最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

2/2  ゲーム中毒

2010-12-27 00:19:37 | 日記

●親子

 このところ「親子とは何か」、それをよく考える。
親子とは、何か?
つでに家族とは、何か?

 昔風に言えば、濃密な血縁でつながれた一体性のある人間関係ということになる。
しかし今、その一体性を、子どもの方から拒絶し始めている。
その傾向が始まったのは、尾崎豊や長渕剛らが活躍したころといってよい。
私たち、団塊の世代は、権力との闘いが精神的方向性だった。
が、つづくつぎの世代では、それが世代との闘いに置き換わった。

 「私は私」というのは構わない。
私自身も、その言葉をよく使う。
しかし子ども(息子や娘)が、その言葉を使うときは、縦や横の人間関係を、切り離した
状態を意味する。
とくに縦の関係、つまり親と子の関係を切り離す。

 が、ここで2つの悲劇が始まる。

 ひとつは、親の側は、過去の幻想にしがみつきやすいという悲劇。
年老いた親ほど、そうだ。
中には「親子の縁は絶対的なもの」と信じて疑わない人も多い。
そのため時代の流れを理解できず、幻想と現実のちがいの中で、もがく。
苦しむ。
「私の子育ては、何だったのか」と。

 もうひとつは、自分自身も親でありながら、「自分たちだけは特別」と、やはり同じよう
な幻想にとりつかれる。
若い夫婦に多い。
もう少しわかりやすく説明しよう。

 たとえば子どもをもつ。
その子どもと、楽しい時間を共有する。
旅行する。
スポーツをする。
そのとき若い夫婦は、こう思う。
「私たち親子の絆(きずな)は、太い。家族というのは、こういうもの。私たちは、
私たちの親がしたような失敗は繰り返さない。私は家族を大切にしている」と。

 こうして若い夫婦は、一方で、その幻想に酔いしれる。
が、幻想は、幻想。
彼らもまた、私たちがたどったのと同じ道をたどる。
同じ失敗を繰り返す。

 これら2つを悲劇と言わずして、何という。

●教育観 

 この1年で、私の教育観は、大きく変わった。
それまでは家族主義を唱えながらも、家族がもつ呪縛感と闘ってきた。
実母や実兄の介護問題も、からんでいた。
養護問題もからんでいた。
私が生まれ育った地方(G県のM町周辺)は、(あるいは私の親類だけがそうだった
のかもしれないが)、濃密すぎるほどの親戚関係が生活の基本になっている。

 その親戚関係から受ける呪縛感には、相当なものがある。
心理学の世界では、「家族自我群」とか、「幻惑」とかいう言葉を使って、それを説明する。
私はその呪縛感に苦しんだ。
そしてこう考えた。

 「こういう苦しみは、私たちだけの世代で終わりにしたい。つぎの世代の人たちは、
そういう呪縛感とは無縁の世界で生きていけばいい」と。

しかし時代は、私が知らないうちに、私の知っている時代を通り越し、さらにその先へ
行っていた。
「日本は飽食だ、飽食だ」と思って、飽食による弊害を説いていたら、いつの間にか日本
は日々の食糧にも事欠くような貧乏国になっていた。
今は、そんな感じがする。

 で、この先のことは、よくわからない。
私自身も、模索期に入った。
が、このままでよいとは、考えていない。
あの男性は「狂った」という言葉を使った。
そう、たしかに狂った。
新しい世界を追い求めつづけていたら、古き良きものまで、粉々に破壊されてしまった。
そのためこの日本が、今、混乱状態にある。
私も模索状態にある。

 ……ということで、今日はここまで。
この話のつづきは、これから先、時間をかけてゆっくりと考えてみたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 昼神温泉補足 世代間闘争 模索期 家族主義 幻想と混乱)


Hiroshi Hayashi++++Nov. 2010++++++はやし浩司・林浩司

●63歳の誕生日

 63歳になりきれないでいる。
理由はわかっている。
今年の誕生日には、プレゼントをもらっていない。
例年だと、何かプレゼントをもらっている。
が、今年は、もらっていない。
それをワイフに言うと、「そんなはずはない!」と。

 私がほしいもの。

(1) TOSHIBAのMXパソコン。
(2) SONYのアルファ(α)カメラ。
(3) 機能がめちゃめちゃ複雑な、腕時計。
(4) パナソニックの「旅ナビ」カメラ。

 あえて順位をつけてみた。
しかしパソコンは、今でも5~6台が稼動中。
カメラも、3~4台が稼動中。
腕時計は、どうせすぐあきてしまう。
「旅ナビ」は、口コミ評判(ネット)が、あまりよくない。
やはりTOSHIBAのMXか?
キーボードが独立していて、打ちやすい。
それに表面のザラザラ感が気に入った。
難点を言えば、今使っているMXより、バッテリーのもちがやや短いこと。
しかし同じ仲間だから、バッテリーを共有できるという利点もある。
どうしよう?

●2011年

 私の仕事では、毎年今ごろになると、翌年の様子がわかってくる。
40年近くも、同じ仕事をしている。
ある程度の予想ができるようになった。
で、それによれば、2011年は、私にとっては忙しい年になりそう(?)。

 たとえば幼児教室にしても、現在の年中児クラスが、そのまま年長児
クラスになる。
不景気な年だと(?)、生徒数が3~4人にまでさがる。
今も基本的には不景気だが、このところ教室への問い合わせが多くなった。
そういう(動き)が、翌年への予想へとつながっていく。
 
 ワイフに「来年もがんばるよ」と声をかけると、ワイフはうれしそうに笑った。

●仕事は自分で作る

 私の世界では、「仕事は作るもの」。
「もらうもの」ではない。
魚取りにたとえるなら、水の中に自らもぐり、モリでつく。
釣竿をもって、釣れるまで待つのは、私のやり方ではない。

 で、最近の若い人たちを見ていて、たいへん気になることがある。
そのひとつが、ガッツ魂。
ガッツ魂がない。
生き様が受け身。
仕事に対する考え方にしても、そうだ。
仕事はもらうものと考えている。
就職活動というのが、それ。
どうして自分で作らない。
自分で社会に切り込んでいかない。
私には、どうしてもそれが理解できない。

●外国

 同じように、「外国へ出ていこう」という若者が少ないのに、驚く。
「外国へ出て働け」というのではない。
外国で、1、2年、暮らしてみる。
「世界を見る」という言い方でもよい。

 たとえば『沈まぬ太陽』という映画があった。
その中で映画の主人公が、懲罰左遷とかで、アフリカや中近東へ転勤になる。
そんな場面が出てきた。
が、どうしてそれが懲罰左遷なのか?

 当時の世相は、逆だった。
私も商社マンだったからよく知っているが、「外国へ出る」というのは、
それ自体がステータスだった。

私は三井物産という会社にいた。
社員は7000人あまりだった(当時)。
しかしその三井物産にあっても、海外勤務ができる人は、全体の30%。
残りの70%は、国内勤務だった(当時)。

 商社マンは、外国で活躍してこそ、商社マン。
当時の私だったら、アフリカだろうが、中近東だろうが、転勤を命じられたら、
喜んでそれに従ったであろう。
日本航空(当時)の社員にしても、そうだ。
山崎豊子氏(原作者)には悪いが、山崎豊子氏はそういう当時の常識すら、
知らなかったのでは?

それに当時は、短期出張と言えば2年が常識だった。
が、その2年で帰ってくる人は、少なかった。
短期出張のハシゴというのもあった。
派遣先から、さらに別の派遣先へ転勤を命じられる人が多かった。
日本は、まだ貧しかった。
1970年当時、羽田―シドニー間の往復航空運賃が42、3万円。
大卒の初任給がやっと5万円を超えた時代である。
今のように、自由に飛行機に乗ることさえむずかしかった。

●留学

 私は留学生試験を受けた。
結果、インドとオーストラリアの両方に合格した。
オーストラリアのほうを選んだ。
(もしインドのほうを選んでいたら、今ごろは死んでいただろう。
当時はまだ風土病についての理解も乏しかった。
肝炎もそのひとつ。
コップ一杯の水を飲んだだけで、急性肝炎になり、命を落とした人は多い。)

 が、もし留学生試験に落ちたら、私は船員になってでも、アメリカへ
渡るつもりだった。
船員として働き、アメリカへ渡る。
向こうへ着いたら、そこで働く。
真剣に、それを考えていた。

●日本の若者たち

 日本の若者たちが、どうしてこうまで受け身になってしまったのか。
もちろん中には、外国へ出かけていき、そこで働いている日本の若者も多い。
しかしそういう若者は、マイナー。
多くは「外国で苦労するなら、日本で暮らしたほうがいい」と考えている。

 たまたま先ほど、高校生のクラスで、みなに聞いてみた。
「君たちの中で、卒業後、留学するとか、外国へ行きたいとか、そういう
ふうに言っている友だちはいるか」と。
が、その答に、私は心底、失望した。
「・・・だれもいない・・・よなあ・・・」と。

私「いないのか?」
高「いないよなあ・・・」
私「外国へ出て、外国を知ってみるというのは、どうか?」
高「先生、そんなのは、旅行で行けばいいんじゃない」
私「旅行で行っても、表面的なことしかわからないよ」
高「そんなことないよ。わかるよ」
私「わからない」
高「わかる」
私「わからない」
高「・・・わかったところで、先生、それがどうなの?」と。

●飼い慣らされてしまった?

 どうして日本人は、こうまで飼い慣らされてしまったのか・・・と
聞くだけ、ヤボ。
日本の教育のシステムそのものが、そうなっている。
子どもたちを指導する教師たちが、組織の中で飼いならされてしまっている。
もう10年になるだろうか。
ある高校の校長が、「フリーター撲滅運動」なるものを始めた※。
「撲滅」(=たたきつぶす)だぞ!
「私の高校は、100%就職をめざす」と。

 この日本では自由に生きていくことすら、むずかしい。
「自由」とは、「自らに由りながら」という意味である。
このことと直接関係があるとは言えないが、おととい、こんな話を聞いた。

 岐阜県の高校では、自転車にも「車検」に似たような制度があるという。
たとえばタイヤの溝にしても、何ミリ以下になると、タイヤそのものを
交換しなければならない。
で、ある母親(岐阜県在住)は、電話でこう言った。

「自転車は安物です。ショッピングセンターで1万円で買ったものです。
そのタイヤ交換に、1万円もかかったんですよ」と。

私「車検みたいですね」
母「そうなんです。自転車屋さんの証明書がないと、その自転車には乗れない
のです」
私「それは暴力団のやり方ですね」
母「そうなんです。だから値段が高くても、ほかの人たちは自転車屋さんで
自転車を買うしかないのです。中には、ほかの店で買った自転車は、修理しません
と断わる店もあります」と。

 人間管理、ここに極まれり!

 人間は管理されればされるほど、体制に依存性をもつようになる。
依存性をもてばもつほど、生き様が受け身になる。
現在の若者たちは、その結果ということになる。

 自転車がパンクすれば、そこから先は、引いて歩けばよい。
チェーンがはずれたら、自分で直せばよい。
ブレーキがきかなくなったら、自転車を倒して止めればよい。
どうしてそういう野生臭を、もっと大切にしないのか?
今、そういう野生臭が、日本の若い人たちから、消えた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 若者の野生臭 たくましさ たくましさとは 日本の若者論)

(注※)「フリーター撲滅運動」(2007-12月記)

●働けど、働けど……(Working Poor)

One third of the Japanese belongs to so-called “Working Poor”, who works less than 1.9
~5.4 million yen per year. As to the young me aged from 15~24 years old), abt. 50% of
them are not-employed workers. The number of not-employed workers has increased
abt. 4.9 million in these ten years. Not-employed workers work with less payment
without any sufficient insurance. This means that Japanese traditional working system
has collapsed where workers could work in their whole lives in one single company. To
solve this problem, I insist, deregulation of the society is more and more important.
Otherwise there would be more and more working-poor people, especially working-poor
young men.

+++++++++++++++++

働けど、働けど……、一向に、生活が楽にならない。
そんな人がふえている。

G市に住む従兄弟(いとこ)と、電話で話す。
夫は、運送会社に勤め、妻は、銀行でコンピュータ管理の仕事をしている。
3人の子どもがいる。

夫は正規社員だが、妻は、非正規社員。
妻の身分は、10年以上、そのままだという。

従兄弟のケースは、まだ恵まれているほうだが、それでも、生活は、毎月ギリギリだとい
う。
夫も妻も、朝から、夜遅くまで働いている。

総務省統計局の調査によれば、この97年から02年までに、いわゆるワーキングプア世
帯(非勤労世帯を含む全世帯)は、16・3から22・3%に、ふえたという。

ワーキングプア世帯というのは、「働く貧困層」をいう。

ここでいう「貧困基準」というのは、

1人世帯……年収190万円以下
2人世帯……年収300万円以下
3人世帯……年収394万円以下
4人世帯……年収463万円以下
5人世帯……年収548万円以下(2002年度)の人たちをいう。

現在、日本では、約3分の1の世帯が、そのワーキングプア層に該当するという。

が、ここで注意しなければならないことは、たとえば妻が専業主婦で、子どもが2人いる
ばあい、4人世帯となるということ。
年収が、463万円以下だと、ワーキングプア層に入ってしまう。
つまり、子どもが多ければ多いほど、生活が苦しくなる。

しかし実際、1人の男性(夫)が、500万円の年収をあげることは、容易なことではな
い。
正規社員はともかくも、非正規社員だと、なおさらである。年収で、約30%~前後の開
きがあると聞いている(浜松地域)。

その正規社員は減り、非正規社員はふえている。同じく総務省統計局の調査によれば、こ
の10年間で、正規社員は約450万人減り、非正規社員は約490万人ふえているとい
う(IMIDAS)。

わかりやすく言えば、企業は、正規社員を減らし、その穴埋めを、給料が安くてすむ非正
規社員で補っているということ。

しかしこんなことをつづけていれば、勝ち組と負け組の2極化がますます進む。
が、それだけではすまない。
社会そのものが、不安定化する。
子どもの世界について言うなら、ますます受験競争がはげしくなる。
ついでに言えば、それがストレスとなって、子どもたちの世界を、ますますゆがめる。

いじめもふえるだろう。
子どもの自殺もふえるだろう。
不登校児もふえるだろう。

中に、「能力のある人がいい生活をして、そうでない人が、いい生活ができないのは、しか
たのないこと」と説く人がいる。

しかしそれには、大前提がある。

雇用の機会が、だれにも、平等に、かつ均等に与えられなければならない。
しかしこの日本では、人生の入り口で、運よくその世界へ入った人は、生涯にわたって、
安楽な生活をすることができる。
またそういう人たちが、自分が得た権益を、手放そうとしない。
公務員の天下りに、その例を見るまでもない。

何か、おかしい?
何か、へん?

総務省統計局の調査を見ると、1996年から99年あたりから、この日本は、大きく変
化し始めた。
この時期というのは、ちょうど団塊の世代以下が、リストラにつぐリストラで、職場を追
われ始めた時期にあたる。

では、どうするか?
どう考えたらよいか?
私たちの世代は、それでしかたないとして、これからこの日本を支える、これからの若者
たちのためには、どうしたらよいか?

今のように、若者(15~24歳)の非正規雇用が、50%前後(男子44%、女子52%、
06年)にもなったら、雇用社会そのものが崩壊したと考えたほうがよいのではないか。
わかりやすく言えば、フリーターであることのほうが、今では、当たり前。

であるなら、若者たちがフリーターとして生きていくために、生きやすい環境を、用意す
る。
つまりそのためには、規制緩和、あるのみ。ただひたすら、規制緩和あるのみ。

たとえばオーストラリアでは、電話1本と、車1台があれば、若者たちは、それで仕事が
始められる。
日本で言うような、資格だの、許可だの、認可だの、そういったものは、ほとんど必要な
い。

日本は世界的に見ても、管理の上に、「超」が、10個ぐらいつく、超管理国家である。
官僚主義国家の弊害と言えば、それまでだが、一方でこうして若者たちの世界を、がんじ
がらめに縛りつけている。

簡単に言えば、一方でフリーターをつくりながら、他方で、フリーターには、生きにくい
社会にしている。(そう言えば、数年前、『フリーター撲滅論』を唱えた、どこかのバカ校
長がいた。「撲滅」だと!)

これを矛盾と言わずして、何と言う。

私はそのフリーターを、40年近くしてきた。
浜松に来たころには、市の商工会議所に登録している翻訳家は1人しかいなくて、私が2
人目だった。
私は工業団地の電柱に張り紙をして、仕事を取ってきた。
資格も認可も、いらなかった。

今、そういう「自由」がどこにある?
またそういう自由があるからこそ、社会に、ダイナミズムが生まれ、そのダイナミズムが、
社会を発展させる。

働けど……、働けど……。
そんなわけで結局は、働くしかない。

ということで、言いたいこと、書きたいことは、山ほどある。あるが、ここは、「バカヤロ
ー」と叫んだところで、おしまい。バカヤロー!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist ワーキングプア ワーキン
グ・プア working poor working-poor)


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●真冬のダイエット

2010-12-26 18:12:23 | 日記
●12月26日夜・日曜日(はやし浩司 2010ー12-26)

●真冬のダイエット

 この数週間、体重計には乗らなかった。
……乗れなかった。
こわかった。
が、数日前、近くの温泉に行った折、乗った。
恐る恐る……。
ジャジャーン!

何と64・5キロの、2・5キロ、オーバー。

 早速、一昨日から、ダイエット。
小食+運動、あとはコンニャク食。
で、昨日体重を量ってみたら、63キロ。
今日は、62・5キロ。

ほっとしたのも束のが、異変はすぐ起きた。
体がいわば、ガス欠状態になってしまった。
寒い。
とにかく寒い。
寒いというより、どこにいても、体の芯から冷える。
ストーブをたいていも、寒い。
こたつの中に入っても、寒い。
布団乾燥機をつけ、ふとんにもぐっても、寒い。

 ワイフがそのつど、葛根湯を作ってくれた。
それでも寒い。

 ……ということで、今夜は、カニすき鍋。
ダイエットは、一時、中断。

●「日本の論点・2011」(文藝春秋)

 こたつの中で、「日本の論点」を読む。
あちこちを拾って読む。
その中のひとつ。
葬儀。

 「葬儀など不要」と説く人。
「葬儀は必要」ととく人。

 私はどちらでもよいと考える。
人、それぞれ。
それぞれが、納得する方法で、すればよい。
こうした議論そのものが、ナンセンス。
したい人は、すればよい。
したくない人は、しなければよい。
したい人に向かって、「しなくてもいいです」と言う必要はない。
しない人に向かって、「したほうがいいです」と言う必要はない。

 が、こういう問題もある。

 「葬儀は不要」と思っていても、世間体という圧力をはねかえすためには、相当の
覚悟とエネルギーが必要。
私自身がそうだった。
そこで自分なりの理論武装。
母を介護している間、20年ぶりに、あちこちから宗教論について書いた本を引き出し、
それを読んだ。
が、こうした理論を自分のものにするには、熟成期間が必要。
5年とか、10年とか、そういう時間の経緯が必要。
「今日読んだから、明日から、私もそうします」というわけにはいかない。

 で、その熟成期間を待たずして、実兄が他界。
つづいて実母が他界。
結局、世間並みの葬儀をすることになってしまった。
世間体という圧力と闘うのは、それほどまでに難しい。

●葬儀

 葬儀費用は、平均で220万円前後だそうだ(「日本の論点)。
実兄のときは、それ以上にかかった。
実母のときは、それ以下ですんだ。
間に2か月しかなかった。
実兄の100か日法要と、実母の七七回忌が重なった。

 で、その葬儀を振り返ってみて、こう考える。

 やはり葬儀というのは、質素にやればよい、と。
直送でも自然葬(密葬)でもよい。
派手にやったから、よいというのでもない。
質素にやったから、悪いというのでもない。

 ただ大切なことは、それぞれの人が、相手の葬儀の仕方、あるいは葬儀のやり方を、
理解すること。
受け入れること。
尊重すること。
いくら相手のやり方が気にくわないからといって、それをとやかく言ってはいけない。
それこそ「傲慢」というもの。

 一方、葬儀をする人は、自分流のやり方を、声高らかに、宣言すればよい。
「うちでは、こうします!」と。
地域によっては、勇気のいることかもしれない。
しかし、宣言する。
自分流のやり方を、押し通す。
もしそれをとやかく言う人がいたら、こちらから蹴飛ばしてやればよい。

 ……しかし220万円前後?
私の年金は、月額6万4000円。
34か月分。
約3年分。
葬儀費用もバカにならない。

●日曜日

 昨夜は、午前1時ごろまで義兄の家で、話し込んだ。
長話をした。
家に帰って寝たのが、午前2時。
今朝起きたのが、午前9時。
「まだ6時ごろかな?」と思って起きたら、午前9時だった。

 で、今日は日曜日。
やるべきことは、山のようにある。
そのひとつが、年賀状書き。
おおまかなデザインは、決まっている。
たいした作業ではない。
その気になれば、1時間足らずですむ。
が、その1時間を作るのが、むずかしい。
どうしても後回しになってしまう。
今の今も、そうだ。

 年賀状を書くより、こうして文を叩いていたほうが、楽しい。
どうしよう?

 ……先ほど、ワイフが買い物に行かないかと声をかけてくれた。
ということで、これから買い物。
カニすき鍋のカニを仕入れてくる。
ついでに同じものを、義兄に届けてくる。
昨夜は、真夜中まで、失礼をした。


Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司

1/2教育の原点を見直そう

2010-12-26 10:39:30 | 日記
●教え育てる?(教育の原点とは)

++++++++++++++++++++

日本の教育は、「教え育てる」が基本になっている。
だから「教育」という。
しかしこの教育法は、日本では通用しても、
外国では通用しない。

英語国では「education」という。
「educe(引き出す)」が語源になっている(TK先生指摘)。
つまり引き出す。
「ちがいは何?」と考える人も多いかもしれない。
が、ちがいは、大きい。

わかりやすく言えば、本山教育が日本の原点。
「頭から小僧に叩き込む」。
それが教育。

一方欧米では、「引き出す」。
そのため「debate(討論)」が、教育の重要な柱になっている。
欧米の教育は、討論に始まり、討論に終わる。
ペーパーワークなど、たまにしか、しない。

韓国の朝鮮N報(新聞)の一部を紹介する。
日本の現状を客観的に見ている。

++++++++++以下、韓国・朝鮮N報、一部抜粋+++++++++++

米ハーバード大のマイケル・サンデル教授による「正義論」の授業は、大教室で熱い討論
が繰り広げられることで有名だ。
教室を埋め尽くす学生たちの国籍は多種多様で、これも授業の特徴の一つとなっている。
アジア系の学生も多い。だが、討論の場に日本人学生の姿はほとんど見られない。
昨年の時点で、ハーバード大に在学中の外国人学生(学部生)666人のうち、韓国人が42人、中国人が36人、シンガポール人が22人、インド人が20人だったのに対し、日本人はわずか5人だった。

++++++++++以上、韓国・朝鮮N報、一部抜粋+++++++++++

●幼児教室でも

 私が主宰する幼児教室でも、討論を大切にする。
子どもたちに活発に発言させる。
ペーパーワークは、子どもたちを抑えるときに利用する。
(詳しくは、BW公開教室を観てほしい。
http://bwhayashi.cool.ne.jp/index.html
より)

 しかしこの方法は、親たちには、受けがよくない。
「勉強というのは、机に向かってペーパーワークをするもの」という、明治以来の、
(あるいはそれ以前からの)、詰め込み教育が「教育」の柱になっている。
親たちもまた、それが教育と思い込んでいる。
反対にペーパーワークが多ければ多いほど、「プリントという証拠が残るため?」、
親は喜ぶ。

 しかし現実には、ペーパーワークをさせることほど、楽な指導法はない。
教師は座って、○×をつけるだけ。

●討論しない日本人

 日本の学生が討論しないというのは、世界の常識。
どこへ行っても、静かでおとなしい。
学生だけではない。
国際会議のような席でも、みな、ニンマリと笑いながら、座っているだけ。
それを朝鮮N報は、「討論の場に日本人学生の姿はほとんど見られない」と評した。
事実、その通りだから、これについては、反論のしようがない。

 が、これを日本の教育の欠陥と言わずして、何という。
むしろ日本人は、(日本の教育者は)、自己主張する子どもを嫌う傾向にある。
そのことも、私の「公開教室」を観てもらえばわかる。
幼稚園や、学校教育とのちがいが、わかってもらえる。
私の教室では、静かに黙って教育を受けるような子ども(幼児)はいない。

 が、それだけではない。
つまり討論するかしないかは、「個」の問題と深く結びついている。

 そう言えば、これについてはいろいろな原稿を書いてきた。
いくつかを探してみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●大河ドラマ(2007年5月に書いた原稿より)


 「絶対、見ないぞ」と思っていたが、チャンネルをかえるついでに、NHKの大河ドラマを見た。……しばらく見てしまった。何かの評定会議をしているシーンだった。

 それを見て、びっくり。10年前の大河ドラマとそっくり。20年前の大河ドラマとそっくり。

 武将たちが、それぞれ自分のセリフを言っていたが、その言い方が、ワンパターン。実にワンパターン。あんな演技なら、私にだって、できる。あなたにだって、できる。武将というのは、こういうものの言い方をするものだというような、決められた言い方。こういうときには、こういう表情をするものだという、実にわざとらしい演技。

 自然さが、どこにもない。人間味が、どこにもない。

 私も、20年ほど前のことだが、その会社の命運を決するような会議に出させてもらったことがある。昨日の大河ドラマのように、そこには、15人前後の役員が集まっていた。そして同じように、自分の意見を述べあっていた。

 しかし雰囲気は、まるでちがう。それぞれの人が、それぞれの立場で、自分の意見を述べていた。どこかへつらいがちに、ものを言う役員。頭を下に向け、ポツリ、ポツリとしゃべる取締役社長。だまりこくったまま、ため息ばかりつく、別の役員などなど。大河ドラマの監督も、一度、そういうシーンをどこかで見てくるとよい。

 領地を取っただの、取られただの、まるで餓鬼の会議。そこには、一片の正義もない。何のために、戦っているのか、戦うのか、その大義名分すら、ない。まったく、ない。民衆のために闘うとか、民主主義のために戦うとか、はたまた自由を求めて戦うというのなら、まだわかる。しかしそういう正義は、まったく、ない。

 要するに、みな、我欲の追求だけが目的。そのための会議。のどに力を入れて、力んでいるだけ。見ているうちに、あのK国の軍人たちを連想してしまった。

 大河ドラマというのは、こういうものでございます……という、まさに型にはまった演技。どうしてNHKは、10年一律のごとく、同じような番組ばかりつくるのだろう。

++++++++++++

以前(1999)、書いた原稿を
添付します。

++++++++++++

●日本の常識、世界の標準?

 『釣りバカ日誌』の中で、浜ちゃんとスーさんは、よく魚釣りに行く。見慣れたシーンだが、欧米ではああいうことは、ありえない。たいてい妻を同伴する。

向こうでは家族ぐるみの交際がふつうで、夫だけが単独で外で飲み食いしたり、休暇を過ごすということは、まず、ない。そんなことをすれば、それだけで離婚事由になる。

 困るのは『忠臣蔵』。ボスが犯罪を犯して、死刑になった。そこまでは彼らにも理解できる。しかし問題はそのあとだ。彼らはこう質問する。「なぜ家来たちが、相手のボスに復讐をするのか」と。

欧米の論理では、「家来たちの職場を台なしにした、自分たちのボスにこそ責任がある」ということになる。しかも「マフィアの縄張り争いなら、いざ知らず、自分や自分の家族に危害を加えられたわけではないのだから、復讐するというのもおかしい」と。

 まだある。あのNHKの大河ドラマだ。日本では、いまだに封建時代の圧制暴君たちが、あたかも英雄のように扱われている。すべての富と権力が、一部の暴君に集中する一方、一般の庶民たちは、極貧の生活を強いられた。もしオーストラリアあたりで、英国総督府時代の暴君を美化したドラマを流そうものなら、それだけで袋叩きにあう。

 要するに国が違えば、ものの考え方も違うということ。教育についてみても、日本では、伝統的に学究的なことを教えるのが、教育ということになっている。欧米では、実用的なことを教えるのが、教育ということになっている。しかもなぜ勉強するかといえば、日本では学歴を身につけるため。欧米では、その道のプロになるため。日本の教育は能率主義。欧米の教育は能力主義。

日本では、子どもを学校へ送り出すとき、「先生の話をよく聞くのですよ」と言うが、アメリカ(特にユダヤ系)では、「先生によく質問するのですよ」と言う。

日本では、静かで従順な生徒がよい生徒ということになっているが、欧米では、よく発言し、質問する生徒がよい生徒ということになっている。日本では「教え育てる」が教育の基本になっているが、欧米では、educe(エデュケーションの語源)、つまり「引き出す」が基本になっている、などなど。

同じ「教育」といっても、その考え方において、日本と欧米では、何かにつけて、天と地ほどの開きがある。私が「日本では、進学率の高い学校が、よい学校ということになっている」と説明したら、友人のオーストラリア人は、「バカげている」と言って笑った。そこで「では、オーストラリアではどういう学校がよい学校か」と質問すると、こう教えてくれた。

 「メルボルンの南に、ジーロン・グラマースクールという学校がある。チャールズ皇太子も学んだことのある由緒ある学校だが、そこでは、生徒一人一人に合わせて、カリキュラムを学校が組んでくれる。たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように、と。そういう学校をよい学校という」と。

 日本の常識は、決して世界の標準ではない。教育とて例外ではない。それを知ってもらいたかったら、あえてここで日本と欧米を比較してみた。 

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●大学生の親”貧乏盛り”

 少子化? 当然だ! 都会へ今、大学生を一人出すと、毎月の仕送りだけで、月平均11万7000円(九九年東京地区私大教職員組合調べ)。もちろん学費は別。が、それだけではすまない。

アパートを借りるだけでも、敷金だの礼金だの、あるいは保証金だので、初回に40~50万円はかかる。それに冷蔵庫、洗濯機などなど。パソコンは必需品だし、インターネットも常識。
…となると、携帯電話のほかに電話も必要。入学式のスーツ一式は、これまた常識。世間は子どもをもつ親から、一体、いくらふんだくったら気がすむのだ! 

 そんなわけで昔は、「子ども育ち盛り、親、貧乏盛り」と言ったが、今は、「子ども大学生、親、貧乏盛り」と言う。大学生を二人かかえたら、たいていの家計はパンクする。

 一方、アメリカでもオーストラリアでも、親のスネをかじって大学へ通う子どもなど、さがさなければならないほど、少ない。たいていは奨学金を得て、大学へ通う。企業も税法上の控除制度があり、「どうせ税金に取られるなら」と、奨学金をどんどん提供する。

しかも、だ。日本の対GNP比における、国の教育費は、世界と比較してもダントツに少ない。
欧米各国が、7~9%(スウェーデン9・0、カナダ8・2、アメリカ6・8%)。日本はこの十年間、毎年4~5%前後で推移している。

大学進学率が高いにもかかわらず、対GNP比で少ないということは、それだけ親の負担が大きいということ。日本政府は、あのN銀行という一銀行の救済のためだけに、4兆円近い大金を使った。それだけのお金があれば、全国200万人の大学生に、一人当たり200万円ずつの奨学金を渡せる!

 が、日本人はこういう現実を見せつけられても、誰(だれ)も文句を言わない。教育というのはそういうものだと、思い込まされている。いや、その前に日本人の「お上」への隷属意識は、世界に名だたるもの。戦国時代の昔から、そういう意識を徹底的に叩(たた)き込まれている。

いまだに封建時代の圧制暴君たちが、美化され、大河ドラマとして放映されている!日本人のこの後進性は、一体どこからくるのか。親は親で、教育といいながら、その教育を、あくまでも個人的利益の追求の場と位置づけている。

 世間は世間で、「あなたの子どもが得をするのだから、その負担はあなたがすべきだ」と考えている。だから隣人が子どもの学費で四苦八苦していても、誰も同情しない。こういう冷淡さが積もりに積もって、その負担は結局は、子どもをもつ親のところに集中する。

 日本の教育制度は、欧米に比べて、30年はおくれている。その意識となると、50年はおくれている。かつてジョン・レノンが来日したとき、彼はこう言った。

「こんなところで、子どもを育てたくない!」と。

「こんなところ」というのは、この日本のことをいう。彼には彼なりの思いがいろいろあって、そう言ったのだろう。が、それからほぼ30年。この状態はいまだに変わっていない。もしジョン・レノンが生きていたら、きっとこう叫ぶに違いない。「こんなところで、孫を育てたくない」と。

 私も3人の子どもをもっているが、そのまた子ども、つまりこれから生まれてくるであろう孫のことを思うと、気が重くなる。日本の少子化は、あくまでもその結果でしかない。
(1999年ごろ記)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

2/2教育のあり方を見直そう

2010-12-26 10:38:29 | 日記

●引く文化・押す文化

 日本の子どもは、消しゴムのカスを、手前に払って、机の下に落とす。欧米の子どもは、向こう側に払って、机の上に残す。

考えてみれば、不思議なことだ。教えなくとも、日本の子どもたちは、いつの間にかそうするようになる。考えてみれば、日本の刀は、手前に引きながら、相手切る。欧米の刀は、相手のほうに突き刺しながら切る。ノコギリもそうだ。日本では引きながら切る。欧米では押しながら切る。

これを称して、日本の文化は「引く文化」。欧米の文化は「押す文化」と言った人がいた。たとえば「庭」。日本では、庭をつくるとき、視点を家の中に置く。つまり家の中に美しさを、引きこむようにして庭をつくる。欧米は反対に、外に向かって庭をつくる。

わかりやすく言えば、通りから見た美しさを大切にする。何でもないようなことだが、こうした文化は、教育にも大きな影響を与えている。

 日本人は、周囲の価値を、自分の中に引きこむことを美徳とする。内面世界の充実を大切にする。一方、欧米では、自分の価値を、相手に訴えることを美徳とする。

日本人はディベイト(討論)がヘタだと言われているが、そもそも国民性が違うから、しかたない。いや、長い間の封建制度が、日本独特の国民性を作った。自己主張をして波風をたてるよりも、ナーナーですまし、「和」をもって尊しとすると、日本人は考える。

つまりそもそも風土そのものが、「個」を認める社会になっていない。特に教育の世界がそうだ。徹底した上意下達方式のもと、親も子どもも、いつもそれに従順に従っている。文部省が「体験学習だ」と言えば、体験学習。「ボランティア活動だ」と言えば、ボランティア活動。いつもすべてが全国一律に動く。親の側から、教育に注文をつけるということは、まず、ない。

そういう意味でも、日本人は、まだあの封建制度から解放されていない。体質も、それから生まれるものの考え方も、封建時代のままといってもよい。言いかえると、日本の封建時代が残したマイナスの遺産は、あまりにも大きい。

 ……と悩んでもしかたない。問題は、こうした封建体質から私たちをいかにして解放させるか、だ。一つの方法として、あの封建時代、さらにその体質をそっくりそのまま受け継いだ明治、大正、昭和の時代を今ここで、総括するという方法がある。歴史は歴史だからそれなりに正当に評価しなければならない。しかし決して美化したり、茶化したり、歪曲してはならない。

たとえば2000年のはじめ、NHKの大河ドラマにかこつけて、この静岡県で、『葵三代、
徳川博』なるものが催された。たいへんなにぎわいだったと聞いているが、しかしそういう形で、あの封建時代を美化するのはたいへん危険なことである。

あの世界にも類をみないほどの、暗黒かつ恐怖政治のもとで、いかに多くの民衆が虐げられ、苦しんだか、それを忘れてはならない。一方、徳川家康についても、その後、300年という年月をかけて、つごうの悪い事実は繰り返し抹消された。

私たちが今もつ「家康像」というのは、あくまでもその結果でしかない。つまりこうしたことを繰り返している間は、私たちはあのマイナスの遺産から抜け出ることはない。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●子育ての原点

 スズメは、ヒヨドリが来ても逃げない。ヤマバトが来ても逃げない。しかしモズが来ると、一斉に逃げる。モズは肉食だ。しかしではなぜ、スズメは、そんなことを知っているのか。それは本能によるものなのか。それとも学習によるものなのか。

 スズメは子育てをする一時期を除いて、集団行動をする。それはよく知られた習性だが、子育てのときもそうだ。子スズメたちは、いつも親スズメのあとをついて飛ぶ。そして親スズメに習って、エサの取り方や食べ方を学ぶ。そのときのことだ。

モズが来ると、親スズメがまず逃げる。そしてそれを追いかけるようにして、子スズメも逃げる。スズメたちがモズから逃げるのは、本能によるものではなく、学習によるものだ。本能によるものなら、親スズメと同時か、場合によっては、親スズメより先に逃げるはずである。

 実は「子育て」の原点はここにある。教育の原点と言ってもよい。親は子どもを育てながら、まず命を守る方法を教える。危険なものと、そうでないものを教える。将来生きていくために必要な知識を、子どもたちに教える。経験を伝えることもある。子どもたちは、そういう知識や経験を武器として、自分たちの世代を生きる。そして親になったとき、自分たちが教えられたようにして、次の世代に知識や経験を伝える。

が、この図式通りいかないところが、人間の世界だ。そしてこの図式通りでないところに、子育てのゆがみ、さらに教育のゆがみがある。

その第一。たとえば今の日本の子どもたちは、家事をほとんど手伝わない。すべき家事すら、ない。洗濯は全自動の洗濯機。料理も大半が、電子レンジで温めればすんでしまう。水は水道、
ガスはガス管から運ばれる。掃除も、掃除機ですんでしまう。幼稚園児に、「水はどこから来ますか」と質問すると、「蛇口!」と答える。

同じように野菜はスーパー、電気は電線となる。便利になったことはよいことだが、その便利さに慣れるあまり、「生きることの基本」を忘れてしまっている。そして他方で、必要でもないような知識を、人間形成に必要不可欠な知識と錯覚する。よい例が一次方程式だ。二次方程式だ。

私など文科系の大学を出たこともあって、大学を卒業してから今にいたるまで、二次方程式はおろか、一次方程式すら日常生活で使ったことは、ただの一度もない。さらに高校二年で微分や三角関数を学ぶ。三年では三角関数の微分まで学ぶ。

もうこうなると、教えている私のほうがバカバカしくなる。こんな知識が一体、何の役にたつというのか。こうした事実をとらえて、私の知人はこう言った。「今の教育には矛盾と錯覚が満々ている」(学外研・I氏)と。

 教育、教育と身構えるから、話がおかしくなる。しかし子どもたちが自立できるように、私たちが得た知識や経験を、子どもたちに伝えるのが教育。そしてそれを組織的に、かつ効率よく、かたよりなく教えてくれるのが学校と考えれば、話がスッキリする。子育てだってそうだ。将来、子どもたちが温かい家庭を築き、そしてそれにふさわしい親として子育てができるようにするのが、子育て。そういうふうに考えて子育てをすれば、話がスッキリする。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 教育の原点 和をもって尊し educe education 個の教育)

●討論を大切に

 「もの言わぬ従順な民」の時代は、もう終わった。
またそういう子どもを求めてはいけない。
少なくとも、そういう人間は、世界では通用しない。
日本の中では、それでよいとしても、一歩、外に出れば、そこは修羅場。
百戦錬磨の怪獣たちが住む、修羅場。
もの言わぬ従順な民が、どうしてそういう怪獣たちを相手に、勝負できるか。

 現在の教育のあり方を、基本的な部分から、もう一度ながめ直してみる必要がある。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●Active Learning(生きた教育)vs Silent People(もの言わぬ民)

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バートランド・ラッセルは、つぎのように述べている。

Passive acceptance of the teacher's wisdom is easy to most boys and girls.
教師の知恵をそのまま受け入れることは、生徒たちにとっては楽なこと。
It involves no effort of independent thought, and seems rational because the teacher knows more than his pupils; it is moreover the way to win the favor of the teacher unless he is a very exceptional man.
自分で考えるという努力を必要としないし、それに教師は生徒たちよりもよく知っているという点で、教師のもつ知恵は、より道理的である。
Yet the habit of passive acceptance is a disastrous one in later life.
が、ものごとを受動的に受け入れるという習慣は、あとになって、たいへんなことだとわかる。
It causes men to seek a leader, and to accept as a leader whoever is established in that position...
受動的であると、リーダーを求めるようになり、その地位にある人ならだれであっても、その人をリーダーと受け入れてしまうようになる。
It will be said that the joy of mental adventure must be rare, that there are few who can appreciate it, and that ordinary education can take no account of so aristocratic a good.
精神的な冒険による喜びというのは、稀なことであり、それゆえにそれを楽しむ人はほとんどいない。そのためふつうの教育というのは、規律正しく貴族主義的であればあるほど、よいと言われる。
I do not believe this.
しかし私は、こんなことを信じない。
The joy of mental adventure is far commoner in the young than in grown men and women.
若い人たちのほうが、成人した人たちより、ずっとしばしば、精神的な冒険の喜びを経験している。
Among children it is very common, and grows naturally out of the period of make-believe and fancy.
幼い子どもたちほどそうで、成長とともに、空想の世界から自然と抜け出ていく。
It is rare in later life because everything is done to kill it during education...
むしろ歳をとればとるほど、教育を通して、それをつぶされてしまうため、そういうことが稀になる。
The wish to preserve the past rather than the hope of creating the future dominates the minds of those who control the teaching of the young.
未来を創造するという希望よりも、過去を保全するという願いのほうが、若い人たちを教育する教師の心を、より強く支配する。
Education should not aim at passive awareness of dead facts, but at an activity directed towards the world that our efforts are to create.
教育というのは、死んだ事実を、生徒たちに押しつけることを目的としてはいけない。そうではなくて、私たちの努力が創りあげる世界に向かって、生徒たちを活動的にすることを目的としなければならない。

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●死んだ教育vs生きた教育

 教師はどうしても、保守主義に陥りやすい。
「教育」本来のシステムそのものが、そういう趣旨から出発している。
とくに日本のばあい、明治以来、「教え、育てる」が、教育の基本になっている。
最初に「教科書」を用意し、それを子どもたちに植えつける。
それが教育の基本になっている。

 しかしオーストラリアでは、(当時は批判的な声も多く聞かれたが)、すでに小学3年生まで、教科書を使っていなかった(南オーストラリア州)。
それも私が直接確認したのは、25年以上も前のことである。
(最近のことは、知らない。)
また「教科書」という概念ではなく、彼らが使っているのは、「テキスト」である。
テキストブック、イコール、教科書ではない。

 つまり世界的にみれば、日本の教育はバートランド・ラッセル風に言えば、「死んだ教育」ということになっている。
それが、基本になっている。
「創りあげる教育」ではなく、「上から下へ、押しつける教育」。
だからおもそろくない。
つまらない。

だから子どもたちは、よくこう言う。
「まだ、習っていない!」と。
何か新しい漢字を書かせようとしたり、新しい問題を解かせようとしたとき、など。
決まって、そう言う。
教育の受け方そのものが、受動的。
わかりやすく言えば、小学低学年時においてすら、すでにそう飼い慣らされてしまっている!

●では、どうするか?

 教科書の廃止は当然としても、それに代わるシステムを創りあげなければならない。
「指針」のようなものでよい。
また教育現場にダイナミズムをもたらすために、EUのように大学の単位を共通化する。
同時に教育のクラブ化を進める。
重要な必須科目は、「学校」という場で教える。
しかしそうでない科目は、学校を離れたクラブで教える。
クラブを選ぶのは、子どもたちの自由。

 フランスに住んでいるSさんは、最近、こんなメールをくれた。
「(2人)の子どもたちは、自転車クラブに夢中です」と。
まだ小学生である。
そういう子どもたちが、クラブを通して、夢中になれるものをもっている。
それをすばらしいと言わずして、何という。

 もちろんその前に、やるべきことがひとつある。
職業の公平化である。

 親たちは日々の生活を通して、社会の「格差」「差別」「不公平」を、いやというほど、感じ取っている。
こうした問題を解決しないまま、今、教育を自由化すれば、いわゆる受験産業だけが「クラブ」になってしまう。
それでは元の木阿弥。

 が、皮肉なことに、この日本では、そうした格差、差別、不公平の恩恵を受けているのが、官僚たち、なかんずく文部科学省。
天下り先として機能している外郭団体にしても、ダントツに多い。
1800団体近くもある。
中には、ほとんど意味のない団体もある。
こうした団体が、日本の教育をがんじがらめにし、硬直化させている。
1500年もつづいた日本の官僚制度の壁は、あなたが考えているより、はるかに厚い。

 その結果、どんな子どもが生まれるか?
それはあなた自身が、いちばんよく知っている。
「もの言わぬ、従順な民」。
あるいは、「もの考えぬ、従順な民」でもよい。
それがあなた自身ということになる。

 日本の教育を真正面から批判してみた。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 生きた教育 バートランド・ラッセル もの言わぬ従順な民 格差 差別 自由な教育論)


Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司

1/2 12月24日(悪妻vs良妻)

2010-12-25 14:59:12 | 日記
● 12月24日夜記(2010年)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

● 不景気

 コンビニで、週刊誌を立ち読みする。
一読して、暗い気分になる。
どの週刊誌も、「不景気」一色。
たとえば週刊Sは、「シャッター街」を特集していた。
不景気でシャッターを下ろした、シャッター街。
その通りでは、どの店もシャッターを下ろしたまま。

私自身も、商店で生まれ育った。
それだけに、こういう話は、身につまされる。
シャッターを下ろした商店主たちは、どこへ行けばよいのか。
どこへ行ったのか。
さぞかしつらかったことだろう。
そのつらさは、私自身が経験している。

 負け戦(いくさ)なら負け戦でよい。
短期間に終わるなら、まだよい。
しかし商店のばあいは、それが10年単位でつづく。
言うなれば真綿で首を絞められたような状態。
それが綿々とつづく。
ジワジワ、ジワジワと……。
その間に、心まで蝕(むしば)まれる。
もちろん健康にもよくない。

2010年は不景気で始まり、不景気で終わった。
そんな感じがした。
もう少しワクを広げると、平成時代は不景気で始まり、
それがいまだに続いている。
「失われた10年」が、「失われた20年」になった。

今にして思えば、宮Z総理大臣、橋M大蔵大臣。
あの2人が、日本の経済をメチャメチャにしてしまった。
ある週刊誌は、この2人をさして、「戦後の日本のA級戦犯」と書いていた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●北朝鮮、つぎの一手

 北朝鮮は、「聖戦」と称して、またまた韓国を脅した。
今度は、「核戦争の準備を整えた」(12月24日)と。
それに対して、韓国政府は、いつもの脅し(レトリック)ととらえている。
が、本当に、そうか?
そう考えてよいか?

 こういうときは、一度自分の脳を、あの独裁者の脳の中に入れてみる。
彼になりきって、ものを考えてみる。
そうすると彼の思考回路が手に取るようによくわかるようになる。
その状態で、あの独裁者のつぎの一手を考える。
で、そのつぎの一手とは……。

(1) 適当に韓国を挑発する。
(2) 韓国がそれに応じて、反撃してくるのを待つ。
(3) しばらく間を置いて、核実験を強行する。

 問題は核実験する場所だが、北朝鮮の北部や、日本海側ではない。
ズバリ38度戦のすぐ北。
韓国や在韓米軍を脅すには、最適。
そこなら全面戦争にはつながらない。
自国の領土内だから、名分も立つ。

 では、どうやって核兵器を、38度線近くまで運ぶか?
方法は簡単……というより、すでにその場所はできている。
何十本もあるとされるトンネルのひとつを使えばよい。
が、もし韓国の反撃が過ぎたものであれば、ソウルの地下で、ということも
考えられる。
ソウルの下にも、トンネルが走っている。
が、その場合は、核爆発と同時に、北朝鮮軍を一斉に南下させる。
アメリカ軍が反撃を整える前に、プサンまで南下する。
猶予期間は7日。
7日以内なら、北朝鮮は韓国を制圧できる。
それ以後だと、国連軍は反撃態勢を整える。
(2010年12月24日記)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●韓国vs中国

 少し前、中国の漁船が韓国の巡視船に体当たりをした。
韓国の領海内での違法操業が、発端だった。
その結果、中国漁船は沈没。
何人かの死者が出た。

 それについて韓国政府は、それ以上、ことを荒立てないようにという配慮からか、
「遺憾声明」なるものを出した。
「遺憾」という言葉を使った。
死者が出たことについて、「I’m sorry」と言った。
これを受けて、中国政府はそれを「謝罪声明」と曲解し、中国国内で発表した。
「韓国政府が謝罪した」と。
が、これに韓国のマスコミが一斉に反発した。
「事実を歪曲した」、「わざと反韓感情を、かきたてている」と。

 しかし「遺憾」も「謝罪」も、英語では「I’m sorry」。
「残念」「ごめんなさい」という意味。
こういうケースのばあい、「遺憾声明」を出すほうが、おかしい。
少しでも国際外交の知識があったら、こんな言葉は使わなかったはず。
ずいぶんと昔だが、日本もアメリカに対して、同じ失敗をしている。

 それに一言。

 韓国の新聞は、いつも日本のニュースをゆがめて韓国国内へ伝えている。
わざと反日感情をかきたてている。
それについては、今までたびたび書いてきた。
そういう韓国が、中国に対して文句をつける。
このおかしさ。

 少し前のことだが、中国の自動車会社が、韓国の車のデザインを盗用したと、
韓国で問題になった。
しかしその韓国は、どうか?
どうだったか?
10年前まで、日本車をコピーして車を作っていた。
前から見るとTOYOTA、うしろからみるとNISSAN。
そんな車ばかりだった。

 自分の姿を客観的に知ることは、むずかしい。
自分の国を客観的に知ることは、さらにむずかしい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●性欲の奴隷たち

 ある賢者はこう言った。
『若者たちは老人を見ると、みな、バカと思う。
しかし老人たちは若者を見ると、みなバカと思う」と。

 その「境界」、つまり若者と老人を分ける壁が、「性欲」ということになる。
60歳を過ぎると、人は、急速に性欲から解放される。
「衰退する」とか「減退する」というのではない。
「解放される」。

 たとえばこの私。
(こういう話は、正確に書きとめておきたい。)
性欲が消えたわけではない。
ただ最近は、若い女性には、ほとんど興味がない。
どんな写真を見ても、ただの肉塊に見える。
(それとも脂肪の塊?)
胸にしても、腰にしても、ただの肉塊に見える。

 もともとただの肉塊。
肉塊でないと言うほうが、おかしい。
つまり私たちが人間として本来的にもつ本能が、私たちの目を狂わせているだけ。
性欲から解放されると、それがよくわかる。
言い換えると、この私にしても今まで、性欲の奴隷でしかなかった。
それがよくわかる。

 が、それだけではない。
若い女性、とくに化粧に化粧を塗り重ねたような女性を見ると、本当にバカに見える。
恩師のT先生は、そういう人たちを評して、「昆虫のような脳みそ」と表現した。
その言葉をはじめて聞いたときには、私は少なからず違和感を覚えた。
が、今、私も、そう思うようになった。
中身がまったくない。
ないばかりか、薄汚ささえ覚える。
まさに昆虫のような脳みそ。
そういう脳みそしかもっていない。

 性欲の奴隷となり、本能の命ずるままに行動している。
それが悪いというのではない。
それがあるからこそ、ヒトも、子孫を後世に残すことができる。
が、それに溺れてはいけない。
……と言っても、それに溺れている人に、それを説いても意味はない。
それが生きる原動力にもなっている。
あのフロイトも、それを「性的エネルギー」という言葉を使って説明した。
女性だけではない。

 男性がスポーツでがんばるのも、仕事や業績でがんばるのも、結局はその向こうに、
その性的エネルギーがあるから。
それが背後でその人を操る。

 が、60歳を過ぎると、そういう自分が、たいへんよくわかるようになる。
同時に、脳の中を、さわやかな風が吹き通るようになる。
それを私は「性欲からの解放」と呼んだ。

 だから今、私は、若者たちがみな、バカに見える。
ちょうど若者たちが私たち老人をバカと思うように、バカと思う。
自分であって自分でないものに、振り回されているだけ。

 で、今は、どうか?
相手が男性でも、また女性でも、その向こうにある「人間」を見るようになった。
「男性だから……」とか、「女性だから……」とか、そういう外見では区別しない。
1人の人間として、どうなのか、と。

 で、私と同年齢以上の人は、このエッセーを読んで、「そうだ」と納得してくれるはず。
しかし若い人たちには、このエッセーの内容すら理解できないだろう。
「そんなはずはない」とか、「はやし浩司は、きれいごとを並べているだけ」とか、
そう言って反発するかもしれない。
「何を偉そうに」と思う人もいるかもしれない。
私自身もそうだった。
私も若いころは、老人がみな、バカに見えた。

 しかしもしそうなら、男性も女性も、もう一度冷静な目で、異性をながめてみるとよい。
自分にこう問うてみたらよい。
「どうして相手が、ただの肉塊に見えないのか」と。
つまりその(見えなくしているもの)が、私であって私でない部分、つまり本能という
ことになる。

 ……ただしまったく性欲がなくなったわけではない。
ときどきだが、今でも性欲がわいてくるときがある。
突発的にと書くべきか、それとも発作的にと書くべきか。
どうであるにせよ、まったく消えてしまったわけではない。
しかしそれは小便とか大便と同じ。
それに相手は、若い女性ではない。
私のワイフである。

また若いときとちがって、そうした性欲には、いつもある種の虚しさがともなうように
なった。
その虚しさを感じたとたん、自分の中から性欲がスーッと萎(な)えていく。
それが自分でも、よくわかる。
そう言えば、10年ほど前のこと。
ワイフとこんな会話をしたことがある。
私が「今なら、混浴風呂に入っても、そこにいる女性と平気で会話ができると」と
言ったときのこと。
ワイフはこう言った。

「バカねえ。相手の女性がいやがるでしょ。どうしてあなたにはそれがわからないの!」
と。

 ハハハ。
そうだった。
相手のことを考えていなかった。
若い女性が私のようなジジイなど、相手にするはずがない。
ハハハ。
この話は、ここまで。
こういう話は、どうも苦手。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●12月24日

 今夜はクリスマス・イブ。
夜遅く、ワイフと山荘にやってきた。
毎年、家でクリスマスをささやかに祝ってきた。
2人だけで。
ときに長男を加えて3人だけで。

が、今年は、やめた。
つまり家で祝うのは、やめた。
そのかわり、教室の生徒たちといっしょに、祝った。
いくつかのゲームをした。
記念撮影もした。
それがめちゃめちゃ、楽しかった。
ワイフもうれしそうだった。
その様子は、ビデオカメラに収めた。
明日にはYOUTUBE上で、公開するつもり。

 で、ここへ来る途中、ワイフといろいろな話をした。

私「ぼくね、最近は、生徒と自分の息子たちや孫たちと区別できなくなった」
ワ「私も、そうよ」
私「なっ、そうだろ。少し前までは、生徒は生徒、家族は家族というふうに区別していた」
ワ「たしかに区別していたわね」
私「が、今はちがう。息子たちや孫たちが、毎日ぼくに会いに来てくれる。そんなふうに
考えるようになった」
ワ「そうね。あなたの生徒を見る目は、明らかに変わってきたわよ。生徒を見たとたん、
あなたの顔がパッと輝くわよ。それがわかるわ」と。

 去年までは、さみしいクリスマスだった。
しかし今年は、ちがった。
楽しかった。
つまり家族を家族と区別するから、さみしくなる。
しかしその壁を取り払えば、そこにいるのは、みな、私の家族。
とたん、今まで感じていたさみしさが、ウソのように消える。

 今年のクリスマスは、そういう点では意味があった。
自分の世界を広げることができた。
新しい感覚を、ゲット!
これからは、そのワクを広げていけばよい。
みなさん、メリークリスマス!

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司