最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●子育てジャンプ(2)

2009-07-08 15:38:27 | 日記





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(359)

●親しみのもてる子ども

 こちらが親切にしてあげたり、やさしくしてあげると、その親切や、やさしさがそのまま、スーッと心の奥深くまで染み込んでいくのがわかる子どもがいる。そういう子どもを、一般に、「親しみのもてる子ども」という。

一方、そういう親切や、やさしさがどこかではね返されてしまうのを感ずる子どももいる。ものの考え方が、ひねくれていたりする。私「今日は、いい天気だね」、子「今日は、いい天気ではない。あそこに雲がある」、私「雲があっても、いい天気だよ」、子「雲があるから、いい天気ではない」と。

 親しみのもてる子どもとそうでない子どもの違いは、要するに心が開いているかどうかということ。心が開いている子どもは、当然のことながら、心の交流ができる。その心の交流が、互いの親近感をます。そうでなければそうでない。

 そこであなたとあなたの子どもの関係はどうだろうか。あなたは自分の子どものことを、親しみのもてる子どもと思っているだろうか。それともどこかわけのわからない子どもと思っているだろうか。こんなチェックテストを用意してみた。

(1) あなたの子どもは、あなたの前で、したいことについて、「したい」と言い、したくないことについては、「いやだ」と、いつもはっきりと言う。言うことができる。

(2) あなたの子どもはあなたに対して、子どもらしい自然な形で、スキンシップを求めてきたり、甘えるときも、子どもらしい甘え方をしている。甘えることができる。

(3) あなたの子どもが何かを失敗し、それをあなたが注意したり叱ったとき、子どもがなごやかな言い方で、「ごめんなさい」と言う。またすなおに自分の失敗を認める。

 この三つのテストで、「そうだ」と言える子どもは、あなたに対して心が開いているということになる。そうであれば問題はないが、そうでなければ、あなたの子どもへの接し方を反省する。「私は親だ」式の権威主義、ガミガミと価値観を押しつける過干渉、いつもピリピリと子どもを監視する過関心など。さらに深刻な問題として、あなた自身が子どもに対して心を開いていないばあいがある。

子どものことで、見え、メンツ、世間体を気にしているようであれば、かなり危険な状態であるとみてよい。さらに子どもに対して、ウソをつく、心をごまかす、かっこうをつけるなどの様子があれば、さらに危険な状態であるとみてよい。あなたという親が子どもに心を開かないで、どうして子どもに心を開けということができるのか。

 子どもの心が見えなくなったら、子どもの心が閉じていると考える。「うちの子は何を考えているかわからない」「何をしたいのかわからない」「何かを聞いてもグズグズしているだけで、はっきりしない」など。この状態が長く続くと、親子の関係は必ず断絶する。もしそうなればなったで、それこそ、子育ては大失敗というもの。親しみのもてる子どもを考えるときには、そういう問題も含まれる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(360)

●被害妄想(心配過剰)

 こんな話を聞いたら、あなたはどう思うだろうか。「Aさん(32歳女性)が、子ども(4歳)と道路を歩いていたときのこと。うしろからきた自転車に、その子どもがはねられてしまった。子どもはひどく頭を打ち、救急車がくるまで意識がなかった。幸いけがは少なくてすんだが、やがて深刻な後遺症があらわれた。

子どもから集中力がなくなり、こまかい作業ができなくなってしまった。事故のとき、脳のある部分が酸欠状態になり、それで脳にダメージを与えたらしい。で、その事故から5、6年になるが、その状態はほとんどかわっていない」と。

 こういう話を耳にすると、母親たちの反応はいろいろに分かれる。(1)他人の話は他人の話として、自分の子どもとは切り離すことができるタイプ。(2)「自分の子どもでなくてよかった」と思い、「自分の子どもだったら、どうしよう」と、あれこれ考えるタイプ。

ふつうは(「ふつう」はという言い方は、適切でないかもしれないが)、(1)のように考える。しかし心配性の人は、(2)のように考える。考えながら、その心配を、かぎりなく広げていく。「歩道といっても安全ではない」「うちの子もフラフラと歩くタイプだから心配だ」「道路を歩くときは、うしろも見なくてはいけない」など。

 もしあなたがここでいう(2)のタイプなら、子育て全体が、心配過剰になっていないかを反省する。こうした心配過剰は、えてして妄想性をもちやすく、それが子育てそのものをゆがめることが多い。過保護もそのひとつだが、過干渉、過関心へと進むこともある。

ある母親は、子ども(小四女児)が遠足に行った日、日焼け止めクリームを渡すのを忘れた。そこで心配になり、そのクリームをわざわざ遠足先まで届けたという。「紫外線に多くあたると、おとなになってから皮膚ガンになるから」と。また別の母親は、息子(小6)が修学旅行に行っている間、心配で一睡もできなかったという。「どうして?」と私が聞くと、「あの子が皆にいじめられているのではないかと心配でなりませんでした」と。

 もっともこうした妄想性が自分の範囲でとどまっているなら、まだよい。しかしその妄想性が他人に向けられると、大きなトラブルの原因となる。ある母親は、自分の息子(中1)が不登校児になったのは、同級生のB男のせいだと思い込んでいた。そこで毎晩のようにB男の母親に電話をしていた。いや、電話といっても、ふつうの電話ではない。夜中の2時とか3時。しかもその電話が、ときには1時間とか2時間も続いたという。

 こうした妄想性は、いわばクセのようなもの。一度クセになると、いつも同じようなパターンで考えるようになる。どこかでその妄想性を感じたら、できるだけ軽い段階でそれに気づき、そこでブレーキをかけるようにする。たとえば冒頭の話で、あなたが(2)のように考える傾向があれば、「そういうふうに考えるのはふつうでない」とブレーキをかける。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(361)

●心のキズ

 私の父はふだんは、学者肌の、もの静かな人だった。しかし酒を飲むと、人が変わった。今でいう、アルコール依存症だったのか? 3~4日ごとに酒を飲んでは、家の中で暴れた。大声を出して母を殴ったり、蹴ったりしたこともある。あるいは用意してあった食事をすべて、ひっくり返したこともある。

私と六歳年上の姉は、そのたびに2階の奥にある物干し台に身を潜め、私は「姉ちゃん、こわいよオ、姉ちゃん、こわいよオ」と泣いた。

 何らかの恐怖体験が、心のキズとなる。そしてそのキズは、皮膚についた切りキズのように、一度つくと、消えることはない。そしてそのキズは、何らかの形で、その人に影響を与える。が、問題は、キズがあるということではなく、そのキズに気づかないまま、そのキズに振り回されることである。

たとえば私は子どものころから、夜がこわかった。今でも精神状態が不安定になると、夜がこわくて、ひとりで寝られない。あるいは岐阜の実家へ帰るのが、今でも苦痛でならない。帰ると決めると、その数日前から何とも言えない憂うつ感に襲われる。しかしそういう自分の理由が、長い間わからなかった。

もう少し若いころは、そういう自分を心のどこかで感じながらも、気力でカバーしてしまった。が、50歳も過ぎるころになると、自分の姿がよく見えてくる。見えてくると同時に、「なぜ、自分がそうなのか」ということがわかってくる。

 私は子どものころ、夜がくるのがこわかった。「今夜も父は酒を飲んでくるのだろうか」と、そんなことを心配していた。また私の家庭はそんなわけで、「家庭」としての機能を果たしていなかった。家族がいっしょにお茶を飲むなどという雰囲気は、どこにもなかった。だから私はいつも、さみしい気持ちを紛らわすため、祖父のふとんの中や、母のふとんの中で寝た。それに私は中学生のとき、猛烈に勉強したが、勉強が好きだからしたわけではない。母に、「勉強しなければ、自転車屋を継げ」といつも、おどされていたからだ。つまりそういう「過去」が、今の私をつくった。

 よく「子どもの心にキズをつけてしまったようだ。心のキズは消えるか」という質問を受ける。が、キズなどというのは、消えない。消えるものではない。恐らく死ぬまで残る。ただこういうことは言える。心のキズは、なおそうと思わないこと。忘れること。それに触れないようにすること。さらに同じようなキズは、繰り返しつくらないこと。つくればつくるほど、かさぶたをめくるようにして、キズ口は深くなる。

私のばあいも、あの恐怖体験が一度だけだったら、こうまで苦しまなかっただろうと思う。しかし父は、先にも書いたように、3~4日ごとに酒を飲んで暴れた。だから54歳になった今でも、そのときの体験が、フラッシュバックとなって私を襲うことがある。「姉ちゃん、こわいよオ、姉ちゃん、こわいよオ」と体を震わせて、ふとんの中で泣くことがある。54歳になった今でも、だ。心のキズというのは、そういうものだ。決して安易に考えてはいけない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(362)
 
●「親だから」という論理

 先日テレビを見ていたら、一人の経営者(55歳くらい)が、30歳前後の若者を叱責している場面があった。30歳くらいの若者が、「親を好きになれない」と言ったことに対して、その経営者が、「親を好きでないというのは、何ということだ! お前は産んでもらったあと、だれに言葉を習った! (その恩を忘れるな!)」と。それに対して、その若者は額から汗をタラタラと流すだけで、何も答えられなかった(02年5月)。

 私はその経営者の、そういう言い方は卑怯だと思う。強い立場のものが、一方的に弱い立場のものを、一見正論風の暴論をもってたたみかける。もしこれが正論だとするなら、子どもは親を嫌ってはいけないのかということになる。親子も、つきつめれば一対一の人間関係。昔の人は、「親子の縁は切れない」と言ったが、親子の縁でも切れるときには切れる。

切れないと思っているのは、親だけで、また親はその幻想の上に安住してしまい、子どもの心を見失うケースはいくらでもある。仕事第一主義の夫が、妻に向かって、「お前はだれのおかげでメシを食っていかれるか、それがわかっているか」と言うのと同じ。たしかにそうかもしれないが、夫がそれを口にしたら、おしまい。親についていうなら、子どもを育て、子どもに言葉を教えるのは、親として当たり前のことではないか。

 日本人ほど、「親意識」の強い民族は、そうはいない。たとえば「親に向かって何だ」という言い方にしても、英語には、そういう言い方そのものがない。仮に翻訳しても、まったく別のニュアンスになってしまう。少なくとも英語国では、子どもといえども、生まれながらにして対等の人間としてみる。

それに子育てというのは、親から子への一方的なものではない。親自身も、子育てをすることにより、育てられる。無数のドラマもそこから生まれる。人生そのものがうるおい豊かなものになる。私は今、3人の息子たちの子育てをほぼ終えつつあるが、私は「育ててやった」という意識はほとんどない。息子たちに向かって、「いろいろ楽しい思い出をありがとう」と言うことはあっても、「育ててやった」と親の恩を押し売りするようなことは絶対にない。そういう気持ちはどこにもないと言えばウソだが、しかしそれを口にしたら、おしまい。親として、おしまい。

 私は子どもたちからの恩返しなど、はじめから期待していない。少なくとも私は自分の息子たちには、意識したわけではないが、無条件で接してきた。むしろこうして子育ても終わりに近づくと、できの悪い父親であったことを、わびたい気持ちのほうが強くなってくる。いわんや、「親孝行」とは? 自分の息子たちが私に孝行などしてくれなくても、私は一向に構わない。「そんなヒマがあったら、前向きに生きろ」といつも、息子たちにはそう教えている。この私自身が、その重圧感で苦しんだからだ。

 私はそんなわけで、先の経営者の意見には、生理的な嫌悪感を覚えた。ぞっとするような嫌悪感だ。しばらく胸クソの悪さを消すのに苦労した。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(363)

●親孝行否定論者?

 私はよく親孝行否定論者と誤解される。ときどきEメールでも、そう書いてくる人がいる。しかし事実は逆で、私は24歳のときから、収入の約50~30%を、岐阜の実家に仕送りしてきた。45歳のときまでそれを続けた。記憶にあるかぎりでは、少なくとも27歳のときから、実家での冠婚葬祭、法事の費用、改築の費用なども、すべて負担してきた。

田舎のことで、そういう行事だけはことさら派手にする。法事にしても、たいてい料亭を借りきってする。私には決して楽な額ではなかった。そのつどいつも、貯金通帳はカラになった。

 私がなぜそうしたかということだが、だれかが私に命令したというわけではない。私は「子が親のめんどうをみるのは当たり前」「子が家の心配をするのは当たり前」という、当時の世間的な常識(?)を心のどこかで感じたからこそ、それをしてきた。しかしそれはものすごい重圧感だった。

女房はただの一度も不平や不満を漏らさなかったが、経済的負担感も、相当なものだった。私はそういう重圧感なり負担感を知っているからこそ、自分の息子たちには、そういう思いをさせたくない。だから私は自分の息子たちに、あえて言う。「親孝行? ……そんなバカなことは考えなくていい。家の心配? ……そんなバカなことは考えなくていい。お前たちはお前たちで、自分の人生を思いっきり、前向きに生きろ。たった一度しかない人生だから、思う存分生きろ」と。

 子どもが親や家のために犠牲になるのは、決して美徳ではない。もしそれが美徳なら、子どもは子どもで自分の人生を犠牲にすることになり、それがまた順送りに繰り返され、結局はどの世代も、自分の人生をつかめなくなってしまう。いや、あなたはひょっとしたら、親や家のために犠牲になっているかもしれない。しかしあなたはそれを、あなたの子どもに求めてはいけない。強要してはいけない。親子といえども、人間関係が基本。その人間関係の中から、自然に互いの尊敬心が生まれ、その上で、子どもが親の心配をしたり、家のめんどうをみるというのであれば、それはまた別の問題。

もっといえば、あくまでも子どもの問題。子どもの勝手。親に孝行しないからとか、家のめんどうをみないからといって、その子どもを責めてはいけない。それぞれの親子や家庭には、あなたがいくら知恵をふりしぼっても、理解できない複雑な事情が潜んでいる。たとえばE氏(58歳)。E氏はこのところ父の世話を疎遠にしているが、それについて親類の叔父や叔母たちに、電話で「子が親のめんどうをみるのは当たり前だろ」と、説教されている。

E氏はこう言う。「私は父の子ではないのです。祖父と母の間に生まれた、不倫の子なんです。私の家庭にはそういう複雑ないきさつがあるのです。しかしそういう話を、親類の人に話せますか。父もまだ生きていますから」と。

 安易な親孝行論は、その人を苦しめることもある。この結論は、今でも一歩も譲る気はない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(364)

●安易な常識論で苦しむ人

 日本にはいろいろな常識(?)がある。「親だから子どもを愛しているはず」「子どもだから故郷(古里)を思い慕っているはず」「親子の縁は絶対に切れない」「子どもが親のめんどうをみるのはあたりまえ」など。

しかしそういう常識が、すべてまちがっているから、おそろしい。あるいはそういう常識にしばられて、人知れず苦しんでいる人はいくらでもいる。たとえば今、自分の子どもを気が合わないと感じている母親は、7%もいることがわかっている(東京都精神医学総合研究所の調査、2000年)。「どうしても上の子を好きになれない」「弟はかわいいと思うが、兄と接していると苦痛でならない」とか。

 故郷についても、「実家へ帰るだけで心臓が踊る」「父を前にすると不安でならない」「正月に帰るのが苦痛でならない」という人はいくらでもいる。そういう母親に向かって、「どうして自分の子どもをかわいいと思わないのですか」「あなたも親でしょう」とか、さらに「自分の故郷でしょう」「親を嫌うとはどういうことですか」と言うことは、その人を苦しめることになる。

たまたまあなたが心豊かで、幸福な子ども時代を過ごしたからといって、それを基準にして、他人の過去をみてはいけない。他人の心を判断してはいけない。それぞれの人は、それぞれに過去を引きずって生きている。中には、重く、苦しい過去を、悩みながら引きずっている人もいる。またそういう人のほうが、多い。

 K市に住むYさん(38歳女性)のケースは、まさに悲惨なものだ。母親は再婚して、Yさんをもうけた。が、その直後、父親は自殺。Yさんは親戚の叔母の家に預けられたが、そこで虐待を受け、別の親戚に。そこでもYさんは叔父に性的暴行を受け、中学生のときに家出。そのころには母の居場所もわからなかったという。Yさんは、「今はすばらしい夫に恵まれ、何とか幸福な生活を送っています」(手紙)ということだが、Yさんが受けた心のキズの深さは、私たちが想像できる、その範囲をはるかに超えている。Yさんから手紙を受け取ったとき、私は何と返事をしてよいかわからなかった。

 「常識」というのは、一見妥当性があるようで、その実、まったくない。そこで大切なことは、日本のこうした「常識」というのは、一度は疑ってみる必要があるということ。そしてその上で、何が本当に大切なのか。あるいは大切でないのかを考えてみる必要がある。

安易に、つまり何も考えないで、そうした常識を、他人に押しつけるのは、かえって危険なことでもある。とくにこの日本では、子育てにも「流儀(?)」を求め、その「形」を親や子どもに押しつける傾向が強い。こうした方法は、一見便利なようだが、それに頼ると、その実、ものの本質を見失うことにもなりかねない。

 「親である」とか「子であるとか」とかいう「形」ではなく、人間そのものをみる。また人間そのものをみながら、それを原点として、家庭を考え、家族を考える。それがこれからの子育ての基本である。



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