最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●10月28日(1)

2009-10-28 06:55:36 | 日記
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 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      10月   28日号
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HAPPY BIRTHDAY TO ME, Hiroshi!    I am 62 years old now!

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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【人間の多様性について】

●人間の弱さ

+++++++++++++++++

欲望と理性が真正面からぶつかったら、どうなるか。
ふつう、理性に、勝ち目はない。
欲望はそれほどまでに強力で、根が深い。
とくに性欲においては、そうである。

どんな高徳な聖職者でも、あるいは高邁な
哲学者でも、たとえば性欲の前では、ひとたまりもない。
それなりの仮面をかぶることはできても、
仮面は仮面。
他人の目を気にした、仮面。
「私はそういうことには興味はありません」というような
顔をしているだけ。

……こう断言するのは、たいへん危険なことかもしれない。
中には、「私はそうでない」と反論する人もいるかも
しれない。

しかしそういう人は、まず、自分の肉体と精神の健康を
疑ってみたほうがよい。
あなたの肉体と精神が健康であるなら、もう一度、改めて、ここに
断言する。

欲望と理性が真正面からぶつかったら、どうなるか。
ふつう、理性に、勝ち目はない。

++++++++++++++++++++++++++++

●脳の構造

もし前頭連合野の働きが、脳全体をコントロールできるとするなら、
うつ病も含めて、もろもろの精神病は、そのまま解決する。
アルコール中毒も、ニコチン中毒も、そのまま解決する。
依存症もなければ、うまくいけば、人と人との争いもなくなる。

 逆説的に考えるなら、そうでないから、そうでない。
前頭連合野のもつ力は、それほど強くない。
アルコール中毒ひとつとっても、それから抜け出るのは容易なことではない。
それがそのまま人間の精神力の限界ということになる。
前頭連合野の限界ということになる。
が、それにもし、性欲が理性でコントロールできるようなものであるとするなら、
人類は、とっくの昔に絶滅していたということになる。

 人間がもつ臓器の中で、あれほどまでに不潔で、悪臭の漂う場所はない。
いくらその異性が好きになったとしても、もし理性のコントロールが働いているなら、
あの部分だけは、手で触れるとしても、最後の最後。
できるなら、見るのも避けたい。
そんな場所に、何と、種族存続のための、最重要器官が集まっている。
快楽の中心点になっている。

●「魔が差す」

 少し前、手鏡を使って、女性のスカートの中をのぞいていた、どこかの教授が
いた。
それで有罪になったと思っていたら、今度は、電車の中で痴漢行為を働いたという。
その前にも、何かの事件で、一度、逮捕されている。

 何もその教授の行為を弁護するつもりはない。
ないが、しかしどこのだれが、そういう教授を、「石をもって、打てるか」?
またそういうことをしたからといって、その教授がもつ、ほかのすぐれた部分
まで、否定しまうのも、どうかと思う。

 その教授にしても、99・99%の時間は、教授として、師弟の指導に
尽力していたにちがいない。
すばらしい才能と能力に、恵まれていた。
彼が説いていた経済理論は、一級のものであった。
が、残りの0.01%の部分で、「魔が差した」。

●私だって……

 「私だって……」という言い方をすると、誤解があるかもしれない。
しかし私は、けっして聖人ではない。
ふつうにスケベだし、スケベなこともたくさんしている。
頭の中は、この年齢になっても、スケベでいっぱい。
むしろ私は、生まれも育ちも、よくない。
動物的で、野蛮。

 「魔が差す」という言葉からもわかるように、ほんの一瞬のスキが、私の
人生を狂わすということも、私のばあい、ありえないことではない。
たとえば私は、よくこんなことを考える。

●もし政治家だったら……

 私が政治家だったとする。
その私のところへ、1人の土建業者がやってきた。
そして机の上に、1000万円の現金を積んだとする。
そしてこう言った。
「X町の土木部長に、よろしく」と。

 そのときのこと。
だまってうなずけば、そのお金は自分のものになる。
土建業者は、何も言わず、その場を去る。

 私なら……?
この先のことは書かないが、多分、みなさんと同じような行動を取ると思う。

●欲望

 人間が本来的にもつ弱さというのは、人間自身がもつ、欠陥と考えてよい。
あるいは、本来、人間というのは、そういう(動物)であるという前提で、考えたらよい。

 つまり人間は知的な意味で、格段の進化を遂げたが、その一方で、それ以前の
動物的な部分を残してもっている。
それが悪いというのではない。
それがあるからこそ、人間は、子孫を後世に残すことができる。
誤解してはいけない。
性欲といっても、もろもろの(欲望)のひとつにすぎない。
が、そうした欲望を、すべて否定してしまったら、残された道はただひとつ。
人類は、そのまま絶滅する。

●欲望のない世界

 子どもは人工授精によって生まれ、それ以後は人工飼育器の中で育てられる。
欲望は否定される。
もちろん人間は、去勢され、性欲そのものを失う。

 ……話が少し極端になってきたが、欲望を否定した世界では、そうした形で、
子孫を残すしかない。
すべての人間は平等で、競争もなければ、もちろん争いもない。
手鏡で、女性のスカートの下をのぞく人もいなくなるが、同時に、経済の研究を
する学者もいなくなる。

 話が入り組んできたが、平たく言えば、善があるから悪があり、悪があるから善が
あるということ。
その2つがつねにぶつかりあうから、そこからドラマが生まれる。
人間がなぜ生きているかといえば、そこにすべての目的が集約される。

●人間の中味

 犯罪にもいろいろある。
それによって起こる事件にも、いろいろある。
しかし私は、最近、こんな経験をした。

 故郷のM町の民芸館の中を見て回っているときのこと。
そこにどこか顔なじみに男がいた。
中学時代の同級生である。

 彼のことは、よく知っている。
親しくはなかったが、よく知っている。
彼は中学を卒業するとしばらくして、どこかの暴力団に入り、そのあと、
10年近く、刑務所で暮らしている。
同窓会に出るたびに、彼の話がよく出た。

 が、である。
私はその男の温厚さに驚いた。
ふつうの温厚さではない。
体の芯からにじみ出るような、温厚さである。
人間的な深い暖かみも感じた。
私のことはよく覚えていて、たがいに話がはずんだ。
そのあと、ボランティアの案内人として、町の中を、観光客を案内するということだった。

 別れてからワイフに、その男の過去を話すと、ワイフはたいへん驚いていた。
「そんな人には、ぜんぜん、見えないわね」と。

●罪を憎んで、人を憎まず

 法律の世界には、『罪を憎んで、人を憎まず』という言葉がある。
そこに犯罪者がいたとしても、悪いのは、その「罪」であって、「人」ではないという
考え方である。

 まさにそのとおりで、手鏡でスカートの下をのぞいたことは悪いとしても、だからと
いって、その人のすべてを否定してはいけない。

 同じように、若いころ、刑務所にいたからといって、その後の彼の人生のすべてを
否定してはいけない。
その区別というか、境界をしっかりと引く。
それが『罪を憎んで、人を憎まず』の意味ということになる。

●魔が差す

 考えてみれば、人間は、社会的動物である以上、いつも「悪」にさらされて生きている。
今、「私はだいじょうぶ」と考えている人にしても、明日のことはわからない。
それは事故のようなもの。
ふと油断したようなとき、悪の餌食になる。
『魔が差す』というのは、それをいう。

 言い換えると、だれしも、そういうときはある。
私にもあるし、あなたにもある。
冒頭にあげた(欲望)というのは、そういうもの。
(理性)の緊張感がゆるんだ、その一瞬をついて、その人を狂わす。
だからといって、そういう人を擁護するつもりはない。
が、一方的にそういう人を、否定してしまってはいけない。

 私は、それを書きたかった。


Hiroshi Hayashi++++++++Oct. 09+++++++++はやし浩司

●多様性について

+++++++++++++++++++++++++++

知人、友人が、健康を害していくのを見るのは、つらい。
見た目には同じようでも、「今、○○病と闘っているよ」と
言われると、そのつど、ドキッとする。

同じように、知人、友人が、ボケていくのを見るのは、つらい。
明らかに頭の回転が鈍くなっている。
話し方も、かったるい。
会話から繊細さが消え、ぶっきらぼうな言い方をする。

たいていは、血栓性の脳障害(脳血管性認知症)によるもの。
独特の話し方をする。
それが最近は、素人の私にも、判断できるようになった。

+++++++++++++++++++++++++++

●意識

 私たちがもっている(意識)ほど、あてにならないものはない。
「私は私」と思っている部分についても、では、脳の中で、どの部分がそう思っているか
となると、それがどうもよくわからないらしい。

 たとえば理性の中枢部として、前頭連合野がある。
額の裏側にある脳である。
しかしその「前頭」と言われている部分についても、左脳と右脳に分かれている。
仕事を分担している。
(最近、とくに注目されている部分が、第46野と言われている部分だが、それについて
は、最後のところで書く。)
が、もちろん別々の仕事をしているわけではない。
「脳梁(のうりょう)」と呼ばれる、太い配線で結ばれている。

 が、全体として、(1つ)ということではない。
脳は、そのときどきにおいて、いろいろな組み合わせを繰り返しながら、別人格を作りあ
げる。
一説によれば、8人格。
私の計算によれば、9人格。
さらには32人格まであると説く人もいる。
それぞれがそれぞれの人格のとき、別の意識をもつ。
今、「私は私」と思っている部分は、その中のひとつにすぎない。

●脳の奥で作られる無意識

たとえば「ジュース」という言葉を見たとする。
左脳の言語中枢は、それを「ジュース」と読み、読んだ言葉を、右脳に伝える。
右脳はその信号をとらえて、コップに入った黄色い飲み物を具体的に映像化する。

 このとき、右脳は、すでに脳の中に格納された情報から、ジュースの情報を引き出し、「冷
蔵庫の中に、昨日買ってきた、オレンジジュースが残っているはず」と判断する。

 が、もしここで、「マイロ」という言葉を見たとしたら、どうだろうか。
オーストラリアの飲み物である。
日本では、N社から、「ミロ」という商品名で、売りに出されている。

 しかしオーストラリアに住んだことのない人は、「マイロ」と読んでも、意味がわからな
い。
右脳に情報を送っても、それがどんなものであるか、具体的に頭の中に浮かんでこない。
言葉だけは脳のあちこちをかけめぐるが、そのつど脳の壁に当たって、はね返されてしま
う。

 「ジュース」という言葉を見たときには、それが具体的な映像となって、意識を動かす。
「飲みたい」という意識につながる。
が、「マイロ」という言葉を見たときには、具体的な映像は浮かんでこない。「飲みたい」
という意識は、当然、生まれない。

●操られる意識

 ところが、「マイロ」について、だれかがこう説明したとする。
「ココアに似た味の、おいしい飲み物」と。

 すると好奇心がわいてくる。
その好奇心が、「飲みたい」という意識を引き出す。
しかもそのとき、同時に、脳の別の部分では、別の意識が活発に動き出す。

「どこへ行けば手に入るか」
「値段は、いくらくらいか」
「どうやって飲むのか」などなど。

 このときほとんどの意識は、意識されない世界、つまり無意識の世界で動き出す。
さらに脳の頭頂部あたりでは、「どんなカップに、どのようにして溶かして飲むか」まで考
えるかもしれない。

 そこであなたは、「マイロ」について、調べる。
人に聞く。
最終的には、日本でも、N社から、「ミロ」という名前で売りに出されていることを知る。

 で、あなたは近くの店に行き、それを手に入れる……。

●意識は、氷山の一角

 こうした一連の意識活動で重要なことは、私たちが(意識している意識)というのは、
海に浮かんだ氷山の一角のようなものにすぎないということ。
一角どころか、「一微」と書いた方が、正確かもしれない。

 で、そのあと、あなたは店へ行く。
店員に、「ミロはありますか?」と聞く。
それを見つけて、カートに入れる。
お金を払う。
家に帰って、飲む……。

 そのつどあなたは、「私は、自分の意思で、そうしている」と思うかもしれない。
しかし実際には、それ以前、つまりあなたが「マイロ」という名前を読んだとき、脳の別
の部分が決めた行動に従って、そうしているにすぎない。
「意識」としては、意識できなかっただけ、ということになる。

 これはほんの一例だが、私たちがもっている意識というのは、そういうものと考えてよ
い。
つまりアテにならない。

●多様人格

 こうして考えていくと、どこからどこまでが「私」なのか、わからなくなってくる。
さらにその「私」にしても、冒頭に書いたように、脳の組み合わせによって、いくつもの
パターンに分かれる。

 すばらしい映画を観たあとなどは、神々(こうごう)しい気持ちになる。
反対に殺伐とした暴力映画を観たあとなどは、イライラしたり、怒りっぽくなったりする。
どちらも「私」なのだが、どちらが本物の私で、どちらがそうでないかという判断をくだ
すのは、正しくない。
「神々しい私の方が、私」と思いたい気持ちはわかるが、それがすべてではない。
ときには、サスペンス映画、戦争映画、スリラー映画も、観たくなる。
SF映画も楽しい。

 ……となると、ますます訳が分からなくなる。
が、こうなったときの鉄則は、ひとつ。
ここは居直るしかない。
つまり私たちは、「常に(1人の私)ではない」と、考える。
1人の私に限定するから、話に無理が生じてくる。
自己矛盾に悩む。

 脳の構造についていうなら、前頭前野の第46野が、「私」を作っている中枢部らしいと
いうことまでわかってきた。
その第46野は、簡単に言えば、3層(カラム)になっている。
それが左右の両方に、ひとつずつあるわけだから、組み合わせの数で言えば、3×3=9の、9通りということになる。

 つまり私たちは、単純に計算すれば、いつも9通りの「私」をもっていることになる。
(もちろんどれが優勢か、劣勢かということはあるが……。
とくに優勢なのを、「主人格」という。)
ひとつにこだわらなければならない理由は、ない。
つまり多重人格であるのが、当たり前。
「多重人格」という言葉に抵抗があるなら、「多様人格」という言葉を使ってもよい。

 私たちは、そのつど、時と場合に応じて、多様な意識をもって、ものを考えたり、行動
したりする。

 学者のときは、学者。
父親のときは、父親。
酒が入ったときには、友人。
妻と裸で接するときは、スケベ人間……。

 つまり「意識はアテにならない」と考えるのではなく、「どれも意識」と考える。
「どれも私」と考える。
さらに言えば、この多様性があるからこそ、その人のもつ(おもしろさ)が生まれる。

 少し前、手鏡で女性のスカートの中をのぞいた大学教授の話を書いた。
が、それも人間が本来的にもつ、多様性のひとつとも考えられなくもない。
(だからといって、そういう行為を容認しているのではない。
ただ、ほかのすぐれた部分まで、いっしょくたに否定してしまってはいけないと書いてい
る。
誤解のないように!)

この考え方は、今後、変わるかもしれない。
しかし今は、これが私の意識についての結論ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 意識論 多様人格 人間の多様性 多重人格 はやし浩司の意識論)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●今日も終わった……(改)

●人を愛する

ぼくは、子どものころから、人を愛することができなかった。
愛することで、自分が傷つくのが、こわかった。
今も、そうで、人を愛しそうになると、その一歩手前で、立ち止まってしまう。

ぼくは、臆病者。
気が小さく、心が狭い。
いつも自分の殻(から)に閉じこもり、小さな穴から、外をのぞいている。

もちろん人を愛することのすばらしさは、知っている。
しかし同時に、人を愛することのきびしさも、つらさも知っている。
だから人を愛しそうになると、自分から先に逃げてしまう。

結婚してからもそうだった。
ぼくは心を開けなかった。
すべてをさらけ出して、妻に、「愛している」とは言えなかった。

そんなぼくを、妻は、いつもさみしく思っていたにちがいない。
この年齢になっても、また40年も連れ添っていても、
ぼくは自分が、こわい。

そう、ぼくはすべてをさらけ出すことができない。
いつも仮面をかぶって、自分の心をごまかしている。
裏切られるのがこわくて、先に、相手を裏切ってしまう。

つまらない人間ということも、よく知っている。
なさけない人間ということも、よく知っている。
しかしそんな自分を、どうすることもできない。


●徘徊

ぼくは、いやなことやつらいことがあると、よく徘徊する。
あてどもなく、ただひたすら、道に沿って歩く。
だれも通らない、細い道を選んで歩く。

そんなとき、妻はぼくを心配して、ぼくをさがす。
が、妻の運転する車を見ると、ぼくは、隠れてしまう。
助けてほしいのに、体は、別のほうを向いてしまう。

いじけた心。
ゆがんだ心。
すなおになりたくても、もう1人のぼくがいて、それをじゃまする。

もう残りの人生のほうが、はるかに短い。
ぼくは、ぼくらしく生きたい。
しかしそれができない、そのもどかしさ。

ときどき妻は、こう言う。
「あなたって、かわいそうな人ね」と。
自分で孤独を作って、その孤独の中で、もがき苦しんでいる。

「その人はどこにいるの?」と、1人の少女が、そう歌う。
昔、キングスクロスの劇場で観た、「ヘアー」の中でのことだった。
「私を導き、私を教えてくれる人は、どこにいるの?」と。

その少女は、つづけて、こう歌う。
「なぜ、私たちは生まれ、なぜ死ぬのか」
「私たちは、それを知るために、どこへ行けばいいの?」と。

話がそれたが、ぼくはなぜ歩くか。
理由は、簡単。
歩いているときだけ、ぼくは自分を忘れることができる。

●10月3日

静かな夜。
満月の夜。
心地よい、夜の冷気が、つんとぼくの乾いた心を包む。

洗い物をする妻のうしろ姿。
テーブルにころがった、もうひとつのメガネ。
その横には、小さな薬箱。

何でもない光景だが、それが今夜は、ひときわ動きを止めている。
息をひそめて、ぼくが何をするか、それを待っている。
が、ぼくは、ただそれをぼんやりとながめているだけ。

「時」だけが、こうして流れてきた。
今も、流れている。
これからも、流れていく。

人を愛することのできない、もどかしさ。
自分らしく生きられない、もどかしさ。
今のときを、自分の手でつかむことができない、もどかしさ。

みんなそうなのだろうか?
それともぼくだけが、そうなのだろうか?
あるいは、みんなは、こういうとき、どうしているのだろうか?

10月3日は、もうそろそろ終わる。
時刻は、午後10時30分。
ああ、今日も、何もできなかった……。


Hiroshi Hayashi+++++++Oct. 09++++++はやし浩司

●10月28日(2)

2009-10-28 06:54:58 | 日記


●自殺論

++++++++++++++++++++++

自殺というのは、それを考えない人には、
遠くにある。
「自殺するヤツは、バカ」と、平気で言う。
しかしそれを考える人には、手をのばせば
すぐそこにある。
その気になれば、いつでも死ねる。

自殺というのは、それを考えない人には、
恐怖かもしれない。
しかしそれを考える人には、最後の救い。
「死ぬことによって、自分の魂を解放させることができる」と。
死に向かって、迷わず、歩いていく。

+++++++++++++++++++++++

●絶望

 絶望の恐ろしさは、絶望を味わったものでないとわからない。
すべての光が消えて、すべての目的が形を失う。
すべてのものが動きを止め、時間さえも、そのまま止まってしまう。

自分の人生の無意味さを思い知らされることくらい、恐ろしいことはない。
すべてのものが、色あせ、すべての人から、見放される。
そのとき「死」が、薄い氷の下で、手招きをして、ぼくを呼ぶ。

絶望こそが、死の魔手。
それがこわくて、人は、それがどんなに小さなものであっても、
希望に明日への命をつなぐ。

庭の芝生?
栗の木の上に造った、ハトの巣。
それとも明日の天気?

今、妻が、衣服を着替えながら、ぼくに微笑みかけた。
洗面所でいつものように顔を洗い、やがてこの居間にもどってきて、血圧を測る。
床につく時刻がやってきた。

明日こそは、妻を暖かい陽だまりで包んでやろう。
明日こそは、「今日はいい一日だった」と言えるようにしよう。
明日こそは……。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
BW はやし浩司 詩 はやし浩司の詩)


Hiroshi Hayashi+++++++Oct. 09++++++はやし浩司

●10月4日(日曜日)

++++++++++++++++

遅い朝食をとっていると、ワイフが、こう言った。
「どこかへ行かない?」と。

で、「お前が決めろ」と言うと、ワイフは、
「浜名湖電車に乗りたい」と。
そこで急きょ、外出することにした。

++++++++++++++++

●浜名湖鉄道(天竜浜名湖鉄道)

 ネットで時刻表を調べると、金指(かなさし)発、1時6分というのがあった。
それに乗ることにした。
言い忘れたが、「浜名湖鉄道」というのは、浜名湖の北を、掛川から、新所原(しんじょは
ら)まで、浜名湖を取り囲むようにして走っている電車である。

 折しもフラワーパークでは、「モザイカルチャー博覧会」というのをやっていた。
が、日曜日ということもあって、やめた。
人が混雑したところを歩くのは、好きではない。

●1時6分発

 途中、市内のパソコンショップに寄ったのが、まずかった。
時計を見ると、12時45分。
いくら急いでも、金指駅までは、20分はかかる。
とても間に合いそうにない。
が、こういうときは、(運命)に、身をゆだねる。
間に合うときには、間にあう。
間に合わないときには、間に合わない。
ジタバタしても、仕方ない。

 ワイフの時計は、2、3分、進んでいた。
私の時計は、電波時計に合わせておいたから、正確。
「もうだめだね」と言いながら、駅に着くと、電車はそこで待っていた!
駅員さんに、車から降りながら、ちょっとだけ待ってくださいと声をかけると、「いいです
よオ!」と。
こういうところが、ローカル線。
人間の暖か味がちがう。
ワイフは、空き地に車を止め、ハーハーと息を切らしながら、駅へ走ってきた。

●森町でおりる

 1日周遊券というのを買うと、1500円で乗り放題。
私たちはそれを買った。

しばらく、窓の外の景色を見る。
見慣れた景色だが、それだけに、ほっとする。

私はミニパソコンを取りだして、文を書き始める。
ワイフは、途中の駅で買った駅弁を開いて、それを食べる。
のどかな1日。

 で、私たちは森町でおりることにした。
「森の石松」で有名な、森町である。

 駅を出たところに案内所があって、そこの男性が、ていねいにいろいろと教えてくれた。
私たちは、蓮華寺と、その隣の民俗資料館を目指すことにした。
時間的に余裕があれば、その近くの町営浴場にも入ることにした。

●民俗資料館

 もともとは役所だったという。
木造の二階家だった。
中にぎっしりと、農機具などが展示されていた。
私が子どものころ、どこかで見たようなものばかりだった。
なつかしいというより、どれも、小さいのに驚いた。

「ぼくが子どものころには、これはぼくの背丈より大きかった……」と話しながら、案内
人の案内を受けながら、館内を回った。
楽しかった。

 で、そのあと、蓮華寺へ。
小さな寺だったが、住職がちょうど勤行(ごんぎょう)を始めるところだった。
私たちはその後ろ姿を見ながら、小銭を賽銭箱に入れた。
天井からつりさげられた鐘を鳴らした。

●町営浴場

 このところ毎週のように、大きな浴場で風呂に入っている。
それもあって、帰りに、町営浴場へ入ることにした。
が、玄関を入ったとたん、Uターン。

 ここから先は、森町の悪口になるから、慎重に書きたい。
私たちは、どうしてUターンをしたか?
入浴しないで、どうしてそのまま外へ出たか?

 実は、玄関を入ると、通路をはさんで、左側が、デイサービスセンターになっていた。
独特の老臭と消毒臭。
右側が大浴場。
その右側には、広いロビーが、昼下がりの日光をさんさんと受けて明るく輝いていた。
が、見ると、80~90歳の老人たちが、椅子に座って、そこで休んでいた。
車椅子に座っている老人もいた。
よたよたと杖をついて歩いている老人もいた。

 みな、腰の部分が不自然にふくらんでいる。
だから、Uターン。

 老人を介護したことのある人なら、その理由を、みな、知っているはず。

●掛川へ

 森町から、今度は掛川へ。
のどかな田園風景が、ゆっくりと流れるようにつづく。
私はパソコンのバッテリーを気にしながら、思いついたことを書きとめる。

こういうときというのは、書きたいことがつぎつぎと思い浮かんできて、頭の中がパニック状態になる。

 で、掛川へ。
あちこちを歩いて、通りのそば屋に入った。
ほかの店は、どこも休息中だった。

 味は、ふつう。
が、値段は高かった。
ざるそばが、850円!

 店を出ると、そのまま駅へ。
みやげは、葛(くず)湯。
掛川名物。

 そのときワイフが万歩計を見ると、9000歩近くを示していた。
つまり目的は達した。

 家に着くころには、とっぷりと日が暮れていた。
私はネットで、新しいミニパソコンを注文した。
ワイフは、DVDを見始めた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 天竜浜名湖鉄道 浜名湖鉄道 浜名湖 浜松市 浜名湖)


Hiroshi Hayashi++++++++Oct. 09+++++++++はやし浩司

●文章

 「文」というのは、生き物。
しばらく時間をおいて読み直してみると、まったく別の文になっている。
そんなことは、よくある。

 そこで私のばあいは、文を一度書くと、しばらくそのままにしておく。
そのあと時間をおいて、再び、読み直す。
そのとき、できるだけ、声を出して読むようにしている。

 たとえば昨日、私は、「人を愛する」というのと、「絶望論」というのを、書いた。
それを今朝、読み直してみた。
が、どこかヘン?
ぎこちない?
リズムが乱れている。
書いているときは気がつかなかったが、意味不明のところさえある。
だから改めて、書き直す。

 だから楽しい。
だからおもしろい。
文を書くと言うのは、文という生き物を相手にすること。

 ……ということで、今週も始まった。
がんばろう!

10月5日、月曜日!


Hiroshi Hayashi++++++++Oct. 09+++++++++はやし浩司

●満62歳

++++++++++++++++++++

もうすぐ満62歳になる。
62歳だア!
その62歳が近づいて、うれしい報告がひとつある。

私は、ずっとこう考えていた。
「健康というのは、維持するもの」
「不可逆的に悪化するもの」と。
だから「現状維持ができるだけも、御の字」と。

ところが、である。
これがどうも、そうでないということがわかった。

まず体重を、68キロから60キロに減らした。
3か月ほどかけて、少しずつ減らした。
しばらくは、それまでに経験したことのない体の不調に
悩まされた。

体重が減ったのだから、その分、体は軽くなったはず。
が、それはなかった。
かえって、体を重く感ずるようになった。

抵抗力が落ちたせいか、皮膚病(とくに結膜炎)も含めて、風邪をひきやすく
なった。
ショックだったのは、いつもなら自転車でスイスイと登れる
坂が、登れなくなったこと。
筋肉そのものまで、萎(な)えてしまった。

で、それからさらに2か月あまり。
体重を60キロに維持したまま、運動量を多くした。
それに加えて、3週間ほど前から、ウォーキング・マシンを
購入し、暇を見つけてはそれを使い始めた。

1日、40~50分を目標にしている。
速度も時速6キロ前後に設定し、できるだけ、つま先で
歩くようにしている。
こうすると、軽いジョギングをしているような格好になる。
10~20分も使っていると、全身から汗が噴き出してくる。

こうした努力が功を奏したのか、最近では、自分の健康を、
はっきりと自覚できるようになった。

体も軽い。
睡眠も深くなった。
もちろんあの坂も、再び、スイスイと登れるようになった。
さらにうれしいことに、頭がサクサクと動くようになった。
朝起きたとき、それがよくわかる。
文章を書いていても、思ったことを、そのまま表現できる。
人と話していても、言葉が、なめらかに出てくる。

だから、こう書きたい。

「みなさん、還暦と言われて、あきらめてはいけない」
「60歳を過ぎても、健康は、じゅうぶん、増進できる」
「健康は維持するものではない。努力によって造るもの」と。

少し前、私の友人がこう言った。

「男がね、いちばん仕事ができるのは、60代だよ」と。
その友人は、日本でも最大手のペンキ会社の監査役をしていた。
私は、その友人の言った言葉を、信ずる!

花の60代!
我ら、ヤング・オールド・マンなのだア!

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 健康論 健康増進)


+++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●エピソード記憶

++++++++++++++++

●もの忘れ

昨日の昼に、何を食べたか。
おととい観た映画の題名は何だったか。
隣の息子の名前は何だったか。
そういうことを忘れるということは、よくある。
俗に言う、「ど忘れ」というのが、それ。

しかしその程度の(もの忘れ)は、むしろ正常なのだそうだ。
脳には、そういう機能がある。
それによって、脳はいつも脳への負担を軽くし、つぎの記憶に備える。
パソコンにたとえるなら、「クリーンアップ」ということか。
無駄な情報を消去して、メモリーを軽くする。

が、食べたことそのものを忘れてしまうのは、よくない。
映画を観たという事実を忘れてしまうのは、よくない。
自分の家の住所を忘れてしまうのは、よくない。

アルツハイマー型の痴呆症になると、記憶といっても、エピソード
(物語)そのものが記憶から抜けてしまい、それを忘れてしまうという。

実は、私の知人(現在60歳)も、この問題で、困っている。
6歳年上の姉がいるのだが、その姉が、最近、「私は相続放棄をした覚えは
ない」と言って、騒ぎ出したという。
ことのいきさつは、こうだ。

●知人のケース

知人の父親は、5年ほど前に他界した。
そのとき家を継いでいた知人が、何百万円かの現金を渡して、姉に相続を
放棄してもらった。
それに基づいて、知人は、土地、家屋の名義を、その知人のものに書き換えた。

で、それから5年。
変化が生じた。
知人の家の近くが、土地整理区画に指定された。
とたん、土地の価格が大暴騰。
どうしようもない荒地と思っていた土地が、住宅地になった。
姉が「相続放棄をした覚えはない」と言い出したのは、そのときのことだった。

で、知人は、当時の書類を姉に見せた。
それには、「協議により、全財産を兄、○○に譲ります」とある。
もちろん姉自身の実印による押印、直筆による署名もある。
「全財産」という箇所の上にも、実印による押印してある。

これについて、知人は、「とくに重要な箇所だから、あえて押印してもらった」
と言っている。

しかしその「協議書」を、姉は、「そんなものを書いた覚えはない」と。

で、知人が私に相談してきた。
一応、私は、元法学部の学生。
成績も悪くなかった。
それに専門は、民事訴訟法。
念のため、M市で弁護士をしている友人に、電話で確かめた上で、
知人にこう言った。

私「やりたいようにさせ、あとは無視したらいいですよ」
知「無視ですか?」
私「何か言うと、そういう人ですから、言葉尻をつかまれますよ」
知「姉というより、姉の娘が騒いでいるのですね。今年、40歳になるかな」
私「最近、そういうケースがたいへん多いですよ。弁護士をしている友人も
そう言っていました」と。

 つまり当の本人(=相続権をもった相続権者)ではなく、その子ども
(=相続権をもたない息子や娘)が、「親の取り分が少ない」と言って騒ぐ。

●エピソード記憶

 が、知人の姉のケースは、もう少し深刻である。
法務局でコピーを見せつけられたにもかかわらず、「私は書いてない」
「印鑑を押してない」と、がんばっているという。
さらには、「その協議書は、偽造されたもの」とまで、言い出した。

 しかし偽造ということはありえない。
印鑑証明書にしても、本人以外は、取り寄せることさえできない。
実印にしても、そうだ。
筆跡をまねるとしても、限界がある。

 さらに協議書の「全財産」という箇所の上に、実印が押印してある。
(実印の上に、「全財産」という文字が上書きしてあるなら、偽造という
こともありえるが……。)

 ……などなど。

が、知人の姉は、知人の話によれば、とぼけているとか、ウソをついているとか、
そういう雰囲気は、まるでないという。
まったく、シラフというか、本気で、そう信じこんでいるといったふう、と。
あるいは騒いだ分だけ、引っ込みがつかなくなってしまったのかもしれない(?)。

 どうであるにせよ、話は、アルツハイマー病へと進んだ。

●アルツハイマー型認知症

 知人の姉がその病気というわけではない。
しかし話の内容を総合すると、その心配は、ある。
あるいは私がその女性の夫なら、まずそれを疑う。
現在、満65歳をすぎると、アルツハイマー病の有病率は急激にふえることがわかってい
る(新潟大学脳研究所※)。
他の認知症も含めると、約10%の人が、そうなる。

で、アルツハイマー型の認知症のこわいところは、ここにある。
記憶の一部だけではなく、ある部分の記憶が、スッポリと抜けたかのように、
消えてしまう。
部分的に覚えているということもない。
たとえば夕食を食べたあと、しばらくすると、「私は夕食を食べていない」とか
言って騒ぎ出す。

 さらに知人が困っているのは、電話。
数日おきに、姉から電話がかかってくるという。
(知人は、ナンバーディスプレイ装置を使って、姉からの電話には
出ないようにしているというが……。)
その電話というのが、高姿勢。
高慢。
留守番電話に向かって、言いたい放題。
妙に慇懃無礼な言い方をしたかと思うと、つぎの電話では、ギャンギャンと
怒鳴り散らす、など。

私「やはり、無視するしかないですね」
知「そうですね」
私「どうせ、あなたの姉さんは、何もできませんから」
知「しかし残念なのは、夫や娘も含めて、まわりの人たちがみな、姉を
たきつけていることです」
私「相続がからむと、そうみたいですよ」と。

 認知症というと、とかく当の本人だけの問題と考えられがちである。
しかしそういう病気であると、まわりの人たちがわかっていればよい。
わからないから、その人に、振り回される。
予期せぬトラブルに巻き込まれていく。
不愉快な思いをする。

(教訓)

 今ではこの病気も、早期発見が、第一。
治るということはないそうだが、進行を遅らせるという方法はある。
それに家族のだれかがそうなったら、できるだけ早く、周囲の人にそれを
伝えたほうがよい。

 知人の姉のばあいは、かなりの電話魔らしく、夫の目を盗んでは、あちこちに
電話をかけまくっている。
そういう事実を、夫は知らない。
また「おかしい?」と気づいても、たいていのばあい、夫は、それを自ら
否定しようとする。
それを認めることは、夫にとっても、つらい。
が、こうした姿勢が、友人関係、近隣関係、親戚関係を破壊する。

 アルツハイマー型痴呆症には、そういう問題も隠されている。

(注※)「65歳以上の認知症平均有病率は約10%である」

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 アルツハイマー 認知症 もの忘れ)


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●雑感

2009-10-27 08:17:28 | 日記
●迷い

 私はよく迷う。
たとえばたった今も、こう迷った。
「こんなことをして、何になるのだろう」と。
YOUTUBEに、昨日の教室の様子を、UPLOADしたときのことだった。

 しかしやるしかない。
笑いたい人がいたら、笑えばよい。
アホなことをしていると思う人がいたら、そう思えばよい。
そういう人にかぎって、自分では何もしない。
平凡は美徳かもしれないが、穴の中に引っ込んでいたら、何もできない。
何かをするためには、穴の中から出る。
私は私。
あとの判断は、他人に任せればよい。

 つまらないものでれば、やがて消える。
そうでなければ、生き残る。
それを決めるのは、私ではない。

 ただ言えることは、「これが私の人生」ということ。
だれの人生でもない。
私の人生。
迷いながら、そう言って自分に言い聞かせる。

 言い忘れたが、消えたところで、どうということはない。
どうせみな、消えるのだから……。


●日本の「円」

 日本政府は、「円」を、世界中にばらまいている。
ジャブジャブどころか、まるで……。
「ジャブジャブ」以上のジャブジャブ。
「ジャブジャブ」以上の言葉は、ない。
そのこともあって、円の為替レートが、メチャメチャ。

 今、オーストラリアでも、ニュージーランドでも、ふつうのホテルの一泊するだけでも、日本円で、4~5万円はかかる。
ヨーロッパでもそれくらい。

 外国のホテル代が高いのではない。
日本の(円)が、安い。
安いというより、価値がない。
価値がさがった。

 今はまだよい。
日本の(円)は、かろうじてという状態だが、国際通貨として通用している。
世界中の人が、(円)を、ほしがっている。
しかしこんな状態は、いつまでもつづかない。

 先日も、千葉市に住む息子を訪ねてみた。
市の中心部にあるホテルに泊まった。
一泊、2人で、1万4000円(食事なし)だった。
ほどほどの料金だった。

 が、あたりを散歩してみて驚いた。
近くに焼き肉店があったが、どれも4000~5000円。
そんなメニューばかり!
関東地方は、物価が高い。
物価が高いというよりは、インフレがジワジワと進んでいる。
それは知っていた。
しかし千葉市までそうだったとは、知らなかった。

 こうした流れは、やがてこの浜松市にも及んでくるはず。
時間の問題。
わかりやすく言えば、手持ちの資金の価値が、どんどんと目減りしているということ。
「貯金が500万円から1000万円になった」と喜んでいたら、実際の価値は、100万円しかない。
そういう状況になりつつある。

 本来ならレートを調整するために、円高に向かわねばならない。
オーストラリアのホテルでも、一泊、1万4000円程度で泊まれるようにならなければならない。
が、もうメチャメチャ。

 日本政府は、こうした(メチャメチャ)を、どのように考えているのか。
このままでは、一度、急速な、今までに例がないほどの速度で、円高が進み、そのあと日本の(円)は、大爆発する。
大爆発して、日本中を、猛烈なハイパーインフレが襲う。
それこそ焼き肉一皿、1万円。
あるいは10万円。
そうなる。

 あるいは(その時)は、すでに始まっているのかもしれない。
不気味。
想像するだけでも、ぞっとする。


Hiroshi Hayashi++++++++Oct. 09+++++++++はやし浩司※

●受験生国家

+++++++++++++++++++++

韓国の受験教育の激しさは、日本の比ではない。
そういうこともあって、韓国のエリートたちは、
いつも(順位)にこだわる。
日本ではニュースにならないようなニュースでも、
彼らには一大事。
ときとして韓国系の新聞に目を通していると。
気分が重くなる。

それはそれとして、朝鮮N報(09・10・27)に、
こんな記事が載っていた。

「世界の豊かさ評価」というのである。
この中で、「日本は、16位」だ、そうだ。

+++++++++++++++++++++

+++++以下、朝鮮N報より+++++

 英民間研究機関のレガタム研究所が世界104カ国・地域を対象に「豊かさ」の指標として発表している「レガタム繁栄指数」で、フィンランドがトップとなり、韓国は26位に入った。韓国経済新聞が26日、英フィナンシャル・タイムズ(FT)を引用して報じた。

 フィンランドは経済基盤、統治能力などの側面で最も豊かな国と評価された。レガタムは、▲経済基盤▲安全保障と治安▲企業家精神と革新▲民主主義▲統治能力▲個人の自由など九つの要素を考慮し、指数を算出した。

 フィンランドは昨年の3位から1位に浮上し、2位以下はスイス、スウェーデン、デンマーク、ノルウェーとなり、北欧3カ国がそろって上位を占めた。上位20カ国のうち80%は北米、欧州の国々で、米国は9位、英国は12位、フランスは17位、イタリアは21位だった。

 アジアでは日本が16位でトップ。シンガポールが23位、台湾が24位で続いた。韓国は26位で、アジアでは4番目だった。韓国は▲経済基盤▲企業家精神と革新▲教育▲統治能力で高い評価を受けたが、個人の自由に対する評価は振るわなかった。

 今回の調査では、新興のBRICs各国の間で格差が目立った。ブラジルが41位、インドが45位に入ったのに対し、ロシアは69位、中国は75位にとどまった。レガタムのインボーデン副会長は「ブラジルとインドは法治、透明性、責任性などでロシア、中国を上回った」と説明した。内戦に苦しむジンバブエが最下位となり、イエメン、スーダンなども最下位圏だった。

+++++以上、朝鮮N報より+++++

●豊かさ

 「豊かさ」というのは、それを知っている人は、知っている。
知らない人は、知らない。
知らない人は、自分のレベルで、それを(豊かさ)と思い込む。
お金があるから、「豊か」ということにはならない。
モノがあふれかえっているから、「豊か」ということにもならない。
わかりきったことだが、それを知るためには、一度、自分の(豊かさ)を、
日本の外からながめてみる必要がある。

 そういう点では、英民間研究機関のレガタム研究所の公表した順位には、
それなりの意味がある。
日本が16位というのを聞いて、「そうかなあ?」と思ってみたり、
「そんなものだろうな」と思ってみたりする。

 記事には、「フィンランドは昨年の3位から1位に浮上し、2位以下はスイス、スウェーデン、デンマーク、ノルウェーとなり、北欧3カ国がそろって上位を占めた」とある。

 この記事に異論はない。
その一方で、「中国が75位」というのも、よ~く、わかる。
ここ10年以上、中国本土からやってきた中国人とは、どうも相性が合わない。
会えば、マネーの話ばかり。
その上、自信を持ち始めたのか、威張っている。
日本人を毛嫌いしていて、それを露骨に表現する。

 そういう点では、日本人は、おとなになりつつある。
(豊かさ)というのが、どういうものか、知り始めている。
30~40年前の日本人は、現在の中国人に劣らぬほど、心が貧しかった。
今にして思うと、それがよ~く、わかる。

 それにしても、韓国人は、何かにつけ、順位を気にする。
つまりそれだけ、心が貧しいということ。
「韓国は26位」というが、実際には、もう少し低いのでは?

たとえば市内には、最近韓国からやってきた人が開いた飲食店が、いくつかある。
韓国料理は嫌いではないが、どうも、入りづらい。
そういう店は、どこか雰囲気がちがう。
店の中の座敷に、その飲食店の店主の子どもが、寝そべって本を読んでいたりする。
そういうのに、違和感を覚える。
その(違和感)こそが、(豊かさ)のちがいということになる。


Hiroshi Hayashi++++++++Oct. 09+++++++++はやし浩司

●2つの別れ  ●子供を伸ばす

2009-10-27 06:10:42 | 日記
●小さな別れ、2つ

+++++++++++++++++++++++++++++++++

今日、小さな別れが、2つあった。
ひとつは、山鳩の雛(ひな)が、どこかへ行ってしまったこと。
もうひとつは、もっとも愛用していた、小型のパソコンを、
生徒の1人にあげてしまったこと。
しんみりとした、さみしさが、そのつど、スーッと心の中を駆け抜けた。

+++++++++++++++++++++++++++++++++

●山鳩

 私の庭に野生の山鳩が住みつくようになって、もう20年以上になる。
もっと長いかもしれない。
私は、ほとんど毎日、庭に餌をまいている。
最近では、私たちの姿を見ても、逃げない。
ときに私たちの数メートル先で、餌を食べることもある。

 その山鳩。
ときどき「ドバト」と書いたが、これはまちがいだそうだ。
ドバトというのは、街の中で飛び交う、あの鳩をいう。
私の家に来るのは、山鳩。
別名、キジ鳩とも言うらしい。
たいへん警戒心の強い鳩で、人間には慣れないと言われている。

 で、その山鳩が、毎年、私の庭にある木の上で、巣作りをし、雛を育てる。
が、この5、6年、リスが出没するようになった。
そのせいか、餌は食べにくるが、巣作りは別のところでするようになった。
今年も、そうだった。
雛が庭にやってくるまで、どこでどのようにして雛を育てたか、私たちは知らない。
が、ちょうど1週間ほど前、親鳥たちが雛を2羽連れて、私の家の庭にやってきた。
私たちは、大歓迎した。

 いつもより餌をたくさんまいた。
犬のハナには、鳩を襲わないよう、しっかりと言いつけた。
ハナには、それがわかったらしい。
山鳩たちが庭へ来ると、自分は、犬小屋の中に身を潜めた。

 ところで、ふつう山鳩は、2個の卵をかえす。
ほかの山鳩のことは知らないが、私の家ではそうである。
その中で巣立つのは、1羽だけ。
いつもそうだ。
あとの1羽は、もう1羽に巣から追い出される。
追い出された雛は、地面に落ちて、やがて死ぬ。

 もっともその段階で、追い出された雛を私たちが救いあげ、育ててやることがある。
毎年、1羽くらいは、そうしている。
が、今年は、珍しく、2羽の雛を連れてきた。
見ると、栗の木の枝に止まっていた。
尾羽がまだ伸びきっていなかった。
枝から枝へと、移動するのがやっとという雰囲気だった。

 近くに兄貴格の雛がいたが、そちらはほぼ自由に、枝から枝へと、飛ぶことが
できた。
が、もう1羽は、枝の上でじっとしていた。
その雛に、数日前、私の手を近づけてみた。
いつもだと、それくらいの大きさでも、山鳩は逃げる。
が、その雛は逃げなかった。
私の指先に乗った。
うれしかった。
かわいかった。

 それからというもの、毎朝起きると、いちばんに庭へ出て、その雛をさがした。
そのつどキーウィの木とか、栗の木に止まっていたが、だいたいそのあたりにいた。
数日も同じことを繰り返していると、雛は、私をこわがらなくなった。
喜んで指に止まるということはなかったが、指の上でも安心して、目を閉じたり、
羽をつくろったりした。

 夜も仕事から帰ってくると、私は庭で、その雛をさがした。
それまでにワイフが雛の居場所を定めていてくれる。
そこを捜せばよかった。

 が、今朝、10月26日の朝。
まだ薄暗いうちに起きて、庭に出てみた。
が、雛の姿は見えなかった。
昨夜もあちこちを捜してみたが、見えなかった。
つんとしたさみしさが、心の中をかけぬけた。
で、私はそのまま書斎へ。
いつもの日課をこなした。

 それから数時間後。
朝食のとき。
ワイフに呼ばれて、台所へ行くと、ワイフが私の顔を見るやいなや、こう言った。
「いなくなってしまったわ」と。

 もう一度、いそうな場所を捜してみたが、やはりいなかった。
「どこかへ行ってしまったみたい」「そうだな」と。

 おかしなことだ。
私の息子たちが巣立ったときも、同じようなさみしさを覚えたが、まだその先には、
希望があった。
「いつか帰ってくるだろう」という希望である。
しかし山鳩の雛は、そうでない。

 言い忘れたが、山鳩には、山鳩の縄張りのようなものがある。
たとえ自分が産み育てた雛でも、やがて自分の縄張りから追い出してしまう。
そんなわけで、一度巣立った雛は、まれに戻ってくることはあっても、そのまま
どこかへ行ってしまう。
二度と、私の庭に戻ってくることはない。
山鳩の習性というか、これは自然界のきびしい掟(おきて)でもある。

 で、今日は一日中、小雨が降っていた。
私とワイフは、何度も、あの雛のことを心配した。
が、である。
午後になって、ちょうど仕事に出通うとするとき、庭に3羽の鳩がいるのが
わかった。
親鳥たちと、兄貴格のもう1羽の山鳩である。
それを見て、「いないか?」と声をかけると、ワイフが、「いないみたい」と。

 それがその雛との別れだった。
親鳥たちは、兄貴格の1羽の雛にさえ、もう餌を与えようともしなかった。
自分たちの分だけを食べ終えると、そのまままたどこかへ飛んでいってしまった。
「うちへ来れば、ぼくが餌を食べさせてやるのに……」と、私はつぶやいた。
それが最後だった。

 私は職場へと向かった。
しんみりとした、さみしさが、スーッと心の中を駆け抜けた。

●古いパソコン

 もうひとつの別れは、使い古した、愛用のパソコンを、生徒にあげたこと。
使い古したといっても、買ったときは、20数万円もしたパソコンである。
TOSHIBAのSS。
当時としては珍しい、モニターが10インチの超小型パソコンである。

 そのときはうれしくて、毎日それをピカピカに磨いて、枕元に置いて寝た。
そのパソコンで、3冊ほど、本を書いた。
私にとっては、思いで深いパソコンである。

 ほかにも当時使っていたパソコンが、4~5台残っていた。
が、そちらのほうは、あまり迷わず処分できた。
しかしそのパソコンだけは、処分できなかった。
外観はボロボロ。
が、キーボードの感触は忘れない。
今でも指先に、しっかりとそれが残っている。

 で、今は、もっぱら……というより、2008年になってから発売された、
ミニ・パソコンを使っている。
価格はSSの6分の1程度だが、性能は、最近のミニ・パソコンのほうがダントツによい。
が、それでも、愛着というのは消しがたい。

 そのミニ・パソコンを使っていたら、NY君(小4)が、「いいなあ、先生は
パソコンをたくさん、もっていて……」と。
「全部でいくつくらい持っている?」と聞いたので、「7台くらいかな」と、私が
答えたときのことだった。

 私はその言葉に、ググーッときた。
つい数週間前には、今年の4月に買ったミニ・パソコンを、中3のOKさんに
あげたばかり。
内心では、あげようか・どうしようかと、大きく迷った。
しかし顔にはそれを出さないで、一通り、TOSHIBAのSSから、個人情報を
消した。
そのあと、NY君にこう言った。
「このパソコン、あげようか?」と。

 とたんNY君は、目を輝かせた。
「いいのオ!」と。

私「ああ、でも、これではインターネットはできないよ。
ワープロとか、ゲームはできるけど……」
N「うん……」と。

 こうして私は今日、TOSHIBAのSSを手放した。
しんみりとした、さみしさが、スーッと心の中を駆け抜けた。
「これでいい」と、同時に、何度も、言い聞かせた。
長くつきあった友に、別れを告げたような気分だった。

 ……こうして今日、私は、2つの小さな別れを経験した。
小さな別れかもしれないが、心の奥までジンと響いた。
あとどれだけの人生か、私にはわからない。
が、一生、この2つの別れは忘れないだろう。

長調の二重奏。
ゆっくりとしたテンポの、やさしい曲。
この文章を書いている今でも、その音色が、心の中で響いている。


Hiroshi Hayashi++++++++OCT.09+++++++++はやし浩司

【子どもを伸ばすために】

++++++++++++++++++

子どもを伸ばすには、どうしたらよいか。
それについて書いてみたい。

(まとまりのない文章で、すみません。)

++++++++++++++++++

●八つ当たり

脳みそというのは、器用なようであって、器用でない。
基本的には、不器用。
「自分ではこうしたい」と思っていても、脳のほうが、勝手に反応してしまうことがある。
その一つの例が、八つ当たり。

何かのことでいやなことがあったとする。
ムシャクシャする。
するとそのはけ口を、ほかのものや、人に向ける。

向けられた人こそ、えらい迷惑。
そういう心理状態を、心理学では、「置き換え」という言葉を使って説明する。

しかしそれも道理。
一度、ある種のホルモン、たとえばサイトカインなどが分泌されると、
それは脳内全体に作用する。
部分的に、ここだけに作用して……というわけには、いかない。

だから一度、サイトカインが分泌されると、いや~な気分は、脳全体に影響を与える。
それが八つ当たりの原因ということになる。

が、その八つ当たりをコントロールするのが、理性。
つまり前頭連合野の働きということになる。
が、この前頭連合野の働きは、あまりアテにならない。
個人差も大きい。

つまり本能的な脳の働きの前では、理性の力といっても、風の中で揺れる
ローソクの光のようなもの。
とくに私のばあいは、そうである。
何かにつけて、すぐ八つ当たりしてしまう。

では、どうすればよいのか。

●アクセルとブレーキ

 少し話が脱線するが、許してほしい。

 心理的反応の大きさは、脳に刻み込まれたトラウマ(心的外傷)の大きさによる。
トラウマが大きければ大きいほど、心理的反応は、大きくなる。

 私のばあいも、ふつうの人にとっては何でもないことでも、あること(人)になると、反応が過剰になることがある。
たとえば「酒」。

 私は酒のにおいが、嫌い。
酒臭い人も、嫌い。
ふつうの人にとっては、何でもないにおいでも、私にとっては、そうでない。
理由は、わかっている。
私の父は、酒癖が悪く、酒を飲むたびに、家の中で暴れたり、大声を出して叫んだ。
それがトラウマになっている。
若いときほどではないが、いまだに、その残像が残っている。

 そういう自分を観察してみて、気がついたことがある。
「置き換え」も、そのときの気分によって、左右される、と。

 たとえば親しい友人が、酒を飲んだとする。
そういうときは、ほとんど気にならない。
ワイフの酒も気にならない。
しかし電車に乗り込んできたような人が、酒臭かったりすると、ムッとする。
あるいは日ごろ、不愉快に思っている人が、酒臭かったりする。
そういうときも、ムッとする。

 条件反射論で考えるなら、こういうことはないはず。
どの人に対しても、反応は平等に起きるはず。
つまり条件反射も、別の何かによって、影響を受けることになる。
なぜだろう?

 そこで自分を観察してみる。
同じ条件反射なのに、強弱はどうして起こるのか、と。

 このことは、少し汚い話で恐縮だが、「便」で考えてみるとわかる。
あのソクラテスは、「自分の糞(おならではない)は、いいにおい」と言った。
しかし便というのは、みな、同じようなもの。
同じように、においも、人によってそれほど、違わない。
が、どうしてか、自分のおなら(便ではない)は、よいにおいがする。
他人のは、そうでない。

 そういうとき、頭の中でこんな反応が起きるのが、わかる。
一度は、臭いと思うが、それを発展的に(?)、「臭い」と思うときもあれば、
「臭くない」と、否定的に(?)、思うときがある。

 他人のものであれば、発展的に、「臭い」と思う。
自分のものであれば、(ワイフのも、そうだが)、「臭くない」と思う。
つまりアクセルを踏むか、ブレーキを踏むかのちがいが、起きる。
その作用が、そのあとの心理作用に、影響を与える(?)。
脳のどこかに、そういうメカニズムがあるらしい。

●潜在意識

 児童心理学の世界には、「好子」「嫌子」という言葉がある。
同じことなのに、それを前向きにする子どもがいる。
一方、それをいやがり、逃げ腰になる子どもも、いる。
こうした現象を、「好子」「嫌子」という言葉を使って説明する。

 これもアクセルとブレーキに似ている。
可能性として考えられるのは、表の意識が、裏の意識、つまり潜在意識に
操られているということ。
そのことによいイメージをもっていると、そのイメージが、アクセルとなって働く。
悪いイメージをもっていると、ブレーキとなって働く。

 たまたま今日も、年中児の男の子に、簡単な文章を読ませようとした。
そのときのこと。
その子どもは、その文章から目をそらし、悲しそうな目つきで、私の顔をじっと見つめた。
明らかに拒否反応である。
文字に対して、どこかで悪いイメージをもってしまったらしい。
それがブレーキとなって働いた。

 そこで何とかその子どもに、その文章を読ませた。
少しずつ私が読み、それを復唱させた。
文字などはスラスラと書くので、その程度の文章が読めないということはない。
で、読んだあと、みなの前でほめ、そしてみなに、手を叩かせた。
とたん、表情がぱっと輝いた。

 で、もう一度、レッスンの終わるころ、その男の子に同じ文章を読ませた。
今度は、大きな声で読んだ。
今度は、アクセルが働いた。

●イメージ・トレーニング

 こうして考えてみると、条件反射をコントロールするのは、実は理性(=前頭
連合野)ではなく、潜在意識ということになる。
あるいは潜在意識のほうが、パワー的には、前頭連合野より強力ということになる。

 こうして生まれた指導法が、イメージ・トレーニング法ということになる。
これは航空大学校に通っていたころの三男から学んだ方法である。
パイロットの卵というのは、訓練の過程で、いつもイメージ・トレーニング法を
使うという。

簡単な例では、たとえば頭の中に飛行機を思い浮かべ、その飛行機が横風を
受けて、流されていく様子など。
そういうイメージを描きながら、自分はどう飛ぶべきかを、頭の中でトレーニング
する。

 私も幼児教室で、このイメージ・トレーニン法を多用している。
たとえば、私が何を言っても、「やりたい!」と子どもたちに言わせる。
大声で言わせるのが、コツ。

「お手伝いをしたいか」「やりたい!」
「ひらがなの勉強をしたいか」「やりたい!」
「お母さんを助けたいか」「やりたい!」と。

(「YES!」「NO!」と言わせるときもある。
「いやだア!」と大声で連呼させるときもある。)

反対に、「いやだ!」と言わせるときは、こうする。

「ゴキブリの天ぷらを食べたいか」「いやだア!」
「ミミズのラーメンを食べたいか」「いやだア!」
「ねずみのウンチのから揚げを食べたいか」「いやだア!」と。

こうしてはずみをつけたあと、少しずつ、内容を現実に近づけていく。

「タバコを吸ってみるか」「いやだア!」
「ちょっとおじさんと、遊びに行かないか」「いやだア!」
「いいところへ連れていってやるから、車に乗ってよ」「いやだア!」と。

(実際の指導風景は、YOUTUBEのところどころに、収録してある。
興味のある人は、そちらを見てほしい※。)

●トラウマつぶし

 こうして子どもたちの脳の中に、前向きな潜在意識を作っていく。
同時に、それを自分自身に応用してみる。

 何かのトラウマがあったとしても、(もちろんそれが何であるかを、先に
知らなければならないが……)、そのトラウマをつぶす。
これを私は勝手に、「トラウマつぶし」と呼んでいる。

 たとえば私は、幼稚園に勤め始めたころ、できの悪い子どもが苦手だった。
そういう子どもに接すると、そばにいるだけでイライラしたこともある。
しかしそれでは仕事にならない。
数か月や半年は、ごまかすことはできても、そこまで。
そのうち子どものほうが、「林先生は嫌い」とか、「幼稚園へ行きたくない」とか
言い出す。
そこで私は、(実のところ、5~7年もたってから、それに気づいたのだが)、
初対面のとき、「この子はいい子だ」と、自分をだますようにした。
「この子はすばらしい」「この子は伸びる」と。

 それ以後、見違えるほど、子どもたちの表情が明るくなったのを覚えている。
教えるのも楽になった。
で、今でも、そうだ。
……というより、今は、自然な形でそれができる。
だから私が教えている子どもは、例外なく、どの子どもも、表情が明るい。
(表情が明るい子どもにするのが目的だから、当然のことだが……。)
その様子も、YOUTUBEに収録してあるので、ぜひ、見てほしい。

 反対に、その子どもの中に、何らかのトラウマを見つけたら、この方法で
つぶす。

先に、文字に対して拒否反応を示した子どもについて書いた。
レッスンが終わったとき、母親には、こう言って指導した。
「あとは、家で、おおげさにほめてあげてください。
じょうずに読めたね。
お母さんが、うれしかったと言うだけで、効果があります。
お父さんの前でそれを言うと、もっと効果的です」と。

 子どもを伸ばす、本当の力は、子ども自身の内部にある。
その内部を、教育する。
「それが幼児教育」とまでは断言できないが、ここに書いたことはまちがっていない。
あとは、子ども自身が本来的にもつ力で、伸びていく。

 「子どもを伸ばすには」というテーマで書いたつもりだが、何ともまとまりのない
原稿になってしまった。
切り口をまちがえた。
八つ当たりから、話を始めたのが、まずかった。
ボツにしようかと考えたが、このまま発表する。
ごめんなさい!

(注※:YOUTUBEへは、私のHPのトップページより、「BW公開教室」へ。)


Hiroshi Hayashi++++++++OCT.09+++++++++はやし浩司

●寿命論

2009-10-26 08:31:10 | 日記
【寿命論】

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●労働寿命

「平均寿命」という言葉がある。
「健康寿命」という言葉もある。
健康寿命というのは、健康でいられる年齢をいう。
ふつう(平均寿命)-10年が、健康寿命
と言われている。
だれしも、ポックリと死ぬわけではない。
晩年の10年は、病気との闘いということになる。

それに対して、「労働寿命」という言葉を
私は考えた。
仕事ができる年齢をいう。

これには個人差があるが、おおよそ(健康寿命)-
5年が、ひとつの目安になる。
これで計算すると、現在、男性の平均寿命は、
79歳、女性は86歳(厚生労働省)
だから……、

(健康寿命)…男性、69歳、女性、76歳
(労働寿命)…男性、64歳、女性、71歳
ということになる。

●記憶寿命

が、最近、私は、こんなことを考えるようになった。

人は死ねば、うまくいけば、墓石になれる。
最近は、墓石すらも作らない人が、ふえている。
が、問題は、そのあと。

先日も、車で郊外を走っていたら、小さな墓地を
見つけた。
田舎へ行けば行くほど、立派な墓地が目につく。
が、そこはちがった。
墓石も風化し、文字も読めないほどになっていた。
それを見たときのこと、ふと、こう思った。
「人は、いつまでみなの記憶に残ることができるか」と。

私たちは、死ねば、やがて忘れ去られる。
私の祖父母にしても、私たちの代の者が死ねば、
もうその名前を語られることすら、ないだろう。
父や母にしても、そうだ。

仏事の世界には、33回忌というのがある。
50回忌、100回忌というのも、ある。
しかしそこまでしてもらえる人は、例外中の例外。
ふつう、3回忌を最後に、死んだ人は、急速に
人々の記憶から消える。

そこで私が考えたのが、「記憶寿命」。

●消えていく私たち

たとえば私はこうして、文章にして日々の(思い)
を書いている。
書籍(本)にしても、寿命は、10年前後。
インターネットだったら、もっと短い(?)。
教育の世界で、昔、一世を風靡した人に、
「吉岡たすく」という人がいた。
10年ほど前に、亡くなった。
が、すでに今の若い母親たちは、その名前すら知らない。
ネットで検索してみたが、現在では、1万1000件。

今でも生きていたら、検索件数は、100万件を軽く
超えていただろう。
それくらい知名度の高い人だった。

が、やがて消えていく。
もちろん、私も、あなたも消えていく。
その寿命が、「記憶寿命」ということになる。

●寿命を延ばす

私たちは死んだあと、息子たちや孫たちも含めて、
何年ほど、彼らの記憶に残るだろうか。
残れることができるだろうか。
私自身の経験から言えば、50年を超えることは
まずない。
残ったとしても、ほんの一部の子孫にすぎない。
あとは痕跡もなく、消えていく。
ちょうど、私が見た、あの墓石のように。

で、自分がしていることを振り返る。
何か作品のようなものがあれば、記憶寿命は延びる
かもしれない。
作家や画家などは、そうして記憶寿命を延ばす
ことができる。
しかしそれにしても、あくまでも(結果)。
結果として残るだけ。

私にしても、「今を生きるために」、ものを書いている。
死んだ後のことは、ほとんど考えていない。
人々に支持されれば、記憶寿命は延びる。
支持されなければ、そのまま消える。

私のHPにしても、「金の切れ目が縁の切れ目」。
プロバイダーへの更新料を払わなければ、そのまま消える。
無料のHPサービス会社にしても、「~~か月、更新が
なければ、削除します」というのが、多い。
長くて、1年。
10年を超えることは、まず、ない。
今、こうして書いている文章にしても、私が死ねば、
1年足らずで消える。
(残さなければならないような文章でもないが……。)

だれかが引用してくれれば、その人のHPや、BLOG
で生き残ることはできるかもしれない。
しかしその人も、私と同じ運命をたどる。

こうして、私は、今、こう考える。

今のように仕事ができるのも、あと5年?
生きていられるのも、あと15年?
そのあと、30年もすれば、跡形もなく、消える?
それで私の「命」はおしまい。

●「形」から「心」

……とまあ、ネガティブに考えれば、お先真っ暗
ということになる。
しかしこれは私のやり方ではない。
そこでこう言って自分に言い聞かせる。

私の肉体、文章も含めて、「形」は消える。
それはもう事実。
が、私の書いた文章を読んだ人の中には、何かが残る。
その残ったものが、別の形になる。
別の形になったものが、こうして順送りに、未来に
つながっていく。
もちろんそのときは、「はやし浩司」の名前は、
どこにもない。
しかし、それでもよいのではないか、と。
大切なのは、(形)ではなく、(心)。

あの墓石の人にしても、そうだ。
先にも書いたように、今では、その名前すら読めない。
しかしその子孫の人は、その近くにも住んでいるはず。
そして何らかの形で、その人の(心)を残しているはず。
それでいい、と。

しかしそれにしても、この一抹のさみしさは、
いったい、どこから来るのか?
「生きる」ということは、そういうことであって
よいのか?
「死ぬ」ということは、そういうことであって
よいのか?

何かもっと別の考え方があるような気がする。
しかし今の私には、まだそれがわからない。

●補記

ついでに書く。

若いときには、その時計の音は聞こえない。
しかし60歳も過ぎると、その音が聞こえてくる。
「寿命時計」という時計の音である。
カチコチカチコチ……、と。

その心境は、時計を飲み込んだワニに追いかけられる、
フック船長(ピーターパン)のそれに似ている。
時計の音におびえて、逃げ回る……。
一説によると、作者のジェームズ・バリーは、
それによって、時間に追われて仕事をする現代人を
象徴したという。

しかしジェームズ・バリーがそこまで考えて
いたかどうかは別として、こうも言える。
つまりあの時計は、刻々と時間が短くなっていく
老人の心境を象徴している、と。

今の、私がそうだ。
もっともそういう心理状態を、「強迫観念」という。
心理学の世界では、そういう言葉を使って、説明する。
何かにおいまくられているような心理状態をいう。

その強迫観念ほどおおげさではないにしても、
しかしそれに近い。
「生きるということは、時間との勝負」。
そう考えることも多い。

たとえば私は、満65歳を過ぎたら、再度、
宗教論に挑戦するつもりでいる。
宗教論といっても、カルト教団との戦いをいう。
「どうして65歳?」と思う人もいるかも
しれない。
しかしそれまでは、今しばらく、静かにしていたい。
この世界でカルト教団を相手に、宗教論を書く
ということは、命がけ。
周囲が騒然としてくる。
それを覚悟で書くことができるのは、65歳と
いうことになる。

何とかそれまで脳みそが、健康であればよい。
肉体の方にも、がんばってほしい。
だから「時間との勝負」ということになる。

私が「寿命」という言葉にこだわるのは、
ここにある。

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