最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●現実検証能力と見舞い論

2010-04-28 19:43:07 | 日記
●自己評価と現実検証能力(見舞い論)

+++++++++++++++++

「自分」を客観的に評価するのはむずかしい。
「自分」と「他者」との関係を、客観的に
評価するのは、むずかしい。
さらに「自分」が置かれた立場を、客観的に
評価するのは、むずかしい。

+++++++++++++++++

●自己評価力

 「自分」をどう見るか。
どう判断するか。
それが「自己評価」ということになる。
「私はすぐれた人間」と思うのも、また反対に、「私はつまらない人間」と思うのも、
自己評価のなせるワザということになる。

 子どもの世界では、自己評価の高い子どもほど、よく伸びる。
わかりやすく言えば、ややうぬぼれ気味の子どものほうが、よく伸びる。
「私はできる!」という自信が、子どもを前向きに引っ張っていく。
(あまりうぬぼれすぎるのも、よくないが……。)

 この自己評価の基本となるのが、現実検証能力。
まず現実の「自分」を知る。
それが自分を評価する、第一歩ということになる。

●現実検証能力

 一方、「自分」というものを、客観的に検証する能力を、「現実検証能力」という。
これには、

(1)自分を客観的に検証する。
(2)自分と他者との関係を客観的に検証する。
(3)自分の置かれた立場を客観的に検証する、の3つが含まれる。

(3)の「立場」には、現在の立場と未来の立場がある。
「今、自分はどういう立場に置かれているか」
「将来、自分はどのような立場に置かれるか」
……それを客観的に検証する。
(「過去の立場」もあるが、すんだことを、とやかく悩んだところで、しかたない。)

 「あの人は、自分のことが、まるでわかっていない」というときの、「あの人」は、
それだけ現実検証能力の劣っている人ということになる。
たとえば現在(2010・4・28)の、民主党の小沢幹事長。

 検察審議会が「起訴相当」と判断したにもかかわらず、「職務をまっとうする」などと、
トンチンカンなことを平然と述べている。
いわく、「私といたしましては、意外な結果で驚いておるところでございます。私自身、何もやましいこともありませんので、与えられた職務を淡々と全力でこなしていくということに尽きると」(TBS、iニュース)と。

●程度の問題

 とは言っても、「自分」を知ることはむずかしい。
程度の問題ということになるが、「自分」を知れば知るほど、自分がわからなくなる。
ひとつの例として、すばらしい肩書きをもった、1人の男性を想定してみる。

彼は、大会社の部長という肩書きを背負っていた。
彼は部下からも、また取引先の人たちからも、一目、置かれていた。
盆暮れには、山のようなつけ届けが届き、年に数回は、家族と海外旅行を楽しんでいた。

 そこでその男性は、「私はすばらしい人間」と思うようになった。
「すばらしい人間だから、それにふさわしい生活をしているだけ」と。

 が、それから10数年後。
その男性は退職する。
現在は年金生活。
企業年金も含めて、50万円弱の年金がある。
生活には困らない。
しかし今、その男性は、だれからも相手にされない。

 こういうケースのばあい、その男性に、現実検証能力を期待することはできるだろうか。
が、私が知るかぎり、それはたいへんむずかしい。
ある女性(60歳)は、こう言った。
「私の兄がそうですが、いまだに威張っています。
自分を軽んじる人がいたりすると、ものすごく怒ります」と。

 みながその人に頭をさげたのは、その人がそれだけすばらしかったからではない。
その人の「肩書き」に頭をさげた。
現実検証能力のある人には、それがわかる。
しかしそれがない人には、それがわからない。

●謙虚になる

 要するに「程度の問題」ということになる。
「自分のことは、私がいちばんよく知っている」と言う人ほど、意外と自分のこと
を知らない。
反対に「自分がよくわからない」と思っている人ほど、意外と自分のことを、
よく知っている。

 わかりやすく言えば、「謙虚になる」ということ。
『謙虚さこそ、自分を知る最大の武器』ということになる。
たとえばMさん(65歳、女性)は、ことあるごとに、「私はだまされた」と
言いつづけている。
「私は兄に、親の財産をすべて奪われました」と。

 しかしそういうMさんだが、自分の小ずるさには、気がついていない。
それまで、さんざん、小ずるいことを重ねてきた。
小ずるく生きることが、Mさんの処世術にもなっていた。
親の葬儀のときも、なんだかんだと理由にもならない理由を並べて、1円も、葬儀費用を
負担しなかった。
実際には、親がタンス預金としてもっていた現金を、すべて自分のものにしている。
そういうことを棚にあげて、「私はだまされた」は、ない。

●では、どうするか

 「自分」を知るためには、まわりにいる「相手」が、自分をどう思っているか、
それを冷静に想像してみる。
配偶者でもよい。
子どもでもよい。
親でもよい。
友人でも、親類でもよい。
そういう人たちを、1人1人、頭の中で思い浮かべながら、「自分」をどう見ているか、と。
相手の視点の中に、自分を置くという方法もある。
相手の目を通して、自分を見る。

 その結果として、「自分」が、そこに浮かんでくる。
かなりの空想力と想像力が必要となるが、裏を返していうと、自己中心的な人というのは、
その空想力と想像力のとぼしい人ということになる。
他者から見た自分が想像できないから、自分勝手なことを繰り返す。

たとえば「見舞い」。
病気の人を見舞うときは、相手の気持ち、相手の気持ちがわからないときは、介護する
家族の気持ちを確かめてからする。
それが、常識。
いきなり押しかけて行って、「見舞いに来ました」は、ない。
相手によっては、見舞いに来られた人は、それを苦痛にすら思うことがある。

●今日の目標

 今日は4月28日。
今日の目標ができた。
私はそのつど、相手の視点の中に自分を置いてみる。
そしてその人から、自分がどう見えるかを想像しながら、自分を見つめてみる。
これから朝食だから、とりあえず、私のワイフの中に、自分を置いてみる。
どう見えるだろうか?
どんな姿に見えるだろうか?

 少し楽しみ?
少しこわい?
この結果は、また明日にでも、報告の形で、書いてみたい。

 最後に一言。

民主党の小沢さん、もうやめなさい!
今となっては手遅れかもしれないが、もうこれ以上、民主党をどん底から、さらに
どん底へ落とす必要はないでしょ。
あなたは権力の座に溺れるあまり、現実検証能力、つまり自分を見失ってしまった。
その姿は、醜いというより、醜悪。
ぞっとするほど、醜悪。
一度でよいから、私たちの目の中に自分を置いて、自分の姿を見てみてみたらいい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 自分 現実検証能力 自己評価力 私探し 自分探し 自分を知る 己を知る 民主党 小沢幹事長 小沢一郎 小沢一郎幹事長)

【補記】

●自分が見えない人たち

 私の知人の中には、退職してもう10年以上もなるのに、いまだに退職前の
肩書きを背負って生きている人がいる。
一見すると腰が低く、ヘラヘラしているが、しかしそれは演技。
人に軽く扱われたりすると、とたんに不機嫌になったりする。
つまり、まるで自分のことがわかっていない。

 その知人だが、親類に入院者が出たりすると、足軽く見舞いに行ったりする。
「自分が行けば、相手は喜ぶはず」と考えて、(あるいは何も考えないで)、
そうする。
が、来られたほうこそ、えらい迷惑。
中には、自分の無様な姿を、人に見せたくない人もいる。
あの故・山城新吾について書いた原稿を思い出した。
まだ母が生きていたころに書いた原稿である。

それを先に、紹介する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●見舞い

+++++++++++++++++

週刊B春の中で、映画俳優のYS(山城新伍)は、こう語っている。

記者が、「友人の方々が心配しているようです」と語りかけたことに対して、
「そんなもん、会いたくないやろ。それで連絡もとっていない。このまま
消えてしまいたいぐらいや」(「週刊B春・08・9・4日号」と。

YS(69歳)は、現在、特別養護老人ホームに入居している。
持病の糖尿病が悪化、今は介護なしでは、生活できないような状態らしい。
週刊B春のほうは、「消えてしまいたい」という言葉を、新聞広告の
見出しに並べていたが、私はその前の言葉のほうが、気になった。

YSは、こう言っている。
「そんなもん、会いたくないやろ」と。

同じような言葉を、以前、ある末期がんの人が言っていたのを思い出した。
「だれにも会いたくない」「本当に心が安まる人だけと、静かに時間を過ごしたい」と。
それを心配するまわりの人たちは、(本気で心配しているかどうかという問題もあるが)、
「会いたい」と思うかもしれない。
「相手は、私に会いたがっているはず」と思うかもしれない。
しかし当の本人にとっては、ありがた迷惑。
私も母の介護をしていて、それを感じたことがある。

ときどき親類の人たちや、元近所の人たちから、「見舞いに行きたい」などというような
連絡を受ける。
しかし私はそういう申し出を、たいてい、ていねいに断るようにしている。
私の立場というよりは、母の立場で、断わるようにしている。
仮に私が母なら、だれにも会いたくない。
「だれも見舞いに来なければ、さみしいだろう」と、その人は思うかもしれない。
が、それこそ、いらぬお節介。

母にしても、本当に会い人などというのは、そうはいない。
家族とか親友、その範囲の数人と考えてよい。
母にしても、自分の無様(ぶざま)な姿など、見せたくもないだろう。
が、無神経な人は、それほど親しくもないのに、「喜んでくれるはず」と、
勝手にそう決めて、やってくる。
さらに無神経な人は、興味本位で電話をかけてくる。
「お母さんの、具合はいかがですか?」と。
母は元気なころ、陰で、その人の悪口ばかり言っていた。
そういう母の気持ちを私はよく知っている。
だから、断る。

YSは、そういう心情を、率直に表現した。
「そんなもん、会いたくないやろ」と。
週刊B春によれば、こうある。

「実は今年の春先、山城の友人や知人の間で、山城の所在を
めぐり、ちょっとした騒動が持ちあがっていたのである。
『S伍の携帯に何度かけても、つながらないんだ。こっちが
いやがっても電話をしてくるような男なのに、何かあったんじゃ
ないだろうか」
「どこかの病院に入院したと聞いたんだが、S吾が、『面会に
来ないでくれ』と言っているそうだ」と。
治る見込みのある病気ならまだしも、そうでない病気なら、
そうかもしれない。
私自身は、まだそういう大病を経験していないので、本当の
ところ、YSの心情を理解できるというわけではない。
しかし私がYSの立場なら、おそらくYSと同じように考えるに
ちがいない。

希薄な人間関係など、いくら重ねても、自分の心の隙間を
埋めることはできない。
かえって騒々しいだけ。
わずらわしいだけ。

それがわからなければ、都会の雑踏の中をひとりで歩いてみることだ。
相手がそういう状態なら、そっとしておいてやることこそ、思いやり。
相手から「会いたい」という連絡でもあれば、話は別だが、
そうでないなら、そっとしておいてやる。
これは人生の末期にいる人たちへの、たいへん重要なマナーのひとつと
考えてよい。

Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

●「形」だけの人間社会

++++++++++++++++++++

形だけの言葉、形だけのあいさつ、形だけの心配、
形だけの喜び、形だけの行為、形だけの悲しみ……。
ふと気がついてみると、私のまわりには、「形」だけ……
ということは多い。
私も他人に対してそうだし、他人も、私に対してそうである。
身内にも、それがある。
親子にも、それがある。
夫婦にも、それがある。

++++++++++++++++++++

総じてみれば、この世は「形」だけ。
そう言い切るのは、少し乱暴すぎるかもしれないが、
否定するのは、もっとむずかしい。
つまりまず形をつくって、自分への責任を回避しようとする。
それだけ人間関係が希薄になったとも考えられる。
あるいは人間関係が広がりすぎ、その分だけ複雑になったとも考えられる。
そのつどいちいち心を入れていたら、それこそ身がもたない。
よい例が、冠婚葬祭
とくに葬儀。

葬儀は、「形」の集合。
私は兄の葬儀のときに、そう感じた。
何からなにまで「形」が決まっていて、まるで流れ作業のよう。
形、形、形……また、形。

線香の立て方から、焼香のしかた、さらには僧侶への礼の仕方まで。
「形」から踏み出すことを、みな、恐れているかのようですらあった。喪主ということで、
葬儀社の人から、ことこまかく、指示を受けた。
それぞれが自分のやり方をしたら、かえって葬儀が混乱してしまう。
参列する人にしても、そうだろう。
しかし、葬儀といえども、どうして個性的であってはいけないのか。
自分で考えた葬儀では、どうしていけないのか。
「形」を決めておけば、楽は楽。
しかしそうした葬儀のあり方には、疑問ばかりが残る。

というのも、兄は、生前において人間関係が、きわめて希薄だった。
弟という私に対しても、一度だって、何かの祝いをしてくれたことはない。
結婚したときも、子どもが生まれたときも……。
そういう意味では、生まれながらにして、きわめて依存心の強い人だった。
生活能力も、ほとんどなかった。
そういう兄を、母は、よく「生まれつき」と言ったが、
生まれつきそうであるかどうか、そんなことがわかる親はいない。
病院の医師だってそうだろう。
母の異常なまでの溺愛と過関心、過干渉が、兄をして、兄のような
人間にした。

だから葬儀に来た人の中でも、兄と個人的な思い出、あるいは
つながりのある人は、ほとんどいなかった。
この私ですら、9歳、齢が離れていることもあったが、
一度とて、兄といっしょに遊んだ記憶そのものがない。
むしろそういう兄であったがために、私に対する社会的重圧感には、
相当なものがあった。

経済的重圧感というより、社会的重圧感である。
とくにあのG県の郷里では、それを許してくれなかった。
「家意識」も色濃く残っている。

それこそ「借金をしてでも、実家を守れ」と言う人さえいる。
「兄のめんどうは、弟のお前がみるべき」と。
だから参列に来てくれた人たちが、それなりにしおらしい顔をして、
「ご愁傷様です」などと言ってくれても、私にはピンとこなかった。
私のほうも、それらしい顔をして、「ありがとうございます」と答える。
形だけの心配、形だけのあいさつ、形だけの言葉。
晩年の兄が感じていただろう(孤独)にしても、それを孤独として
本当に理解していた人は、何人いただろう。
仮に理解していたとしても、だれにも、何もできなかった。
だからといって、いいかげんな葬儀でよかったと言っているのではない。
むしろ、その逆。

そういう兄だったからこそ、私は人並み以上の葬儀に……と思った。
広い会場だったこともあり、参列者はガラガラだった。
空いている椅子は、参列者の数倍は、あった。
で、結局、何ごともなかったかのように、葬儀は終わった。
だれも、兄が背負ったであろう孤独感や絶望感について話題にしなかった。
(もちろん私も、しなかった。)

死んだ人は、仏……ということか。
あるいは「終わった人は、終わり」ということか。
食べて、飲んで、雑談をして、おしまい。
それも「形」なのかもしれない。

が、だとするなら
葬儀というよりは、「人の死」とは何かということになる。
さらに言えば、「命」とは何かということになる。
こうして1人の人間が、あたかも何ごともなかったかのように、
この世から消えた。

その人間にしてみれば、この宇宙もろともに、である。
葬儀……もっと心を大切にすべきではないか。
故人の心を、である。
でないと、それこそ兄の死は、本当に無駄死で終わってしまう。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi
Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 山城新伍 山城S伍 形だけの人間関係)

+++++++++++++以上、08年8月記+++++++++++++

●「そんなもん、会いたくないやろ」

 山城新伍は、こう言ったという。
「そんなもん、会いたくないやろ」と。
 この一言だけで、山城新伍を判断するわけではないが、しかしこの
一言だけでも、山城新伍は、ものすごい人ということがわかる。
大物というか、自分に正直。

だれしも山城新伍のような生き方をしたいと思いつつ、それができないでいる。
見栄や体裁に振り回される。

 こんなことがあった。

 私の母が死んでちょうど1年になる。
その当時を思い出しながら、ある女性(66歳)がこう言った。
「もっと、あなたのお母さんを見舞ってやればよかった」と。

 私はその言葉を聞いて、その女性の自己中心性に驚いた。
まるで自分のことがわかっていない。
生前、母は、その女性のことをたいへん嫌っていた。
私が知るかぎり、死ぬ間際まで、嫌っていた。
母にしてみれば、見舞いに来てほしくない第一の女性だった。
そんな女性が、自分だけの判断で、「もっと見舞ってやればよかった」とは!

 またこんな話もある。

 ワイフの友人(55歳・女性)が、子宮筋腫の手術で、1週間ほど
病院に入院した。
それについて、ワイフの友人は、そのことをだれにも話さなかった。
自分の夫にすら、「だれにも言わないでほしい」と念を押していたという。

 さらにこんな話もある。
このことは以前にも書いたが、Yさんという友人の夫(43歳)が、交通事故
で入院した。
それについて夫の友人の1人が、その日のうちにあちこちへ電話をかけ、みなに
知らせてしまった。
親切心からそうしたのだろうが、Yさんの気持ちを、先に確かめるべきだった。
Yさんは、こう言った。

「入院したその日に、ドヤドヤと、いろいろな人が見舞いに来て、その応対だけで
疲れてしまいました」と。

 見舞いといっても、みながみな、それを望んでいるわけではない。
また来てほしい人というのは、かぎられている。
で、それなりの立場でないなら、安易に見舞うというのは、やめたほうがよい。
かえってありがた迷惑になるだけ。

Yさんのケースにしても、そっとしておいてやることこそ、大切。
 もう一例、こんな話もある。

 2年前に、私の友人が亡くなった。
で、その初盆が昨年の7月にあった。
私はすっかりその日を忘れてしまっていた。
(私の生まれ故郷では、8月に盆供養をする習わしになっている。)

 それでそれをわびるために出向くと、奥さんは、こう言った。
「正直に言いますとね、初盆のほうが、葬式よりたいへんでした。
そのあと体の調子を崩してしまい、1週間ほど、寝込んでしまいました」と。

 周囲の人にしても、そうだ。
「親だから・・・」「子だから・・・」という理由だけで、それを前提として
ものを考えてはいけない。
親といってもさまざま。
子どもといってもさまざま。
親子関係となると、さらにざまざま。
「親の顔を見るだけで、ゾッとする」という人もいる。
「子の顔を見るだけで、ゾッとする」という人もいる。
それがわからないのは、あなただけ。

 いろいろなケースがある。

しかしこと病気の見舞いとなると、それを望まない人のほうが多いのでは?
(あるいは私の意見が、否定的すぎるかな?)
そこで大切なことは、一度家族の人の意見を聞いてみるということ。
その上で、見舞いに行くかどうかを決めればよい。

「私が見舞いに行けば、相手は喜ぶはず」という、「ハズ論」だけでものを
考えてはいけない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi
Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 見舞い 病気見舞い エチケット)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●一貫性

 現実検証能力のない人は、悪い意味で、一貫性がある。
自分のことがわからないと同時に、他人の心も、わからない。
自分の置かれた立場もわからない。
先に書いた、3つの分野で、共通して、現実検証能力が乏しい。

(1)自分を客観的に検証する。(2)自分と他者との関係を客観的に検証する。
(3)自分の置かれた立場を客観的に検証する。

つまり、ノー天気。
そうそうその知人だが、そのときの気分に応じて、盆や正月時でも、平気で
親類を訪ねて、寝泊まりしているそうだ。
「自分は尊敬されているはず」「歓迎されているはず」という、強い思いこみが
あって、そうしている。
本当は、みな、迷惑しているのだが、そういうことすらわからない?

 私は「あの男は、ボケているんじゃない?」と言っている。
ワイフは、「ああいう人を、おバカと言うのね」と言っている。
どうであるにせよ、現実検証能力の欠ける人というのは、そういう人をいう。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 自分のわからない人 迷惑な人 現実検証能力 自己評価 自己評価力 はやし浩司 無神経な人 病気の見舞い)


Hiroshi Hayashi+教育評論++April.2010++幼児教育+はやし浩司

●マガジン(4-28)「時間とは」(1)

2010-04-28 08:24:32 | 日記
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 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
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q 0―0 MMMMM ∩ ∩ MM m
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凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /
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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      4月   28日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●「私」さがし

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だれでも、「私のことは、私がいちばんよく
知っている」と思っている。
そうかもしれない。
そうでないかもしれない。
しかし、「私」を知ることは、むずかしい。
本当にむずかしい。
あのソクラテスも、そう言っている。
「私は私のことを、何も知らなかった」と。
『無知の知』というあのよく知られた言葉も、
そこから生まれた。

++++++++++++++++++++++

 「私」をさがす。
それはつまりところ、「自分の乳幼児期」を見ること。
「私」という人間の「核(コア)」は、そのほとんどが、乳幼児期に作られる。

 たとえばあなたが、さみしがり屋で、心の開けない人だったとしよう。
たとえばあなたが、冷たく、嫉妬深い人だったとしよう。
あるいはたとえばあなたが、ものごとにこだわりやすく、うつ的であったとしよう。
しかしそれは(あなた)の責任ではない。
あなたが求めて、そういう(あなた)になったのではない。
(あなた)という人は、乳幼児期の環境の中で、そういう(あなた)になっていった。

(1) たとえば発達心理学の世界には、「基本的信頼関係」という言葉がある。
わかりやすく言えば、「心を開いて、相手を信じること」をいう。
その基本的信頼関係は、豊かな母子関係の中で、はぐくまれる。
(絶対的なさらけ出し)と(絶対的な受け入れ)。
「絶対的」というのは、「疑いをいだかない」という意味。
その上に、基本的信頼関係が築かれる。
が、たとえば親の育児拒否、家庭内騒動、無視、冷淡、虐待などがあると、子どもはその
基本的信頼関係を築けなくなる。
そのため他人に対して、心を開けなくなる。
「基底不安」もそこから生まれる。
「いつ、どこで、何をしていても、不安」と。

(2) また子どもの発育には段階があることがわかっている。
そしてその段階ごとに「臨界期」があることもわかっている。
その臨界期をのがすと、脳細胞そのものが発達を停止してしまう。
こうして人間性そのものも、乳幼児期に決まる。
「決まる」と断言してよい。
そのよい例が、1920年代にインドで見つかった野生児。
「オオカミ姉妹」ともいう。
発見されたあと、2人の姉妹は、インド政府によって手厚く保護され、教育
を受けたが、最後まで人間性を取り戻すことはなかったという。
その人間性についても、最近では、「マターナル・デプリベイション(母性欠落)」という
言葉を使って、説明される。
乳幼児期に心豊かな母子関係に恵まれた人は、大きくなったときも、心の温かい、やさし
い人になる。
そうでなければ、そうでない。
他人との共鳴性を失い、心の冷たい人になる。
仲間をいじめても、心が痛まなくなる。

(3)さらに最近の研究によれば、うつ病の「種」も、乳幼児期にできることがわかって
きた。

++++++++++++++++++++++

●うつ病の原因

引きこもりも含めて、うつ病の原因は、その子どもの乳幼児期にあると考える学者がふえ
ている。

たとえば九州大学の吉田敬子氏は、母子の間の基本的信頼関係の構築に失敗すると、子ど
もは、「母親から保護される価値のない、自信のない自己像」(九州大学・吉田敬子・母子
保健情報54・06年11月)を形成すると説く。

さらに、心の病気、たとえば慢性的な抑うつ感、強迫性障害、不安障害の(種)になるこ
ともあるという。それが成人してから、うつ病につながっていく、と。

++++++++++++++++++++++

 こうして(あなた)という人は、できあがった。
その結果が(今のあなた)ということになる。
つまり「私」をさがすということは、自分の過去、かなんずく、自分の乳幼児期の環境を
知るということになる。
あなたは、乳幼児期に、心豊かで、両親の暖かい愛情に恵まれ、穏やかな環境の中で
育っただろうか。
もしそうなら、それでよし。
が、もしそうでないなら、まず、それに気づくこと。

 というのも、恵まれた環境の中で、何一つ問題なく育った人など、ほとんどいない。
多かれ少なかれ、みな、何かの問題をもった家庭に生まれ育っている。
言い換えると、心に問題をもっていない人は、いない。
心に傷をもった人だって多い。
ただまずいのは、そういう過去があることに気づかず、私の中の「私」に振り間ウェアさ
れること。
同じ失敗を繰り返すこと。
さらにこの種の問題は、親から子へと、世代連鎖しやすい。
もしあなたの過去に問題があったとしても、またその結果、現在の(あなた)に問題が
あったとしても、それをつぎの世代に伝えてはいけない。
あなたの代で、それを断ち切る。
そのための努力はしなければいけない。
そのためにも、まず「私」を知る。

 あとは、時間が解決してくれる。
10年とか20年はかかるかもしれない。
しかし時間が解決してくれる。
それもまた人生。
(あなた)の人生。
そう思って、そういう(あなた)自身と、仲よくつきあう。

 つまるところ、生きるということは、最後の最後まで、「自分探し」ということに
なる。
それくらい「私」を知ることは、むずかしい。
私はなぜ「私」なのか。
私がなぜ「私」なのか。
それを知ることは、本当にむずかしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 私探し 私さがし 私とは 私の中の私 自分探し 自分さがし 乳
幼児期 うつ病の原因 九州大学 吉田 母子保健情報)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【時間とは何か?】

+++++++++++++++

「時間」のとらえ方は、物理学と哲学
の世界では、まるでちがう。
ちがうが、そこには相互性がある。
それについて、考えてみたい。

2002年に書いた原稿(フェムト秒について)と、
2009年に書いた原稿(クロック周波数について)の
2作を、まずここに再掲載する。

+++++++++++++++

●今朝・あれこれ(4月13日)

●「無」の世界(The World of “Nothing”)
This universe was born from nothing, or the smallest dot or line. Whatever it is, if so,
our exisitance stands on this “Nothing”. Then we ask ourselves, what we are. Some
people say, there is another world beyond this world. But from that another world, this
world where we live is another world itself. Is there another world beyond this world?

+++++++++++++++++

昨夜、こんなことを書いた。

「ひょっとしたら、あの世というのは、
あるのかもしれない」と。

私にとっては、生まれてはじめて書いた
言葉である。

理由がある。

私たちは今、大宇宙と呼ばれる、この宇宙の
中で生きている。
空の星々を見れば、それがわかる。

しかしこの大宇宙は、一説によると、
ビッグバンと呼ばれる、大爆発によって
生まれたものだという。

この説を疑う学者はいないが、問題は、
それ以前の宇宙は、どうであったかということ。

これについては、いろいろな説がある。
あるが、共通している点は、最初は、
「無」もしくは、それに近い状態であったということ。
それが爆発して、現在のような大宇宙になった?

何とも不可思議な世界だが、言いかえると、
私たちの存在そのものも、その不可思議な世界を基盤と
しているということになる。

逆に、こんなふうに考えてみてもよい。

よく「宇宙には果てがない」という。
しかし宇宙の向こうに、別の宇宙があるというわけでも
ないらしい。
ホーキング博士によれば、私たちが住んでいるような
大宇宙は、ここにも、そこにも、どこにでもあるという。
しかも、それが無数にあって、まるで泡(バブル)の
ようになっているという。

そこに見えないからといって、簡単に否定してはいけない。

そもそもこの宇宙では、時間も、空間も、アテにならない。
「時間」といっても、それは人間にとっての時間であって、
絶対的な時間ではない。

人間がいう「1秒」の間に、誕生から死まで繰りかえす
生物だっているかもしれない。
もし人間が、フェムト秒単位で生きることができるとするなら、
私たちは、その「1秒」を使って、3100万年分も
生きることができる※。

(3100・万・年だぞ!)

空間にいたっては、さらにアテにならない。

私たちが見ている、この世界にしても、
「見ている」と思っているだけで、
実は、何も見ていないのかもしれない。
わかりやすく言えば、「見ている」と思っているのは、
脳の後頭部にある視覚野に映し出された
電気的信号を、大脳が知覚しているにすぎない。

「見えないから何もない」と言うのは、
幼児のたわごとにも、ならない。

が、ホーキング博士が言う、別の宇宙を、
私たちは、知ることも、見ることもできない。
私たちの宇宙から見れば、そこは「無」の
世界ということなる。

(この宇宙にしても、もともと「無」であった
ものが、2つに分かれて、今の大宇宙を作った
という説もある。)

が、このことを反対に言えば、向こうの宇宙から見れば、
私たちの宇宙のほうが、無の世界という
ことになるのでは?

どちらが「無」なのかと論じても、意味はない。
それはたとえて言うなら、日本人とアルゼンチン人の、
どちらが逆さまに立っているかを論じるようなもの。

日本人から見れば、アルゼンチン人は、逆さまに
立っていることになる。
アルゼンチン人から見れば、日本人のほうが、
逆さまに立っていることになる。

もう少しわかりやすく言えば、こうだ。

日本からアルゼンチンを見れば、アルゼンチンは
外国(=あの世)ということになる。

しかしアルゼンチンから見れば、日本は外国(=あの世)
ということになる。

しかし、現実には、私はここにいる。
あなたは、そこにいる。
この世であろうが、あの世であろうが、
私は、ここにいる。
あなたは、そこにいる。

……と考えていくと、何がなんだか、わけが
わからなくなってくる。

もっと言えば、私たちの存在すらも、わけの
わからないものになってくる。

私たちが住むこの宇宙が無であるとするなら、
私という存在も、無ということになってしまう。

が、現実に、私は、この世に住んでいる。
「無」ではない。
だとするなら、私があの世にいても、何も、おかしくない。

(ゾーッ!)

つまりあの世がこの世かもしれない。
この世があの世かもしれない。

もっとはっきり言えば、この世があるなら、
あの世があっても、何もおかしくないということになる。

ただ誤解しないでほしいのは、ここでいう(あの世)
といっても、どこかのカルト教団の人たちが
好んで使う(あの世)ではないということ。
天国とか、極楽とかいう概念とも、ちがう。

さらに仮に死んだあと、あの世へ行くにしても、
今、私たちがもっている意識が、そのまま
連続性をもって、つながっていくとはかぎらない。

「意識」といっても、脳の中をかけめぐる
電気的信号に過ぎない。
死ねば同時に、こうした信号は、光となって空中に霧散する。
その時点で、「私」という意識は、消滅する。

私がここでいう「あの世」というのは、
そこにある「無」の世界の中の、別の大宇宙ということ。

するとまた、謎が振り出しに戻ってしまう。

あの世がこの世かもしれない。
この世があの世かもしれない。

今住んでいる、この世界が、すでにあの世かも
しれない。
となると、私たちは、かつてこの世に住んでいたことになる?

????????????????

わけがわからなくなってきたので、この話は、ここまで。

アインシュタインは、「問いつづけることこそが
大切」と言った。

私も、この先、この問題については、問いつづけて
みたい。

この世はあの世なのか。
あの世はこの世なのか、と。

+++++++++++

※「フェムト秒」という言葉を
最初に教えてくれたのは、
田丸謙二先生です。

それについて書いた原稿です。

+++++++++++

(2)

2010-04-28 08:24:04 | 日記


●フェムト秒

 ある科学の研究者(田丸謙二先生のこと)から、こんなメールが届いた(02年9月)。
いわく……

「今週(今日ですと先週と言うのでしょうか)は葉山の山の上にある国際村センターで日独
のジョイントセミナーがありました。私の昔からの親しい友人(前にジャパンプライズを受
けたノーベル賞級の人)が来ると言うので、近くでもあるし、出させてもらいました。 今
は固体表面に吸着した分子一個一個を直接見ながら、それにエネルギーを加えて反応を起
こさせたり、フェムト秒単位(一秒を10で15回繰り返して割った短い時間)でその挙
動を追っかけたり、大変な技術が発達してきました」と。

 このメールによれば、(1)固体表面に吸着した分子を直接見ることができる。(2)フ
ェムト秒単位で、その分子の動きを観察できる、ということらしい。それにしても、驚い
た。

ただ、(1)の分子を見ることについては、もう二〇年前から技術的に可能という話は、そ
の研究者から聞いていたので、「へえ」という驚きでしかなかった。しかし「フェムト秒単
位の観察」というのには驚いた。

わかりやすく言うと、つまり計算上では、1フェムト秒というのは、10の15乗倍して、
やっと1秒になるという時間である。反対に言えば、1000兆分の1秒ということにな
る。さらにかみくだいて言えば、1000兆秒というのは、この地球上の3100万年分
に相当する。計算するだけでも、わけがわからなくなるが、1フェムト秒というのは、そ
ういう時間をいう。

こういう時間があるということ自体驚きである。もっともこれは理論上の時間で、人間が
観察できる時間ではない。しかしこういう話を聞くと、「では、時間とは何か」という問題
を、考えざるをえなくなってしまう。もし人間が、1フェムト秒を、1秒にして生きるこ
とができたら、そのたった1秒で、3100万年分の人生を生きることになる! ギョッ!

 昔、こんなSF小説を読んだことがある。だれの作品かは忘れたが、こういう内容だっ
た。

 ある惑星の知的生物は、珪素(けいそ)主体の生物だった。わかりやすく言えば、体中
がガチガチの岩石でできた生物である。だからその生物が、自分の指を少し動かすだけで
も、地球の人間の時間で、数千年から数万年もかかる。一歩歩くだけでも、数十万年から
数百万年もかかる。

しかし動きというのは相対的なもので、その珪素主体の生物にしてみれば、自分たちがゆ
っくりと動いている感覚はない。地球上の人間が動いているように、自分たちも、ごく自
然に動いていると思っている。

 ただ、もしその珪素主体の生物が、反対に人間の世界を望遠鏡か何かで観察したとして
も、あまりに動きが速すぎて、何も見えないだろうということ。彼らが一回咳払いする間
に、地球上の人間は、数万年の時を経て、発生、進化の過程を経て、すでに絶滅している
かもしれない!

 ……こう考えてくると、ますます「時間とは何か」わからなくなってくる。たとえば私
は今、カチカチカチと、時計の秒針に合わせて、声を出すことができる。私にとっては短
い時間だが、もしフェムト秒単位で生きている生物がいるとしたら、そのカチからカチま
での間に、3100万年を過ごしたことになる。となると、また問題。このカチからカチ
までを一秒と、だれが、いつ、どのようにして決めたか。

 アインシュタインの相対性理論から始まって、今では第11次元の世界まで存在するこ
とがわかっているという。(直線の世界が一次元、平面の世界が二次元、立体の世界が三次
元、そしてそれに時間が加わって、四次元。残念ながら、私にはここまでしか理解できな
い。)ここでいう時間という概念も、そうした次元論と結びついているのだろう。

たとえば空間にしても、宇宙の辺縁に向かえば向かうほど、相対的に時間が長くなれば、(反
対に、カチからカチまで、速くなる。)宇宙は、永遠に無限ということになる。たとえばロ
ケットに乗って、宇宙の果てに向かって進んだとする。

しかしその宇宙の果てに近づけば近づくほど、時間が長くなる。そうなると、そのロケッ
トに乗っている人の動きは、(たとえば地球から望遠鏡で見ていたとすると)、ますますめ
まぐるしくなる。地球の人間が、一回咳払いする間に、ロケットの中の人間は、数百回も
世代を繰り返す……、あるいは数千回も世代を繰り返す……、つまりいつまでたっても、
ロケットの中の人間は、地球から見れば、ほんのすぐそばまで来ていながら、宇宙の果て
にはたどりつけないということになる。

 こういう話を、まったくの素人の私が論じても意味はない。しかし私はその科学者から
メールを受け取って、しばらく考え込んでしまった。「時間とは何か」と。

私のような素人でもわかることは、時間といえども、絶対的な尺度はないということ。こ
れを人間にあてはめてみると、よくわかる。たとえばたった数秒を、ふつうの人が数年分
過ごすのと同じくらい、密度の濃い人生にすることができる人がいる。

反対に一〇年生きても、ただただ無益に過ごす人もいる。もう少しわかりやすく言うと、
不治の病で、「余命、残りあと一年」と宣告されたからといって、その一年を、ほかの人の
三〇年分、四〇年分に生きることも可能だということ。反対に、「平均寿命まで、あと三〇
年。あと三〇年は生きられる」と言われながらも、その三〇年を、ほかの人の数日分にし
か生きられない人もいるということ。どうも時間というのは、そういうものらしい。

いや、願わくば、私も1フェムト秒単位で生きて、1秒、1秒で、それぞれ3100万年
分の人生を送ることができたらと思う。もちろんそれは不可能だが、しかし1秒、1秒を
長くすることはできる。仮にもしこの1秒を、たったの2倍だけ長く生きることができた
としたら、私は自分の人生を、(平均寿命まであと30年と計算して)、あと60年、生き
ることができることになる。

 ……とまあ、何とも理屈っぽいエッセーになってしまったが、しかしこれだけは言える。
幼児が過ごす時間を観察してみると、幼児のもつ時間の単位と、40歳代、50歳代の人
がもつ時間の単位とはちがうということ。

当然のことながら、幼児のもつ時間帯のほうが長い。彼らが感ずる1秒は、私たちの感ず
る1秒の数倍以上はあるとみてよい。もっとわかりやすく言えば、私たちにとっては、た
った1日でも、幼児は、その1日で、私たちの数日分は生きているということ。あるいは
もっとかもしれない。

つまり幼児は、日常的にフェムト秒単位で生活している! これは幼児の世界をよりよく
理解するためには、とても大切なことだと思う。あくまでも参考までに。
(02-9-17)※


Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司

●1秒は、1秒なのか?(One second for mice is equivalent to 100 seconds for men)

●クロック数(クロック周波数)について(2009年6月の原稿より)

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今日の夕刊(4月30日、中日新聞)に、
こんな興味ある記事が、載っていた。
『人とマウス、行動似てる』というタイトルの
ものだった。
『(人とマウスに関して)、活動時間
や休息時間について、長いものや短いものが、
どんな頻度で現れるかを分析すると、
パターンはまったく同じで、人の動きを100倍
の速さで早回しすれば、マウスと同じになることが
わかった』と。
大阪バイオサイエンス研究所(大阪府吹田市)と
東京大学の研究チームによる、研究結果である。
記事には、『生物の行動の背後に、種を超えた基本法則
が存在する可能性を示すもの』(同)ともあった。

+++++++++++++++++++++

●庭のスズメ

たとえば庭に遊ぶスズメたちを見てみよう。
小枝から小枝へと、小刻みなリズムで、飛び回っている。
少し前、私は、それを見ながら、こんなことを考えた。
「もし人間が、同じ行動をしようとしたら、
スズメの何倍の時間がかかるだろうか?」と。
スズメたちは、数秒単位で、枝から枝へと、
ピョンピョンと飛び回る。

で、同じような枝を、パイプが何かでつくり、
人間に同じ行動をさせたら、どうだろう?
オリンピックに出るような体操選手ですら、
その10倍の時間は、かかるかもしれない。
またつぎにこんなことを考えたこともある。
一匹の蚊を頭の中で、想像してみてほしい。

その蚊が、人間の足の高さから、頭の高さまで
あがるのに、何秒くらいかかるか、と。
正確に計測したことはないのでわからないが、
ブーンと飛べば、3~4秒もかからないのでは
ないか?

そこで蚊の体長を、5ミリとして計算すると、人間の
170センチの身長は、蚊の体長の340倍の高さという
ことになる。

そこで身長が1・7メートルの人間の高さに換算すると、
1・7メートルx340=578で、約580メートル
の高さということになる。

つまり蚊は、人間にしてみれば約580メートルの
山を、3~4秒で登ったり、おりたりすることが
できるということになる。
3~4秒である。
が、これで驚いてはいけない。

●ハエは、音速の3倍以上!

ときどき家の中を、体長1センチ前後の、大きな
ハエが飛び回ることがある。
私たちが「クソバエ」と呼んでいる、黒いハエである。
あのハエは、7~8メートル四方の部屋を、
ビュンビュンと飛び回る。

そのハエについても、正確に計測したことがないので
わからないが、やはりブ~ンと飛べば、7~8メートルの
部屋を横切るのに、1秒もかからないのではないか。
そこでこれらの数字をもとにして、ハエの速度を計算してみると、
秒速7メートルとして、同じように170倍すると、
秒速1190メートルということになる。
さらにこの数字を、60x60=3600倍すると、
時速になる。

その時速は、何と、4284万000メートル。
キロメートルになおすると、4284キロメートル。
つまりあのハエは、人間の大きさで考えると、
時速4000キロ以上のスピードで、部屋の中を飛び回って
いることになる!
時速4000キロだぞ!

この数字を疑う人は、一度、自分で計算してみるとよい。
つまり音速の約3倍!
こうして考えてみると、スズメにせよ、蚊にせよ、
はたまたあのハエにせよ、私たちとはちがった(時間)を
もっているのがわかる。

前にも書いたが、もしハエが今のまま進化し、
時計を作ったとしたら、秒針のほかに、1秒で1周する
もう一本の針を考えるかもしれない。
つまりスズメにせよ、蚊にせよ、はたまたハエにせよ、
私たち人間がいうところの「1秒」を、10秒とか、
100秒で生きていることになる。

●マウスは、人間の100倍!

・・・というようなことを、今回、大阪バイオサイエンス
研究所というところが、はからずも証明した?
もう一度、新聞記事を読みなおしてみよう。
そこには、こうある。

『(人とマウスに関して)、活動時間
や休息時間について、長いものや短いものが、
どんな頻度で現れるかを分析すると、
パターンはまったく同じで、人の動きを100倍
の速さで早回しすれば、マウスと同じになることが
わかった』と。

もう少し専門的に言えば、「体内のリズムをつくる
時計遺伝子の働きは、マウスのばあい、人間の
それより100倍も速い」ということになる。
だから単純に、「マウスは人間の100倍の
速さで生きている」というふうに考えることは
できないとしても、「少なくともマウスは、
人間とはちがった時間の尺度をもっている」ということだけは
確かである。

同じ1秒を、人間は、それを1秒として生きている。
が、マウスにしてみれば、100秒にして生きている
かもしれない。

だからたとえば、マウスの寿命を仮に1年としても、
それを「短い」と思ってはいけない。
マウス自身が感ずる1年は、ひょっとしたら人間の
100年分に相当するかもしれない。

●幼児の世界でも

実は、私は、このことは幼児を指導している
ときにも、よく感ずる。
私の教室では、常にテンポの速いレッスンに心がけて
いる。
そうでもしないと、子どものほうが、飽きてしまう。
レッスンに乗ってこない。

で、そういうとき、私はよくこう思う。
幼児のもつ体内時計は、おとなのもつ体内時計より、
数倍は速い、と。
わかりやすく言えば、幼児にとっての1分は、
おとなに3~4分に相当する。
おとなが3~4分ですることを、幼児は、1分でする、と
言いかえてもよい。

「アウ~、それでエ~、エ~ト・・・」などというような、
どこか間の抜けたようなレッスンをしていたら、
それだけで教室はザワついてしまう。
収拾がつかなくなってしまう。

反対に、老人ホームにいる老人たちを見てみると、
このことがさらによくわかる。
そこにいる老人たちは、1日中、何かをするでもなし、
しないでもなしといった状態で、その日、その日を
過ごしている。

そこにいる老人たちは、明らかに私たちとは、ちがった
体内時計をもっている。
ひょっとしたら、1日を、私たちがいう、1時間、
あるいはそれよりも短く感じながら生きている
かもしれない。

長い前置きになってしまったが、結論を急ぐと、こういう
ことになる。
私たちが感じている1秒、1分、1時間は、
けっして絶対的なものではないということ。
過ごし方によっては、1秒を1時間にして生きることもできる。
反対に、1日を、1分のようにして過ごしてしまう
かもしれない。

つまり(時の長さ)というのは、時計的にはみな、同じでも、
過ごし方によっては、何倍もにして生きることもできる。
反対に、数分の1にして生きることもあるということ。
もっと言えば(時の長さ)には、絶対的な尺度はないということ。
要は、その人の過ごし方、ということになる。
それにしても、『人の動きを100倍の速さで早回しすれば、
マウスと同じになることがわかった』とは!
100倍だぞ!

この「100倍」という数字を読んだとき、私は
改めて、(時間とは何か)、さらには、(生きるとは何か)、
それを考えさせられた。

余計なことかもしれないが、日々を、野球中継だけを見ながら過ごすのも
人生かもしれない。が、それでは、あまりにももったいない。
日々を、パチンコだけをしながら過ごすのも、
人生かもしれない。が、それでは、あまりにももったいない。
あるいは日々を、魚釣りだけをしながら過ごすのも、
これまた人生かもしれない。が、それではあまりにももったいない。
・・・というのが、このエッセーの結論ということになる。

(3)

2010-04-28 08:23:42 | 日記


●脳みそのクロック数

ついでに……。
宇宙には、私たちがいう「1秒」の間に、人間の世界でいう数100年、
あるいは数1000年分の人生を生きる生物がいるかもしれない。
あるいは反対に、私たちがいう「1万年」が、寿命という生物も
いるかもしれない。

そういう生物(?)は、指を1本、動かすのに、20年とか、
30年もかかる。
岩石のようなものでできた生物を想像してみればよい。
・・・という話は、どこか荒唐無稽な感じがしないでもない。
しかしこんなことは言える。

脳みそにも、コンピュータでいうところの「クロック数」の
ようなものがあるのではないか、ということ。
たとえばワイフは、8年前に買ったパソコンを使っている。
私は、昨年(07年)に買ったパソコンを使っている。
ワープロとして使っている間は、それほどの(差)を
感じない。

が、画像を表示したり、ゲームをしたりするときには、
はっきりとした(差)となって、ちがいが出てくる。
情報を処理するための基本的な速度、つまりクロック数そのものが
ちがう。

俗な言い方をすれば、(頭の回転の速さ)ということになる。
子どもにしても、頭の回転の速い子どもは、速い。
そうでない子どもは、そうでない。
反応も鈍い。
仮に脳みそのクロック数が、2倍ちがうとすると、クロック数が
2倍速い子どもは、そうでない子どもの、2倍長く時間を使う
ことができるということになる。

全体に、クロック数が速いから、当然、計算するのも速い。
文章を書くのも、速い。
思考する力も、速い。
だからクロック数が2倍速い子どもにとっては、同じ「1秒」でも、
そうでない子どもの、「2秒分」の時間に相当する。
同じ「1年」でも、「2年分」の時間に相当する。
ただし誤解しないでほしいのは、クロック数が速いからといって、
時間を有効に使っているということにはならないということ。
(時間を長く使う)ということと、(時間を有効に使う)という
ことは、まったく別のことである。

そのことは、冒頭に書いたスズメの話を思い出してもらえば、わかる。
庭に遊ぶスズメたちは、目まぐるしく、活動している。
しかし、それだけのこと。
わかりやすく言えば、(中身のない人生)を、忙しそうに
繰りかえしているだけ。

恩師の田丸謙二先生は、いつも口癖のように、こう言っている。
「せっかく、いい頭をお持ちなのですから・・・」と。
私に対して、そう言っているのではない。

東大という大学に入ってくる学生たちに、いつもそう言っている。
先生がいう、「・・・なのですから・・・」というのは、
「もっと自分の頭で考えなさい」という意味だが、
先生の言葉をもう少し、自分なりに解釈すると、こうなる。
「せっかく速いクロック数の頭をもっているのだから、
脳みそを有効に使いなさい」と。

●最後に・・・

脳梗塞のようなダメージを受けないかぎり、実際には、
脳みそのクロック数などというものは、みな、それほどちがわない。
ちがっても、2倍とか3倍とかいうものではなく、
1・1倍とか、1・2倍とかいう範囲の、わずかなものかもしれない。
しかもそのクロック数というのは、訓練によって、速くすることができる。
このことも、子どもの世界を見れば、よくわかる。

言いかえると、同じ人生でも、それを長くして生きるか、
それとも、短くして生きるかは、その人、個人の問題ということ。
そのためにも、頭は使って使って、使いまくる。
そうでなくても、脳みそのクロック数は、加齢とともに、落ちてくる。
老人ホームにいる老人たちにしても、ある日、突然、ああなったのではない。
ある時期から、徐々に、そして少しずつ、長い時間をかけて、
ああなった。

今の私やあなたがそうかもしれない。
クロック数というのは、そういうもの。
全体に脳みその機能が低下していくため、その人自身が、それに気づくと
いうことは、まずない。

知らぬ間に、クロック数は低下し、また低下しながらも、低下したこともわからない。
だから歳をとったら、なおさら、頭は使う。
使って使って、使いまくる。

それがとりもなおさず、私たちの人生を、より長くすることになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 クロック数 クロック周波数 人間のクロック数 クロック周波数 
生きる密度)


Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司

●時間とは

 改めて書くまでもなく、時間とは生き方の問題ということになる。
「そこに時間がある」ということではなく、「どう生きるか」。
それが時間ということになる。
もし「時間」という概念があるなら、「その時間を、どう使うか」。
それがここでいう「生き方の問題」ということになる。

 怠惰に過ごすのも1年なら、懸命に生きるのも、これまた1年。
「長さ」は、その「密度」によって決まる。
言い替えると、生き様の追求は、密度の追求ということになる。
いかに無駄を省き、密度を濃くしていくか。
それによって1年を10年にすることもできる。
1年を100年にすることもできる。

 もちろん回り道をすることも、よくない。
私たちも「生命」の一部でしかない。
その「生命」という部分には、限界がある。
ちょうど鉄がさび、やがて朽ちていくように、私たちの細胞も、さび、
やがて朽ちていく。
「急ぐ」という言い方は好きではないが、少なくとも、
無駄にする時間はない。
物理的な時間をいうなら、100年でも足りない。
1000年でも足りない。
真理の探究というのは、それほどまでに深淵で、道は遠い。

 「時間とは何か?」。
それを考えていくと、その先に、どう生きるべきかが見えてくる。
そういう意味で、物理学でいう(時間)と、哲学でいう(時間)には、
相互性がある。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 時間とは何か)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●The Howie Brothers(ホウイ兄弟)

今朝起きてすぐ、「The Howie Brothers」のことを書いた。
オーストラリアの音楽家である。
大学の同窓生でもある。
1970年のときの写真と、2010年の写真を並べて、BLOGに掲載した。
その2つの写真を見比べなら、こう思った。

 たいていの人は、(私のワイフもそうだが)、現在の写真を見て、「こんな人たちにも、若
いときがあった」と思う。
この見方は、まちがってはいない。
しかし空白の40年を縮めてみると、見方が逆になる。
「こんな青年にも、やがてくる老年期があった」と。

 もちろん青年期には、それはわからない。
老齢期という未来は、まだ存在しない未知の世界。
しかし実際には、どんな青年にも、すでに老齢期はある。
あって、どこかに潜んでいる。

 このことは、幼児たちを見ているとわかる。
年中児(4歳児)から、高校3年生まで。
そういった子どもを毎年繰り返し見ていると、やがて幼児を見ただけで、その子どもがそ
のあとどうなっていくか、おおかたの輪郭がわかるようになる。
幼児の中に、中学生になったときの様子、高校生になったときの様子がわかるようになる。
同じように・・・というわけでもないが、1970年のホウイ兄弟の写真を見ていると、
見た目には青年かもしれないが、その中に、現在のホウイ兄弟を見てしまう。

 どちらが先で、どちらが後ということではない。
その人たちの中で、人生がひとかたまりになっている。
だから私は、1970年の写真を見ながら、こう思う。

「この人たちにも、今のような老齢期があったのだ」と。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●春休み

 私にも春休みがある。
10日間ほどある。
いろいろ計画している。
が、こうした計画というのは、浅瀬にわく、泡のようなもの。
ポッポッと現れては、その一方で、ポッポッと消えていく。
若いころなら、「本を1冊、書いてやる」などと思ったもの。
しかし今の私は、「本を書くこと」には、まったく興味がない。
書いたものを本にしたいという意欲さえ、わいてこない。
今は、インターネットの時代。
これからはインターネットの時代。

 ひとつの例だが、10年ほど前までは、パソコン関連のソフトが、たくさん店に並んで
いた。
ゲームソフトはもちろん、画像編集ソフト、ビデオ編集ソフト、宛名書きソフト、家計簿
ソフトなどなど。
20年前には、もっとたくさんあった。
しかし今は、そのほとんどが、無料ソフトに置き換わった。
画像加工ソフトにしても、無料加工ソフトのほうが、内容が濃い。
使い勝手もよい。

 同じように、(情報)にしても、少し前までは、「安かろう、悪かろう」という思いが、
まだ残っていた。
ニュースにしてもそうだ。
今ではインターネットで配信される(情報)のほうが、はるかに質が高い。
(もちろん低いものもあるが・・・。しかしこれは選択の問題。)
何よりも瞬時、瞬時・・・というところがすごい。
朝に記事を配信すれば、昼を待たずして、反応が入ってくる。
(実際には、BLOGに書き込むと同時に、検索されるようになる。)

 どうしてこういう時代に、「本」なのか?
収入にはならないかもしれないが、私には、そのほうが楽しい。
つまりインターネットを利用して、好き勝手なことを書いているほうが、楽しい。
ということで、新年度からの新しい企画に挑戦したい。
(2009-2010年度は、「BW公開教室」に力を入れた。)


●同性愛

++++++++++++++++++

数日前、浜松市の男性教師が、児童買春で
逮捕された。
東京で、逮捕された。
相手は女の子かと思ったが、男の子だった。
つまりその教師は、同性愛者であった。
別の同性愛者に段取りをつけてもらい、
東京まで出かけていって、売春行為を
していたらしい。

+++++++++++++++++++

●「濃い男」

 「濃い男」「薄い男」という言葉は、私が最初に考えた。
今では広く、あちこちで使われている。
「肉食系」「草食系」と同じような意味で使われているが、私が使い
はじめたときには、すこし違った。
まったく女性にしか興味を示さない男を、「濃い男」という。
同性でもか構わないという男を、「薄い男」という。
私は、その中でも、「たいへん濃い男」。
同性の男に、肌をさわれただけで、ゾッとする。
一方、女性なら、だれでも構わない。
歯医者などに行って、女性の看護士に肌をさわられただけで、うっとりする。

 だから、こういうニュースを聞くたびに、「ヘエ~~?」と思ってしまう。
そんなに同性に興味があるなら、温泉か、大浴場へ行けばよい、と。
(あるいはそういうところは、飽きてしまったのか?)

●同性愛

 同性愛がどうこう言うのではない。
好ましくないとか、そういうことを言っているのでもない。
そういうことを言うと、今では「偏見」と考えられ、評論すること自体、許されない。
(今まで、一度もしたことはないが・・・。)
しかし「東京まで行って・・・」というところに、私は別の何かを感じてしまう。
当人も何かしらの(うしろめたさ)を感じていたのだろう。

 それについてワイフは、「地元じゃあ、バレるからじゃない」と。
そうかもしれない。
そうでないかもしれない。
年齢は53歳というから、あちこちの学校で教壇に立っていたはず。
現在の学校に移る前は、市内のN中学校で、教壇に立っていたという。
顔も広く知られている。
「だから東京で・・・」ということになった(?)。

 しかし考えてみれば、不思議な世界と思う。
人間の世界にも、(男)と(女)がいて、さまざまな人間模様を繰り広げている。
ときにそれが(男)と(男)になり、(女)と(女)になったりする。
どうでもよい世界だが、そこに子どもを巻き込む。
それはいけない。

この浜松市でも、毎年教師によるハレンチ事件が、1~2件はある。
親レベル、学校レベルでもみ消される事件まで入れたら、もっと多い。
当人どうしだけの秘密のままですまされるケースを含めると、さらに多い。
つまりこうした事件は、氷山の、そのまた氷山の一角。

 バレたら、教師生命どころか、世俗的な名誉、地位すべてを失う。
それほどまでの危険を感じたら、ふつうの良識のある人は手を引く。
「教職」という立場にあるなら、なおさらである。
そう言えば、どこかの小学校の校長が、校長室で、児童の母親と密会を重ねていたという
事件もあった。
これもつい先日のできごとである。
が、人間のもつ欲望のパワーは、それをはるかにしのふほど、強い。
逮捕された教師も、こう言ったという。
「自分を抑えきれませんでした」と。

 ・・・こういう事件は、モグラ叩きのモグラのようなもの。
人間がそこにいるかぎり、なくなることはない。
これからも頻繁に起こるだろう。
止めようとして、止められるものではない。
が、一言。

 私には、同性愛者の気持ちが、どうしても理解できない。
頭の中を、180度ひっくり返してみるのだが、それでも理解できない。
「どうして男が、男に、性的な関心をもつのだろう」と考えたところで、思考が停止して
しまう。
だからこそ、不思議な世界と思う。
同じ人間であり、同じ男なのに、これだけは、私の理解の範囲を超えている。


Hiroshi Hayashi++++++MARCH.2010++++++はやし浩司

●今日、あれこれ(3月27日)

●経済問題

 ひとつだけはっきりしていること。
このまま進めば、日本経済は、やがてにっちもさっちもいかなくなるということ。
国の借金は、雪だるま式にふえつづける。
その一方で、大量の円を市中にばらまきつづける。
へたをすれば、デフレ状態のまま、ハイパーインフレを迎える。
そうなれば円の大暴落。
札も国債も、紙くずと化す。
(もともと「紙」だから、私は驚かないが・・・。)

●中国の干ばつ
 
 中国南部と、ベトナム北部が、大干ばつに見舞われている。
原因は、地球の温暖化。
が、本当の問題は、これから。
この先、世界各地で、「水戦争」が起きるようになる。
1960年代に始まった、インド・パキスタン紛争(印パ紛争)も、
もとはと言えば、水の奪い合いだった。
そうした「火種」ならぬ、「水種」は、世界各地に散らばっている。
すでに中国とベトナムの関係が、ぎくしゃくし始めている。

農耕地が被害を受ければ、そのまま食料不足につながる。
そうなれば影響は、この日本にも及ぶ。
遠い海の向こうの話では、すまされなくなる。

●民主党政権

 「日本は左傾化し、中国に接近しつつある」と。
私はそうは思っていないが、アメリカ人も、オーストラリア人も、
そう思っている。
今の民主党政権になって、日本は、かなり誤解されているようだ。
前回の衆議院議員選挙では、多くの日本人は、反麻生、反自民に
傾いた。
しかしだれも民主党が、左派政権とは、思っていなかった。
左派政権を求めて、民主党に一票を入れたわけではない。
社民党などと連携がわかってはじめて、「?」と思い始めた。
(これはあとの祭り!)

 が、何よりも失望したのは、小沢一郎幹事長。
小沢一郎幹事長が臭わす醜悪さは、麻生前総理大臣の比ではない。
そればかりか、やがてマスコミ各誌は、民主党をさして、「小沢独裁政権」
と揶揄(やゆ)するようになった。
まさに独裁政権。
派閥政治にもいろいろと問題はあるが、自民党の派閥政治のほうが、民主的(?)。
そんな印象をもってしまった。

 が、小沢一郎幹事長は、この場に及んでも、まだ強気。
夏の参議院議員選挙では、民主党の選挙参謀を務めるとか。
その姿勢は、麻生前総理と、同じ。
まるで自分の姿が見えていない。
「どうぞ、ご勝手に!」。


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●ゲーム中毒

2010-04-27 23:33:44 | 日記
●ゲーム脳(ゲーム中毒)

+++++++++++++++++++

この日本では、どうして「ゲーム脳」が
問題にならないのか。
「ゲーム脳」という言葉が悪いなら、
「ゲーム中毒」でもよい。

隣の韓国では、すでに10年以上も前から、
また最近では中国でも、「ゲーム中毒」の
若者たちが、問題になりつつある。
ゲーム中毒の子ども(若者も)を集めた
更正施設や、更正プログラムまで、用意
されている※。

が、この日本では、問題にならない。
「ゲーム脳」という言葉を使って、エッセーを
書いただけで、猛烈な抗議に嵐にさらされる。
ゲームの世界そのものが、カルト化している。
ゲームに日夜夢中になっている子ども(若者)は、
まさにその信者ということになる。

(ためしに、「はやし浩司」で検索してみるとよい。
私を、口汚く中傷しているサイトやBLOGがある。
そのほとんどが、ここでいう「信者」たちである。
私が書いた『ポケモンカルト』(三一書房)などは、
出版してから11年になるが、いまだに叩かれつづ
けている!)

が、日本人だけが特別ということは、ありえない。
日本人の脳みそだけが、韓国人や中国人と、構造が
ちがうということは、ありえない。
今の今も、この日本には、ゲーム中毒の子ども(若者)は、
いる。
日に、何時間も何時間も、ゲームに夢中になっている。
真夜中でも、ゲームに夢中になっている。
が、日本では、そういう子ども(若者)が、どういうわけか、
問題にならない。
考えてみれば、これほどおかしな話はない。

ここでは、別の角度から、「ゲーム脳」について
考えてみたい。

+++++++++++++++++++++++++

●まねる(観察学習)

 発達心理学の世界には、「観察学習」という言葉がある。
子どもは、教えられて学ぶことよりも、まわりを観察しながら、自ら学ぶことの
ほうが多い。
量的に、はるかに多い。
「学習効果」ということを考えるなら、またそのほうがはるかに効果的。

 たとえば以前、何かにつけ、ツッパリ始めた子ども(小5男児)がいた。
言動が粗野になり、独特の目つきで、独特の話し方で話すようになった。
「ウッセー」「コノヤロー」と。
紫の地に、金色の刺繍をほどこしたコートを着てきたこともあった。

 で、その子どもを、高校生の受験クラスに入れてみた。
高校生の間に座らせて、好きな勉強をさせてみた。
最初は、体をかたくしていたが、週を追うごとに、ぐんぐんと変化していった。
あとで聞いたら、高校生の中の1人を、自分の理想像のように思いようになったらしい。
その高校生は、野球部の部員だった。

その子どもは、日曜日など、こっそりとその試合の応援に出かけたりしていた。
家に帰っても、その高校生の話ばかりするようになった。

 これは観察学習というわけではないが、その子どもは、まわりの様子から、
多くのものを学んだことになる。
それは「学ぶ」という行為というよりは、「まねる」に近い。
その「まねる」という行為を、「モデリング」という。

●自己認識能力

 ものごとは常識で考えよう。
まだ判断力や自己管理能力がじゅうぶん育っていない子どもが、ゲームを相手に、
「殺せ!」「やっつけろ!」と叫んで、心によい影響を与えるはずがない。
こんな実験が知られている。

 ある一定時間、暴力映画を見せた子どもは、その直後、行動が暴力的になるという
(バンデュラ、ほか)。
多くの研究者が、同じような実験結果を報告しているので、今さら改めて説明する
までもない。
つまり子どもというのは、そのつど環境の中で、自分を作っていく。
作られていく。
それもそのはず。

 子どもが現実検証能力、つまり自分、あるいは自分と他者との関係、さらには自分の
置かれた立場を、客観的に判断できるようになるのは、小学3年生(9歳)以上。
それ以前の子どもには、その能力はない。
たとえば病院や図書館で騒いでいる幼児がいる。
そういう幼児に向かって、「静かにしなさい!」と叱っても、意味はない。
「騒いでいる」「迷惑をかけている」という意識そのものがない。
そういう行為がどういうものかさえ、わかっていない。
叱られたあと静かになるのは、こわいからそうしているだけ。

 つまり小学3年生(9歳)以前の子どもに、その判断能力はない。
判断能力がないというよりは、思考力が未熟。
だからこの時期の子どもは、理性や知性を使って「学ぶ」ことよりも、周囲を
観察し、それを「まねる」ことによって、自分の思考パターンや行動パターンを
形成していく。
それがモデリングということになる。

●疑わしきは罰する

 法律の世界では、『疑わしきは罰せず』という。
が、教育の世界では、『疑わしきは罰する』という。
なんでもあやしいものは、先手先手で、子どもの世界から遠ざける。
安全性が確認されるまで待っていたら、それこそ手遅れになってしまう。

 ゲームにしても、しかり。
もちろん中には、良質なソフトもある。
そういうものまで、ひとまとめにして、「反対!」と、私は言っているわけではない。
しかし良質なソフトにまぎれて、悪質なソフトがあるのも事実。
そういう悪質なソフトまで野放しにしては、いけない。
有害とは証明できないかもしれない。
しかし少なくとも、安全と証明されたわけでもない。
だったら、遠ざける。
それくらいの配慮というか、子どもの世界に対する思いやりは、あって当然の
ことではないか。

……と私は書いている。

●付記

 あるBLOGには、こうあった。
「(右脳教育を創始者の)SDも、(ゲームを批判する)はやし浩司も、
同じようなもの。
一度、この2人を、バトルさせてみたい」と。

 SD氏(2009年死去)は、ゲームは、右脳の刺激になると説いていた。
そのSD氏と私も、同じ、と。
しかし(右脳教育)と(ゲーム脳)とは、どこでどう結びつくのか。
その右脳教育にしても、安全が確認されたわけではない。
むしろ幼児期においては、左脳教育(論理と分析)こそ、重要。
そうでなくても、映像文化に発達とともに、あえて右脳を刺激しなくても、
子どもたちは、じゅうぶん過ぎるほどの刺激を受けている。
反対に、今、静かにものを考える子どもが少なくなった。

頭に飛来した情報を、ペラペラと口にする。
しかし中身がない。
薄っぺらい。
子どもたちの世界が、バラエティ番組化している。
「これでいいのか!」と叫んだところで、この話はおしまい。

【補記】

 私は、右脳教育には、懐疑的である。
10年以上も前から、そういう趣旨で、原稿を書いてきた。
その気持ちは、いささかもゆらいでいない。
「まちがっている」と言っているのではない。
「あえて必要ない」と言っている。
フォト化とか、直観像とか、いろいろ言われているが、安全が確認された
わけではない。
ある幼児教室の案内書には、こうあった。

「これからは、右脳教育を受けた子どもたちが、ゾロゾロと(東大の)
赤門をくぐることになるでしょう」と。

それから10年。
そろそろその結果が出ているはず。
もしSD氏とバトルするようなことがあれば、(天国なら天国でもよいが)、まず
そのあたりの資料を出してもらうところから始めたい。

(注※)

●ゲーム脳

+++++++++++++++++

「ゲーム脳」というのは、大脳生理学上の
問題ではない。
「現象」の問題である。
「大脳生理学上、ゲーム脳というのはない」と
説く学者もいる。
その世界では神格化され、「つぎつぎと商品企画
が、もちこまれている」(某雑誌)とか。

結構な話だが、こういう学者は、つぎのような
現象を、どう考えるのだろうか。
産経新聞をそのまま転載させてもらう。

+++++++++++++以下、産経新聞より++++++++++++++

【産経新聞・10-02-08】

『・・・世界最大となる3億3800万人のインターネット人口を抱える中国で、2400万人の青少年がオンラインゲームやチャットにのめり込む(ネット中毒)に陥っている。中国青少年インターネット協会が8日までに発表した調査結果で明らかになった。 

 中国のネット人口のうち3分の1は、19歳以下の青少年が占めている。6~29歳の青少年7千人を対象に行われた調査結果によると、ネットに依存している青少年は2007年の9・7%から14%に増加。「ネット中毒」が社会問題化し始めた05年ごろは400万人程度で、4年間で6倍に増えた計算だ。娯楽の少ない発展が遅れている地域に中毒者が多いことも、特徴の一つに挙げられている。

 中毒を誘因している一番の原因はオンラインゲームだ。「ネットを通じて何をしているか?」との問いに対し、47・9%が「ゲーム」と回答。2位の「アニメや映画、音楽のダウンロード」の23・2%、3位の「チャットで友達を作る」の13・2%を大きく引き離した。

 中国では08年11月、人民解放軍北京軍区総医院が策定した「ネット中毒臨床診断基準」を公表し、ネット中毒を「繰り返しネットを使用することで一種の精神障害をきたした状態」と定義付けた。今回の調査でも、ネット中毒になっていない人の66・5%は「他人を殴るのは間違っている」と答えたのに対し、中毒者は48%にとどまった。

 国際情報紙、環球時報(英語版)によると、中国青少年精神保健センターの創設者は「ネット中毒者の40%は、(不注意や衝動的な症状などが出る)注意欠陥・多動性障害といった精神疾患にかかっている」と警鐘を鳴らしている』(以上、産経新聞)。

+++++++++++++以上、産経新聞より++++++++++++++

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 ゲーム脳 中国の現状 ゲーム中毒 ネット中毒者 障害 中国のネット中毒者 ゲーム 疑わしきは罰する)


Hiroshi Hayashi++++++April.2010++++++はやし浩司