最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

(2)

2010-01-29 08:39:02 | 日記


●氷河期とは言うが……

 今さら野心的に生きろと言っても、今の若い人たちには、無理。
社会制度そのものが、資格と法律で、がんじがらめになっている。
今では、地方の田舎町でガイドをすることにさえ、資格がいる。
野心的になりたくても、なりようがない。

 ……と言っても、若い人たちには、理解できないかもしれない。
が、現実に、私は、浜松へ来たころ、ワイフと2人で、電柱に張り紙をして歩いた。
「翻訳します」と。

 当時は資格など、必要なかった。
浜松市の商工会議所に、翻訳家として登録していたのは、私を含めて2人だけ。
仕事はいくらでもあった。
お金にもなった。

 仕事がなかったら、リヤカーを引けばよい。
電柱に張り紙をすればよい。
(そう言えば、今では電柱に張り紙をすることさえ禁止になっている。
リヤカーなど、どこにも売っていない。)

 ……という原点に、私たちは一度、戻ってみる必要がある。
つまりその(たくましさ)がないと、この先この日本は、このアジアの中でさえ、生きて
いくのさえ難しい。
理由は簡単。
中国人にせよ、インド人にせよ、かつての日本人のように、たくましい。
中国人やインド人を猛獣にたとえるなら、現在の日本人は、ニワトリのようなもの。
まともに戦ったら、勝ち目は、ない。
ぜったいに、ない。

●補記

 10年ほど前、「フリーター撲滅論」を展開した、どこかの高校の校長がいた。
「撲滅」というのは、「棒か何かで、叩きつぶす」という意味である。
ほかのだれかが言ったのなら、まだ許せる。
校長だから、許せない。
しかも自分は、権利の王国に住みながら、そういうことを言うから、許せない。
何が、撲滅だ!

 言い換えると、日本人が、こうまでキバを抜かれてしまったのは、現在の教育制度に問
題があるというよりは、教師自身の生き様に原因がある。
よほどのヘマをしないかぎり、クビになることはない。
生活に困ることもない。
そのため教師自身から(たくましさ)が消えた。
その結果として、子どもたちから、(たくましさ)が消えた。

 では、どうするか?

 ひとつには、この(完成されすぎた社会のしくみ)を、ゆるめる。
わかりやすく言えば、行過ぎた官僚制度を、一度、解体する。
「制度」というより、そうした制度の中で、がんじがらめになった「心」を解体する。
若い人たちは、「これが社会」と思っているかもしれないが、それこそ、世界の非常識。
がんじがらめにされていることにさえ、気がついていない。

 だからこそ、クラーク博士は、こう言ったのだ。
「Boys, be ambitious!」と。
「大志」ではないぞ。
どこか出世主義の臭いがする、「大志」という意味ではないぞ。
「野心的」だぞ。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hay
ashi 林浩司 BW はやし浩司 boys be ambitious 野心的であれ 大志)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

☆●移りゆくネットの世界


++++++++++++++++++++


来年(2010年)早々、BIGLOBEの電子マガジンサービスが、
廃止されることになった。


理由は、「スパムメールと誤解され、また各プロバイダー(サーバー)の
ほうで、スパムメールとして処理されることが多くなったため」とか。


電子マガジンを利用して、スパムメールを流している人も多い。
勝手にアドレスを代理登録して、1日に、何十通も流すというやり方である。
そういうトラブルが跡を絶たない。


この世界は、変化がはげしい。
新しいサービスがつぎつぎと生まれ、古いサービスがつぎつぎと姿を消していく。
私のように(?)、まじめに電子マガジンサービスを利用している人も多いはず。
そういう人たちが、そうでない人たちの心ない利用の仕方によって、影響を受ける。
とても残念。


その代わり、今は、BLOGが全盛期。
BLOGだけでも、毎日、3000~4000件のアクセスがある。
ほんの一部だけを読んで、「バ~~イ」という人も含まれるので、3000~4000件、
イコール、読者数ということではない。
それはよくわかっている。


さらに今では、TWITTERや、FACEBOOKというサービスも生まれた。
急速に利用者がふえている。
また個人のHPよりは、ポータルサイトのほうが、勢力を伸ばしつつある。
どうであれ、この世界は、今、どんどんと変化しつつある。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec. 09+++++++++はやし浩司

●私は私

++++++++++++++++++++++++++++

Aさんは、Xさんを、「すばらしい人」と評価する。
しかし同じXさんを、Bさんは、「下衆(げす)」と評価する。
こうした場面には、よく出会う。

++++++++++++++++++++++++++++

●印象の種

 人の印象は、第一印象で、そのほとんどが決まる。
一度できた印象は、そのあと、よほどのことがないかぎり、変わらない。
で、最初の印象を「種」とするなら、人はその種を育てるようにして、その人の
人物像をつくりあげていく。
よい点だけを見て、ますますその人をよい人と思うようになる。

 が、最初の第一印象が悪かったら、どうなるか。
今度は逆の現象が起きる。
悪い点ばかりが気になり、ますますその人を悪い人と思うようになる。

●鬼みたいな人

 もう7、8年前になるが、近所の女性が亡くなった。
そのとき88歳くらいではなかったか。
穏やかでやさしい人だった。
いつも歩行器を押しながらやってきて、ちょうど私の家の前で反転し、
自分の家に戻っていった。

 で、亡くなってからしばらくしたときのこと。
その女性の隣に住む男性と、立ち話になった。
私が「あの方は、仏様のような方でしたね」と言ったら、その男性は、顔色を変えて
こう言った。
掃き捨てるような言い方だった。

「とんでもない! あの人は、若いころは、鬼みたいな人でした!」と。

私はその落差というか、印象のあまりのちがいに驚いた。

●長電話

 実は、昨夜、長電話の最長記録を作った。
ある従姉(いとこ)と、1時間55分も、話した。
従姉だから、伯父、伯母の話になった。
私には母方だけで、13人の伯父、伯母がいた。
そのうちの10人は亡くなったが、現在、3人の伯父、伯母がまだ生きている。
いとこにしても、母方だけで、正確に数えたことはないが、40人以上もいる。
父方も含めると、63、4人になる。
話の種は尽きない。

 長電話の中で、伯父や伯母、いとこたちに対する印象が、ときどき、まったく正反対
なのを知って驚いた。
その人がよい人と言うときも、そうでないと言うときも、電話の向こうの従姉は、そのつど理由を言った。
一方、私はいちこたちとの交際が希薄なこともあって、驚くばかり。
「浩司君(=私)、知らなかったの?」と言うから、そのつど「ヘエ~、知りませんでした」
と答えるだけ。

●決め手

 話の内容は、ここでは重要ではない。
またそんなことを書いても、意味はない。
私はいとこの話を聞きながら、同じ人なのに、どうしてたがいがもつ印象がこうまで
ちがうのか、それが不思議でならなかった。

 あえてその理由を並べてみる。

(1)金銭問題が、ひとつの決め手になる。
(2)たがいの連絡の親密度が、ひとつの決め手になる。
(3)が、何よりも重要なのは、第一印象、と。

 私も従姉も、金銭問題で悪い経験をもった人には、悪い印象をもった。
疎遠になればなるほど、よい印象でも悪い印象でも、熟成される。
よい印象をもった人は、さらにその人に対して、よい印象をもつようになる。
そうでなければ、そうでない。
そうした印象の基盤は、第一印象で決まる、と。

 が、その人の印象というのは、離れて住んでみないとわからない。
さらに(時の流れ)の中に置いてみないと、わからない。
その上で、「あの人は、すばらしい人」ということになる。
「あの人は、悪い人」ということになる。

●みなによい顔はできない

 私のばあい、いとこたちの間で、どう思われているか、知らない。
知りたくもない。
私は私だし、それがよいものであっても、悪いものであっても、私の知ったことではない。
見方によって、私は善人にもなるし、悪人にもなる。
相手の見方しだい。
それを知っているから、「どうでもいい」となる。

 同じように、私がだれか1人の人を、「いい人」と思ったところで、それは私だけの
印象。
その印象を、他人に植えつけようとは思わない。
反対にばあいも、そうだ。
私は私、人は人。

●決め手は親密度

 ……ということで、1時間55分になった。
で、その結論。

 誠実な人は、よい印象をもたれる。
不誠実な人は、悪い印象をもたれる。
長い時間をかけて、そうなる。

 ……とは言っても、他人の目など気にしてはいけない。
その必要もない。
どんなに誠実に生きても、みなによい顔はできない。
とくに親戚関係というのは、一方的な意見だけを聞いて、その人の人物像を作りあげる。
そういうことが多い。
その点、密度、つまり親密度がものを言う。
悪人どうしが近くでワーワーと騒げば、どんな誠実な人でも、悪人に仕立てられる。
(だからといって、親類に悪人がいるということではない。誤解のないように!)

 仮に悪く言われていても、遠くに住んでいると、反論することもできない。
だから「私は私、人は人」となる。

 1時間55分の長電話で、私は、それを学んだ。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec.09+++++++++はやし浩司

●山のあなた

山のあなたの空遠く
「幸」住むと人のいふ。
ああ、われひとと尋めゆきて
涙さしぐみ、かへりきぬ
山のあなたになほ遠く
「幸」住むと人のいふ。

あなた=かなた
尋(と)めゆきて=たずねて行って
涙さしぐみ=涙ぐんで

(カール・ブッセ)(上田敏訳)

+++++++++++++++

 小学5年生が使うワークブックに、カール・ブッセの詩が載っていた。
何度か読んでいるうちに、切なくなってきた。
意味はよくわからないが、切なくなってきた。
解釈の仕方はいろいろある。
読む人によって、思いもちがう。
ただ「幸せ」というのは、そういうものかもしれない。
ここでいう「幸せ」というのは、「亡くなった人」とも解釈できる。
「あなた」が、「遠くに」と、「あなた」の掛詞(かけことば)になっているようにも
思う。
愛する人が亡くなった。
そのさみしさに耐えかね、幸せを求め、遠くまでやってきた。
しかし幸せは、さらに遠くにあって、手が届かなかった。
私には、そんな情景が浮かんでくる。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec. 09+++++++++はやし浩司

●正常と異常

++++++++++++++++

何をもって「正常」といい、何をもって
「異常」というか?
実のところ、正常には基準はない。
異常にも、基準はない。
たとえば精神医学の世界では、「正常」という
概念はない。
わかりやすく言えば、この世界には、
「正常な人」というのは、いない。

また「異常気象」とはいうが、気象学の
世界では、「異常」という概念はない。
その定義すら、ない。

その気象。
09年を振り返ってみて、特異だったのは、
長梅雨。
そのため日本各地で、記録的な日照不足が
起きた。
正確には、「観測史上初の短さ」ということに
なる。
が、だからといって、「異常」とは言わない。

+++++++++++++++++

●異常気象

 いくら「おかしい」と思っても、そこには原因がある。
原因がある以上、いきなり「異常」という言葉で片づけることはできない。

たとえば09年の日照不足にしても、その原因は、長梅雨。
さらに長梅雨の原因はといえば、「エルニーニョ現象」。
太平洋東部(南米沖)の海水温があがると、相対的に、日本の南の海水温がさがる。
簡単に言えば、太平洋という海をはさんで、東部と西部が、シーソーをしているようなも
の。
太平洋東部の海水温があがれば、「エルニーニョ現象」。
太平洋西部(日本の南部)の海水温があがれば、「ラニャーナ現象」。
09年は、エルニーニョ現象のため、相対的に、西部の海水温がさがった。
そのため日本に張り出す太平洋高気圧が弱くなり、夏らしい夏がこなかった。
そのため長梅雨になり、日照不足が各地で観測された。

 こうした現象を、「異常」とは言わない。
しかし「異常気象」という言葉だけが、今、ひとり歩きしている。
言うなれば、「異常」という言葉を使うことによって、思考することをやめてしまっている。

●子どもの世界

 子どもの世界でも、(もちろん)、「正常」「異常」という言葉は、存在しない。
その概念もなければ、定義もない。
あるはずもないし、またあってはならない。

 「問題のある子ども」というのはいるが、しかし仮にそうであるとしても、そこには原
因がある。
理由もある。
ほとんどは子ども自身の問題というよりは、子ども自身には責任のない問題である。
また「問題」といっても、それは固定された視点から見て、「そうだ」と言うにすぎない。
別の視点から見れば、問題が問題でなくなってしまう。
言い換えると、「問題」というのは、その子どもを見る「視点の問題」ということになる。
さらに言えば、「問題のある子ども」というのは、存在しない。

 たとえば不登校にせよ、学習障害児にせよ、AD・HD児にせよ、「学校教育」という枠
(わく)の中で、「問題のある子ども」と言うにすぎない。
学校教育という枠をはずれれば、何でもない。
むしろ別のすばらしい才能を発揮することもある。

 言い換えると、「正常」「異常」、さらには、「問題」にせよ、これらはすべて人間が勝手
に作りだした言葉にすぎないということ。

●まず、認める

 そこで重要なことは、たとえば現在の気象状態を見ながら、「異常」「異常」と騒ぐこと
ではなく、冷静に原因と理由を見つめていくということ。
この世界では、思考力のない人ほど、「異常」「異常」と騒ぎやすい。
またそういう言葉を使うことによって、自らの思考力を停止してしまう。

 子どもの世界も、またしかり。
そこにそういう子どもがいるなら、そういう子どもと認めた上で、その子どもに合った指
導をする。
すべてはそこから始まり、そこで終わる。
とくに教育者は、ドクターとは立場が異なる。
診断名をつけて、治療するなどということは、ドクターに任せておけばよい。
もちろんその知識をもつことは重要なことだが、だからといって、私たちには、どうする
こともできない。
その子どもを、そこを原点として、前向きに伸ばしていく。

 実際、私の経験からしても、問題のない子どもはいない。
どんな子どもにも、それぞれ何かの問題がある。
だから「問題がある」という前提で子どもを見るのではなく、「その子はそういう子どもで
ある」と認める。
へたに「なおしてやろう」と考えると、教えるのもたいへんだが、子どもも疲れる。
指導法をまちがえると、子どもをかえって悪い方向に、追いやってしまう。
だから、「あるがまま」。

コメントを投稿