最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●加齢と時間

2009-10-16 17:50:06 | 日記
●文を書く

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悲しいとき、うれしいとき、さみしいとき、
つらいとき、私は文を書く。

しかし怒ったときは、書かない。
とくに個人的な怒りを覚えたときには、書かない。
そういうときに書いた文は、あと味が悪い。
残しておきたくない。
だから書かない。

それに怒りをぶつけた文というのは、どうしても
愚痴ぽくなる。
愚痴を聞きたい人はいない。
それに愚痴は、その人を小さくする。
つまらなくする。

それがわかっているから、よけいに書かない。

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●喧嘩

 怒っているときは、私は一気に喧嘩に向かう。
それが私のやり方。
子どものときからのやり方。
ネチネチしたやり方は、しない。
一気にケリをつける。

 しかしこのやり方は、平和的ではない。
ときに法に触れる。
だからぐいとがまんする。
が、そのがまんが、つらい。
私には、つらい。

 よく裁判映画などで、原告と被告が、冷静な様子で、席に着いているのを見る。
ああいうのを見るたびに、「たいしたもんだな」と思う。
私なら、その場で相手に食ってかかるだろう。
「コノヤロー!」と。
もちろんそんなことをすれば、即、退席!
私にとって、(怒り)というのは、そういうもの。
グチグチ言うのは、私のやり方ではない。

●怒り

 (怒り)というのは、もともと自分自身に向けられたもの。
不平、不満、心配、不安が、臨界点を超えたとき、それが(怒り)に変わる。
が、自分を怒っても仕方ない。
そこでその(怒り)を、外部の対象物に向ける。
そこで「お前が悪い」「あいつが悪い」となる。

 そういう意味では、(怒り)の基盤は、弱い。
自分さえその気になれば、そのまま消すことだってできる。
(怒り)を忘れることだってできる。

●静かな怒り

 一方、本当に怒っている人というのは、静か。
驚くほど、静か。
それに穏やか。

 一方、ワーワーと大声をあげて怒る人は、そんなにこわくない。
が、静かで、動揺しないで怒っている人は、こわい。
人も本気で怒ると、そういう様子を見せる。


Hiroshi Hayashi++++++++Oct. 09+++++++++はやし浩司

●意識の連続性(補足)

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私たちがもっている意識というのは、パルス信号のような
ものと考えてよい。
ピッピッピッ……と。
コンピュータのように、何ヘルツというように
測定しようと思えば、それも可能かもしれない。
脳波そのものも、パルス信号として認識される。

つまり(意識)というのは、時間的経緯の中で
拡大してみると、瞬間的に現れては消える、現れては消える……。
それを小刻みに繰り返している。
そのサイクルが短いため、私たちは連続した意識として
それをとらえる。
が、連続しているわけではない。
ここにも書いたように、連続しているように、見えるだけ。

映画のフィルムのコマを思い浮かべれば、わかりやすい。
1コマずつ画面に画像が表示されるが、網膜に残った
残像が消える前に、次の画像が表示される。
そのため、私たちはスクリーンに映る映像を、連続した画像として、
とらえる。
人間の意識も、それに似ている。

このことをさらに裏づける事実が、明らかになりつつある。
最近の脳科学によれば、脳の中の視床下部あたりから、
強力なシグナルが発せられていることがわかってきた。
このシグナルが、いわゆる(生命の源)と考えてよい。
このシグナルに応じて、たとえばもろもろの欲望(=ドーパミンの分泌)
などが、引き起こされる。

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●迷う

 たとえば今、「今夜は夕食に何を食べようか」と考える。
「天丼にしようか、カレーライスにしようか」と。

 こうして迷っている間にも、そのつど無数のシグナルが、四方八方に
発せられる。
たとえばアルファ波(脳の中の電気的信号)のばあい、秒間8~13ヘルツと
言われている。
ベータ波は、14~30ヘルツ。
ガンマ波は、30ヘルツ以上。

こうした信号は、そのつど脳のあちこちで取捨選択され、最終的に、
たとえば「天丼」が優勢になったところで、こう判断する。

「今夜は、天丼にしよう」と。

●パルス説

 こんな例がある。
たとえば交通事故にあった人などの話を聞くと、ほとんどの人は、こう
言う。
「その瞬間のことは覚えていない」と。

 これについては2つの仮説が立てられる。

 ひとつは記憶として残る前に、脳自体が記憶する(=記銘する)のを
停止してしまう。
(衝撃が脳に伝わるよりも早く、衝撃を受けると同時に、脳が記憶を
停止してしまう。だから記憶に残らないという説が、一般的である。)

 もうひとつは、意識そのものが、その瞬間、停止してしまう。

 もし後者であるとするなら、パルス説が、がぜん有力になる。
こうした瞬時の反応は、パルス説以外では、説明できない。
つまり脳が衝撃を受けた瞬間、意識はそこで途絶える。

●意識と死
 
 意識がパルスであるとするなら、私たちはつねに、(意識)と(死)
を繰り返していることになる。
デジタル信号にたとえるなら、(+)と(-)を繰り返していることになる。
(-)のとき、私たちの意識はゼロになる。
その状態を、私たちは「死」と呼ぶ。

 もう少し具体的に説明しよう。

 脳の神経細胞(シナプス)から信号が発せられると、それは神経突起を経て、
ニューロンに伝えられる。
そのニューロンを介して、信号はつぎの神経突起を経て、神経細胞に伝えられる。
こうした伝達方式を、「ドミノ倒し」という言葉を使って説明する学者もいる。
脳の神経細胞は、つねに新しいシグナルを発し、それをつぎの神経細胞に伝える。
が、その瞬間、つまりシグナルを発したあと、脳は、死んだ状態になる。

 もちろん神経細胞のメカニズムは、そんな単純なものではない。
神経細胞の数にしても、1000億個もあるとされる。
それぞれがそれぞれの無数のシグナルを発し、私たちが「意識」と呼ぶものを
作りあげている。

 意識がパルスであり、かつ瞬時、瞬時に、私たちが(生)と(死)を
繰り返しているとすると、生と死についての考え方が、一変する。
私たちは生と死を、絶え間なく、繰り返していることになる。
ただその間隔があまりにも、短いため、……というより、(死)の状態の
ときには、意識そのものが消滅するので、(死)そのものを認識できない。

●意識が消えたとき

 たとえばこんな例で考えてみよう。

 ある人のパルスの間隔が、5秒間隔であったとする。
5秒間、意識が戻り、つぎの5秒間、意識が消えたとする。
これを交互に繰り返した場合、その人の意識は、意識の上では、つながって
いることになる。
意識が消えたとき、その人は意識が消えたことそのものを意識できない。
だからそれを外部から観察していた人が、「あなたは5秒間、死んでいましたよ」
と告げても、その人は、それを否定するだろう。

 もっと極端な例として、こんなこともありえる。

 あなたは宇宙船に乗って火星に向かっている。
あなたは宇宙船に乗り込んだとたん、冷凍された。
それから2年間、あなたは宇宙船の中で、ずっと眠りつづける。
が、火星に到着する寸前、解凍された。
そのときあなたは、きっとこう答えるにちがいない。
「私は、あっという間に、火星に着きました」と。

●意識の覚醒

 となると、……あくまでも意識パルス説によるものだが、
先にも書いたように、私たちは日常的に、生と死を経験していることになる。
そして「死」とは、パルスが(-)になったとき、そのままの、停止した
状態ということになる。

 このことは、反対に「生」を考えるとき、たいへん役に立つ。
「意識」、つまり「意識の覚醒」をもって、「生」とするなら、
生きるということは、意識の覚醒を保つことということになる。
(ただし意識の覚醒がないから、死んでいるということにはならない。
誤解のないように!)

●仮説

 そこで私の仮説。

 加齢とともに、このパルスの周期が、長くなるのではないか。
若いころは、1秒間あたりのパルス数が多い。
多いから、同じ1秒でも、長く感ずる。

 しかし加齢とともに、パルスの周期が長くなる。
パルス数が少なくなる。
あるいは意識の覚せい状態が短くなる。
だから同じ1秒でも、短く感ずる。

 だからみな、こう言う。
「40代は、あっという間に過ぎた。しかし50代は、もっとあっという間に過ぎた」と。

 これはあくまでも私の仮説である。
つまり加齢とともに、時間の長さをますます短く感ずるようになったり、時間が早く
過ぎるように感ずるようになるのは、パルスの周期数そのものが、減少するためでは
ないか。

 いろいろ調べてみたが、視床下部から発せられるパルス信号について、年令別の
周波数を調べた研究は、見当たらなかった。
が、そのうち、私の仮説が立証されるかもしれない。
「加齢とともに、視床下部パルス数は、変化する」と。

……ということを期待しつつ、意識の連続性の話は、ここまで。

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