最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●マガジン(11-13日号)親子関係について

2009-11-13 06:55:52 | 日記
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   09年 11月 13日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●親子の形態(Types of Families)

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親子の形態を大きく分けると、つぎの
3つになる。

(1)民主型親子(親子が友だち関係、平等主義)
(2)独裁型親子(親絶対主義、権威主義的関係)
(3)放任型親子(家族のつながりが希薄、独立型)

親子によって濃淡はあるが、これら3つが、
それぞれ入り混ざっているケースもある。
あるいは時と場合に応じて、微妙に変化するという
親子も珍しくない。
(参考:「心理学用語」(かんき出版))

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●家族

 親子といっても、基本的には、人間と人間の関係。
そのとき重要なポイントは、親が子どもの人格をどの程度認めているかということ。
1人の独立した人間として、どこまで認めているかということ。

 日本では、元来、子どもをモノ、つまり、「家」の付随物として見る傾向が強い。
上下意識、家父長意識が強く、親は、そのため権威主義的なものの考え方をする。
親(先祖)を絶対視する傾向も強い。

 上記、3つの類型から選ぶなら、(2)の独裁型親子が、大半を占める。

●子どもの人格

 よく日本の民主主義は、異質であると言われる。
理由のひとつに、日本人は、民主主義を、それを必要として、自分で勝ち得たものでない
ということがあげられる。
旧態依然の封建制度を温存したまま、敗戦と同時に、アメリカによって与えられた……と
いうよりは、押しつけられた。
だから表面的には民主主義国家になったが、中身は、そのまま残った。

 その一つが、(子どもの人格)ということになる。
戦後、女性は自分の地位を確立したが、子どもはそのまま残された。
子どもをモノとして見る見方は、今でも残っている。

●民主主義は家庭から

 日本人が本当に民主主義国家になるためには、家庭の中から、それを始めなければなら
ない。
わかりやすく言えば、『民主主義は、家庭から』ということ。
さらに言えば、子どもを1人の人格者として認める。
「友」として認めるということになる。

 が、ここで誤解してはいけないのは、友として認めると言っても、「放任して、好き勝手
なことをさせろ」ということではない。
対等の人間として認めることをいう。

●一長一短

 これら3つの類型には、それぞれ一長一短がある。
家族としてまとまりやすいのは、(2)の独裁型家族ということになる。
(1)の民主型家族は、家族としては、まとまりにくい。
が、ひとたびまとまれば、(2)の独裁型家族にはない、創造性と柔軟性、独立性を発揮す
る(参考、同書)。

 一方(3)の放任型親子は、それぞれに独立精神が旺盛だが、その分だけ家族間の絆(き
ずな)が希薄となる。

●放任型親子

 (3)の放任型家族の最大の問題点は、「家族」としての役割が、相互に希薄であること。
たとえば家族には、(教えあう)という機能がある。
そのため独立心は旺盛でも、知的、教育的な意味においては、高い成果を求めにくい。

 子どもというのは、その置かれた環境の中で、作られていく。
ここでいう「型」といっても、あくまでも(結果)でしかない。
言うなれば無責任な育児観が集合されて、その結果として(3)の放任型家族になったと
いうのであれば、好ましい点は、何もない。

●これからの親子

 親には3つの役目がある。
(1)ガイドとして、子の前に立つ。
(2)保護者として、子のうしろに立つ。
(3)友として、子の横に立つ。

 この中で、日本人がもっともおろそかにしてきたのが、(3)の「友として、子の横に立
つ」ということになる。
「友」というのは、同一の人格者という意味である。

 先日もあるラジオ番組(ニッポン放送)の中で、あるパーソナリィテイの人と話したら、
その人はこう言った。
「友となったら、家族がバラバラになってしまう。それでいいのか」と。

 「友」といっても、先にも書いたように、何も、子どもに好き勝手なことをさせろとい
う意味ではない。
1人の独立した、かつ対等の人間として認めることをいう。
今までの日本人にもっとも欠けていた部分ということで、むしろ積極的に、この部分を拡
大してもよいのではないか。

 つまり今の今でも、日本人は、子どもの前に立ったり、うしろに立ったりするのは得意。
しかし子どもの横に立つのが苦手。
どうしても子どもを、子ども扱いしてしまう。
それが親子関係を、ギクシャクしたものにする。

 が、「友」として子どもを見ると、子育ての世界が一変する。
子育ての仕方も変わってくる。
またそのほうが、子育ても楽しい。
子どももあなたに心を開くようになるだろう。
が、そうでなければそうでない。

 以上、親子の形態について、考えてみた。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●うつ病と自殺

++++++++++++++++++

うつ病の人が、自殺を企てやすいという話はよく聞く。
しかしそのうつ病の私(?)について言えば、
うつ秒イコール、自殺ではない。
(私が「うつ病」と診断されたわけではないが……。)

自殺するには、もうひとつの重大な要因が必要である。
「絶望」という要因である。
うつ病だけでは、自殺願望は生まれない。
うつ病状態のところへ、絶望が加わると、その人は
一気に「死」に向かって歩み始める。

++++++++++++++++++++

自己否定、希望の喪失、虚無的無力感、閉塞感……。
こういったものが、同時に襲ってくる。
とたん、「死」が目の前を横切るようになる。
「自殺モード」というのが、それ。

この状態になると、死への恐怖感は、ほとんどなくなる。
あたかも「死」が、生きるためのひとつの方法のように
思えてくる。
「死ぬことによって、楽になろう」という考え方ではない。
「死」そのものが、生きるための(結論)ということになる。
だからこれはあくまでも私の想像だが、自殺する人というのは、
心の状態がたいへん穏やかなまま、それを選ぶ。

 力んだり、声をあげてギャーギャーと叫びながら自殺する
人はいない。
また力んでいたり、ギャーギャーと騒ぐようであれば、自殺など
しない。

 子どもの世界も、同じように考えてよい。
「死んでやる」「自殺してやる」と声に出して言う子どもは、
自殺などしない。
「死ぬ」ということがどういうことかわかっていない。
いないまま、それを口にする。

(ただしそれが途中で変化して、本当に自殺してしまうケースも
ないわけではないので、あまり油断してはいけないが……。)

●ではどうするか

 うつ病といっても、軽重はあるだろうし、症状もさまざま。
しかし一般論から言えば、「絶望感を与えない」。
「ああ、おしまいだ。これで私は何もかも失う」「失った」という
状況に、本人をもっていかない。
それが自殺防止の鍵ということになる。

 「あなたはひとりぼっちではない」
 「まだ何とかなる」
 「方法がある……」と。

 そうした希望、……それがどんなに小さなものであっても、その
希望があれば、その希望がその人(子ども)を自殺から、守る。

●メカニズムのちがい

 うつ病のメカニズムと、自殺のメカニズムは、相互に関連性は
あるものの、基本的に別のものと考えてよい。

 うつ病は、脳内ホルモンの問題。
脳内のホルモンが変調して、うつ病になる。
 自殺は、脳の機能の問題。
もっと言えば、脳内の特殊な機能が働いて、その人をして、「死」に向かわせる。

 (もちろん強度のうつ状態が、絶望感を招くことはある。
反対に、絶望感が、うつ状態を招くこともある。
その区別は、たいへんむずかしい。)

 わかりやすく言えば、うつ病だけでは、人は、自殺などしない。
初期の段階では、心の緊張感が慢性的に持続し、それが臨界点を
超えると、今度は、極端な弛緩状態になる。
最近話題になっている、「微笑みうつ病」(異様なほど、ニコニコ笑って
いるのが、特徴)にしても、すでにこの状態で、心は臨界点を超えていると
みる。

 こうした状態のとき、先に書いたように、絶望感を覚えると、
心は一気に自殺モードになる。
方法は問題ではない。
どんな自殺の仕方であれ、それはあくまでも結果でしかない。

 自殺を考えていて、ふと思いついたので、ここに書き留めておくことにする。


Hiroshi Hayashi++++++++OCT.09+++++++++はやし浩司

【怒りのメカニズム】

「こうでありたい」という欲望。
「こうであってほしくない」という欲望。
「これがほしい」という欲望。
「私」であるがゆえに生まれる、もろもろの欲望。
これらを総称して、「エゴ」という。

 そのエゴが何らかの形で抑圧されると、そのエゴを解放させようと、一気に
情緒は不安定になる。
知性や理性の、止め具がはずれる。
それが(怒り)という感情となって、爆発する。

つまり人がなぜ怒るかといえば、抑圧されたエゴを解放するため。
このメカニズムがわかれば、自分で自分の(怒り)をコントロールすることができる。
順に考えてみよう。

●自己のエゴ

エゴは、それが満たされないとき、さまざまな姿に形を変える。
心配、不安、不平、不満……。
それが臨界点を超えたとき、つまり、コントロールできなくなったとき、
ときとして、それは(怒り)となって爆発する。

 が、もしこの段階で、エゴを自分でコントロールできれば、(怒り)は、
起きない。
エゴは、抑圧された状態のまま、見た目には静かになる。

●他者に向かう怒り

 (怒り)には、つねに2つ方向性がある。
自分に向かう(怒り)と、他者に向かう(怒り)である。
しかし基本的には、(怒り)は、最初は自分に向かう。
まず(自分に向かう怒り)が始まり、それが(他者に向かう怒り)に変化する。
原因や理由が他者にあれば、(怒り)は、直接、他者に向かう。
が、そのばあいでも、他者を代償的に利用しているにすぎない。

●交通事故

 簡単な例で考えてみよう。

たとえばあなたが運転をしていて、うしろから別の車に追突されたとする。
幸い怪我はなかったが、買ったばかりの新車に、大きな傷がついた。

 こういうケースでは、あなたは追突した相手に、大きな(怒り)を覚える。
「君が、へたくそな運転をしていたからだ!」と。

 しかしもしそのとき、あなたが運転していた車が、ボロボロのポンコツ車
だったとしたら、どうだろうか。
あるいは、あなたがたいへんな金持ちで、同じような車を、何百台も
もっていたとしたら、どうだろうか。
あるいは「車の傷など何でもない」と考えるタイプの人だったとしたら、
どうだろうか。

あなたの(怒り)は、あなたのエゴの状態に応じて、変化するにちがいない。
つまりまず(自分への怒り)が起こり、それが(他者への怒り)へと変化する。

 「どうして大切な車に傷をつけてしまったのだ」と、まず自分への怒りが
始まる。
その怒りが限界を超えたとき、その怒りは、今度は、外に向かう。
「お前のせいで、私の車に傷がついた」と。

●エゴと怒り 

 ここが重要だから、もう一度、別の例で考えてみよう。

 つまりエゴが強大であればあるほど、(怒り)もまた、強大なものとなる。
たとえば何か、インチキな商品を売りつけられたとしよう。
私も最近、そういう商品を売りつけられた。

 「謎のUFO」というような商品だった。
販売店にビデオが用意されていて、それを見ると、UFOの模型が自由自在に、
空中を不思議な飛び方をしていた。

 値段は、3000円。
で、家で箱を開けてみると、空を飛ぶといっても、細い糸でつりさげるだけの
インチキ商品だった。
言うなれば、手品のようなもの。
「ナーンダ」と思って、そのままで終わってしまった。

 が、もしそれが3000万円だったとしたら、どうだろう。
「ナーンダ」で、すますことはできない。
3000円だったから、「ナーンダ」ですんだ。
3000万円だったら、「コノヤロー」となる。

 このばあいも、まずだまされた自分に怒りを覚える。
額が小さいときは、「ナーンダ」ですますことができる。
しかし額が大きいときは、だまされた自分に腹が立つ。
「どうして私は、あんなバカなものを買ってしまったのだ」と。

 そしてその怒りが臨界点を超えたとき、「どうしてあんなものを
私に売りつけたのだ」という怒りに変わる。
売りつけた相手に、怒りが向かう。

●死への怒り

 ところで人が感ずる(怒り)のうち、最大のものは、(死)に対する
怒りということになる。
人は、死によって、すべてを失う。
すべてを奪われる。
財産や名誉や地位のみならず、肉体をも、だ。

 最初、死を宣告されると、ほとんどの人は、混乱し、その混乱が一巡すると、
今度はげしい(怒り)を覚えるという。(「死の受容段階論」(キューブラー・ロス))。
このばあいの(怒り)も、「失いたくない」というエゴが、原点になっている。

●エゴとの闘い

 (怒り)との闘いというのは、そんなわけで、自分の中に潜む(エゴ)との
闘いということになる。
さらに言えば、「私」との闘いということになる。

 私の財産、私の家族、私の名誉、私の地位などなど。
もちろん私の生命というのも、ある。
そういったものが、さまざまな立場で、さまざまに形を変えて、エゴとなる。
そのエゴが、危険にさらされたとき、心配、不安、不平、不満となって姿を
現す。

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