最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●老後の喪失感

2010-01-06 11:39:25 | 日記
【老後の喪失感】

●喪失感

 老後というのは、喪失感との闘いと言ってもよい。
(喪失すること)に敏感になる。
(喪失すること)を恐れる。
健康、時間、金銭など。
同時に人間関係も。
だから喪失感と闘う。

 その喪失感が、ときとして被害妄想につながる。
さらにひどくなると、精神そのものを病む。
これがこわい。
こういうとき人は、何か理由をこじつけて、他人に怒りをぶつけたりする。
「だれだれが、~~したから、こうなったア!」と。

 しかし本当の理由は、自分自身の中にある。
自分自身の遺伝子の中にある。
それを、自分以外の人にぶつける。
こういうのを心理学の世界でも、「転移」と呼んでいる。
わかりやすく言えば、「八つ当たり」。

●過去における喪失感

 この喪失感には、2種類、ある。
(1) 未来に対する喪失感。
(2) 過去に対する喪失感。

 わかりやすい例で、考えてみよう。

 「やがてぼくも、ヨボヨボになるのか」と心配するのが、未来に対する喪失感。
一方、「あのとき、あいつがああいうことをしたから、ぼくは、損をした」と考えるのが、過去に対する喪失感。

 若いときには、いろいろな取引で、毎月のように、100万円単位で、損をしたり、得をしたりしていた。
だから数百万円の損失など、何でもなかった。
が、今は、そうでない。
損をしたことに敏感になる。
そればかりか、それが心の中で、勝手に膨(ふく)らんでくる。
「あいつのおかげで、ぼくは、xxx万円も損した」と。

 もう少しわかりやすい例では、こんなことがある。 
ある女性は、あるとき夫にこう言って、泣き叫んだという。
「私の人生は何だったのよ!」「私の人生を返して!」と。
これもここでいう過去における喪失感ということになる。

●母のばあい

 さらに晩年の母は、温泉へ入るのをいやがったという。
姉からそういう話を聞いたことがある。
理由をたずねると、「自分の体(=肉体)が、みすぼらしいから(=恥ずかしいから)」と。

 また毎週のように、ひざの治療のため、病院に通っていた。
が、一向にひざは、よくならなかった。
それについて母は、「どうして治らない!」と、医者に向かって怒っていたという。

 これは当時80歳を過ぎていた、母の話である。
しかし私たちもすでに同じようなことを、し始めている。
それがここでいう喪失感との闘いということになる。

●敗北感

 この先、私たちは、どんどんと、失っていく。
いやおうなしに、失っていく。
どんどんと失って、最終的には、ゼロになる。
煙となって、この世から消える。
私の母にしても、あれほどまでに、モノとお金に執着した人だったが、死ぬときは、数枚の浴衣と身の回りの道具しかなかった。
それがすべてだった。

 だれでもそうなる・・・というよりは、私たちはみな、その過程の中にいる。
が、それを認め、納得し、受け入れるのは、たいへんむずかしい。
「負け」を認めることに等しい。
あるいはときにそれは、そのまま自己否定につながる。
「いったい、私は何のために生きてきたのか?」と。
さらには、「私の人生は、無駄だったのか?」と。

●闘い

 だから闘う。
闘うしかない。
それは若い女性が、年齢を気にしながら、化粧に精を出す姿に似ている。
若さを保つとしても、本当のことを言えば、化粧して、ごまかしているだけ。
30歳の人は、25歳に見られることを喜ぶ。
が、同じ人でも、35歳になれば、30歳に見られることを喜ぶ。
「だったらはじめから、30歳らしく、あるいは35歳らしく生きればいい」と私は思う。
むなしい闘いだが、本人は、そうは思っていない。
懸命に(?)、年齢と闘っている。

 かく言う私だって、そうだ。

 もっとも私は、年齢は気にしない。
何歳に見られようが、どうということはない。
しかし健康、気力、脳みそ、などなど。
それは気になる。
が、今さら「増進」ということは無理。
それはよくわかっている。
だから「維持」ということになる。
「できるだけ、今の状態を保ちたい」。
そのための闘いということになる。

●郵便番号
 
 ところで今、恐ろしいこと(?)が起きた。
自宅のある入野町の郵便番号が、即座に頭の中に出てこなかった。
???。
ド忘れ?
それともボケの始まり?
一瞬、ゾーッとした。

 もっともここ数年、頭の中は数字だらけ。
パソコンを相手にしていると、パスワードに始まって、IDナンバーなどなど。
それが20ページもあるファイルに、ぎっしりと書き込まれている。
そこであれこれほかの数字を思い浮かべてみる。
携帯電話の番号、3本の電話番号などなど。
ついでに銀行の口座番号、証券会社のパスワードなどなど。
これらは覚えているが、郵便番号の432-806xの、「x」が、わからない。
「4」だったか?
「2」だったか?
「1」だったか?
これはどうしたことか?

 ・・・というような闘いを、日常的に繰り返すようになる。

●財産

 が、財産については、結論が出ている。
数年前から、ワイフとこう話しあっている。
「死ぬまでに、ぼくらの財産は、ぼくらで使い切ろう」と。

 たとえば土地と家は、それまでに売って、どこかの施設に入るときの資金にする、とかとか。
考えてみれば、私の人生は、一方的に(取られるだけの人生)だった。
親に取られ、親類に取られ、そして息子たちに取られ・・・。

「息子に取られる」という言い方は、適切ではないかもしれない。
しかし私たちの時代に生きた者は、親に貢(みつ)ぐことを当然と考えていた。
が、今の若い人たちには、そういう発想は、みじんもない。
結婚式の費用はもちろん、そのあとの生活費まで、親に援助してもらっている。
中には、子どもの養育費まで、親(=祖父母)に援助してもらっている人さえいる。
だから、つまり一方的なままだから、「取られる」という発想につながる。

 もちろん私の息子たちにしても、そういう発想は、みじんもない。
「老後の親のめんどうをみる」という発想すら、ない。
たがいに会話をしていても、それがよくわかる。

 だからここは私たち自身が、クールになるしかない。
それが先に書いた、「使い切る」という結論に結びついている。

●脳みその健康

 残るは健康ということになる。
ただ誤解しないでほしいのは、こう書くからといって、「長生きをしたい」ということではない。
死ぬのはこわい。
が、だからといって長生きをしたいわけではない。
またそのために健康を維持するのでもない。

 『ただの人』(ハイデッガー)のまま、老後を生きながらえたとしても、それにどういう意味があるのか?
「生きる」ことは、「息(いき)る」ことではない。
息(いき)ているだけの人生なら、早く死んだほうが、まし。
となると、やはり、脳みそということになる。
脳みその健康ということになる。

 これについては何度も書いてきたが、2つの意味がある。
(1) 思考力の維持。
(2) 脳みその健康の維持。

 思考力の維持はわかりやすい。
つまり考える力のこと。
ボケるのは、いやだ。
が、本当にこわいのは、「脳みその健康」。

とくに私のばあい、うつ病の心配がある。
今のところまだ、医者の世話にこそなっていないが、それも時間の問題。
どうすれば脳みその健康を維持できるか。
晴れ晴れとした気分で、毎日を楽しく、愉快に過ごすことができるか。
「それが問題」(That is a question)。

●432-8061

 今、思い出した。
郵便番号は、「432-8061」だ。
が、どうして先ほど、その数字が、頭の中に出てこなかったのだろう?
???
その部分を格納していた神経細胞が、たまたま死滅したのかもしれない。
何しろ、毎日20万個前後の神経細胞が、死滅している。
あるいは微細脳梗塞が起きている可能性もある。
ときどき寝ていて、寝返りをうったようなとき、ギリギリとはげしい神経痛が走ることがある。
今朝も一度、あった。
そういうとき、同時に脳の中のこまかい血管が破れているのかもしれない。
(これは私の勝手な憶測。)

 あまりにも当たり前な数字だから、そのようにしか考えていなかった。
ワープロの中では、辞書として登録してある。
「じゅうしょ」と打ち込むと、自動的に、郵便番号+住所が表記される。
一方、携帯電話の番号は、ゴロ合わせを使って覚えている。
だから忘れない。

 しかしそれにしても、ゾッとした。

●認め、納得し、受け入れる

 この先、喪失感との闘いは、ますますはげしくなる。・・・なっていくだろう。
同時に、先にも書いたように、それを認め、納得し、受け入れていく。
そういう心理的操作も必要となってくる。

 当然、自分がキズつくことも多くなってくる。
だまされたり、裏切られたり・・・。
(そういう点では、私は、ボロボロ?)
が、キズつかないように生きる・・・つまりケチな生き方をするというのは、私流ではない。
大切なことは、キズに対して免疫性をもつこと。
もっとはっきり言えば、私のワイフがいつも言っているように、「相手に期待しないこと」。
へたに期待するから、キズつく。

 考えてみれば、老後を生きるということは、そういうことかもしれない。
つまり「認め、納得し、受け入れる」ということは、ボロボロになること。
ボロボロになることを、恐れないということ。

 それが老後の喪失感と闘う、ゆいいつの方法ということになる。

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Hiroshi Hayashi++++++++Jan.2010++++++++はやし浩司

●親のニヒリズム

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「子どもなんか、産むもんじゃない」と言った人がいた。
実はそう言ったのは、私の母だった。
私が遠く(?)、郷里のM町を離れて住むようになったことについて、
そう言った。
「息子を、浜松の嫁に取られた」とも言った。

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●ニヒリズム

 世の中には、いろいろな親がいる。
それぞれの親は、それぞれにいろいろな思いや考え方をもっている。
たとえば、「息子や息子には、(学)をつけさせない」とがんばっている親もいる。
「へたに(学)をつけさせると、遠くへ行ってしまうから」と。
だからその親は、自分の息子や娘には、勉強をさせない。
「学校は、地元の高校だけでじゅうぶん」と。

 この話は、本当の話。
本当に私が、その親から、そう聞いた。

 また「子どもに学費を出すのは、もったいない」と考えている親もいる。
「大学まで出してやるのは、長男だけ」と。
長男を家の跡取りと考えているから、そう言った。
だから私が、「二男はアメリカに住んでいます」などと言うと、こう言う。
「そんなもったいないこと、よくできますね」と。

●感謝

 私は息子たちを育てているときは、そういうことは、まったく考えていなかった。
息子たちを伸ばすことだけを、懸命に考えていた。
損得の計算をしたことがない。
こと学費については、惜しみなく提供してきた。
「惜しみなく」というのは、「何も言わないで」という意味。

 が、その息子たちが、そういった私に感謝しているかということになると、たいへん疑わしい。
それがあまりにも当たり前の生活だったから、息子たちは、当たり前と考えている。
いつだったか、私が息子の1人に、こう愚痴を言ったことがある。

 「ぼくらが子どものころには、腹いっぱい、飯を食べることさえできなかった」と。
すると息子は、こう言った。
「そんなのは、バカな戦争をしたパパたちの責任」と。
つまり自業自得、と。

 大学へ通う学費にしても、そうだ。
へたに「学費を稼ぐのに、苦労した」などと言おうものなら、(言ったことはないが
・・・)、「頼んだ覚えはない」と言われそう。
反対にこう言われたこともある。
「パパは仕事ばかりしていて、ぼくたちのことをかまってくれなかった」と。

●父親という存在

 そういう自分を振り返りながら、「父親というのは、さみしい存在」と感ずる。
私のばあい、貧乏が何よりもこわかった。
だれからの援助も、受けることができなかった。
がむしゃらに働くしかなかった。
戦後のあの時代、それにつづく高度経済成長の時代というのは、そういう時代だった。
が、それについても、息子たちだけではない、今の若い人たちは、「自業自得」という言葉を、平気で使う。

 そうそうこんなこともあった。

 息子の1人がアメリカ人の女性と結婚することになったときのこと。
それまでそんなことを考えたこともなかったが、こんな思いが、胸をついた。
「私の父は、台湾でアメリカ兵と接近戦になり、貫通銃創を受けている」と。
つまりアメリカという敵国の、その国の女性と結婚をする(?)。

 今の若い人たちに、こんな話をしても、理解されないだろう。
しかし私には、私なりの思いがあった。
が、息子にしても、そういった話を、「過去の話」と、簡単に片づけてしまう。
あまりにも、簡単に、だ。

 そういう若い人、つまり自分の息子たちを見ていると、あのニヒリズムがムラムラと沸きあがってくる。
「私は何のために、苦労をしたのだ」と。

●今はわかる

 だから今は、わかる。
「子どもなんか、産むもんじゃない」「息子を、浜松の嫁に取られた」と言った、母の気持ち。
「息子や息子には、(学)をつけさせない」「学校は、地元の高校だけでじゅうぶん」といった人の気持ち。
わかるが、そこまで。

 一方で、それを懸命に打ち消そうという心が働く。
「今まで、楽しかったではないか」と。
息子たちがいたからこそ、ここまでがんばることができた。
もしいなかったら、ここまではがんばらなかっただろう。
金銭的な意味で、損か得かということになれば、損に決まっている。
しかし「金銭的な価値」など、「生きることの価値」に比べたら、何でもない。
無価値とまでは言わないが、「生きる」ことを犠牲にするほどの価値はない。

 ニヒリズムと慰め。
この2つが交互に心の中に現れては消える。
これも私という親の、偽らざる心境ということになる。

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