最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

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2010-10-31 11:45:12 | 日記

●孤独

 不安と孤独は、いつもペアでやってくる。
こういう離れた土地へやってくると、私はいつも、そうなる。
不安感が孤独を呼ぶのか。
孤独が不安を呼ぶのか。
横にワイフがいるはずなのに、心の中をスースーと隙間風が吹く。
なぜだろう?
どうしてだろう?
老齢のせいだけではない。
私は若いころから、そうだった。

 横を見ると、ワイフは寝息を立てて、もう眠っていた。

●10月30日

 午前中、再び国際通りを歩いてみた。
昨夜、カメラをもってくるのを忘れた。
それで再び、国際通りへ。

 「やはり夜景のほうがよかった」と私。
昼間の国際通りも悪くはないが、異国風という点では、夜景のほうがよい。
私は国際通りを歩きながら、片っ端からデジタルカメラで写真を撮った。

●台風14号

 沖縄へ向かうときも恐ろしかった。
しかし帰るときは、もっと恐ろしかった。
ちょうどその時刻。
台風14号は、羽田にもっと接近していた。

 飛行機は大きく揺れた。
が、息子のアナウンスが、私たちを安心させた。

「落ち着いた声で、ゆっくりと話せ」と、昨夜、父親らしく(?)、指導した。
「あのな、ぼくのように飛行機恐怖症の人も多いはず。そういう人たちに安心感を
与えるような言い方をしなければいけない。若造の声で、ぺらぺらとしゃべられると、
かえって不安になる」と。

その効はあったよう。
息子は、昨日より、ずっとじょうずにアナウンスした。
静かで、落ち着いた声だった。
 
 飛行機は何度か大きく揺れたが、無事、羽田空港に着陸した。
さすがB777-300。
安定感がちがう。
それ以上に、操縦がうまかった。

●品川から浜松へ
 
 品川から京急線で、18分。
羽田がぐんと便利になった。
しかしこんなことは、40年前にしておくべきだった。
おかしなところに国際空港を作ったから、日本の航空会社は、世界の航空会社に
遅れをとってしまった。
アジアで今、ハブ空港といえば、韓国の仁川か、シンガポールのチャンギ。

 成田空港がいかに不便なところにあるかは、外国から成田空港に降り立ってみると
よくわかる。
がんばれ、羽田!
往年の栄華は無理としても、少しは取り返せるはず。

●帰宅

 無事、帰宅。
あまり楽しい旅行ではなかった。
息子に会ったときも、さみしかった。
別れたときは、もっとさみしかった。

 ワイフに、「これからは2人ぼっちだね」と言うと、「うん」と言って笑った。

「健康だ、仕事がある、家族がいるといくら自分に言って聞かせても、健康も
このところあやしくなってきた。仕事も年々、低下傾向。今では家族もバラバラ」と。
電車の中でそんな話をすると、ワイフは、こう言った。

 「だからね、あなた、私たちはね、これからは自分のしたいことをするのよ」と。

 ワイフのよい点。
いつも楽天的。
ノー天気。
ものごとを深く考えない。
「この人はいいなあ」と、すっかりバーさん顔になったワイフを横から見ながら、
そう思った。

 以上、沖縄旅行記、おしまい。

はやし浩司 2010-10ー31記

(補記)

【息子のBLOGより】2006-10ー27

●三男のBLOGより

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三男が、仙台の分校に移った。
パイロットとしての、最終訓練に移った。

操縦しているのは、あのキングエアー。

MSのフライト・シミュレーターにも、
その飛行機が収録されている。

文の末尾に、キングエアーの機長席に座る
友人を紹介しながら、
「このコクピットに、ようやくたどり着きました」と
ある。

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【仙台フライト課程】

 1年と半年前、パイロットのパの字も知らなかった僕が、宮崎に来
て、最初に出会った先輩が、まさにその時、宮崎フライト課程を修了
し、仙台へ旅立とうとしていたところだった。その口から発せられる
意味不明な単語の羅列。本気で同じ国の人とは思えなかった。中には
僕よりも年下の先輩もいたが、その背中はとてつもなく大きく、遠い
ものに感じられた。そこまでたどり着く道のりが、果てしなく長く、
険しいものに感じられた。

 あれから、色んなことがあった。毎日が、これでもかと言わんばか
りに充実していた。すごい勢いで押し寄せては過ぎ去っていく知識と
経験の波にもまれ、その一つ一つを逃さぬように両手を一杯に広げ、
倒されぬよう走り続けて来た。

初めて飛んだ帯広の空。細かい修正に苦労した宮崎の空。教官に叱咤
激励され、同期と切磋琢磨し、涙を流したことも数知れず。楽しかっ
たが、決して楽な道のりではなかった。その間に垣間見た、キングエ
アと仙台の空の夢。フライトを知れば知るほど、遠くなって行くよう
な気がしていた。途方に暮れてうつむくと、そこには誰かの足跡が。
そう、あの時見た先輩たちの足跡だ。大きく見えた先輩たちも、この
細く曲がりくねった道を一歩ずつ這い上がって来たのだ。

 そして今日、僕は、空の王様、キングエアと共に再び空へ飛び上が
った。ずっと想像していただけの景色が、現実にそこに広がっていた
。コクピットに座り、シートベルトを締め操縦桿を握ると、ハンガー
の向こう側から1年前の僕が見ている気がした。あの頃の僕の憧れに
、ようやくたどり着いたのだ。先輩たちが踏み固めてくれたあの道は
、確かに、この空に続いていたのだ。

人は成長する。それを強く実感した一日だった。毎日、少しずつでも
いい。前進し続けること。小さな成長を実感し続けること。時々、何
も変わっていないじゃないかと失望することがあるかもしれない。そ
れでも、諦めないこと。そうすることで人は、自分よりも何百倍も大
きかった夢を、いつの間にか叶えることが出来る。そういう風に、出
来ているのだ。努力は必ず報われる。

 最高の教育と、経験と、思い出を、僕は今ここで得ている。一つも
取りこぼしたくない、宝石のような毎日だ。

このコクピットに、ようやくたどり着きました。

(以上、原文のまま。興味のある方は、ぜひ、息子のBLOGを訪れ
てやってみてください。私のHPのトップ画面より、E・Hayas
hiのWebsiteへ。)

Hiroshi Hayashi+++++++Oct. 2010++++++はやし浩司

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【ようこそハナブサ航大日記へ】

 航空大学校は、国が設置した唯一の民間パイロットの養成学校で、宮崎に本校が置かれています。入学するとまずこの宮崎本校で半年間座学を行い、その後帯広分校に移って初めて自分の手で飛行機を操縦します。

半年後、自家用レベルまで成長した訓練生たちは再び宮崎に戻り、宮崎フライト過程へと進みます。ここでは事業用レベル、つまりプロになるための訓練を行います。半年後、宮崎を卒業し、最終過程が行われる仙台分校へ移動、より大きな飛行機への移行訓練、及び計器飛行証明という資格を取るための訓練に入ります。

同時にエアラインへの就職活動も始まり、卒業後はJAL,ANA,ANK,JTAなどの会社へパイロットとして就職します。仙台過程も半年間行われます。

 在学期間は計2ヵ年。その間、航大生(航空大学校生)は校舎に併設された寮で、同期や先輩・後輩たちと過ごします。部屋はすべて2人部屋。宮崎過程では先輩、後輩の組み合わせで、それ以外は同期同士の組み合わせで寝食を共にします。校舎は空港に隣接されており、宮崎、帯広、仙台とも、滑走路から「航空大学校」と書かれた倉庫が見えるはずです。同期は18人。毎年72人の募集があり、4期に分かれて4月、7月、10月、1月にそれぞれ入学します。

 ハナブサ航大日記では、ここ航大での生活を写真を通して紹介しています。僕にとっては初めての寮生活、同期や先輩・後輩や教官のこと、訓練の様子、空からの眺め、フライト中に思ったこと、などなど。訓練は厳しく、付いていくのがやっとですが、同期と助け合い、試験に見事合格したときの喜びは何にも替えがたいものがあります。

またどんなに訓練が大変でも、それを忘れさせてくれる美しさが空の上にはあります。それを伝えたい。また、何でもない一人の人間がどのようにして一人前のパイロットになっていくのか、何を考え、どう変わっていくのか。その過程を楽しんでいただければ幸いです。ときどき関係のないことも書きますが、ご容赦ください。どうぞ、楽しんでいってください。

 ちなみに自分は1981年生まれの今年25歳。航大へは去年の4月に入学し、現在仙台フライト過程です。卒業まで、あと少し!


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●2005年3月・入学

 航大に入学して今日で3日目。同期は口をそろえ、まだ3日しかいないのに、もう何週間もここにいる気がすると言う。自分もそう感じる。ここ航空大学校は、本当に厳しく、本当にすごいところだ。

 入寮した日、先輩方から手厚い歓迎を受けた。その歓迎方法は、残念ながらある理由によりここで書くことはできないが、「けじめ」と「親しみ」を同時にしっかり学ぶことができる、伝統的な
すばらしい儀式だった。同期たちとは時間が進むにつれ、どんどん深くなって行っている。こんなに人と深くなれるのは、後にも先にもこれだけだと思う。みんなほんとにいい人たちばかりで、今までの自分、人間関係っていったい何だったんだと疑問に思うくらいだ。

 はっきり言って感動しているのだろうか。今のこの心境を語るには、もう少し時間が必要だ。明日から授業が始まるので、今夜はもう寝よう。

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●2005年4月

 制服も来たので、同期全員でハンガーに行って写真を撮ろうということになった。ホームページ用のプロフィール写真もそろそろ撮り始めたかったので、個人撮影も兼ねて一同ばっちり決めていった。初めてのハンガー&エプロンは、まじやばくて、みんな大興奮。やっぱみんな飛行機好きなんだね。滑走路がもう目と鼻の先で、MDやB3の離陸、着陸にみんな釘付けになっていた。近くで見るボナンザは思った以上に大きくて、そして美しくかっこいい。乗れるのはまだまだ先だけど、今は座学を一生懸命頑張って、「生きた知識」をたくさん帯広に持っていこう。

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●2005年6月

航空機システムの時間に、聞きなれない飛行機の音。休み時間に外に出てみると、宮崎空港に航空局のYS-11が来ていた。かっこいい。既に先輩が退寮されていたので、教官にお願いして滑走路が見える側の教室に移動して授業をやってもらった。99.999%授業に集中して、残りの0.001%でYS-11を横目でちらちら。プロペラが回り始め、地上滑走、そして離陸・・・。ロールスロイスの音は気品があって、何かいい。

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●2005年7月

 本日昼頃、宮崎空港に政府専用機が来た。政府専用機といえば、アメリカで言ったらエアフォース・ワン。政府要人を乗せるための専用機なのだが、今回は首相などは乗っていない。訓練のため、宮崎空港でタッチアンドゴーをし、フルストップし、そして帰っていった。B4のタッチアンドゴーなんて、なかなか見られるものではない。

訓練とはいえ、あの飛行機のコクピットには、日本一のパイロットが乗っていたに違いない。自分たちはあの飛行機を運転する機会はないだろうが(絶対とは言い切れないが)、民間機パイロットとして、政府専用機のパイロットと同じくらい「すごい」パイロットにはなれるはず。頑張ろ
う!

 ちなみにコールサインは、シグナス(?)・ワンだった。中はいったいどうなっているのだろうか。

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●2005年7月

最近、毎週のようにテストがあって、なかなかやりたいことができない。今やりたいこと(1)ラジコンを飛ばしたい、(2)カラオケに行きたい、(3)映画を見たい(見たい映画が5個くらいある)、(4)山に登りたい、(5)一日中同期とHALOやりたい、(6)本を読みたい、など。HALOというのは、ネット対戦型ゲームで、広めてから3ヶ月くらい経つが、未だに健在。熱しやすく冷めやすい1-4にしては珍しいことだ。

 いよいよ一週間を切った事業用の試験の勉強もままならず、ATCの試験やら、実験のレポートやらが山積み。ワッペンやTシャツのデザインも考えなくちゃ。お盆休みに帰る用の航空券も、帰りの便がまだ取れていないし、事業用が終わってもレポート、試験が3つくらい、そして何より、プロシージャーという恐ろしい課題が首を長くして待っている。いったい、我々に休みというものは存在するのだろうか。

・・・いや、何を甘ったれたことを言っている。同年代の人たちはもう社会に出て働いているというのに、まだ社会の「しゃ」の字も知らないものが「辛い」などという言葉を口にするなんて、おこがましい。

 クーラーのあたりすぎか、今日は一日風邪っぽかった。鼻水が止まらない。休憩時間に寮にもどって仮眠してたら、授業に遅刻してしまった。そういえば関東には台風が来ているらしい。こないだ大きな地震もあったし、心配だ。

 夏休みに入って、宮崎空港には777が来るようになった。11時15分くらいに来て、12時過ぎに飛び立っていく。こないだは777に代わって-400が来ていた。空港に不釣合いなほどでかかった。エンジンが滑走路からはみ出ていて、普段はジェットの後流を受けないところの地面の噴煙を巻き上げながら離陸していく姿は圧巻だった。改めて、「ジャンボ」というものはすごいと感じた。

 こないだの週末にはCップの彼女さんが宮崎に遊びに来ていた。日曜の夜にみんなで飲んで、花火をやった。

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●2005年7月

 2003年7月11日、航空大学校のビーチクラフトA36(JA4133)が、エンジントラブルで宮崎市内の水田に墜落した。

 搭乗していた4名は3名死亡、1名重症の事故となった。

 今日は、校内の慰霊碑「飛翔魂」に前で、慰霊祭が執り行われた。学生は全員参列し、事故が発生した午後4時2分、1分間の黙祷を捧げたのち、献花した。

 エンジンが停止してから、墜落までの5分間、機内は壮絶としていたそうだ。眼下に猛烈な勢いでせまってくる地面を、どんな思いで見ていたんだろう。今日の天気は曇り、風はやや強く、蒸し暑い日だった。いろんなことを考えたが、思いを言葉にするよりも、今日のこの空気の感じ、風の匂いを忘れないようにしようと思った。

 亡くなられた方々のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。

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●2005年12月

目安の高度よりも若干低めでファイナルターンを開始する。滑走路と計器を交互にクロスチェックしながら、パスが高いか低いか判断する。高度が低かったせいで、旋回開始前からPAPIは2RED。スロットルをちょっと足して、ピッチを指一本分くらい上げる。滑走路が目の前に来て、ロールアウト。気温が低く、エンジン出力が増加するため、目安の出力ではスピードが出すぎてしまう。90ノットを維持できずに、速度計は95ノット近辺をフラフラ。気をとられてるうちに、エイミングがずれる。

 「エイミング!」

 右席から激が飛ぶ。あわててピッチとパワーを修正する。

 「何か忘れてるものはないか!?」

 ラダーだ。教官がこういう言い方をするのは、ラダーのことを言うときだ。僕はいつもラダーを忘れてしまう。ボールを見ると、大きく右に飛んでいる。右足にほんの少し力を入れて、機軸をまっすぐに直す・・・。

 教官と、最後の着陸。いつもとなんら変わりのない着陸。最後だから、今までで一番うまい着陸を見せたかった。でもやっぱりいつもと同じことを言われてしまう。そんな自分が歯がゆくて、悔しくて、情けなくて、でもそういう感情を押し殺して、冷静に、「落ち着け」と何度も唱えながら、僕は教官を滑走路まで連れて行く。スレショールドまで、あと900m。

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