最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●子育て談話

2009-07-26 07:14:55 | 日記
テップ・子育てジャンプbyはやし浩司(561)

●言葉能力

 日本人の男性と国際結婚した母親がいた。台湾から来た人だった。が、たいへん教育熱心な人(?)で、子ども(小一男児)がテストで、まちがえたりすると、そのつど子どもをはげしく叱っていた。ふつうの叱り方ではない。たいていは「どうして、こんなの、できない!」「できるわ!」の大騒動になった。 

 そこで私に相談があった。そのときその子どもは、小学二年生になっていた。しかし原因ははっきりしていた。その子どもは頭のよい子どもだったが、しかし言葉能力が不足していた。文章題が読めなかった。たとえば「3足す4(3+4)」と「3が4つ(3×4)」の区別がつかなかった。

母親が家の中では中国語を話していたこともある。しかしそれ以上に、母親の日本語能力が、問題だった。私と話すときも、「先生、息子、ダメ。算数、できない。どうして。これ、困る、ね」と。

 そこで私は、「お子さんの言葉能力に、問題があります」と言った。するとその母親は猛烈に反発して、「うちの子、日本語、だいじょうぶ。話せる、あるよ」と。……と書くと、簡単な会話のように思う人がいるかもしれないが、こうした押し問答が、延々と三〇分近くもつづいた。説明するのに時間もかかったが、そのたびにその母親は、ああでもないこうでもないと反論した。

「うちの子は、私が教えたら、できた。どうして学校では、できない、あるか」「中国では、一年生で、20までの数の足し引き算ができる」「うちの子、頭、いい。できないはず、ない」と。

が、何よりもその母親で不愉快だったのは、異常なまでの教育に対する、過関心だった。子どものささいなミスをとらえて、それをことさらおおげさに問題にしていた。私が「この時期は、学ぶことを楽しむことのほうが大切です。もっとおおらかに構えてください」と言ったのだが、最後の最後まで、「おおらか」という意味さえわかってもらえなかった。

この母親のケースは、極端なケースだが、しかしこれを薄めたケースとなると、いくらでもある。子どもが勉強できない原因は母親にある。しかし母親はそれに気づいていない。気づかないばかりか、このタイプの母親は、その責任は子どもにある、学校にあると主張する。そして結果として、子どもの伸びる芽すら、自ら摘んでしまう……。

 この母親とはそのあとも、いろいろあった。で、やがて私のほうが疲れてしまい、最後は、「どうぞ、自分で教育してください」と、サジを投げてしまった。そのあとその母親と子どもがどうなったか、消息は聞いていない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(562)

●あせる親

 子育ては競争と考えている人がいる。が、このタイプの親は、自分ではそれを意識していない。自分では、「ごく当たり前のことをしているだけ」と思っている。だからよけいに、指導がむずかしい。

 つぎのような症状に、思い当たるようであれば、あなたはここでいう「あせる親」と考えてよい。

●近所や知り合いの子どもが、英会話教室や算数教室に通っているという話を聞くだけで、言いようのない不安感に襲われる。自分の子どもだけが取り残されていくように感ずる(不安、妄想)。

●明けても暮れても、頭の中にあるのは、子どものことばかり。テストでまちがえたりすると、それが気になって、夜も眠られないことがある。こまかいことが気になる(過関心)。

●学校や塾の先生と顔を合わせるたびに、すかさず「うちの子、どうですか」と聞く。あるいは子どもの問題点を並び立て、「どうしたらいいでしょうか」と聞くことが多い(心配過剰)。

●日常的に、子どもの意思を自分で確かめることをしない。「うちの子どものことは、私が一番よく知っている」と思う。子どもに対する親意識が強い。子どもには命令口調が多い(過干渉)。

 こういう状態(過関心、過干渉、心配過剰、不安、妄想)が、長くつづくと、親自身の精神状態がおかしくなる。この段階から、育児ノイローゼ、うつ病に進む人も多い。しかしその前に、子どもがおかしくなる。性格が内閉したり、萎縮したりする。反対にはげしい家庭内暴力に発展することもある。そうなると、もう、勉強どころではない。

 要はいかに早く、その初期症状に気づくか、だ。が、冒頭にも書いたように、親自身がそれに気づくことは、まずない。私のような立場のものが、「お母さん、あせってはダメ。今は、子どもが楽しむことだけを考えてしなさい。幼稚園から帰ってきたら、よくがんばったわねとほめなさい」と指導しても、ムダ。つぎに会うときには、すっかりそれを忘れている。そして前と同じ会話を繰り返す。「うちの子は、ダメでねえ……」と。

 子どもというのは、親があせっても、どうかなるものではない。しかしほうっておいても育つ。そうした冷めた目が、一方で、子どもを伸ばす。もしあなたが今、自分の子育てで、あせりを感ずるようなら、こう考えてほしい。「親のあせり、百害あって、一利なし」と。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(563)

●日本の教育
 私は子どものころ、チャンバラ映画が好きだった。が、ある日のこと。Nという日本を代表する俳優の映画をみていたときのこと。日本のチャンバラ映画は、かっこうばかりで、中身がないことに気づいた。Nは、いかにも強そうなかっこうばかりをしているだけ。刀を振り回すと、相手がその刀の中に入り、自動的に(?)倒れていった。

 一方、同じころ、ブルース・リーの映画を見た。彼の演技は衝撃的だった。映画を見ているとき、自分の手足が勝手に動いた。ブルース・リーの演技には、それだけ中身がぎっしりとつまっていた。

 こうした日本映画と、外国映画の違いを一言で言えば、権威主義と実力主義の違いということになる。映画だけではない。当時の日本には、(今も……)、その権威主義が、色濃く残っていた。

とくに教育の世界はそうで、たとえば同じ教師にも、歴然とした「格」があった。一番偉いのが、大学の教授、つぎが高校の教師で、つぎが中学校の教師、小学校の教師と。幼稚園の教師は番外で、評価の対象にもならなかった。こんなことがあった。

 ある日東京のW大学の教授が、この浜松へやってきて、幼児教育について講演をした。私も聞いたが、最初から最後まで、トンチンカンな講演だった。あとで話を聞くと、その教授は、乳児のハイハイ(歩行)のし方を研究している教授ということだった。乳幼児のハイハイを調べると、爬(は)虫類(ワニやトカゲなど)の歩き方を同じだという。それはそれとしておもしろい話だが、そういう教授が、「幼児教育とは……」と講演をするから、話がおかしくなる。

 では、今、この日本が実力主義の世界になったかというと、それは疑わしい。いまだに権威主義がハバをきかせている。よい例が日本のNHK。まさに権威主義のかたまりといっても過言ではない。

どう権威主義的かということについては、外国の放送局とくらべてみるとわかる。たとえば日本のNHKは、アメリカのNBCと、北朝鮮のピョンヤン放送の中間あたりにあるのでは? ひとつずつの番組を見ていると、それなりに民主的な感じはする。が、たとえばオーストラリアなどにしばらく住み、その状態で、日本のNHKを思い出すと、そういう印象をもつ。地位や肩書きのある人には、どこかペコペコし、そうでない人には、どこか「出してやる」という傲(ごう)慢さを感ずる。

 こうした権威主義がいつごろ日本に生まれたかという問題は、いまさら論じても意味はない。大切なことは、こうした権威主義が、一方で日本が進むべき道の、大きな障害になっているということ。もっと言えば、権威主義は、「自由」や「平等」の大敵になっている。しかしそれだけではすまない。権威のある人は、必要以上に「得」をし、そうでない人は「損」をする。そしてこの不公平感が、結局は日本の学歴社会の温床になっている。教育そのものをゆがめる元凶になっている。権威主義を考えるときには、そういう問題も含まれる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(564)

●私の人間性

 子育てが終わると、どんとやってくるのが、老後。それまで何とかごまかしてきた持病が、どんと吹き出す。持病だけではない。その人の人間性まで、どんと吹き出す。気力が弱くなり、ごまかしがきかなくなるためと考えてよい。

 で、私のこと。まず健康だが、こうなってみると、長い間、運動をつづけてきたことが、喜びとなって返ってくる。私はもう三〇年近く、自転車通勤をしている。数日も自転車に乗らないでいると、体のほうがそれを求める。おかげで成人病とは無縁。まったく健康というわけではないが、しかし同年齢の友人や知人とくらべても、健康なほうだ。

 問題は、人間性。私は若いころ、ずいぶんといいかげんな人間だった。目先の利益のためなら、平気で正義をねじまげた。人をだましたり、キズつけたりしたこともある。言うなれば小ズルイ男で、そういうことが平気でできた。私は自分の中にそういう邪悪な部分があることを知っている。今は、かろうじてそういう自分を抑え込んでいるが、いつまたそういう自分が出てこないともかぎらない。いや、ときどき、顔を出す。

 先日も、コンビニの前で、サイフを拾った。善良な人なら、そういうサイフを、すぐその店に届けたりするのだろう。しかし私は、一瞬、迷った。迷って、サイフの中を見てしまった。が、幸いなことに(?)、中味は免許証とカード、それに小銭だけだった。だから店にそのまま渡すことができた。が、しかし、もしあのサイフの中に、一〇万円とか二〇万円が入っていたとしたら、どうだったか……。私はもっと迷ったかもしれない。つまりこれが私の中の邪悪な部分である。

 そこで私は気がついた。健康と同じように、人間性もまた、日々の鍛錬(たんれん)によってつくられるものだ、と。安易なだらしない生活を繰り返していれば、人間性も影響を受ける。はっきり言えば、悪くなる。そして結果として、その人は、見苦しい人間になる。いや、鍛錬といっても、むずかしいことではない。ごく日常的な、ほんのささいなことでよい。たとえばウソをつかない。ごまかさない。人に意地悪をしない。ゴミを捨てない。人に迷惑をかけない。社会のルールを守る、など。常識的なことを、ふつうに守ればよい。そういう積み重ねが、積もりにつもって、その人の人間性をつくる。

 さて私はどうか? このところときどき自分がこわくなる。今はこうして自分の気力で、自分を抑え込んでいる。しかしその気力が弱くなったとき、自分の人間性が、モロに外に出てくる。そのときどんな自分が、外に出てくることやら? プロ野球の元監督の妻に、Sという女性がいる。人間がもつあらゆる醜悪さを顔中に塗りたくったような女性だ。先ごろ脱税で逮捕されたが、あの女性を見ていると、ああはなりたくないものだと思う。しかしその自信は、私にはない。ひとつまちがえば、私だってああいう人間になる? それが今、こわい。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(565)

●自転車通勤

 二九歳のときまで住んでいたアパートからも、それ以後移り住んだ今の自宅からも、町中の職場まで、七キロある。私はその七キロを、自転車通勤をするようになって、もう三〇年になる。時間にすれば、片道、約二〇分。のんびり走れば三〇分。若いころは一五分で走ったこともある。

 そういう自転車通勤を、たいへんだと思う人も多い。私が「○○町から自転車で通っています」などと言うと、「それはたいへんですね」と言う人もいる。しかし実際には、楽しい。仕事が終わって、自転車にまたがると、そのとたん、言いようのない解放感が身を包む。が、それだけではない。

最近では、数日も自転車に乗らないでいると、体のほうがそれを求めるようになる。「ジョギング中毒」という言葉がある。走ることそのものが中毒のようになり、走らないと、かえってイライラすることをいう。同じ中毒でも、これは好ましい中毒ということになるが、自転車にもそれがある。乗って走ることが、快感なのだ。とくに長い坂をノンブレーキでくだりおりる爽快(そうかい)感は、何ものにもかえがたい。真冬の厳寒期には、ときどきつらいと思うことはあるが、その時期をのぞけば、楽しい。

 体を動かすことを習慣にすると、その習慣が、脳内にある種の変化をもたらすようだ。麻薬に似た脳内物質をつくり、それがその人を気持ちよくする、とか。たとえば山荘の近くにKさんという、働き者の人がいる。毎日、朝から晩まで、あれこれと体を動かしている。「百姓(百の仕事をする人)」とはよく言ったもので、農業はもちろんのこと、土木、建築、まさに何でもござれというような人である。先日Kさんの家を訪れたら、研磨(けんま)機で、農具を磨いていた。

 Kさんを観察してみると、あのKさんも、働くというよりは、体を動かすことによる快感を楽しんでいるのがわかる。ウソだと思うなら、夏の暑い日に、Kさんが汗をタオルでぬぐっている姿を見てみればよい。実に晴れ晴れとした、すがすがしい表情をしている。

 そこで重要なことは、いかにして、そういう習慣を自分の中につくるかということ。つけ刃(やいば)ではいけない。その前の段階として、それこそ数年単位の忍耐と努力が必要である。その段階を通りぬけると、やがてそれが習慣となり、ここでいう「中毒性」をおびてくる。そうなればあとは、自発的に体のほうが動いてくれる。そしてその結果として、健康を維持することができる。

 いや、ひとつだけわからないことがある。その自転車通勤だが、夏休みなど、一週間も自転車に乗らないでいると、多分、ふつうの人以上に、体の調子が悪くなってしまう? 体がだるくなり、起きているのもつらいと思うこともある。頭が重くなることもある。これはどういう作用によるものなのか。今度そういうことがあったら、もう少し自分をよく観察してみる。

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