誤解しないでほしい。
今の私には、今の私が楽しい。
こうして日々に新しい発見をしていくことが、私には楽しい。

 ……こうして私に好き勝手なことをさせてくれるワイフに感謝しながら……。

(はやし浩司 2011―11―13日記)


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●闇路に迷う愚痴人間(六趣輪廻)

2011-11-27 19:35:30 | 日記
●11月27日・日曜日・(恩師の1周忌)『六趣輪廻の因縁』

+++++++++++++++++++++++

起きたときは、それほど寒くは感じなかった。
が、朝ごはんを食べるころ、急に寒さを感じた。
これはどういう現象によるものなのか。
その間、書斎の机に、2時間ほど向かって座っていた。
途中、ワイフがやってきて、茶を出してくれた。
が、私は書斎では、暖房器具を使わない。
ストーブも使わない。
脳みそには、暖気は強敵。
足を暖めただけで、眠くなってしまう。

が、台所では、ストーブがついていた。
気温も22度もあった。
が、それを寒く感じた。

脳みそはともかくも、肉体は、怠けるとすぐ新陳代謝を止めてしまう。
あるいは頭が熱くなると、体は冷えるのか。
どうであるにせよ、寒い!

++++++++++++++++++++++

●老眼用(装着)メガネ

 今、恩師の一周忌に向かう車の中にいる。
自宅から車で、1時間。
昨日買った、老眼用のメガネが役に立っている。
老眼用のメガネというのは、ふつうのメガネの上にさらに装着して使うメガネのこと。
「1・5度」という度数が書いてあるが、どういう意味なのか、よくわからない。

 それをつけると、車の中でもパソコンの文字が、楽に読める。

●1周忌

 昨年の葬儀のときも、寒かった。
今日も、寒い。
が、あれからもう1年。
早いというより、恩師の死が、遠い昔のできごとのように思われる。

 いろいろあった。
3・11大震災。
原発事故。
タイの大洪水。
EUの金融危機などなど。
この1年で、日本を取り巻く環境は、一変した。

 その恩師。
いつも私の原稿を、私のワイフよりもていねいに読んでくれた。
心の奥底をいかに包み隠して書いても、恩師だけはそれを読み取ってくれた。

●1号線

 国道1号線は、この20年あまり、ほとんど変わっていない。
側に並ぶ店も、店の名前も、20年前のまま。
「なあ、一周忌のあと、どうする?」と私。
「うん、帰るよ」とワイフ。

 たった今、3、4台の大型バイクが、目前を左から右へ、大きくカーブして横切っていった。
「寒くないのだろうか?」と、それを見やりながらそんなことを考えた。

 空は灰色。
雲の境目が見えない。
一面、ボヤーッとしている。
私は冬の寒さも、冬景色も、嫌い。
気分まで、重くなる。

●「歩こう会」

 気賀の駅を通り過ぎたところで、「歩こう会」※の人たちを追い抜いた。
かなりの人数である。
そういう人たちが、駅から、気賀の関所を通り抜け、突き当りの本陣宿のあたりまで、ずっと並んで歩いていた。
全部で、4、500人はいただろうか。
まばらだが列は、数キロ先までつづいていた。

 私たちもよく「歩こう会」に出るが、これほどまでの人数は見たことがない。
JRかどこか、大きな団体が企画した「歩こう会」なのだろう。
それにしても、すごい。
まるで祭りの日の人出のよう。

(注※:あとで参加者の1人に聞くと、JR主催の「さわやかウォーキング」の会の人たちということがわかった。)

●船酔い

 メガネのせいか?
少し船酔いに似ためまいを感じた。
……ここでいったん、パソコンを閉じる。
それにしても、TOSHIBAのR631は、よいパソコンだ。
開いているだけで、指先がもぞもぞしてくる。

 ただ残念なのは、私はこのパソコンを発売日の11月11日に買った。
が、それから2週間もたっていないのに、価格が3万円近くも下落した。
ワイフは「少し待っていれば、安く買えたのに……」と言った。

 ……そういうものでもないのだが……。
パソコンの価格は、それをどう使うかで決まる。
いくら安くても、使わないものは、使わない。
たとえばこの5月に、DOCOMOで携帯端末を買ったとき、ミニパソコンをおまけにくれた。
が、そのパソコンは、ほとんど使っていない。
机の上のゴミになっている。

 これについてもワイフは、こう言う。
「だれかにあげたら……?」と。

 しかしパソコンというのは、人にあげるものではない。
リカバリーすれば安心だが、そうでなければ、人にあげるものではない。
どこからどのような情報が他人に漏れるか、わかったものではない。
それがこわい。

●法要

 1周忌には、家族全員と親類。
それに恩師の仲間たち、30~40人が集まっていた。
ワイフと控室で待っていると、横に私と同年齢らしき男性が座った。
その男性が、この1年のことをあれこれ話した。
そして「今は、どこも不景気です」と顔をしかめた。

 S社(自動車会社)のエンジン部品を製造しているという。
日本でしか作れない部品だから……と安心していたが、3・11大震災、タイの大洪水のあと、S社は、同じ部品をアメリカの工場に発注してしまったという。
 
 「1年前に戻りたいですよ」と、2、3度、同じことを言った。

 どこもかしこも、不景気。
そんな話ばかり。

●臨済宗

 1周忌は、臨済宗で執り行われた。
いつものチン・ポン・ジャランはなかった。
その代わり、木魚(もくぎょ)が叩かれた。
ポクポクポク……。
その響きが心地よかった。

 久しく正座などしたことがなかったのに、どういうわけか、足が痛くならなかった。
どうしてだろう?
ときどきワイフが心配して、私の足の心配をした。

●法事

 1周忌の法事は、1時間足らずですんだ。
私とワイフは、喪主である恩師の奥さんに別れを告げ、寺を出た。
水色の空に、飛行機雲が何本か走っていた。

ワ「どこかへ寄っていかない?」
私「いいよ」
ワ「コンビニはどう?」
私「ミニストップなら、中で食事もできる」と。

 結局、私たちは「ガスト」という店に寄った。
日曜日ということもあり、店中は、子ども連れの夫婦で混雑していた。
にぎやかというより、幼稚園の参観日のような雰囲気だった。
私たちは10分ほど、玄関先の長椅子で待ったあと、席に着いた。

 で、こんなことがあった。
ガストに入る前、「歩こう会」の夫婦とすれちがった。
そのとき私はこう聞いた。
「どこの会ですか?」と。

 妻のほうが、こう答えた。
「さわやかウォーキングです」と。
で、私は「JRの……?」と聞き返したら、数歩先を歩いている夫のほうが、妻を叱った。
「おい、いいから、行くぞ! 放っておけ!」と。

 妻はそそくさとその場を離れながら、「JRです」と。
困ったような笑顔が印象的だった。

 どこの世界にも、このタイプの夫はいる。
60代、70代の夫婦となると、ほとんどがそうであると言ってよい。
が、どうしてそんなに威張れるのだろう?
威圧的。
昔の武士がどんなだったかは知らない。
しかし武士そのもの。

●ガスト

 飲食店は、どこも大不況という。
しかしガストの混み具合を見ていると、「?」と思ってしまう。
なぜこうした店は流行(はや)るのか?

 それは私自身の心の中をのぞいてみるとわかる。

(1) 安い。
(2) 早い。
(3) 安心。
(4) おいしい。
(5) 清潔。
(6) サービスよし。

 「安心」というのは、ガストなら、どこへ行っても同じ味を楽しむことができる。
料金も同じ。
個人経営の店は、(今ではほとんど残っていないが)、その「安心」がない。

 実はおけいこ塾も同じ。
学習塾でもよい。
どこかクセのある塾よりは、大手塾のほうが「安心」。
そのため今では、中小塾は、どこも経営がきびしい。
というより、ほとんどが今、開店休業状態。

 で、親たちは、チラシを見て、塾を選ぶ。
1色刷のチラシでは、生徒は集まらない。
3色刷のチラシでも、むずかしい。
「4色刷でないと、集まらない」という。

 が、個人の塾では、4色刷のチラシを作るのは、経済的にも不可能。
勝敗は、そのとき決まる。

 ……ガストのメニューは、ほとんどが4色刷。
カラフルであか抜けている。
それをワイフに話しながら、「これは3色刷……。これが4色刷……」と教えてやった。
ワイフはそれを見比べながら、「3色刷になると、ちゃっちぽくなるわね」と言った。

●帰り道

 ガストを出たのが、12時45分ごろ。
今は帰りの車の中にいる。

 「どこか、温泉でも行きたいね」と私。
「そうね」とワイフ。

 ……帰り道、床屋へ寄っていく。
髪の毛がかなり伸びた。
「あの店?」とワイフ。
「うん」と私。

 私のようなシルバーは、1400円で調髪してもらえる。
そういう店が、私の家の近くにある。

●意識

 今朝、夢について書いた。
意識の奥深くから沸き起こってくる夢。
その深遠さについて書いた。
たとえて言うなら、意識というのは、卵でいうなら殻のようなもの。
脳の大部分は、無意識の世界にある。

 それについてワイフの話すと、こう聞いた。
「意識って、そんなに薄っぺらいの?」と。
で、私は、こんな例を話した。

 たとえば私は、過去、何千人もの子どもたちを教えてきた。
同時に、同じ数だけの親たちに会ってきた。
それもあり、街中を、30分も歩くと、かならずといってよいほど、1人や2人、顔見知りの人に出会う。

 その瞬間のこと。
名前も、いつどこで出会ったかも思い出せない。
しかし顔を見た瞬間、ふと懐かしさがこみあげてくる人もいれば、反対に不快な思いが心をふさぐこともある。
心のほうが、先に反応してしまう。

 よい思い出のある親や子どもに会うと、懐かしさがこみあげてくる。
悪い思い出のある親や子どもに出会うと、不快な思いがこみあげてくる。
名前や、いつどこで出会ったかを思い出すのは、そのあと。
あいさつをしたり、知らぬ顔をして通り過ぎたりしたあと、「あのときの……」となる。

 つまり意識としては覚えていなくても、その何十万倍(あるいは何百万倍かもしれない)、
別の心が先に反応してしまう。
私であって、私でない別の心が、先に反応してしまう。
心(=脳)というのは、そういうもの。
夢というのは、その何十万倍(あるいは何百万倍)もの世界から、湧き起きてくる。

もし意識で夢をコントロールできたり、その前日あったできごとのつづきのような夢を見たら、(たまにそういうこともあるが)、精神状態がふつうでないことを疑ってみたほうがよい。

●床屋

 私はいつも1000円床屋へ行く。
安いからではない。
近くにあるし、それに早い。
長くて15分程度ですんでしまう。
(洗髪を頼まなければ、10分程度。)
それに無駄な会話がないのも、よい。
こちらも話しかけないし、向こうも話しかけてこない。

 洗髪を入れたりすると、1400円になる。
それでも安い。
ふつうの床屋と比べると、半分以下。

 床屋にとっても、そのほうがよいのでは?
1回、4200円というと、高い。
1400円というと、安い。
だから料金を気にすることなく、頻繁に行く。
ふつうの床屋へ1回行く分で、3回、行ける。
買い物の帰りに、「ちょっと……」となる。

 つまり40分近くかけ、4200円の料金を取るか。
10分ですませ、1400円にし、3回来てもらうか。

●映画『新少林寺』

 家に帰ると、ワイフは洗濯物を竿にかけるところだった。
私は服を替えると、そのまま書斎へ。
が、とたんに眠気。
少し油断すると、すぐウトウト状態になってしまう。

 今朝も5時半起きだった。
そのまま30分、ウォーキングマシンの上で歩いた。
ふだんなら今ごろは、昼寝タイム。

 昨夜見た映画『新少林寺』と、法事で見た僧侶が頭の中でダブる。
ぼんやりしていると、どちらがどちらなのか、わからなくなる。
1時間ほどがんばってみたが、そこでギブアップ。
居間へおりていき、そのままコタツの中に。

●執着

 執着を取り除くことは、重要なこと。
今日、法事で僧侶が読んだ一節に、こんなのがあった。

『六趣輪廻(ろくしゅりんね)の因縁は、己が愚痴の闇路なり』と。

 「六趣因縁」というのは、衆生が煩悩とその行為によって必然的に「趣く」六つの道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)をいう。
「因」はある一つの現象を起こす直接的な原因、「縁」とは間接的な原因をいう。
つまり人間は、六趣の世界を、ぐるぐる回っているだけで、そこから抜け出だすことができない。
その原因はと言えば、自分の愚痴によるもの、と。
が、「愚痴」といっても、私たちが日常的に使う「グチ」とは、意味がちがう。
「……仏教でいう『愚痴』は、愚癡とも表記し、仏の智恵に暗いこと、衆生の根本的無知をさす」(大谷大学HPより)のこと。

 ともあれ仏の知恵に暗い人ほど、グチを言いやすい。
愚痴は、グチでもよい。
グチを言う人は、闇路に迷っているようなもの。

 その闇路から抜け出るためには、執着を捨てること。
煩悩の虜(とりこ)になっていては、いつまでたっても、闇路から抜け出ることはできない。

 グチをこぼしたら、自分がバカになっていると思えばよい。

●DVD

 夕食後、『タービュランス』というDVDを観ることになっている。
ワイフが数日前に、借りてきた。

「お前はDVDを観ろ。ぼくは、白隠禅師の座禅和讃をもう一度勉強する」と。
それを言うと、「あなたはDVDを観ないの?」とワイフ。

 「あのなア、ぼくは天上界に入る人間だよ。お前のように、六趣輪廻の世界をさまよう餓鬼(がき)とは、中身がちがうの!」
「ハア~。ごちそう様」と。

 で、結局私も、DVDを観ることに。
「タービュランスというのは、乱気流のことだよ」と教えてやった。

 ……ということで、今日の日記はここまで。
明日もがんばります。

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評論 はやし浩司 六趣輪廻 因縁 愚痴 闇路 白隠 禅師 座禅和讃 はやし浩司 恩師の一周忌)


Hiroshi Hayashi+++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●今日も精進あるのみ

2011-11-27 08:03:16 | 日記
●11月27日(朝記)「己との闘い」

++++++++++++++++++++

寒さが少し緩んだ。
起きるとすぐ、そのままウォーキングマシンの上に。
30分、歩く。
時速6キロ。
結構な速さである。
ときどき足がもつれる。

書斎に入ったのが、午前6時5分前。
あたりはまだ真っ暗。
メールを読み、ニュースに目を通す。
日曜日の朝ということもあり、とくに目新しい記事はなし。
ただアフリカのジンバブエで、象が200頭死んだという記事が気になった。
猛暑と渇水が原因という(新華社)。
「毎週100頭の割合で死んでいる」とも。

その象の数。
毎年、減少している。
ウィキペディア百科事典によれば、
1970年代……2,700,000頭、
1980年 ……1,000,000頭、
1988年 …… 620,000頭と推定されている。
1995年 ……約280,000頭が確認され、580,000頭と推定されている、とある。

この数字が正しいとするなら、この1970年から1995年までの間に、
270万頭から、58万頭に減ったことになる。
約4~5分の1。
2000年に入ってからはどうなのだろう。

+++++++++++++++++++

●夢

 今朝も、起きがけに何かの夢を見ていた。
見ていたが、思い出せない。
時間がたつと、乾いた砂が風に舞うように、記憶が消えていく。
何の夢だったのだろう。
どうしても思い出せない。

 ただここで言えることは、同じような夢は、めったに見ないということ。
毎朝、違う。
今朝見た夢も、また別の夢だった。
脳がもつ奥深さに、改めて驚く。

●兄

 数年前、兄が他界した。
子どものころから、体が弱かった。
それもあり、9歳年上の兄だったが、兄弟関係がいつの間にか逆転した。
私が兄、兄が弟。
そういう関係になった。

 晩年の兄は、うつ病になっていたと思う。
人は認知症になったと言ったが、頭はしっかりとしていた。
老人のうつ病と認知症は、専門医でも区別がむずかしいという。

 それはさておき、その兄からは電話がよくかかってきた。
いつもこう言った。
「お客さんが、ござらん(=来ない)」と。

 兄は兄なりに、不安だったのだろう。
さびれいく町に、さびれゆく商店街。
そういう中にあって、兄は当時、65歳を過ぎていた。
その兄が、昨日、夢の中に出てきた。
その夢のことは、よく覚えている。

 ……あの町の通りを2人で歩いていた。
私が兄の腕を片側から支えていた。
その兄がこう言った。
「お客さんが、ござらん」と。
いつもの口癖である。
私はそれを聞き、精一杯気丈夫なふりをしながら、こう言った。
「心配せんでもいい。何とかしてやるから」と。

●貧乏

 貧乏が、こわいというのではない。
貧乏に至る負け戦が、こわい。
とくに商店街では、貧乏は長い時間をかけ、ゆっくりとやってくる。
ジワジワ、ジワジワ……と。
5年とか、10年とか、それくらい長い月日をかけて、やってくる。
それがこわい。

 人はこう言う。
「先を読め」「先手を打て」「頭を切り換えろ」と。
あるいはさらに無責任な人になると、こう言う。
「それも時代の流れ」と。
しかしそれは言葉。

実際には、「明日は何とかなるだろう」という甘い期待を抱きつつ、毎晩床に入る。
が、その明日も、昨日と同じ。
これを繰り返しているうちに、5年とか10年とかが過ぎてしまう。

●シャッター街

 私の実家には、シャッターこそなかった。
ガラス戸と薄いカーテンだけ。
しかしいつの間にか、ガラス戸は閉まり、カーテンも閉ざされるようになった。
だからというわけでもないが、私は「シャッター街」という言葉を耳にするたびに、その言葉がドシリと胸に響く。
響くというより、胸をつぶす。

 外から見ればただのシャッター街だが、その向こうに商店主だった人たちの重苦しい思いを感じてしまう。
負け戦はつらい。
本当につらい。
真綿で首を絞めるような閉塞感。
いくら虚勢を張り、明るく振る舞っても、その笑い声は地には着かない。
先の見えない不安感。
孤独感。
「私は何をしてきたのだろう」という自己否定。
来る日も来る日も、それと闘う。

●強迫観念

 私は社会に出てから、懸命に働いた。
仕事をしたくて、働いたわけではない。
貧乏がこわかった。
貧乏になるのが、こわかった。

 だからといって、金持ちになったわけではない。
振り返っても、私が受け取った(他人のお金)は、ほとんどない。
子どもたちの出産時に手にした、それぞれ10万円前後の祝い金。
それに義父が亡くなったとき受け取った、10万円。
それだけ。

 だからいつも孤立無援。
失敗が許されないという孤立感。
ただひたすら、がむしゃらに働いた。
それが今でも、私が見る夢の原点になっている。

 そう、悪夢といえば、電車やバスに乗り遅れる夢。
ホテルで寝過ごして、飛行機に乗り遅れる夢。
そんな夢ばかり。

 心理学的では、強迫観念という言葉を使う。
医学的には、不安神経症という言葉を使う。
どちらでもよい。
私は子どものころから、そういう不安感から抜け出すことができないでいる。
きっと兄もそうだったのだろう。
「お客さんが、ござらん」と。

●戦争

 が、だれの責任でもない。
父や母にしても、あの時代を懸命に生きてきた。
もし悪いとすれば、あの戦争。
あの戦争が悪い。

 戦後生まれの私だが、みな、あの戦争の後遺症を傷深く背負っていた。
それが姿、形を変え、私の「心」となっていった。
だから今でも、こう思う。

 イラクにせよ、アフガニスタンにせよ、仮に戦争が終わっても、その後遺症は、何世代にも渡ってつづいていくのだろうな、と。
罪もない、子どもたちが、将来に渡って苦しむだろうな、と。
兄が子どものころから体が弱かったのも、元はと言えば、栄養失調。
兄が育った時代の日本には、満足な食糧すらなかった。

●「やっと死ねる」

 64歳になった。
その今でも、こう思う。
「いつになったら、平安が訪れるのだろう」と。
……というか、もうとっくの昔にあきらめた。
だから今は、こう言う。
「死ぬまでつづくだろうな」と。

 だから去年の正月に廊下で倒れたときも、こう思った。
「ああ、これで死ねる」と。

 死にまつわるはずの恐怖感は、まったく感じなかった。
「やっと死ねる」という感じに近かった。

ただ不要な心配をかけたくないので、その理由について書いておく。
そのとき、何か大病があって、倒れたというわけではない。
私はときどき、不用意に首をひねったようなとき、後頭部にはげしい神経痛を覚えることがある。
(重篤な病気の前兆ということも考えられるが……。)
そのときはそれが、いつもになくひどかった。
それが原因で、廊下に倒れた。

●平安

 仏教で言えば「執着(しゅうじゃく)」。
心理学で言えば「固着」。
俗な言葉を借りれば、「こだわり」。
これを取り除かないかぎり、私の心に、平安は訪れない。
それはよくわかっている。
「心の傷」というのは、そういうもの。

 ただ誤解してはいけないことがある。
心の傷などというものは、だれにでもある。
ない人はいない。
みな、ある。

 それに気づいている人もいるが、気づいていない人もいる。
気づかないまま、いつもそれに振り回される。
同じ失敗を、繰り返す。

 だから今は、そういう相談があるたびに、こう言う。
「心の傷なんてものは、死ぬまで消えませんよ。
仲よくつきあっていくしかないですよ」と。

●精進

 今朝の夢も、悪夢に近かった。
よく覚えていないが、いやな夢だった。
断片的に覚えているのは、どこかの部屋にいたこと。
ガラス窓が見えた。
……あとは、覚えていない。

 そう、その悪夢にしても、私はこの先、死ぬまで仲よくつきあっていくしかない。
脳というのは、そういもの。
いくら楽しい思い出で上書きしても、その上書きを突き破って、古い思い出が顔を出す。
しかも皮肉なことに、加齢とともに、上書きされた部分が、どんどんと崩落していく。
いやな自分に逆戻りしていく。

 だから……と書くと、安っぽい映画の主題のように思う人もいるかもしれない。
しかし結論は、ひとつ。
だから、日々に精進あるのみ。
日々に鍛錬し、前向きに生きていく。
己(自分)に負けたとき、負け戦は、本当に負け戦になってしまう。
何としても、それだけは避けなければならない。

 ……ということで、今朝も始まった。
先ほど(7時過ぎ)、ワイフが茶を届けてくれた。
それをゆっくりと飲みなおす。
時刻は午前7時半。
もう1時間も、過ぎた。

 みなさん、おはようございます。2011/11/27朝記


Hiroshi Hayashi++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●みんな不安なんですね・・・不安先行型ママ

2011-11-26 14:04:29 | 日記
【不安にかられる母親たち】(気をつけたい不安先行型育児観)

++++++++++++++++++++++

こういう世相。
EUの金融危機。
景気も悪い。
加えて原発事故。
雨が降るたびに、今日はだいじょうぶかと思う。
不安でいない人をさがすほうが、むずかしい。

++++++++++++++++++++++

●みんな不安?

 ある母親がテレビで紹介されていた。
関東地方のある都市に住む母親である。
その母親は1歳になる子どものために、野菜類は北海道や九州から仕入れているという。
たまたま野菜(キャベツ)を調理しているところだった。
キャベツの葉を一枚ずつめくり、水で洗い、さらにペットボトルの水で表面をこするようにして洗う。
一枚ずつ、ていねいに、ていねいに……

 気持ちは、よくわかる。
心配なのは、よくわかる。

しかし……。

関東地方あたりまでくると、心配なのは、放射性物質だけではない。
環境ホルモン、農薬、食品添加物、遺伝子操作野菜などなど。
放射性物質は、その中のワンオブゼムに過ぎない。
しかも放射性物質というのは、水で洗って流し落とせるようなものではない。
野菜そのものの中に、取り込まれている。

 私はその番組を見ていたとき、20年近くも前の話を思い出した。

 ある母親が私のところへ来て、こう言った。
「相談したいことがある」ということだったので、相談にのった。
いわく、「今度、幼稚園で英会話を教えてくれることになった。
しかし講師の先生は、アイルランド人です。
アイルランドなまりの英語が身につくのではないかと、心配です」と。

 アイルランド英語というのは、たしかにある。
たとえば「w」の発音を長く言う。
たとえば「what」でも、「ウォーワット」と。
しかしふつう聞いて、それがアイルランドなまりかどうか、それがわかる人はいない。
……当時はいなかった。

 この時期、親、とくに母親は、何かにつけ、神経質になりやすい。
それが悪いというのではない。
とくに今回は、放射性物質である。
色も、においも、何もない。
それだけに、不気味。
恐ろしい。
それはわかるが、(正しく)心配しないと、ときとして過剰反応を引き起こす。
つまり、その母親にはきびしい意見になると思うが、(放射性物質への心配)と、(過剰反応)は、別物。
どこかで一線を引かねばならない。

●限度

 さて、一般論。

 子育ては人生の一大事だが、しかしそれがすべてではない。
ほかの動物や植物とちがい、人間には、(限度)がある。
その限度を踏み越えてまで、子育てに埋没してはいけない。
わかりやすく言えば、本能は本能。
その本能に溺れてしまってはいけない。
……と書くのは、書きすぎだろうか。

 もちろんそれぞれの親には、それぞれの思いがある。
哲学もあれば、同時に心の問題もある。
だから子育てには基準もなければ、標準もない。
家庭の事情も、みな、ちがう。
私は私。
あなたはあなた。
人それぞれということになる。

が、それでも、「?」と思うことはある。
私の理解の範囲を超えることがある。
それが先に書いた母親である。
(だからといって、その母親のしていることが、まちがっているとかそんなことを書いているのではない。
誤解のないように!)

 私が書きたいのは、こうした母親の反応に対して、だれかが適切に指導をしないと、それが子育てのベースになってしまうということ。
放射性物質の危険性についても、そうである。
どの程度、危険なのか。
またどうすれば危険を防げるか、など。
経済的に余裕のある家族は、まだよい。
ペットボトルの水を、ふんだんに使うことができる。
そうでない家族は、どうなのか。

それもしないで、「今ただちに、害はありません」などというウソをつくから、母親たちは不安になり、心配になる。

が、その一方で、子育ての世界で、何が悪いかといって、過保護、過関心、過干渉、溺愛ほど、悪いものはない。
子どもの心をゆがめるだけではない。
母親自身の心までゆがめてしまう。
育児ノイローゼもそのひとつ。

●父親の役割

 『母親は子どもを産み育てる』。
では、父親の役目は何か。
その答は、発達心理学の世界では、2つ用意されている。

(1) 母子関係の是正
(2) 社会性の構築
 
 「母子関係の是正」というのは、子育てというのは、母親だけに任せておいてはいけないということ。
父親がその間に割って入り、母子関係にクサビを打ち込む。
また「社会性の構築」というのは、要するに「狩りの仕方」ということになる。
自立して生きるための能力と技術を、子どもに授ける。 

●花柄パンツ

 が、この日本では、それが大きく狂った。
狂って、今の状況を生みだした。
その第一が、男性の女性化。
男性ホルモンの分泌が弱くなり、精子の数そのものも減ってきているという。
原因のひとつとして、環境ホルモン説が声高に叫ばれるようになって、もう15年になる。

 が、原因が何であれ、10年単位で、子どもたち、とくに男児の質が変化してきたことは、まぎれもない事実。
35年前、花柄パンツをはいている高校生を知って、私は驚いた。
中日新聞でのコラムで、それについて書いた。
が、今では、小学生でも赤やピンクのパンツ(下着)を、ごくふつうにはいている。

 どんなものを着ようが、中身(精神力)とは関係ない。
それはわかるが、私が感ずるこの違和感は、いったいどこから来るのか。

●母子関係の是正

 母子関係は、濃密なものである。
それもそのはず。
子どもは母親の胎内で、10か月近く過ごす。
生まれてからも、母親から乳を受ける。
が、そのままの状態が、正しいというわけではない。

 概して言えば、母子関係が是正されないと、子どもはマザコン化する。
これには男児も女児もない。
(「マザコン」というと、母親と息子だけの関係と思う人は多い。
しかし実際には、母親と娘の関係においても、子どもがマザコン化することも、それ以上に多い。)

 子どもは自立できないまま、母親とベタベタの人間関係を構築する。
子どもと母親が一体化する。
母親は母親で、そうであることを、親の深い愛によるものと錯覚する。

●一億、総マザコン

 が、今では、マザコン化していない子どもを探すほうが、難しい。
おとなでも、難しい。
本来なら、父親が、その間に割って入り、母子関係を是正しなければならない。
が、その父親自身が、マザコン化している。
自分の子どもが母親との関係で、マザコン化していても、それに気がつかない。
またそうであることを、よい親子関係と思い込んでいる。

 こうして日本人全体が、一億、総マザコン化した。
このことと直接結びつけてよいかどうか、わからない。
しかし「草食系」という言葉も、そこから生まれた?
どこかナヨナヨし、ハキがない男性(女性)を、「草食系」というらしい。
平たく言えば、野性的なたくましさに欠ける。

 それが悪いと決めつけるわけにもいかない。
しかし今では男性でも整形をほどこし、朝の化粧に、半時間もかける。
が、こうした現象は、少なくとも、私が若いころには、考えられなかったことである。

●国際経済

 時、折しも、世界的なリセッション(景気後退)期。
今朝のニュースを読んでも、明るいことは何もない。
EUの崩壊すら、可能性として論じられるようになっている。

 もちろん日本の経済に与える影響も、深刻。
すでに日本国債の金利もジワジワと上昇し始めている。
1000兆円以上という借金をかかえ、日本は今、身動きが取れない状態にある。
へたをすれば、日本経済はこのまま奈落の底へ落ちていく。
あの3・11大震災の前ですら、「(日本経済の崩壊は)、可能性の問題ではない。時間の問題」と言われていた。
書店に並ぶ、経済誌は、みな、そう書いていた。

 が、そこへあの3・11大震災。
「復興特需」とやらで、皮肉なことに経済は一息ついたが、しかし根本的な問題は何も解決していない。
むしろ悪化している。

●マスコミの責任

 私も今回、EUが、こんなひどい状況とは知らなかった。
たとえばスペインにしても、建設途中で放棄されたマンションや別荘が、あちこちにある。
セスナ機しか着陸できないような飛行場の周辺にまで、リゾート地を建設したところもあるという(報道)。
そのあたり一帯は、ゴーストタウン化している。

 しかしそれとて、ネットで知ったこと。
テレビではない。
むしろテレビのほうは、「世界のグルメ、食べ歩き」とか、「列車の旅」とか、どこかノー天気な番組ばかりを流している。……流していた。
あるいは意味のないバラエティ番組ばかり。

ギリシャにしても、そうだ。
チャンネル数もふえた。
画面も美しくなった。
旅行番組的なものは、見た記憶がある。
しかしギリシャの現状は、ネットで調べて私ははじめて知った。

 これを「大本営発表」と言わずして、何という。
報道の精神は、どこへ消えた?
あるいは、報道とは何か?
どうしてNHKならNHKでもよいが、「今、スペインはこんな状況になりつつある」というような報道を、どうしてしてくれなかったのか。
それがあれば、被害者は、もっと少なくてすんだはず。
銀行や証券会社に勧められるまま、インチキ外債を買わされた人は、ゴマンといる。

●「現実内」

 冒頭の母親には悪いが、そんなことで放射性物質を避けることはできない。
放射性物質というのは、いわば空気のようなもの。
空気以下の、「気
のようなもの。

 どんな形であれ、1年とか2年とか、そういう年月をかけ、ありとあらゆるものから浸み込んでくる。
今、身に着けている衣服からも、浸み込んでくる。
風呂の水からも、浸み込んでくる。
その母親がどうこう書いているのではない。
この日本は、また東京電力は、それほどまでに深刻な事故を引き起こしてしまったということ。
また原子力発電所というのは、それほどまでに危険なものであるということ。

「想定外」などという言葉に、だまされてはいけない。
そこに原子力発電所があり、日本は地震国であるという事実は、「現実内」である。
そしてこの先、多くの国民が、その後遺的症状に苦しむことになる。
これもまぎれもない「現実内」である。

●無力感

 この無力感。
この脱力感。
そういう母親がそこにいても、またそのそばに子どもがいても、みなが見て見ぬフリをしている。
正直に、「そんなことをしても、あまり意味がありませんよ」と伝える人もいない。
本来なら、そういう不安をかかえる母親や子どもを、もっと遠くに避難させるのがよい。
しかしその国力は、もうこの日本にはない。
ないから、放射性物質を避ける、ひとつの方法として、こうした母親の行為を全国に流してしまう。

 おそらくあの番組を見た多くの母親たちは、同じことを始めていることだろう。
キャベツの葉を一枚ずつめくり、水で洗い、さらにペットボトルの水で表面をこするようにして洗う。
何とも痛ましい光景だが、だれがそうした母親たちの行為を批判することができるだろうか。

●終わりに……

 放射性物質はともかくも、(不安になってもしかたないと思うが)、親のもつ不安感は、かならず子どもに伝播する。
何かにつけ、親は不安先行型の子育てをしてしまう。
子ども自身も、不安の連鎖から抜け出られなくなってしまう。
またそれが一度、子育てのリズムになると、そのまま親の育児観として定着してしまう。
親子関係の基本になってしまう。
子どもが20歳を過ぎても、30歳を過ぎても、「不安だ……」「不安だ……」となってしまう。

 そのため親は、子どもに対して、過干渉になったり、過関心になったりする。
症状は様々だが、子どもの精神の発育にも、悪い影響を与える。
子ども自身も自立できなくなってしまう。
今回の放射性物質の問題はともかくも、不安先行型の子育てには、注意したらよい。

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評論 はやし浩司 親の心配 不安 不安先行型子育て 過剰心配 神経質になる母親 はやし浩司 過干渉 過関心)はやし浩司 2011-11-26記

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不安先行型の子育てについて書いた
原稿を探してみる。

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●パソコンの傷

 子どものことでトラブルが起きたら、一に静観、ニに静観、三、四がなくて、五に親に相談。
少子化の流れの中で、親たちは子育てにますます神経質になる傾向をみせている。
そうであるからこそなおさら、「静観」。
子どもにキズがつくことを恐れてはいけない。
子どもというのはキズだらけになって成長する。で、ここでいう「親」というのは、一、二歳年上の子どもをもつ親をいう。
そういう親に相談すると、「うちもこんなことがありましたよ」「あら、そうですか」というような会話で、ほとんどの問題は解決する。

 話が少しそれるが、私は少し前、ノートパソコンを通信販売で買った。
が、そのパソコンには一本のスリキズがついていた。最初私はそのキズが気になってしかたなかった。
子どももそうだ。子どもが小さいうちというのは、ささいなキズでも気になってしかたないもの。こんなことを相談してきた母親がいた。

何でもその幼稚園に外人の講師がやってきて、英会話を教えることになったという。
それについて、「先生はアイルランド人です。ヘンなアクセントが身につくのではないかと心配です」と。
子育てに関心をもつことは大切なことだが、それが度を超すと、親はそんなことまで心配するようになる。

 さらに話がそれるが、子どものことでこまかいことが気になり始めたら、育児ノイローゼを疑う。
症状としては、つぎのようなものがある。

(1)生気感情(ハツラツとした感情)の沈滞、
(2)思考障害(頭が働かない、思考がまとまらない、迷う、堂々巡りばかりする、記憶力の低下)、
(3)精神障害(感情の鈍化、楽しみや喜びなどの欠如、悲観的になる、趣味や興味の喪失、日常活動への興味の喪失)、
(4)睡眠障害(早朝覚醒に不眠)など。さらにその状態が進むと、Aさんのように、
(5)風呂に熱湯を入れても、それに気づかなかったり(注意力欠陥障害)、
(6)ムダ買いや目的のない外出を繰り返す(行為障害)、
(7)ささいなことで極度の不安状態になる(不安障害)、
(8)同じようにささいなことで激怒したり、子どもを虐待するなど感情のコントロールができなくなる(感情障害)、
(9)他人との接触を嫌う(回避性障害)、
(10)過食や拒食(摂食障害)を起こしたりするようになる。
(11)また必要以上に自分を責めたり、罪悪感をもつこともある(妄想性)。

こうした兆候が見られたら、黄信号ととらえる。
育児ノイローゼが、悲惨な事件につながることも珍しくない。子どもが間にからんでいるため、子どもが犠牲になることも多い。

 要するに風とおしをよくするということ。
そのためにも、同年齢もしくはやや年齢が上の子どもをもつ親と情報交換をするとよい。とくに長男、長女は親も神経質になりやすいので、そうする。……そうそう、そう言えば、今では私のパソコンもキズだらけ。
しかし使い勝手はずっとよくなった。そういうパソコンを使いながら、「子どもも同じ」と、今、つくづくとそう思っている。(中日新聞発表済み)

Hiroshi Hayashi+++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【子育てが不安でならない】

●【佐賀県にお住まいの、Kさん(母親)より、はやし浩司へ】


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佐賀県にお住まいの、Kさん(母親)より、こんな相談のメールが
届いています。
子どもの不登校の問題です。
この問題を、みなさんといっしょに、考えてみたいと思います。

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【Kさんより、はやし浩司へ】

こんばんは。

メールのお返事本当にありがとうございました。パソコンに不慣れなもので、このメールも送れているのか心配ですが・・・。

文字化けした部分は母子登校を続けるべきなのかということです。学校恐怖症というのも拝見しました。

実は今日先生とお話して明日から送迎はするけれど、教室まではついていかないようにするという取り決めをしてきたのです。でもメールを拝見するとそれはかえってよくなさそうですね・・・。

でも私のなかでまだ学校は行かなくてはならないところという気持ちが、100%に近いです。引きずってでも連れていくのは、私はしたくありませんが、私がついていくなら学校へ行くというならついていって連れていくべきなのでしょうか? そして教室にいるべきでしょうか? 私自身、教室にいるとほかの子と比べたり、なんで私だけここにいるのだろうと、悲しくなってきます。

親としては今行かないとずっといけなくなる不安が襲ってきます。これが高学年とか中学生なら休ませているでしょうが、私は低学年からいかないなんて、どんな将来があるのかと思ってしまいます。

今までの息子に対する子育ては本当に大変でした。まわりの人たちに、いい子だねとよく言われるのです。私はそれがずっと嫌で私が息子に圧力をかけてしまっていたと反省の日々でした。私の身近に精神病を抱えた人がいて、その人がまさに小さい頃いい子だねとか親のいうことをよくきく子ででもある時から親を困らせていて、自分もこんな未来が待っているのかと毎日考えてしまいます。

息子はとにかく人前ではにこにこ明るくあまりもめごとをしないことです。でも今まで家ではいちいち文句いったり、癇癪をおこしたり、てこずる場面が多くて障害があるのかと考える時もあります。

私からみた息子は感受性が強く、小さな頃から大人の会話に混ざろうとしたり、まだわからなくていいことがわかったり、カンが強くていろんなことをわかりすぎる半面、幼さゆえに処理しきれなくて悩むといったところが、私の見たところだけですが、そう感じます。

よくいろんなことに気がつくしいろんな状況をみて判断したりできる半面、あんなことできるのにここができないの?と、思ってしまう部分もあります。小さなときから大人と話しているみたいで、私も子供ではなく大人と話している気分になってしまい、息子の返答がおかしなときに、子供らしいと思ったり、大人っぽくみずぎて、この子おかしいと思ったりしてしまいます。ついつい7歳ということを忘れてしまいます。

気になる点は多々ありますが、なかなか次の行動にすんなりうつることができないことです。お風呂とか小さいころからすんなりいきません。あと記憶力がものすごいです。こちらがこわくなるほどです。

息子は本当に今まさに私の不安定さを見事に見抜いています。ついついぼーっとしてしまうと楽しくないの?とか、ご機嫌取りしにきます。分離不安の症状がでてから、すごく私の言うことを聞こうとしていて、私はそれが気持ち悪いのです。今の私は息子に対して否定的でほんとにいけないなあとおもいます。

たぶん何か言ったことに対して反抗的ならほんとうにこの子は言うことを聞かないからおかしい、と思い素直に、はいと返事されると気持悪いしといったかんじです。今は見捨てられ不安のためすごく言うことを聞いていたり、わかっていることをわざわざ言いにきたりそういうときに、私がいらっとした態度や表情をしてしまいます。

先週、学校に行けなかったときに水族館に出かけてきました。そのこともまわりから賛否両論で私は家で、テレビを見たり、ゲームをやってたら腐っちゃうと思って連れ出したのですがまわりから楽しませたら、余計行きたくないんじゃないかといわれましたが、メールをみて安心しました。

今の私は日々が辛くて辛くて、もしもう一度人生があり、結婚したならば子供を持たないという選択をしてしまうぐらいどん底です。かけがえのない宝なのですが・・・今の私は子育てが辛いです。でも守るのは私たちしかいないですもんね。私自身、小さなころから感受性が強く、今の息子みたいにいろいろなことを感じてしまい、辛い思いもしてきて、今の息子をよみとろうとしすぎる部分も、私自身を追い込んでるきがします。間違ってとらえたりもしているだろうけど、昔の自分と重ねてしまっているなあと思います。

書きたいことがいろいろありすぎて何からかけばいいのか、てんでばらばらな文章になってしまいましたがすみません。きっと忙しい方だからメールくるなんておもってもみませんでした。本当にありがとうございます。少し気持ちが楽になりました。またきっと不安になってメールすると思います。よろしくお願いいたします。

【はやし浩司より、Kさんへ】

 「子どもを、全幅に心を開いて信じきれない、母親の葛藤」ということになります。
子どもというのは、親の心をそのまま引き継いでしまいます。
親が「不安だ、不安だ」と思っていると、子どもの方も、自分に自信がもてなく、自己評価力をさげてしまいます。「ぼくは、ダメな子なんだ」とです。

 そういう点では、子どもは、親の(思い)どおりの子どもになるということです。
「うちの子は、すばらしい」「できがいい」と思っていると、その子どもはハツラツとしてきます。そうでないと、そうでない。
不安先行型の子育てのこわいところは、ここにあります。
Kさんの不安、心配は、恐らく妊娠したときから始まっています。
それが出産→育児→現在……とつながっています。

 原因は、母子関係の不全ということになりますが、さらにさかのぼれば、Kさん自身と、Kさんの母親との関係が、疑われます。
KさんとKさんの母親との関係も、不全だったということになります。
これを子育ての世界では、「世代連鎖」と呼んでいます。
つまりKさんは今、自分が受けた子育てを、そっくりそのまま、自分の子育てで再現しているということです。

 Kさん、あなたは、あなたのお母さんの前で、いい子(=人形子)だった。
言いたいことも言えず、がまんし、心を開いて、甘えることもできなかった。
あなたはいい子でいることで、母親に認められようとしていた……。

 少しきびしいことを書きましたが、実のところ、あなたは自分の子どもにさえ心を開けないでいます。
ひょっとしたら、あなたの夫に対してさえも、心を開けないでいるのかもしれません。
「もっと心を開きなさい!」と書きたいのですが、この問題を解決するためには、この先、5年とか、10年とか、長い年月がかかります。

 しかしそうであることに気がつけば、長い年月をかけても、この問題は解決します。
そのつど努力して、自分の心を開いてみてください。
(いい人)ぶるのを、やめるのです。
居直るのです。
「私は私だ」と、です。

 で、今、あなたの子どもが、同じことを繰り返しています。
あなたはそういう子どもの中に、自分の過去を見ています。
それが不安の原因と考えてください。

 昨日もらったメール(一部、文字化け)を、そのまま紹介させてください。

++++++++++++++++++

【Kさんより、はやし浩司へ】

息子の分離不安で悩んでおります。9月の5連休ごろから様子がおかしくなり、ママがいなくなるのが怖いといい、登校しぶりがでています。保育園時代から毎年年に1回1か月ほど登園拒否があります。いつも秋ごろでだいたい同じ時期にでます。年中までは登園拒否でしたが、ママがいなくなるという不安を訴えるのは、去年の登園拒否のときからです。

その時は1か月ほどでぱたっとなくなりました。でもまた今年も同じ症状がでて対応にこまっております。家の中でも私を探したり、友達と遊びに行くのもお迎えの時間を何度も確認して絶対迎えにきてねと念をおします。現在学校へは母子登校しています。今身体的にでている症状は腹痛、頭痛、吐き気、チックです。

特に朝腹痛をうったえます。授業中も集中力がとぎれると、おなか痛い、寒い、疲れた、もうやりたくないと私に助けを求めます。頑張れている時もあるのですが、私が学校にいることが彼にとっていいのかぎもんです。私がいることによって甘えがでてしまい逃げ出す姿勢にさせてしまっているのではないかとおもってしまいます。先生は無理して学校にこなくていい、早退する?それともお母さんにずっといてもら

……(以下、文字化け)……

……息子には本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです。ちいさなころから甘えさせてなかったり突き放した態度ばかりで下の子たちの入院で1か月以上離れて生活したり、執拗に怒りすぎたり手もあげたりしました。本当に今は反省の日々です。もう過去にはもどれないけど今からでも間に合うのでしょうか。彼の心に傷をつけたと自分を責める毎日です。

小さなころから育てにくく癇癪をおこしたり、何か障害があるんじゃないかと思ったこともあります。ここに書ききれないくらいいろいろありますが今家族みんなが不安定で下の子たちも不安定になっていきて私自身子育てが辛すぎて苦しい日々です。少しでもお力を御貸しいただけることを、ねがっております。

++++++++++++++++++

【Kさんへ、はやし浩司より】

 子どもは、あくまでも家族の(代表)です。
子どもに何か問題(?)があると、親は、懸命に、子どもに向かってそれを直そうとします。
しかしこの見方は、親の身勝手というものです(失礼!)。
子どもに何か問題が起きたら、まず自分を疑ってみる。
子どもは、家族のかかえる問題を、別の形で表現しているだけです。
「代表」というのは、そういう意味です。

 以下、気がついたことを、箇条書きにしてみます。

●「どうしてうち子だけが……


 子どもに何か問題(?)が起きると、ほとんどの親は、「どうしてうちの子だけが……」と悩みます。
これは共通した親の心理と考えてください。
しかし実際には、問題のない子どもはいないし、みな、そうした問題をかかえながら、必死に闘
っているのです。
(外からはわかりませんが……。)

 Kさんのメールを読んでいて気になるのは、その視野の狭さ(失礼!)です。
読んでいるだけでも、読んでいる私の方が窮屈に感ずるほどです。
「学校とは、100%、行かねばならないところ」という部分もそうですが、人生観そのものが、狭い(失礼!)。
「まだ幼いうちからこうでは、先が心配でならない」という部分も、そうです。

 Kさんの子どもは、いわば、心の風邪をひいて、熱を出している。
それを見て、「将来が心配」は、少し飛躍しすぎています。
それともKさん自身が、子どものころ、「学校とは行かねばならないところ」と、親にも迫られ、Kさん自身も、そういう形で、自分を追い込んでいた(?)。
学校神話というのは、それを言います。
日本人は、明治の昔から、そういう意識を叩きこまれていますから、それが今でも亡霊となって、親や子どもたちを苦しめているのです。

 アメリカ人でも、オーストラリア人でも、彼らは、学校に対して、もっとおおらかに考えていますよ。
カナダ人は、もっとそうです。
学校の設立そのものが、自由です。
教科書なんて、もちろんありません。
どの子も、小学生のときから、落第(ドロップアウト)を自由に経験しています。

 が、日本人だけは、「学校、学校、学校……!」と。
バカみたいと言ったら、失礼かもしれませんが、少なくとも外国の人から見れば、そうでしょうね。

●母子登校

 母子登校など、何でもないことですよ。
いっしょに学校へ行ってあげてください。
他人の目が気になるようでしたら、そういう人たちは、河原の石ころとでも思えばよいのです。
まず、あなた自身が、心を開き、大きくなることです。
子どもの心だけを見て、行動すればよいのです。

 最近では、子どもを見る親たちの姿勢も変化してきました。
あなたが明るく、さわやかに母子登校をつづければ、みなも、あなたを暖かく見守ってくれるで
しょうし、あなたのすばらしさ(=度量の広さ)に感銘を受けるはずです。
もっと自分に、そして自分のしていることに自信をもちなさい!

 「私はすばらしい親だ」とです。

 ただ誤解がひとつ、あります。
症状だけを見ると、母子分離不安症のようにも思えますが、神経症による症状もいくつか出ていますので、やはり「学校恐怖症」に準じて考えたほうがよいでしょう。

 7歳という年齢からして、母子分離不安症だけでは、そういった症状は出てきません。
学校恐怖症については、「はやし浩司 学校恐怖症」で検索してみてください。
(これは前回の返事で書いたとおりです。)

 ときどきパニック状態になりますが、どうかじょうずに、パニック期を乗り越えてください。
コツは、「学校恐怖症」のところで書いたように、無理をしないことです。
ここで無理をすると、本当に不登校児ということになってしまいます。
しかも、長期の、です。

●カルト抜き

 Kさんの心には、学校神話が、骨のズイまでしみ込んでいます。
「学校絶対教」と言ってもよいかもしれません。
それを抜くのは、たいへんなことです。

 しかし現実には、アメリカだけでも、ホームスクーラー(=家庭で教育を受ける子ども)が、200万人を超えていますし、EUでは、さらに教育が自由化されています。
みんな学校などほったらかしで、クラブ活動に専念しています。
そういう(自由ぽさ)を見るたびに、「何だ、この日本は!」と、私は感じてしまいます。
あえて言うなら、Kさんも視野を広めて、もう少し高い視点から、一度、子育てを考え直してみたらいかがでしょうか。

 大切なことは、子どもが生き生きと、自分のしたいことをしながら、自分を見つけていくことです。
Kさんは、自分の子どもがいい子ぶることを心配していますが、そういう子どもにしているのは、Kさん自身なのですね。
つまりあなた自身が、子どもにその「型」をあてはめようとしている。
子どもにしても、あなたは息苦しい母親だと思います。

 何をしても、親が心配そうな目つきで、自分をながめている。
何をしても、「あれはだめ」「これはだめ」と言われる。
私があなたの子どもだったら、「バカヤロー!」と言って、家を飛び出してしまうかもしれませんよ。

 仮に、あなたの子どもが学校へすんなりと通うようになっても、あなたの心配や不安は消えません。
あなたはまた別の新たな心配や不安の種を見つけてきては、心配し、不安に思うのです。
「うちの子は、B中学校に入れるかしら?」
「友だちと仲よくやっていかれるかしら?」とか、など。

●これはあなたの問題です

 あなたはあなたで、好きなことをすればよいのです。
目が一方的に、子どもの方ばかりに向いている。
過関心というのは、今のあなたのような状態をいいます。

 親ではなく、妻でもなく、女でもなく、ひとりの人間として、したいことをさがし、それに向かって進みます。
そういう形で、自分の中から、子どもを消していきます。

 (あるいは、これはあくまでも私の推測ですが、ひょっとしたら、あなたは、あなたの夫に対して、おおきなわだかまりをもっているのかもしれません。
不本意な結婚であったとか、あるいは愛情を感じない結婚生活であったとか、など。
それが子どもの問題として、転移している(?)。
そういう可能性もありますから、一度、考えてみてください。)

 どうであるにせよ、ここは自然体で!
あまり深く考えないで、学校の先生と相談して、母子登校が必要であれば、すればよいでしょう。
「取り決め」などという、恐ろしい言葉は使わないこと!
そんなものを取り決めて、どうするのですか?
子どもの心と、そのときの状況を見て、自然体で判断してください。

 また、今、そうであるからといって、この先も、ずっとそうであると考えてはいけません。
そういうのを、「取り越し苦労」と言います。
へたをすれば、あなた自身が、育児ノイローゼ(=うつ病)になってしまいます。
すでにその傾向が強く見られます。

 それについても、「はやし浩司 育児ノイローゼ」で検索してみてください。
いくつか記事をヒットできるはずです。

●子どもが親を育てる

 悪いことばかりではありません。
今、こうして問題にぶつかりながら、実は、あなたは成長しているのです。
あなたは自分の子どもを見ながら、自分の過去まで見ようとしている。
自分を知ろうとしている。

 コツは、「十字架のひとつやふたつ、背負ってやろうではないか」と居直ることです。
その思いっきりのよさというか、割り切りが、あなたの心に風の穴を開けます。
風通しをよくします。

 大切なことは、今、そこにある(運命)を受け入れてしまうということです。
あなたの子どもがそうであるなら、そうであると、受け入れてしまうことです。

 運命というのは、それを避けようとすればするほど、キバをむいて、あなたに襲いかかってきます。
しかし一度受け入れてしまえば、向うから、シッポを巻いて退散していきます。
童心に返って、母子登校を、いっしょに楽しみなさい!
楽しむのです。
人生は一度しかありませんよ!

 それにそういう思い出……つまり、子どもの心を守り切ったという思い出ほど、あとあと光り輝きます。
親子の絆をすばらしいものにします。
仮に万が一、不登校児になったとしても、です。

 そしてあなたはあなたで、自分の運命を受け入れます。
もうそろそろその時期に来ています。
「私は私」と、自分を受け入れてしまうのです。

 そこは実におおらかで、すがすがしい世界です。
『あきらめは、悟りの境地』という格言は、私が考えた格言ですが、あなたも一度、経験してみてください。

●では、どうするか?

 『許して、忘れる』……何か苦しいことがあったら、この言葉を、心の中で何度も念じてみてください。
昔、私が学生のとき、オーストラリアの友人が教えてくれた言葉です。
私の子育て観の根幹にもなっている言葉です。

 これも、「はやし浩司 許して忘れる」で検索してみてください。
その意味をわかってもらえると思います。

 それとやはり心配なのは、Kさん、あなた自身の心の問題です。
私にも似たようなところがあります。
そういうときは、カルシウム分、カリウム分、マグネシウム分の多い食生活(=海産物)に心がけ、あとはハーブ系の安定剤を服用しています。
内科でも、軽い安定剤を処方してくれますので、ひどいときには、それを口の中で溶かしてのんでいます。

 一度、ドクターと相談してみてください。

(1)求めてきたら、すかさず。
これについては、先に書いたとおりです。

(2)二番底、三番底に注意
こうした問題には、必ず、二番底、三番底がありますから、注意してください。
多くの親は、こうした問題をかかえると、「今が最悪」と思います。
しかしその下には、さらに最悪の状態が、待ち構えています。
ですから、「最悪」と感じたら、今の状態をこれ以上悪くしないことだけを考えて、対処します。

なおそうとか、そういうふうに考えていけません。
とにかく現状維持です。
今は、何とか学校に通っていますから、今の状況を大切に!
あとは半年単位、1年単位で、子どもの様子を観察します。
1~2週間程度の範囲で、一喜一憂してはいけません。

また今こそ、あなたの真の愛が試されているときです。
親は子どもを産むことで、親になりますが、しかし真の愛への道は、遠くて険しいものです。
ですから勇気をもって、前に進んでください。
そういう姿に、みなが、気高さを感ずるようになるでしょう。

顔をゆがめてはいけません。
暗い表情をしてみせてはいけません。
明るく、さわやかに、みなにこう笑って言うのです。

「ハハハ、うちも母子登校ですよ」と。

(3)先生と父親との連携プレーを大切に
この問題は、あなたひとりでは、荷が重すぎます。
ですから、学校の先生や、あなたの夫との連携プレーを大切に。
今のあなたはひとりで問題を抱え込みすぎています。
自分に責任を求めすぎています。

いいですか、今、あなたがかかえている問題など、何でもありませんよ!
今どき、不登校など、何でもない問題です。
母子登校にしても、保健室登校にしても、何でもない問題です。
それで子育てに失敗したとか、私はだめな母親だとか、そういうふうに考えて、自分を追い詰めないこと。

私のマガジンでも読んで、もっと視野を広くしてください。

たまたま昨日、別の母親から、こんなメールが届いています。
紹介します。

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M件のEさんより

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はやし浩司 様

いつもHPの記事で勉強させていただいております。
5歳の息子と2歳の息子がいます。
先生があちこちで何度もおっしゃっている通り、
上の息子に対しては、不安先行、心配先行の子育てをしてきました。
(今でもその気はまだあると思います…)

若干、上の息子に神経質な面があると感じられるのは、そのせいだと思います。

…ここまで書いて、あとが続かず、そのままメールソフトの下書きに保存していました。

当時、5歳と2歳だった息子は、7歳と4歳になりました。
上述のようなことを自分で書いていたことが信じられないほど、
今は、楽な気持ちで子どもと過ごしています。

イライラしたりすることもありますが、
子どもたちに対して、不安や心配に思うことは、ほとんどありません。

子どもたちを見て、そのままでいいと思い、細かいことにこだわらない。
それだけで、こんなに楽になるとは思いませんでした。

神経質な面があるなと思っていた上の息子が、
意外と動じないところがあったり、飄々としていたり、
こんな子だったんだ、と面食らう思いです。

下の息子は、最初から、ものすごくあけっぴろげで、
いつもニコニコしており、
「ありがとう」「ごめんね」「可愛いね」「きれいだね」
という言葉を、なんのてらいもなくスッと口にできる子どもです。
荷物を持っていれば、「持ってあげる!○○、力持ちだから!」と言い、
私が台所で何かしていると、「手伝ってあげる!これ、洗うね」と言い、
うーん、逆にオジャマなんだけどなぁと苦笑しつつ、
苦笑してしまうしかないくらい、ものすごく可愛げのある子どもなのです。

この下の息子が、非常にストレートに愛情を表現し、
上の息子は、それに比べるとわかりにくい感じだったのですが、
ここ最近は、素直に甘えてくるようになり、ああ、なんだか変わったなぁと思っています。
私の受け取り方、見る目が変わっただけかもしれません。

子育ての癖・心の癖は、なかなか治らないものだと思いますので、
できるだけ頻繁に先生の記事を読み、
いつも頭の中にあるよう、意識して心がけて行きたいと思っています。

これからも、どうぞよろしくお願いします。
先生とご家族の皆様のご健康をお祈りいたします。

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【Kさんへ】

 では、今朝はこれで失礼します。
「心を解き放て! 体はあとからついてくる!」

 おはようございます。

浜松市・はやし浩司


Hiroshi Hayashi+++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司


●抑圧と心の別室論byはやし浩司

2011-11-25 13:44:38 | 日記
【ユングのシャドウ(シャドウ)論(Shadow)】

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11月30日(水曜日)
浜北文化センターにて、浜松市内では
今年度最後の講演会をもちます。

開場時刻は、午後6:30。
講演は、午後7:00~8:30です。
おいでください。

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次回の講演で、久しぶりに、ユングのシャドウ論に
ついて話してみたい。
(時間があればの話だが……。)

そこで私の書いた原稿を探してみる。
今では「はやし浩司 シャドウ論」で検索すれば、すぐ、
原稿が見つかる。
ネット全体が、私の書類倉庫のようなもの。
「どうしてこんなことができるのだろう?」と、よく思う。
本当に、不思議な世界だ。

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●子育て

 いかに子育てが恐ろしいものであるかは、私が書いた「シャドウ論」を読んでもらえばよくわかるはず。
昔から『子は親の背を見て育つ』とはいう。
しかしそれは何も、よいことばかりではない。
親が隠している邪悪な部分まで、子どもがそっくりそのまま受け継いでしまうこともある。
それが「シャドウ論」である。

 たとえば欧米では、牧師による少年、少女への性的虐待事件が後を絶たない。
「虐待」と言えば、おおかた、その種の性的虐待をいう。
こうした心理も、ユングの「シャドウ論」をあてはめてみれば、よく理解できる。

●心の別室論

 その原稿、つまり以前書いた、ユングのシャドウ論を紹介する前に、「心の別室論」について書いた原稿を紹介したい。
「心の別室」という言葉は、私が考えた。
つまり抑圧された心理状態が長くつづくと、子ども(人)は、心の中に別室をつくり、そこへそれを押し込んでしまう。
防衛機制のひとつとされている。
わかりやすく言えば、いやなことがあったら、別の心を作り、そこへ押し込んでしまう。

 が、この心の別室の怖いところは、(1)時効が働かないということ。(2)たとえそのあといろいろな楽しい思い出があったとしても、記憶が上書きされないということ。
いつまでも心の別室の中に、独立して残り、時と場合に応じて、顔を出す。

 たとえばこんな例がある。
80歳を過ぎた老夫婦だが、若いころから夫婦喧嘩が絶えなかった。
が、決まってそのとき出てくる言葉が、つぎのような言葉という。
「お前は、あのとき……!」
「あんただって、あのとき……!」と。

 40年とか、50年も前の話。
ときには結婚当初の話すら出てくるという。
心の別室というのは、そういうもの。

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心の別室については、たびたび書いてきた。
つぎの原稿は、2009年4月に書いたもの。

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●心の別室と加害意識(Another Room in the Mind and Consciousness of Guilty)


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カレー・ヒ素混入事件で、現在無実を争って
いる女性が、HM。
地下鉄サリン事件で、これまた無実を争って
いる男性が、OS教のMT。


現在刑事裁判が継続中なので、これらの人たちは
無実という前提で、ものを考えなければならない。
どんな被告人でも、有罪が確定するまで、推定無実。


カレーにヒ素を混入させたのは、別人物かも
しれない。
地下鉄サリン事件には、MTは関与していなかった
かもしれない。
そういう可能性が、1000に1つ、万に1つでも
あるなら、これらの人たちは、無実。
そういう前提で、ものを考えなければならない。


が、同じ無実でも、いまだに納得できないのが、
あの『ロス疑惑事件』。


Kさんの殺害現場に、一台の白いバンがやってきた。
そのバンが走り去ったとき、Kさんは、殺されていた。
Kさんのそばには、MKがいた。


白いバンは、近くのビルにいた男性たちによって
目撃されている。
MK自身が撮った写真の中にも、白いバンの
一部が写っている。
しかしMKは、「白いバンは見ていない」と。


そのMKは、ロス市警へ移送されたあと、留置場の中で
自殺している。
MKは無実だったのか?
無実だったのなら、自殺などしないで、最後の最後まで
闘ってほしかった。
どうもこの事件は、すっきりしない。
いまだにすっきりしない。


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●心の別室論(Another Room in the Mind)


人間には、自分にとって都合の悪いことがあると、心の中に別室を作り、
そこへ押し込めてしまうという習性がある。
心理学では、こうした心理操作を、「抑圧」という言葉を使って説明する。
「心の平穏を守るために自らを防衛する機能」という意味で、「防衛機制」のひとつ
と考えられている。


その防衛機制は、つぎの7つに大別される。


(1) 抑圧
(2) 昇華
(3) 同一化
(4) 投射
(5) 反動形成
(6) 合理化
(7) 白日夢(以上、深堀元文「心理学のすべて」)


 この中でも、「不安や恐怖、罪悪感などを呼び起こすような欲求、記憶などを
無意識の中に閉じ込め、意識にのぼってこないようにする」(同書)を、「抑圧」
という。
つまり心の別室の中に、それを閉じ込め、外からカギをかけてしまう。
よく「加害者は害を与えたことを忘れやすく、被害者は害を受けたことを
いつまでも覚えている」と言われる。
(そう言っているのは、私だが……。)
この「加害者は害を与えたことを忘れやすい」という部分、つまり都合の悪いことは
忘れやすいという心理的現象は、この「抑圧」という言葉で、説明できる。


が、実際には、(忘れる)のではない。
ここにも書いたように、心の別室を作り、そこへそれを押し込んでしまう。
こうした心理的現象は、日常的によく経験する。


 たとえば教育の世界では、「おとなしい子どもほど、心配」「がまん強い子どもほど、
心配」「従順な子どもほど、心配」などなど、いろいろ言われる。
さらに言えば、「ものわかりのよい、よい子ほど、心配」となる。
このタイプの子どもは、本来の自分を、心の別室に押し込んでしまう。
その上で、別の人間を演ずる。
演ずるという意識がないまま、演ずる。
が、その分だけ、心をゆがめやすい。


 これはほんの一例だが、思春期にはげしい家庭内暴力を起こす子どもがいる。
ふつうの家庭内暴力ではない。
「殺してやる!」「殺される!」の大乱闘を繰り返す。
そういう子どもほど、調べていくと、乳幼児期には、おとなしく、静かで、かつ
従順だったことがわかる。
世間を騒がす、凶悪犯罪を起こす子どもも、そうである。
心の別室といっても、それほど広くはない。
ある限度(=臨界点)を超えると、爆発する。
爆発して、さまざまな問題行動を起こすようになる。


 話が脱線したが、ではそういう子どもたちが、日常的にウソをついているとか、
仮面をかぶっているかというと、そうではない。
(外から見える子ども)も、(心の別室の中にいる子ども)も、子どもは子ども。
同じ子どもと考える。


このことは、抑圧を爆発させているときの自分を観察してみると、よくわかる。


よく夫婦喧嘩をしていて、(こう書くと、私のことだとわかってしまうが)、
20年前、30年前の話を、あたかもつい先日のようにして、喧嘩をする人がいる。
「あのとき、お前は!」「このとき、あなたは!」と。


 心の別室に住んでいる(私)が外に出てきたときには、外に出てきた(私)が私であり、
それは仮面をかぶった(私)でもない。
どちらが本当の私で、どちらがウソの私かという判断は、しても意味はない。
両方とも、(心の別室に住んでいる私は、私の一部かもしれないが)、私である。


私「お前なんか、離婚してやるウ!」
ワ「今度こそ、本気ね!」
私「そうだ。本気だア!」
ワ「明日になって、仲直りしようなんて、言わないわね!」
私「ぜったいに言わない!」
ワ「この前、『お前とは、死ぬまで一緒』って言ったのは、ウソなのね!」
私「ああ、そうだ、あんなのウソだア!」と。


そこでよく話題になるのが、多重人格障害。
「障害者」と呼ばれるようになると、いろいろな人格が、交互に出てくる。
そのとき、どれが(主人格)なのかは、本当のところ、だれにもわからない。
「現在、外に現れているのが、主人格」ということになる。
夫婦喧嘩をしているときの(私)も、私なら、していないときの(私)も、
私ということになる。
実際、夫婦喧嘩をしている最中に、自分でもどちらの自分が本当の自分か、
わからなくなるときがある。


 ともかくも、心の別室があるということは、好ましいことではない。
「抑圧」にも程度があり、簡単なことをそこに抑圧してしまうケースもあれば、
重篤なケースもある。
それこそ他人を殺害しておきながら、「私は知らない」ですませてしまうケースも
ないとは言わない。
さらに進むと、心の別室にいる自分を、まったく別の他人のように思ってしまう。
そうなれば、それこそその人は、多重人格障害者ということになってしまう。


 ところで最近、私はこう考えることがある。
「日本の歴史教科書全体が、心の別室ではないか」と。
まちがったことは、書いてない。
それはわかる。
しかしすべてを書いているかというと、そうでもない。
日本にとって都合の悪いことは、書いてない。
そして「教科書」の名のもとに、都合の悪いことを、別室に閉じ込め、
カギをかけてしまっている(?)。


 しかしこれは余談。
ただこういうことは言える。
だれにでも心の別室はある。
私にもあるし、あなたにもある。
大切なことは、その心の別室にいる自分を、いつも忘れないこと。
とくに何かのことで、だれかに害を加えたようなとき、心の別室を忘れないこと。
忘れたら、それこそ、その人は、お・し・ま・い!


(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
心の別室 防衛機制 抑圧 はやし浩司 心の別室論 人格障害 加害意識)


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字数制限があるため、つづきは、以下でお読み下さい。

http://bwaiueo4.ninja-web.net/page011.html#label6

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そこで「シャドウ論」。
以下の原稿も、2009年ごろ書いた原稿である。
この中では、北朝鮮と韓国を例にあげ、「シャドウ論」を
展開してみた。

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