最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●子育てジャンプ(1)

2009-07-08 15:38:51 | 日記
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(351)

●孤独論

 私のようにもともと「うつ型気質」の人間にとっては、孤独ほど、恐ろしいものはない。何かの仕事をやり終え、ほっと気を抜いたようなとき、心も弱くなる。ひとりだけポツンと取り残されたような孤独を覚える。これは私だけが感ずる孤独なのか、それとも人間が等しく感ずる孤独なのかはわからない。

が、いろいろな人の本を読んでも、それほど大きな違いはないように思う。(本当のところは他人の心の中に入ったことがないので、わからないが……。)で、ときどき一番身近にいる女房に、「お前はどうなのか」と確かめることがある。もっとも私の女房は、本当にタフで、精神的にも安定している。「私は体は女だけど、心は男よ」とよく言うが、本当にそうだと思う。

一方私は、繊細で、そのつどいろいろなことを考える。ときに考えすぎて、身動きがとれなくなることもあるが、私はそういうタイプの人間だ。そういう意味では、精神的にもタフでないし、情緒も不安定だ。一日のうちにも、周囲の状況に応じて、気分がよく変わる。

 で、これから先、どうやってその孤独を処理したらよいのか、ときどき考える。子どもたちはやがて巣立っていくだろう。女房とて、ひょっとしたら、私より先に死ぬかもしれない。そうなったとき、私はどう過ごせばよいのか。多分そのころは老人ホームかどこかで、のんびりとはいかないが、まあまあ、そこそこの老人生活を送っているに違いない。

しかしその生活が望ましい生活だとは思っていない。できれば心の許しあえる人と、いつまでもいつまでも語りあっていたい。死ぬまでというより、夜、床に入ってから、眠るまで、だ。死ぬときになったら、私はジタバタしたくない。今のところ自信はないが、しかし今はそう思う。

 こういうとき何か、信じられる宗教があればよいと思う。実際、アメリカのジムは、敬虔なクリスチャンだが、彼は人里離れた牧場で、今は妻だけと暮らしている。ああいう生活を見ると、彼の宗教が、彼の孤独をやわらげているのではないかと思う。(こういう言い方は失礼な言い方だが……。)つまり私なら、そのさみしさに、とても耐えられないだろうと思う。

 もちろん孤独に勝つ方法もある。夢や希望をもつことだ。それに友情や、少しキザない言い方かもしれないが、「愛」だって、それがあれば、孤独はやわらぐ。で、そういうものを、総合的に提供してくれるのが、「家族」ということになる。名誉や地位ではない。肩書きでもない。「家族」だ。

 考えてみれば、私の人生はずっと孤独だった。これからも孤独だろう。だからこそ、私は家族のありがたみを知っている。つまり私の「家族主義」は、こうした私の心の弱さを補うために生まれたと言ってもよいのではないか。

さて、皆さんは、今、孤独だろうか。それとも孤独でないだろうか。が、もしあなたが孤独なら、「孤独なのはあなただけではない」ということだけは、わかってほしい。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(352)

●子どもとの笑い

 いつも深刻な話ばかりなので……。最近経験した楽しい話(?)をいくつか……。

(1) ときどきまったく手をあげようとしない子ども(年中女児)がいる。そこで私が「先生(私)を好きな子は、手をあげなくていい」と言ったら、その子は何を思ったか、腕組みをして私をにらんだ。「セクハラか?」と思わず後悔したが、そのあと私が「どうして手をあげないの?」と聞くと、「だって、私、先生が好きなんだもん」と。マレにですが、私も子どもに好かれることがあるのです。

(2) 私が「三匹の魚がいました。そこへまた二匹魚がきました。全部で何匹ですか?」と聞くと、皆(年長児)が、「五匹!」と答えた。そこで私が電卓を取り出して、「ええと、三足す二で……」と電卓を叩いていたら、一人の子どもがこう言った。「あんた、それでも本当に先生?」と。

(3) 指をしゃぶっている子ども(年中児)がいた。そこで私が、「どうせ指をしゃぶるなら、もっとかっこよくしゃぶりなよ。おとなのしゃぶり方を教えてあげるよ」と言って、少しばかりキザなしゃぶり方(指を横から、顔をななめにしてしゃぶる)を教えてやった。するとその子は、本当にそういうしゃぶり方をするようになった。私は少しからかってやっただけなのだが……。

(4) 私のニックネームは……? 「美男子」「好男子」「長足の二枚目」。あるとき私に「ジジイー」「アホ」と言う子ども(年長児たち)がいたので、こう話してやった。「もっと悪い言葉を教えてやろうか。しかし先生や、お父さんに使ってはダメだ。いいな」と。子どもたちは「使わない、使わない」と約束したので、こう言ってやった。「ビダンシ」と。それからというもの、子どもたちは私を見ると、「ビダンシ、ビダンシ」と呼ぶようになった。

(5) 算数を教えながら、「○と△の関係は何ですか?」と聞いたら、一人の子ども(小四男児)が、「三角関係!」と。ドキッとして、「何だ、それは?」と聞くと、「男が二人で、女が一人の関係だよ」と。すると別の子どもが、「違うよオ~、女が二人で、男が一人だよオ~」と。とたん、教室が収拾がつかなくなってしまった。

私が、「今どきの子どもは、何を考えているんだ!」と叱ると、こんな歌を歌い始めた。「♪今どき娘は、一日五食、朝昼三時、夕食深夜……」と。「何だ、その歌は」と聞くと、「先生、こんな歌も知らないのオ~、遅れてるウ~」と。





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●心を開く

 何でも言いたいことを言い、したいことをする。悲しいときは悲しいと言う、うれしいときはうれしいと言う。泣きたいときは、思いっきり泣くことができる。自分の心をそのままぶつけることができる。そういう状態を、「心が開いている状態」という。

 昔、ある文士たちが集まる集会で、一人の男性(七〇歳)がいきなり私にこう聞いた。「林君、君のワイフは、君の前で『おなら』を出すかね?」と。驚いて私が、「うちの女房はそういうことはしないです……」とあわてて答えると、そばにいた人たちまで一斉に、「そりゃあ、かわいそうだ。君の奥さんはかわいそうだ」と言った。

 子どもでも、親に向かって、「クソじじい」とか、「お前はバカだ」と言う子どもがいる。子どもが悪い言葉を使うのを容認せよというわけではないが、しかしそういう言葉が使えないほどまでに、子どもを追いつめてはいけない。一応はたしなめながらも、一方で、「うちの子どもは私に心を開いているのだ」と、それを許す余裕が必要である。子どもの側からみて、「自分はどんなことをしても、またどんなことを言っても許されるのだ」という絶対的な安心感が、子どもの心を豊かにする。

 そこで大切なことは、心というのは、相手に対して「開く心」と、もう一方で、それを受け止める「開いた心」がないと、かよいあわないということ。子どもが心を開いたら、同じように親のほうも心を開く。それはちょうどまさに「開いた心の窓」のようなものだ。どちらか一方が、心の窓を閉じていたのでは、心を通いあわせることはできない。R氏(四五歳)はこう言う。

「私の母(六五歳)は、今でも私にウソを言います。親のメンツにこだわって、あれこれ世間体をとりつくろいます。私はいつも本音でぶつかろうとするのですが、いつもその本音が母の心のカベにぶつかって、そこではね返されてしまいます。私もさみしいですが、母もかわいそうな人です」と。

 そこで問題なのは、あなたの子どもはあなたに対して、心を開いているかということ。そして同じように、あなたはあなたの子どものそういう心を、心を開いて受け止めているかということ。もしあなたの子どもがあなたの前で、よい子ぶったり、あるいは心を隠したり、ウソをついたり、さらには仮面をかぶっているようなら、子どもを責めるのではなく、あなた自身のことを反省する。相手の心を開こうと考えるなら、まずあなた自身が心を開いて、相手の心をそのまま受け入れなければならない。またそれでこそ、親子であり、家族ということになる。

 さてその文士の集まりから帰った夜、私は恐る恐る女房にこう言った。「おまえはあまりぼくの前でおならを出さないけど、出していいよ」と。が、数日後、女房はそれに答えてこう言った。「それは心を開いているとかいないとかいう問題ではなく、たしなみの問題だと思うわ」と。まあ、世の中にはいろいろな考え方がある。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(354)

●心を開く(2)

 心を開くということは、相手に対しては自分のあるがままをさらけだすこと。一方、相手に対しては、相手のすべてを受け入れるということ。少しきわどい話になって恐縮だが、『おなら』がある。ふつう自分のおならは、気にならない。小学生に聞いても、全員が例外なく、「自分のは、いいにおいだ」と言う。しかし問題は、自分以外の人のおならだ。

 もちろん見知らぬ人のおならは、不愉快だ。いかに相手が美人であり、美男子であっても、それは関係ない。しかしそれが親や兄弟のとなると、多少、感じ方が変わってくる。さらに親しい友人や、尊敬する人になると変ってくる。昔、恩師のM先生(女性)がこう話してくれた。

「私は女学生のとき、好きな先生がいた。好きで好きでたまらなかった。が、その先生がある日、私のノートを上からのぞいたとき、ポタリと鼻くそを私の机の上の落した。私はその鼻くそを見たとき、どういうわけかうれしくてならなかった」と。相手を受け入れるといういことは、そういうことをいう?

 そこで今度は家族について。あなたは自分の夫や妻、さらには子どもをどこまで受け入れているだろうか。またまた『おなら』の話で恐縮なのだが、あなたはあなたの夫や妻がおならを出したとき、それをどこまで受け入れることができるだろうか。自分のおならのように、「いいにおい」と思うだろうか。それとも他人のおならのように、不愉快だろうか。実のところ、私も女房のおならが許せるようになったのは、結婚してから二〇年近くもたってからだ。自分のにおいのように感ずることができるようになったのは、ごく最近になってからだ。

女房はめったに私の前ではしないが、眠ってしまったあと、ふとんの中でそれを出す。で、若いころはふとんの中でそれされると、鼻先だけふとんの中から外へ出し、口で息をしたり、ときには窓を開け放って、ガスを追い出したりしていた。今も「平気」とまではいかないが、「またやったな」という思いながらも、そのまま眠ることができる。

 問題はあなたと子ども、である。あなたは子どものすべてを受け入れているだろうか。こういうとき「べき」という言い方はしたくないが、しかしこれだけは言える。親に受け入れてもらえない子どもほど、不幸な子どもはいないということ。言いかえると、親にすら心を開いてもらえない子どもは、自分自身も心を開くことができなくなる。そういう意味で、子どもは心の冷たい子どもになる。

もう少し正確には、自分の心を防衛するようになり、そのためさまざまな「ゆがみ」を見せるようになる。ひがむ、いじける、ねたむ、すねるなど。心のすなおさそのものが、消える。へんに愛想がよくなることもある。そういう意味で、もしあなたがあなたの子どもに心を閉じているなら、それは「あるべき」親の姿勢ではない。「努力して」というほど簡単な問題ではないかもしれないが、しかしあなたの子どものためにも努力する。

 方法としては、まず子どもを友として受け入れる。つぎにあとは「許して忘れる」。これを日常的に繰り返す。時間はかかるが、やがてあなたは心を開くことができるようになる。





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●女性は家の家具?

 いまだに女性、なかんずく「妻」を、「内助」程度にしか考えていない男性が多いのは、驚きでしかない。いや、男性ばかりではない。女性自身でも、「それでいい」と考えている人が、二割近くもいる。たとえば国立社会保障人口問題研究所の調査(2000年)によると、「掃除、洗濯、炊事の家事をまったくしない」と答えた夫は、いずれも50%以上。「夫も家事や育児を平等に負担すべきだ」と答えた女性は、76・7%いる。が、その反面、「反対だ」と答えた女性も23・3%もいる。

 ここで「平等に負担」の内容だが、外で仕事をしている夫が、時間的に「平等に」家事を負担することは、不可能である。それは当然だが、しかしこれは意識の問題。夫が「家事を平等に負担すべき」と考えながら、妻の仕事をみるのと、夫が、「男は仕事さえしていればそれでいい」と考えながら、妻の仕事をみるのとでは、その見方はまるで変わってくる。

今の日本の現状は、男性たちが、あまりにも世の通俗的な常識に甘え、それをよいことに居なおりすぎている。中には、「女房や子どもを食わせてやっている」とか、「男は家庭の中でデーンと座っていればいい」とか言う人もいる。仕事第一主義が悪いわけではないが、その仕事第一主義におぼれるあまり、家庭そのものをまったくかえりみない人も多い。

 ……というようなことを、先日、ある講演会で話したら、その担当者(男性)が講演のあと、私にこう言った。「このあたりは三世代同居が多いのです。そういうことを先生(私)が言うと、家族がバラバラになってしまいます。嫁は嫁として、家の中でおとなしくしていてくれなければ、困るのです」と。

男性の仕事第一主義についても、「農業で疲れきった男が、どうして家事ができますか」とも。私があきれていると、(黙って聞いていたので、納得したと誤解されたらしい)、こうも言った。「このあたりの若い母親たちは、家から出て、こうした講演会へ息抜きにきているのです。むずかしい話よりも、はははと笑えるような話をしてください」と。

 これには正直言って、あきれた。その男性というのは、まだ30歳そこそこの男性。今の日本の「流れ」をまったく理解していないばかりか、女性の人権や人格をまったく認めていない。その男性は「このあたりは後進国ですから」とさかんに言っていたが、彼自身の考え方のほうが、よっぽど後進国的だ。

それはともかくも、こんな現状に、世の女性たちが満足するはずがない。夫に不満をもつ妻もふえている。厚生省の国立問題研究所が発表した「第2回、全国家庭動向調査」(1998年)によると、「家事、育児で夫に満足している」と答えた妻は、51・7%しかいない。この数値は、前回1993年のときよりも、約10ポイントも低くなっている(93年度は、60・6%)。「(夫の家事や育児を)もともと期待していない」と答えた妻も、52・5%もいた。当然だ。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(356)

●わだかまり論

 ほとんどの人は、自分の意思で考え、決断し、そして行動していると思っている。しかし実際には、人は意識として活動する脳の表層部分の、その約20万倍※もの潜在意識によって「動かされている」。こんなことがあった。

 J君(小3)と父親は、「とにかく仲が悪い」という。母親はこう話してくれた。「日曜日にいっしょに釣りに行ったとしても、でかけたと思ったら、その行く途中で親子げんかが始まってしまうのです。風呂にもときどきいっしょに入るのですが、しばらくすると、まず息子がワーツと泣き声をあげて風呂から出てくる。そのあと夫の『バカヤロー』という声が聞こえてくるのです」と。

 そこでJ君を私のところへ呼んで話を聞くと、J君はこう言った。「パパはぼくが何も悪いことをしていないのに、すぐ怒る」と。そこで別の日、今度は父親に来てもらい話を聞くと、父親は父親でこう言った。「息子の生意気な態度が許せない」と。父親の話では、J君が人をバカにしたような目つきで、父親を見るというのだ。それを父親は「許せない」と。

 そこであれこれ話を聞いても、原因がよくわからなかった。が、それから一時間ほど雑談していると、J君の父親はこんなことを言い出した。「そう言えば、私は中学生のとき、いじめにあっていた。そのいじめのグループの中心にいた男の目つきが、あの目つきだった」と。J君の父親は、J君が流し目で父親を見たとき、(それはJ君のクセでもあったのだが)、J君の父親は、無意識のうちにも自分をいじめた男のめつきを、J君の目つきの中に感じていた。そしてそれがこれまた無意識のうちに、父親を激怒させていた。

 こういうのを日本では、昔から「わだかまり」という。「心のしこり」と言う人もいる。わだかまりにせよ、しこりにせよ、たいていは無意識の領域に潜み、人をその裏からあやつる。子育てもまさにそうで、私たちは自分で考え、決断し、そして子育てをしていると思い込んでいるが、結局は自分が受けた子育てを繰り返しているにすぎない。

問題は繰り返すことではなく、その中でも、ここに書いたようなわだかまりが、何らかの形で、子育てに悪い影響を与えることである。が、これも本当の問題ではない。だれだって、無数のわだかまりをかかえている。わだかまりのない人など、いない。そこで本当の問題は、そういうわだかまりがあることに気づかず、そのわだかまりに振りまわされるまま、同じ失敗を繰り返すことである。

 そこであなたの子育て。もしあなたが自分の子育てで、いつも同じパターンで、同じように失敗するというのであれば、一度自分の心の中の「わだかまり」を探ってみるとよい。何かあるはずである。この問題は、まずそのわだかまりに気がつくこと。あとは少し時間がかかるが、それで問題は解決する。





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●お人よしは、命取り?

このところ毎日のように、ウィルス入りのメールが届く。私のばあい、まずプロバイダーが、ウィルス検査をしてくれる。この段階でウィルスが入っていると、そのメールを削除したり修復したりしてくれる。(たいていはそのまま削除され、「削除しました」という連絡だけが私に届く。)が、それでもすり抜けてくるメールがある。

それについては、今度は私のパソコン自体で検査する。この段階で、ウィルスが混入していれば、同じように削除する。で、それでも安心できない。私はさらにパソコンを使い分ける。あるいはプレウィンドウ画面に表示する前に、(?)と思われるメールは削除するという方法で対処している。が、だ。それでもすり抜けてくるメールがある。

私はメールアドレスを公開しているため、(ふつうは、こういう公開はしてはいけない)、悪意をもった人からの攻撃を受けることがある。つい先日もその攻撃を受けた。あたかも読者からの質問のような体裁を整えたメールだった。「うむ……?」と迷ったが、うかつにも開いてしまった。恐らく市販のウィルス検査ソフトにひかからないように、自分で改変したウィルスだったのだろう。とたんパソコンの動きがおかしくなった。もっともそれほど悪質なウィルスではなかったようで(?)、簡単な操作で修復できたが、ウィルスによってはシステム全体を破壊されることもある。

インターネットの世界では、お人よしは命取りになる。「あやしい」と思ったら、即、削除、また削除。これしかない。しかし、それは口で言うほど、簡単なことではない。自分の中に本来的にある、「人格」、つまり私のばあい、「お人よし」との戦いでもある。「ひょっとしたら子育てで困っている人からのメールかもしれない」「少し(件名)がおかしいが、まだパソコンになれていない人からのものかもしれない」と思ってしまう。

そのメールを開いたときもそうだ。そう思って開くと、わけのわからない相談内容。一応子育ての相談ということになっていたが、どこかトンチンカンな内容だった。「しまった!」と思ったときには、もう遅かった。

私は改めて、こんなメモをパソコンの上に張りつけた。「あやしげなメールは、即、削除。お人よしは命取り」と。しかしそれを張りつけたとき、別のところで、自分の人格がまた一つ削られたような気がした。「私はもともとそんなクールな人間ではないのになあ」と。しかしそうであるからこそ、また心に誓う。「あやしげなメールは、即、削除」と。そういうことを誓わねばならないところに、インターネットの問題点が隠されている。 





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(358)

●子どもの表情

 昔から、『子どもの表情は親がつくる』という。事実そのとおりで、表情豊かな親の子どもは、やはり表情が豊かだ。うれしいときには、うれしそうな顔をする。悲しいときには悲しそうな顔をする。(ただし親が無表情だからといって、子どもも無表情になるとはかぎらない。)しかしこの「表情」には、いろいろな問題が隠されている。

 その一。今、表情のない子どもがふえている。「幼稚園児でも表情のとぼしい子どもは、全体の二割前後はいる」と、大阪市にあるI幼稚園のS氏が話してくれた。程度の問題もあり、一概に何割とは言えないが、多いのは事実。私の実感でも二割という数字は、ほぼ的確ではないかと思っている。ほかの子どもたちがドッと笑うようなときでも、表情を変えない。うれしいときも悲しいときも、無表情のまま行動する、など。
(最近では、サイレントベービー論を否定する説が優勢になってきた。生まれつきというよりは、親の拒否的育児姿勢によってそうなると考えるのが常識的になってきた。2009年7月。)

 原因のひとつに、乳幼児期からのテレビ漬けの生活が考えられる。そのことはテレビをじっと見入っている幼児を観察すればわかる。おもしろがっているはずだというときでも、またこわがっているはずだというときでも、ほとんど表情を変えない。保育園や幼稚園へ入ってからもそうで、先生が何かおもしろい話をしても、ほとんど反応を示さない。あたかもテレビでも見ているかのような感じで先生の方をじっと見ている。

このタイプの子どもは、ほかに、吐き出す息が弱く、母音だけで言葉を話すなどの特徴もある。「私は林です」を、「ああいあ、ああいえう」というような話し方をする。こうした症状が見られたら、私は親に、「小さいときからテレビばかり見ていましたね」と言うことがある。親は親で、「どうしてそんなことがわかるのですか?」と驚くが、タネを明かせば、何でもない。が、この問題はそれほど深刻に考える必要はない。やがて園や学校生活になれてくると、表情もそれなりに豊かになってくる。

 その二。子どものばあい、とくに警戒しなければならないのは、心(情意)と表情の遊離である。悲しいときにニコニコと笑みを浮かべる、あるいは怒っているはずなのに、無表情のままである、など。心(情緒)に何か問題のある子どもは、この遊離現象が現れることが多い。たとえばかん黙児や自閉症児と呼ばれる子どもは、柔和な表情を浮かべたまま、心の中ではまったく別のことを考えていたりする。そんなわけで逆に、この遊離が現れたら、かなり深刻な問題として、子どもの心を考える。

とくに教育の世界では、心と表情の一致する子どもを、「すなおな子ども」という。いやだったら「いや」と言う。したかったら、「したい」と言う。外から見ても、心のつかみやすい子どもをすなおな子どもという。表情は、それを見分ける大切な手段ということになる。

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