最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●低劣な人たち

2010-12-17 07:14:55 | 日記
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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      12月   17日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●他人の不幸をのぞく人

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現実には、いる。
いるから、書く。
他人の不幸をのぞいては、それを楽しむ。
酒の肴(さかな)にして、楽しむ。
みなに話す。
「あいつは、かわいそうな人だよ。
息子が2人いるんだが、2人とも離婚していてね」と。
そんな人たちがいる。

同情しているわけではない。
相手の悲しみや苦しみを、共有しているわけではない。
一応顔をしかめ、悲しそうな声で、そう話す。
が、演技は演技。
その実、それをみなに伝えて、おもしろがる。

+++++++++++++++++++

●BLOGへのコメント

 少し前、「他人の不幸をのぞく人」というテーマで、原稿を書いた。
つい数日前は、「下劣な人」というテーマで、別の原稿を書いた。
それについて、BLOGのほうに、いくつか書き込みがあった。
その中のひとつ。
「私の姉がそうです」と。

 用もないのに、不幸な人の家に出かけていく。
相談に乗るフリをして、その人の話を聞く。
あるいは「見舞い」と称して、不幸な人の家に出かけて行く。
行って、話を聞く。
さらにこんなこともするという。

 その家の人に何か不幸があったと聞くと、すかさず「見舞い」と
称して、菓子などを送る。
500円とか1000円とかの安い菓子である。
送られたほうは、戸惑いながらも、礼の電話をする。
そのときあれこれと相手の状態を聞きだす。

 私も若いころ、似たようなことをされたことがある。
のぞくほうは楽しいかもしれない。
しかしのぞかれたほうは、そうでない。
身を切られるような、つらい思いをする。
悲しい思いをする。
そのつらさは、言葉では言い表しがたい。

●最低限のマナー

 どんな家庭にも、それぞれ事情というのがある。
その事情は、千差万別・・・というか、複雑。
1日や2日、説明したところで、説明しきれるものではない。
そうした複雑な事情を知らず、そこに自分の判断を加える。
「かわいそうな人だ」と。

 しかし先に書いた「離婚」にしても、今どき、離婚など珍しくも
何ともない。
たまたま2人の息子が離婚したとしても、それはそれ。
人生の失敗者でもなければ、敗残者でもない。
ひとつの結果に過ぎない。

 その人自身から相談でもあれば、話は別。
そのときは、そのとき。
そうでなければ、そっとしておいてやることこそ、肝要。
知っていても知らぬフリをする。
説教など、もってのほか。
たとえ相手が年下でも、だ。
これは人間が守るべき、最低限のマナーと考えてよい。

●私の経験

 私もいろいろな経験をした。
その中でも、G県のNさんから届いたメールには、驚いた。
私がした経験と、あまりにもよく似ていた。
転載は不許可とあったので、私自身の体験も織り交ぜて、こちらで文章を書き
なおさせてもらう。

+++++以下、N氏からのメールより(要約)++++++++++++++++

【N氏(55歳)のメールより】

 私の実兄が入院したときのことです。
その3日前と2日前に、私はつづけて実兄を病院へ見舞いました。
そのときのことです。
いとこの1人から、電話がかかってきました。
いわく、「Jちゃんが、入院したぞ」「入院したぞ」と。
いやみを感ずる、不愉快な言い方でした。

 そこで私が、「おとといも見舞いに行ってきましたから、知っています」と。

 そう言い終わらないうちに、そのいとこは、「アッ、そう、ハハハ」「アハハハ」と。
気まずそうな笑い方でした。
もちろんそれを機会に、私はそのいとことは、縁を切りました。

念のため申し添えるなら、そのいとこは、口は出すことはあっても、
金銭的な援助など、そうした援助などはいっさいしてくれたことはありません。
家父長意識だけはやたらと強い。
年長風を吹かして、威張っています。
縁を切りましたから、事実だけをここに書きます。
低劣な人間というのは、そういう人間をいうのですね。

+++++以上、N氏からのメールより(要約)+++++++++++

●魔力

 低劣な人間とは、つきあわない。
つきあっても意味がないばかりか、低劣な人間には、恐ろしい魔力がある。
あなた自身を、低劣な世界へと、引きずり込んでしまう。
そして気がついてみると、あなた自身も、同じようなことを言ったり、するようになる。
夏目漱石も、同じような問題をかかえて悩んだことがある(『こころ』)。

 低劣な世界では、あなたが学んできた深い人間性や、道徳、哲学、それに
人生論が、粉々に引き飛んでしまう。
もしあなたが高邁(こうまい)であればあるほど、ばあいによっては、
魂そのものが、引きちぎられてしまう。
夏目漱石も、そうだった。
N氏がいとこと縁を切った(=いっさいの交際を打ち切った)というのは、やむを
えない判断ということになる。

 言い換えると、人間には、本来的にそうした低劣さが心のどこかに潜んでいる。
嫉妬にからんだ欲望、羨望、恨み、それらが心の底流でウズを巻いている。
さらに言えば、そうした人たちは、いつも相対的な幸福観の世界で生きている。
他人より幸福であれば(?)、幸福。
そうでなければ、そうでない(?)。
それが世間体、見栄、体裁へと進み、ここでいう「相対的な幸福感」へとつながって
いく。

●防衛機制

 防衛機制には、いくつかある。
心というのは、外敵に遭遇すると、自ら心を守ろうとさまざまな反応を示す。
それを「防衛機制」という。
「置き換え」「補償」「合理化」「投影」などなど。

 それにもうひとつ、私は、「自己慰労」を考える。
「慰労」でもよい。
「自分より劣った人、あるいは不幸な人をみつけて、自らの劣等性や
不幸を慰める」。
心が疲労したとき、自己慰労によって、それを解消しようとする。
それを「自己慰労」という(私の造語)。
(天下の「防衛機制」論の不備を突くようで、申し訳ないが・・・。)

 たとえばあのバラエティ番組。
バカ丸出しのような人がいて、これまたバカ丸出しの行為をする。
聴衆を笑わせる。
以前見た番組の中に、1人の男性に多量の下剤をのませて、苦しませる
というのがあった。
その男性はたまたまバスに乗っていて、「降ろしてくれ!」「がまんできない!」
と言って、涙声で叫んでいた。

 それを観て、徴収は笑いこげる。
喜ぶ。
自分より劣った人間がいることを知るのは、それ自体、快感(?)。
楽しい(?)。
またそれがああした番組の視聴率が高いという理由でもある。
それがここでいう「自己慰労」ということになる。

●自己慰労

 この自己慰労を、防衛機制に含めると、冒頭に書いたような事例が、ひとつの
心理反応として、うまく説明できる。
他人の不幸をのぞいて、それを酒の肴にする人は、まさにその自己慰労をしている
ことになる。

また自分自身がその不幸(?)の最中にいる人ほど、自己慰労しやすい。
自分より不幸な人を見つけては、自分で自分を慰(なぐさ)める。
そのために他人の不幸を利用する。

●紙一重

 他人の不幸を笑ってはいけない。
(のぞくなどというのも、もってのほか。)
笑えば笑った分だけ、今度は自分が追いつめられ、苦しむ。
「ああ、自分でなくてよかった」と、思ってもいけない。
幸福にせよ、不幸にせよ、紙一重。
今、幸福だからといって、慢心してはいけない。
今、不幸だからといって、それがいつまでもつづくと考えてはいけない。
いわんや自分の価値観を、他人に押しつけてはいけない。
幸福にせよ、不幸にせよ、それは順繰りにやってくるもの。

 ある男性は、ダウン症の子どもをもった両親を、「不幸だ」と決めつけていた。
(自分自身も、重度の自閉症児をかかえていた。)
しかし当の両親は、ダウン症のことなど、どこ吹く風。
いつもみなで連れだって、レストランで食事をしたりしていた。
休みには、みなで旅行をしていた。
私たちはむしろそちらの行為のほうに、すがすがしさを覚える。
親の深い愛情を感ずる。
人間的な深みを感ずる。

(どうして自分の子どもに障害があるからといって、それを「隠さねばならない
こと」と、とらえるのか。
こうした発想は、発想そのものが、バカげている。
が、低劣な人には、それがわからない。)

●加齢とともに

 何度も書くが、加齢とともに、人格が完成するというのは、ウソ。
むしろ低劣な人は、ますます低劣になっていく。
低劣になって、やがてすぐ、「メシ(飯)はまだかア!」と叫ぶようになる。
そういう女性(年齢は90歳くらい)が、近くの特養にいた。
美しい顔立ちの人だったが、繰り返し、一日中、そう叫んでいた。

 つまり人は、ある日突然、低劣になるのではない。
負の一次曲線的に、徐々に低劣になっていく。
しかもさらに悪いことに、加齢とともに、自分を支える気力が弱くなる。
それまで内に隠していた人間性が、表に出てくる。
60歳を過ぎて、加速度的に低劣になっていく人は、多い。
これがこわい。

 ……そういう点では、すでに私たちは、その過程にいるのかもしれない。
日々に、低劣になっていく・・・。

●低劣性

 数日前、「低俗性と低劣性」について書いた。
低俗的であることは、何も恥ずべきことではない。
俗世間とのかかわりを失ったら、そのとたんにその人は、人間的なハバを
失う。
たまには、(ときどきは)、ハメをはずしてバカになる。
バカなことをする。

しかし低劣性は、別。
低劣性は、人間性の否定と考えてよい。
いくら人間らしい顔をしていても、中身は動物以下。
動物でも、そこまで落ちない。
言い換えると、私たちは常に、その低劣性と闘う。
方法は簡単。

 低劣な人と、低劣な話をしない。
常に高邁さを求めて、前に向かって進む。
その一語に尽きる。

(1)愚痴は言わない、聞かない。
(2)悪口は言わない、聞かない。

 陰口、不平、不満は言わない、聞かない。
近親者のゴシップ、詮索は、タブー。
それを繰り返していると、その人の人間性は、どんどんと腐っていく。

 ついでに一言。

 50歳を過ぎると、その人のもつ人間性が、明確な方向性を示すようになる。
低劣な人かどうか、方向性がはっきりとしてくる。
つまりそれまでの生き様が、そこで集約される。
大切なことは、それまでに、いかに自分の生き様の基盤を作っていくかということ。
だれのためでもない。
自分のため。

(補記)

 この1年以上、地元の観光バス会社が運営する観光旅行には、参加していない。
たいてい何組かのおしゃべりオバサンがいて、(オジサンも多いが)、一日中、大声で
しゃべっている。
そのうるさいことと言ったら、ない。
しかも話の内容が低劣。

「親の三回忌に来ないような息子は、人間のクズ」
「あゆを送ってやったが、礼は電話だけ。あの人は一流大学を出ているかもしれないが、
人間のクズ」
「病気の母を見舞ったが、ふとんの下に浴衣が丸く、ぺっしゃんこになっていた」
「弟は借家の家賃をネコババし、税金は私に払わせている」と。

 それに答えて横にいた女性が、「そうよ、そうよ、そういう人は地獄に堕ちるわよ」と。

 話の内容もコロコロと変化する。
脳に飛来した情報を、音声を換えているだけ。

 で、私が「少し静かにしていていただけませんか?」と声をかけると、こう言った。
「私ら、おしゃべりが楽しみで、旅行に来ているのよねエ」と。

 旅行が終わってそのバスを出るときも、こう言った。
「さようなら。おかげで楽しかったです」と。
以来、その観光バスを利用するのを、や・め・た!


Hiroshi Hayashi++++++Nov 2010++++++はやし浩司(林浩司)

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