最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

1/2 マガジン(2-16)依存性

2011-02-16 10:00:17 | 日記
●4月期~始動!

+++++++++++++++++

今朝、講演会の依頼が入った。
大きな総会での講演会である。
うれしかった。
目標ができた。
が、ただうれしいだけではない。
それが励みになる。
9月の講演だが、その日にかけて準備する。
体調を整える。
原稿を考える。
怠けた頭と体では、講演はできない。

それにもうひとつ。
4月からの仕事が順調に動き出した。
教室への問い合わせや、入会申し込みが活発になってきた。
周辺があわただしくなてきた。

がんばろう。
がんばるしかない。

春(3、4月)には、オーストラリアの友人が、2人来る。
それぞれと、近くの温泉に泊まる予定。
今朝、予約をすませた。

負けてなるものか!、・・・ということで、今日も、
運動は2単位(1単位=40分)。
よい汗をかいた。

++++++++++++++++

●group1

 がん検診の結果は、「group1」だった。

 ガン検診のばあい、
group1……良性
group2……良性
group3……良性・悪性
group4、5……悪性ということらしい※。

 ホーッ!

 その「がん」だが、がんも生活習慣病ということが、ますます明確になってきた。
言い換えると、生活習慣に気をつければ、人は、がんにはならない。
生活習慣が乱れたとき、人は、がんになる。
その最大の敵。
それがストレス。

ストレスが、その人のもつ免疫機能を低下させる。
結果として、がん細胞を増殖させてしまう。
がんになる。

●ストレス

 ストレスにもいろいろある。
心的ストレスと肉体的ストレス。
それに薬物ストレスというのもあるそうだ。
同じ薬を長くのみつづけていると、肉体は、それを「ストレス」と判断する。

 ではどうすればよいか。
そのヒントが、「東洋医学」ということになる。
「東洋医学的な生き方」が、その人の体をがんから守る。
黄帝内経・上古天真論篇には、こうある。

いわく、『風(自然)の理によく順応し、世俗の習慣にみずからの趣向を無理なく適応さ
せ、恨み怒りの気持ちはさらにない。行動や服飾もすべて俗世間の人と異なることなく、
みずからの崇高性を表面にあらわすこともない。身体的には働きすぎず、過労に陥るこ
ともなく、精神的にも悩みはなく、平静楽観を旨とし、自足を事とする』(上古天真論篇)
と。

●言いたくない

 先に『group1』という結果を書いた。

(1)「悪性がん」という意味

 仮にそれが「悪性がん」という意味だったとする。
もしそうなら、私は自分のがんを、公表することになる。
しかし私のような人間が、それを公表しても意味はない。
(有名人の中には、自分の大病を公表する人もいるが・・・。)
公表したからといって、「死の恐怖」が和らぐわけではない。

(2)「シロ」という意味

 仮にそれが「シロ」という意味だったとする。
(group1は、シロという意味だが……。)
もしそうなら一応、検査した範囲では、私は健康ということになる。
しかしそんなことを公表すれば、現在、がんで苦しんでいる人に申し訳ない。
(公表してしまったが……。)
それに「私は健康だ」と言っても、一時的な健康にすぎない。
「この1~2年は、だいじょうぶだろう」という程度の健康にすぎない。

 私には、どちらでもよい。
どちらであっても、私は私。
いつものように、私は私として、書きたいように書く。
生きたいように、生きる。

ただこういうことは言える。
今は、がんも、簡単に治る時代になったということ。
胃がんにしても、内視鏡で見つけたら、その場で切り取ってしまう。
しかも内科医院でも、それができるようになった。
早期発見の重要さは、ここにある。

●死後の世界

 夕方になって、軽い頭痛。
昨夜は遅くまで義兄の家で、話し込んだ。
あるいは睡眠不足?
それが原因か。

 で、近く、『ヒア・アフター』という映画が公開される。
超能力者をテーマにした映画らしい。
楽しみ。

(個人的には超能力なるものを、まったく認めていない。
そんな私が、「楽しみ」というのも、矛盾していると、自分でも思うが・・・。)

クリント・イーストウッド監督の映画。
どんな映画か。
それを前もって想像するのは、実に楽しい。

 予告編によれば、死後の世界を描いた映画という。
映画の中の話だから、本気で論じても意味はない。
その映画に出てくる死後の世界は、あくまでもイーストウッド監督が描く死後の世界。
そこで私は、どう考えるか?

●私が考える死後の世界

 前にも書いたが、こういうこと。
もし本当に「あの世」があるとするならという仮定の上での話である。
もしあると仮定するなら、実は、「この世」こそが、実は「あの世」ではないか、と。
私たちは本当は、「あの世」の住人で、ときどき「この世」へやってきて、
極楽(天国)や地獄を経験する。

 そのほうが、つじつまが合う。
私たちが「この世」と呼んでいるこの世界には、極楽もあれば、地獄もある。
喜びもあれば、悲しみもある。
人は「この世」で、さまざまな経験をする。
そして死んで、「あの世」、つまり元の世界に戻っていく。

だから私たちが「あの世」と呼んでいる世界の住人たちは、こんな会話をしているに
ちがいない。

A「ねえ、あの世には、寿命というものがあるそうですな」
B「何ですか、その寿命というのは?」
A「要するに、死ぬことらしいです」
B「死ぬって、どういうことですか?」
A「それが私にも、よくわからないのです。消えてなくなるという意味ですかね」
B「ハハハ、そんなバカなことを・・・」
A「ね、今度、一度、あの世へ行ってみますか」

B「それもいいですな」
A「あの世には、極楽もあれば、天国もあるそうですよ」
B「何ですか、極楽というのは?」
A「まあ、ボケーッと、苦労のない世界のことですかねえ」
B「それもつまらないですね」
A「じゃあ、地獄にしようかな」
B「地獄ねえ。何ですか、それ?」
A「苦しみや悲しみが満ちた世界ですよ」
B「苦しみ? 悲しみ? ・・・何ですか、それ?」と。

 『ヒア・アフター』は、いったいどのような世界を見せてくれるだろうか。
興味津々。

(注※)(以下は、大腸がんの判定基準)(メディカル・ユニオンのHPより)

Group1正常粘膜。過形成粘膜。(非腫瘍性で異型のない粘膜組織。)
Group2炎症性あるいは再生性変化。(非腫瘍性で異型を示す病変。)
Group3腫瘍性で軽度から中等度異型を示す病変。(軽度~中等度異型の腺腫。)
Group4高度異型の腺腫。(腫瘍性で高度異型を示す病変。)
Group5癌と断定。(明らかに癌と診断しうる異型を示す病変。)


Hiroshi Hayashi++++++++Feb. 2011+++++++++はやし浩司
********************************
 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
| ⌒ ⌒ |   MM ⌒ ⌒ MM
q 0―0 MMMMM ∩ ∩ MM m
(″ ▽ M ⌒ ⌒ M″ v ゛)/ ̄)
凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /
\   /(″ ▽ ゛)\    厂 ̄偶
 ===○=======○====================
 子育て最前線の育児論byはやし浩司      2月   16日号
 ================================  
 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━¬¬¬¬¬――――――――――――――
★★★★★★★★★★HTML版★★★★★★★★★★★
マガジンを、カラー版でお楽しみください。(↓)をクリック!

http://bwhayashi2.fc2web.com/page022.html
★メルマガ(6万3000誌)の中で、2008年度、メルマガ・オブ・ザ・イヤーに
選ばれました!
★2009年、2010年、連続、カテゴリー部門・人気NO.1に選ばれました。

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●子離れ(親意識との決別)(親の依存性vs親の自立)

+++++++++++++++++++++

70歳を過ぎても、子離れできない親がいる。
一方、子どもがまだ中学生なのに、さっさと
子離れしてしまう親もいる。
そのちがいは、何か。
どちらがよいのか。
また子離れするには、どうしたらよいか。

+++++++++++++++++++++

●「なりすまし詐欺(オレオレ詐欺)」

 いまだになりすまし詐欺が跡を絶たないという。
電話一本で、いとも簡単に親たち(祖父母たち)が騙(だま)されてしまう。
この話を、オーストラリアの友人(60歳)に話したら、こう言った。
「オーストラリアでは考えられない」と。

 「もしそういう電話がかかってきたら、オーストラリア人の親なら、こう言うだろうね。
それは私の問題ではない。息子(娘)の問題。私は知らない」と。

 つまりなりすまし詐欺というのは、きわめて日本的な現象ということになる。
その根底で、日本人独特の甘えの構造(=依存性)と、深く絡(から)みあっている。

●「二度と帰ってくるな!」

 10年ほど前だが、こんなTV番組を見た。

 深夜、東京のKB町にレポーターとカメラマンが入った。
2人の中学生らしい女の子をつかまえた。
その女の子たちに、「おうちの人は心配してないの?」と。

 が、その女の子たちは、「心配してないヨ~」と。

 そこでレポーターは何とか女の子たちの自宅の電話番号を聞き出した。
自宅に電話した。
電話に母親らしき女性が出た。
が、その母親らしき女性の言い方に驚いた。
娘たちの外出を心配しているかと思いきや、その逆。
「私には関係ありません!」「放っておいてください!」と。

 そこで女の子(=娘)が電話に出ると、母親らしき女性は、電話口の向こうでこう
叫んだ。
「あんたなんか、二度と家に帰って来るんじゃないわよ。わかったア!」と。

●解放

 親はどこまで子どものめんどうをみるべきか。
その内容と基準、それに程度は、それぞれの家庭によって、みなちがう。
子育ての意識そのものが、ちがう。
夫婦(父親vs母親)によっても、ちがう。

 仮に70歳を過ぎても、ネチネチと子離れできない親を、(10)とする。
一方、子どもが小学生、もしくは中学生のころに、「私は関係ありません」と、
子どもを突き放す親を、(0)とする。
上記、テレビに出てきたような母親をいう。

 が、これは意識の問題。
(10)の親から見れば、(0)のような親がいること自体、信じられない。
(0)の親から見れば、(10)のような親がいること自体、信じられない。
その一方で、ほとんどの親は、自分のもっている意識を、標準と考える。
ほかの親たちも、みな、そうと考える。
しかしそう考えてはいけない。
人、それぞれ。
意識も、それぞれ。

●私たち夫婦のばあい

 私たち夫婦ですら、たがいに意識がちがう。
生まれ育った環境がちがうから、ちがって当然。

 私はネチネチとした、濃密な親子関係のある世界で、生まれ育った。
ワイフは、幼いころ母親を亡くし、父親の手だけで育てられた。
そのため私から見ると、「親子感覚」が希薄。
上記(0)~(10)に基準に当てはめるなら、私は、(7)もしくは(8)。
ワイフは、(3)もしくは(4)。

実際、私のワイフが、3人の息子たちに向かって、「勉強しなさい!」などという
言葉を使って、息子たちの世話を焼いているのを、見たことがない。
息子たちがまだ小学生のころから、学校の宿題にしても、「やりたければやりなさい」
「やりたくなければ、やらなくてもいい」という接し方をしていた。

 ほかにたとえばアメリカに住む孫に対しても、毎月のようにプレゼントを送ったのは
私。
ワイフはただの一度も、自分からは送っていない。

 が、おかしなもので、いつも嫌われるのは、私。
好かれるのは、ワイフ。
どうして……?、と書きたいが、俗世間では、こう言う。
『うるさい親は、嫌われる』と。

●子離れ

 子離れとは、何か?
つまるところ、いつ、どの時点で、「私とは関係ない」と、子どもを突き放すかで、
決まる。
言い替えると、子どもにもっている依存性を断ち切ることを、子離れという。
子離れと、親の自立は、紙で言えば、表と裏。

 私も、さんざん辛酸をなめさせられたあと、やっと、こう思えるようになった。
「勝手にしろ!」「知ったことか!」と。
決別したというのではない。
息子たちを見捨てたというわけでもない。
息子たちに抱いていた、期待感を払拭した。
とたん、心の中が、スーッと軽くなったのを覚えている。
つまりそのとき、私は親として自立した。
……というか、親意識と決別した。

●それまでの私

 それまでの私を総括すると、こうなる。
「いつか、めんどうをみてもらわなければならないときがあるかもしれない」
「息子や息子の嫁たちに、嫌われたくない」
「親として、優位な立場にいたい」と。

 いつもそう考えていた。
が、息子たちにその気がまったくないことを知った。
仮に私が心筋梗塞で倒れたと連絡しても、「ああ、そう?」で終わってしまうだろう。
(だからといって、それが悪いというのではない。
それが現代の若者たちの標準的な意識ということになる。
また私自身も、そういうふうに息子たちを育ててきた。)

そういった息子たちの意識を、はっきりと自覚したとき、息子たちに抱いていた
依存性が消えた。
同時に、そこに私の人生があることを知った。
「私は私の人生を生きる」と。
つまり私は、子育てから、解放された!

●依存性

 体にしみついた依存性と決別するのは、たいへん苦しい。
自己否定から、絶望感、さらには襲い来る孤独感と闘わねばならない。
意識を変えるというのは、並大抵の努力では、できない。

 が、この問題だけは、自分たちの問題。
子どものもっている意識を変えようとしても、無駄。
子どものもっている意識と闘っても、これまた無駄。
親の私たちは、それを認め、受け入れるしかない。

 少し前、「デジタル人間」について書いた。
ドライで合理的。
人間関係ですら、ON/OFFだけで片づけてしまう。
そういう人間をデジタル人間という。
「人情」というものが、通じない。
現代の若者たちが、そうであるなら、私たちはそれに合わせて生きていくしかない。
あるいは相手にしない。

 今の私なら、仮になりすまし詐欺の電話がかかってきても、即座にこう言うだろう。
「それは私の問題ではない。息子(娘)の問題。私は知らない」と。

 子離れについて、別の角度から考えてみた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 子離れ論 依存性 子離れ 親の自立 はやし浩司 親子感覚)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【家族の粘着力】


●パサパサ家族


 家族どうしの粘着力が、なくなった。
密着力もなくなった。
今の若い世代のもっている「家族観」と、私たちがもっているそれとは、明らかにちがう。
私たちがもっている家族観には、それがよいものかどうかという議論もあるが、もう少し
粘着力がある。
ネバネバというか、ベタベタというか……。


 が、今の若い世代の人たちには、それがない。
言うなれば、「パサパサ」。
だからパサパサ家族。
「サバサバ」という言葉もあるが、それとは、少しニュアンスがちがう。
たとえて言うなら、水分が明らかに足りないパンか、うどんのようなもの。
口に運ぶ前に、パサパサと粉になって下へ落ちてしまう。


●お金


 よく誤解されるが、「お金をかけたから、子どもは親に感謝しているはず」と考えるのは、
まったくの幻想。
お金がなければ、家族は危機的状況に陥る。
しかしお金で、家族の心をつなぐことはできない。
むしろお金が、家族の絆を粉々にすることが多い。


 「親の介護を2年もつづけば、兄弟はバラバラ」という。
それに遺産問題がからむと、メチャメチャ。
金額の問題ではない。
わずか数百万円のことで、兄弟が険悪な状態になることもある。
反対にたがいに数億円近い財産を手にしながら、それでも険悪な状態になることもある。
遺産問題がこじれ、以後、行き来が途絶えた兄弟となると、ゴマンとある。


●心の問題


 が、家族がパサパサになったのは、それだけが原因ではない。
ひとつには乳幼児期の母子関係がある。
現在、幼保一元化(こども園)が、国会でも問題になっている。
しかし論じられているのは、制度の問題のみ。
「心」の問題が、置き去りになっている。


 0歳児から保育所へ預けるのが、今では常識になっている。
共働きだけが理由ではない。
「母親の育児負担の軽減」が、大きな理由になっている。
それはそれでしかたのないことかもしれない。


 しかしそのため、本来その時期に形成されるべき親子の絆、つまり粘着力や
密着力が犠牲になる。
が、肝心の親たちがそれに気づいていない。
親たち自身も、あの高度成長期の中で、同じような環境の中で、生まれ育っている。
つまり親たち自身も、パサパサ。
親がパサパサだから、子どももまた、パサパサ。
パサパサのパサパサ家族。


 0歳から人工飼育された子どもの心が、どうなるか。
これは何もSF映画の世界だけの話ではない。
「心」というのは、学習によって作られる。


●家族の絆


 皮肉と言えば、これほど皮肉なことはない。
今の若い家族は、毎週のようにドライブをしたり、行楽を楽しんでいる。
私たちの世代には、想像もできかった豊かな生活である。
が、その分だけ、家族の絆が太くなったかといえば、それはどうか。
むしろ絆は細く、薄くなった。
絆をつくるヒモにしても、ここに書いたようにパサパサ。
いとも簡単に切れてしまう。


 「それでもいい」と言うのなら、それはそれ。
たとえば「国民意識」にしても、そうだ。
「地域意識」でもよい。
それもパサパサ。


 少し前だが、高校生たちと、こんな会話をした。
「もし北朝鮮が日本へ軍隊を送ってきたら、君たちはどうする」と聞いたときのこと。
みな、こう答えた。
「アメリカ軍が、追い払ってくれる」と。
中には「ぼくは逃げる」と言った高校生もいた。
あるいは「そのために自衛隊がいる」と言った高校生もいた。


 さらにある老人(82歳)はこう言った。
現在、長野県で、ひとり住まい。
「年金制度が悪い」と。


 つまり息子や娘たちは、「親には年金があるから、ぼくたちはめんどうをみなくていい
と考えている」と。


●団塊世代vs若い世代


 世の中が、あまりにも急激に変化しつつある。
ついていくだけでたいへん……というより、不可能。
意識を変えるのは、簡単なことではない。
10年単位(それでも短いほうだが……)の時間がかかる。


 だから若い世代の人たちの意識に合わせるということが、むずかしい。
つまり私たちがもっている「家族観」と、今の若い人たちがもっている「家族観」は、
あまりにも違いすぎる。
私は「こうあるべき」と考える。
しかし若い世代は、私たちの家族観を、容赦なく否定する。
理解しようとすら、しない。
戦後のあの苦しい時代の話をしても、すかさずこう言い返される。
「そんなのは自業自得。ぼくらには、関係ない」と。

 が、これだけは覚えておくとよい。
若い人たちも、やがて年を取る。
年を取って老人になる。
そのとき、さみしい思いをするのは、結局は、あなたがた自身であるということ。
それがわからなければ、乾いた砂を思い浮かべてみればよい。
あれこそ、まさに、パサパサ。
あなたの人間関係も、そうなる。


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 パサパサ家族 薄れる親子の絆 現在の家族観 ネバネバ家族 はや
し浩司 家族の粘着性 粘着力 密着度 密着性)

コメントを投稿