最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●BW

2012-05-23 09:06:24 | 日記
【BW教室】

●年長児(言葉の学習)

言葉から、お話作り。
それを目的に、指導してみました。

<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/blj_9urJRrM" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

●小1&2児(対称図形)

「対称」という言葉を使って、指導してみました。
まったく問題、ありませんでした。

<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/5i4L41uy5_w" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●3歳児の知能

 ぼたんインコなどには、人間の3歳児程度の知能(知的能力)があるという。
どういう基準で、またどういう方法でそれがわかったかは、不明。
しかしあちこちのサイトには、そう書いてある。

 3歳児!

 「頭がいい」という意味で、そう言うのだろう。
が、それにしても、すごい。
3歳児の知能があるということよりも、あんな小さな頭で、それだけのことを考えられるところが、すごい。
たとえばあるサイトには、こんな話が紹介されている。

 その家の人が、台所で、ある料理を始めた。
そのインコは、その家の中で放し飼いになっていた。
で、その人が、つぎに使う食材を知っていた。
冷蔵庫の前で待ちかまえていた。
で、その家の人がその食材を、冷蔵庫から取り出そうとしたその瞬間、サッと横取り。
その食材をもって逃げていったという。
つまりその家の人の行動を、先読みしていた、と。

●たったの1グラム

 人間のばあい、「成人で体重の2%ほどにあたる1・2~1・6キログラムの質量がある」(ウィキペディア百科事典)という。
1・4キロと考えて、1400グラム。
一方、ぼたんインコのばあい、同じく2%と考えても、1グラム。
(現在、私のぼたんインコは、生後4~5週間目で、体重は50グラム前後。
50x0・02=1グラム。)

 たったの1グラム。
その1グラムで、3歳児程度の知能があるという。
人間の脳よりも、はるかに緻密な構造になっていると考えてよいのか。
大小ではない。
緻密度。

 驚くのは、あのハチの能力。
ハチのもつ知能にも、驚かされる。
それについては、たびたび書いてきたので、ここでは省略する。
「あんな小さな頭で……!」と。

●神経細胞

 生涯にわたって、神経細胞の数は、減ることはあっても、ふえることはない。
その数は、300億個ともいわれている(ウィキペディア百科事典)。
日々に、一方的に死滅するのみ。
つまり幼児のほうが、おとなのもつ神経細胞の数は多いということになる。
が、知能(知的能力)の優劣は、神経細胞の数だけでは、決まらない。
神経細胞から伸びる、樹状突起の数と、からみあいで決まる。
(「からみあい」というのは、私の個人的な印象による表現。)

 だから幼児のほうが、おとなより、知能が高いということには、ならない。
(ただしおとなより、知的回転速度が速く、柔軟性に富んでいるのは、事実。)

400px-Complete_neuron_cell_diagram_en_svg
(神経細胞の模式図、ウィキペディア百科事典より)

 この図のような神経細胞が、300億個もあるという。
驚きである。

●俗説

 「脳」というより、「脳みそ」。
これから書くことは、脳科学の分野で証明された事実ではないので、あえて「脳みそ」と書く。
つまり俗説。

俗説的に考えれば、知能のよし、あしは、要するに「使い方の問題」と考えてよい。
そのことは、幼児というより、老人を見れば、よくわかる。

 肉体の健康と同じで、日ごろからよく訓練している人は、それなりに頭がよい。
そうでなければ、そうでない。
つまり習慣の問題。
その差が、50歳を過ぎると、ぐんと出てくる。
さらに60歳を過ぎると、決定的になる(?)。

 が、ここでパラドックス。
皮肉なことに、知的能力の低い人ほど、自分では「高い」と思っている(?)。
自分を基準にして、ものを考えるから、そうなる。
同時に、知的能力の低い人からは、高い人が理解できない。

 反対に知的能力の高い人ほど、自分を客観的に判断できるから、自分では「低い」と思っている?
で、こんな例がある。

 ある認知症の女性(当時67歳くらい、後にアルツハイマー病と診断された)は、こう叫んだ。
私が「……私は、そんなにバカではありません……」と言ったときのこと。
「私だって、バカではありません!」と。
ものすごい剣幕だった。

 あまりにもくどくどと、同じことを何度も言ったので、私は、そう言った。
それに対して、「私だって、バカではありません!」と。

●人間のほうがバカ

 ……で、インコの話に戻る。

 また別のサイトには、こうあった。
インコによっては、人間を、主人とは思っていないそうだ。
自分が主人と思っているそうだ。

「人間は、自分の世話をする、僕(しもべ)である」と。

 もっともこれは育て方の問題かもしれない。
人間の子どもでも、育て方をまちがえると、主従関係が逆転する。
子どものほうが威張る。
親のほうが小さくなる。

が、インコに人間の知能の高さが、理解できないのは事実。
今も、私の胸の中で眠っている。
が、その態度がデカイ。
手で出そうとすると、それをいやがり、ガリガリと鳴く。
恐らくインコのほうから見れば、人間のほうがバカに見えるにちがいない。

●ミニチュアの人間

 で、今、私はこんなことを考えている。
「これは、やっかいなことになるぞ」と。

 ペットとして買ってきたインコ(ぼたんインコ)だが、育て方をまちがえると、やっかいなことになるぞ、と。
たとえばインコには、「かみ癖」というのがある。
くちばしが大きいだけに、一度、かみ癖がつくと、人間の耳たぶくらいなら、食いちぎってしまうそうだ。
そうなると、人間のほうがこわがり、逃げてしまう。
ペットとして、抱くこともできなくなる。
頭がいいだけでに、余計にたいへん。

 で、今のところ幸いなことに、私のインコ(まだ名前が決まらない)は、おだやかで、やさしい。
甘えん坊。
私の胸の中で、ときどきピヨピヨと寝言を言っている。
どうかこのまま育ってくれればよいと願っている。

 で、結論。

●人間vsインコ

 ペットと言えば、イヌやネコが定番。
ほかにウサギやハムスターもいる。
しかし、ことインコに関して言うなら、体は小さいが、ただのペットではない。
ミニチュアの人間と考えた方がよい。
この10日間だけでも、日々に成長している。

昨日あたりから、縄張り意識が急に強くなったように思う。
また昨日、小さな犬のぬいぐるみを買ってきてやった。
それを見せたが、こわがって近づこうともしない、などなど。
そのうち人間の私たちのほうが、このインコに振り回されるようになるかもしれない。
楽しみというより、どこか心配になってきた。2012/05/23朝記

(はやし浩司 ぼたんインコ ボタンインコ ぼたんいんこ はやし浩司インコの知的能力 知能 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司)


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2012++++++はやし浩司・林浩司




*********************************
 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
| ⌒ ⌒ |   MM ⌒ ⌒ MM
q 0―0 MMMMM ∩ ∩ MM m
(″ ▽ M ⌒ ⌒ M″ v ゛)/ ̄)
凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /
\   /(″ ▽ ゛)\    厂 ̄偶
 ===○=======○====================
 子育て最前線の育児論byはやし浩司     6月 11日号
 ================================  
 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━¬¬¬¬¬――――――――――――――
★★★★★★★★★★HTML版★★★★★★★★★★★
マガジンを、カラー版でお楽しみください。(↓)をクリック!

http://bwhayashi2.fc2web.com/page020.html
★メルマガ(6万3000誌)の中で、2008年度、メルマガ・オブ・ザ・イヤーに
選ばれました!
★2009年、2010年、連続、カテゴリー部門・人気NO.1に選ばれました。

●晃子へ

Happy Birthday to you!


【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【4月17日2012年のレッスンより】

(1)新年長児に、「あいうおえ」をテーマに、声を出させるレッスンをしました。

新年長児、2回目のレッスンです。テーマは、前回についで、「声を出す」。「声を出す」?と、疑問に思う人も多いかと思いますが、この時期、声を出すというのは、学習の基本です。(声を出せない子どもも多い。)またこの日本では、学習というと、ペーパーワークが中心。またペーパーテストでよい成績を取った子どもが頭がよいということになっていますが、これぞまさしく世界の非常識! 教師と生徒が、ワイワイと言い合いながら、学習を進める。それが教育の基本です。

<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/KmxsBleI9TA" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>


(2)新小2児に「対角線」の概念を教えてみました。

小学2年生に「対角線」を教えてみました。もう少し時間があれば、ていねいな指導ができたと思いますが、時間がなく、次回に回しました。かなり荒っぽいレッスンで、ごめんなさい。

<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/ojbcUIYyGKs" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>


Hiroshi Hayashi+++++++April. 2012++++++はやし浩司・林浩司


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【2002年に書いた古い原稿より】(前編)

+++++++++++++++++++++++

古い原稿ですが、同じく古いHPの中に
埋もれていましたので、拾い上げ、再発表します。

+++++++++++++++++++++++

●悲しき人間の心

 母親に虐待されている子どもがいる。
で、そういう子どもを母親から切り離し、施設に保護する。
しかしほとんどの子どもは、そういう状態でありながらも、「家に帰りたい」とか、「ママのところに戻りたい」と言う。
それを話してくれた、K市の小学校の校長は、「子どもの心は悲しいですね」と言った。

 こうした「悲しみ」というのは、子どもだけのものではない。
私たちおとなだって、いつもこの悲しみと隣りあわせにして生きている。
そういう悲しみと無縁で生きることはできない。家庭でも、職場でも、社会でも。

 私は若いころ、つらいことがあると、いつもひとりで、この歌(藤田俊雄作詞「若者たち」)を歌っていた。

 ♪君の行く道は 果てしなく遠い
  だのになぜ 歯をくいしばり
  君は行くのか そんなにしてまで

 もしそのとき空の上から、神様が私を見ていたら、きっとこう言ったにちがいない。
「もう、生きているのをやめなさい。
無理することはないよ。
死んで早く、私の施設に来なさい」と。
しかし私は、神の施設には入らなかった。あるいは入ったら入ったで、私はきっとこう言ったにちがいない。
「はやく、もとの世界に戻りたい」「みんなのところに戻りたい」と。
それはとりもなおさず、この世界を生きる私たち人間の悲しみでもある。

 今、私は懸命に生きている。
あなたも懸命に生きている。
が、みながみな、満ち足りた生活の中で、幸福に暮らしているわけではない。
中には、生きるのが精一杯という人もいる。
あるいは生きているのが、つらいと思っている人もいる。
まさに人間社会というワクの中で、虐待を受けている人はいくらでもいる。
が、それでも私たちはこう言う。「家に帰りたい」「ママのところに戻りたい」と。

今、苦しい人たちへ、
いっしょに歌いましょう。
いっしょに歌って、助けあいましょう!

 若者たち

             
       君の行く道は 果てしなく遠い
       だのになぜ 歯をくいしばり
       君は行くのか そんなにしてまで

       君のあの人は 今はもういない
       だのになぜ なにを探して
       君は行くのか あてもないのに

       君の行く道は 希望へと続く
       空にまた 陽がのぼるとき
       若者はまた 歩きはじめる

       空にまた 陽がのぼるとき
       若者はまた 歩きはじめる

            作詞:藤田 敏雄

 そうそう、学生時代、NWという友人がいた。
一〇年ほど前、くも膜下出血で死んだが、円空(えんくう・一七世紀、江戸初期の仏師)の研究では、第一人者だった。
その彼と、金沢の野田山墓地を歩いているとき、私がふと、「人間は希望をなくしたら、死ぬんだね」と言うと、彼はこう言った。
「林君、それは違うよ。死ぬことだって、希望だよ。死ねば楽になれると思うのは、立派な希望だよ」と。

 それから35年。私はNW君の言葉を、何度も何度も頭の中で反復させてみた。
しかし今、ここで言えることは、「死ぬことは希望ではない」ということ。
今はもうこの世にいないNW君に、こう言うのは失敬なことかもしれないが、彼は正しくない、と。
何がどうあるかわからないし、どうなるかわからないが、しかし最後の最後まで、懸命に生きてみる。
そこに人間の尊さがある。生きる美しさがある。
だから、死ぬことは、決して希望ではない、と。

 ……いや、本当のところ、そう自分に言い聞かせながら、私とて懸命にふんばっているだけかもしれない……。
ときどき「NW君の言ったことのほうが正しかったのかなあ」と思うことがこのところ、多くなった。今も、「若者たち」を歌ってみたが、三番を歌うとき、ふと、心のどこかで、抵抗を覚えた。

「♪君の行く道は 希望へと続く……」と歌ったとき、「本当にそうかなあ?」と思ってしまった。
(02-11-20)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●子育てのリズムとパターン

 子育てには、一定のリズムがある。
このリズムは、たいてい母親が子どもを妊娠したときから始まる。
そしてそのリズムは、子育てが終わるまで、あるいは終わってからも、そのままつづく。

 たとえばこんな母親がいた。胎教とか何とか言って、妊娠中は、おなかにカセットレコーダーを置き、胎児に英会話やクラシック音楽のCDを聞かせた。
生まれてからは、子どもが泣き出す前に、つまりほしがる前に、いつも時間をはかってミルクを与えてた。
子どもがヨチヨチ歩くようになると、スイミング教室へ入れたり、音感教室に入れたりした。
さらに子どもが大きくなると、算数教室へ入れたり、英会話教室に入れたりした。

 この母親のばあい、何かにつけて、子どものテンポより、一テンポ早い。
これ
がこの母親のリズムということになる。
そしてこのリズムが、全体として、大きなうねりとなる。
それがここでいうパターンということになる。このパターンは、母親によって違う。
いろいろなケースがある。

 ある母親は、子どもによい思いをさせるのが、よい親のあるべき姿と信じてい
た。だから毎日の食事の献立も、休日の過ごし方も、すべて子ども中心に考え
た。家を新築したが、一番日当たりのよい部屋は、子ども部屋にした。それぞ
れの部分は、リズムで決まるが、全体としてそれがその母親のパターンになっ
ているのがわかる。この母親は、子どものためと思いながら、結局は子どもを甘
やかしている。そしてこのパターンは、一度、できると、あとは大きなうねりとな
って、繰り返し、繰り返し現れては消える。
 
 その子どもが中学生になったときのこと。
その子どもが大型量販店で万引きをして、補導されてしまった。
その夜のこと。
その母親は、まず私の家に飛び込んできた。
そしてこう泣き叫んだ。
「今、内申書に悪く書かれると、あの子は高校へ進学できなくなります。
何とかしてほしい」と。
しかし私には助ける術(すべ)がない。
断ると、その母親はその夜のうちに、あちこちを駆け回り、事件そのものを、もみ消してしまった。多分、お金で解決したのだろうと思う。

 この母親のばあい、「子どもを甘やかす」というパターンがあるのがわかる。
そしてそのパターンに気づかないまま、その母親はそのパターンに振り回されているのがわかる。
もしそれがよいパターンならよいが、悪いパターンなら、できるだけ早くそれに気づき、そのパターンを修正するのがよい。
まずいのは、そのパターンに気づかないまま、それに振り回されること。
子どもはそのパターンの中で、底なしの泥沼に落ち込んでいく。
それを防ぐ第一歩として、あなたの子育てが、どのようなリズムをもっているかを知る。

 一見人間の行動は複雑に見えるが、その実、一定のリズムとパターンで動いている。
もちろん子育てに限らない。
生活のあらゆる部分に、そのリズムとパターンがある。
ここにも書いたように、それがよいリズムとパターンなら、問題はない。
しかし悪いリズムとパターンなら、長い時間をかけて、あなたの生活全体は、悪いほうに向かう。
そのためにも、今、あなたの生活が、どんなリズムで、どんなパターンの中で動いているかを知る。

 ついでに一言。こと子どもについて言うなら、このリズムとパターンを知ると、その子どもが今後、どのようになって、どのような問題を引き起こすようになるかまで、わかるようになる。
少なくとも、私にはわかる。
よく「林は、超能力者みたいだ」と言う人がいるが、タネを明かせば何でもない。
子どもというのは、どんな人間になるかは、無数の方程式の組み合わせで決まる。
その方程式を解くカギが、その親のリズムとパターンということになる。

 そのリズムとパターンがわかれば、子どもの将来を予測することぐらい、何で
もない。ただ立場上、わかっていても、それをはっきり言わないだけ。万が一ま
ちがっていたらという思いもあるが、子育てにははっきりわからなくてもよいこと
は山のようにある。わからないまま手さぐりで進むのも、子育てのまた、おもしろ
いところではないのか。
(02-8-18)※

問題のある子ども

 問題のある子どもをかかえると、親は、とことん苦しむ。
学校の先生や、みなに、迷惑をかけているのではという思いが、自分を小さくする。
よく「問題のある子どもをもつ親ほど、学校での講演会や行事に出てきてほしいと思うが、そういう親ほど、出てこない」という意見を聞く。
教える側の意見としては、そのとおりだが、しかし実際には、行きたくても行けない。
恥ずかしいという思いもあるが、それ以上に、白い視線にさらされるのは、つらい。
それに「あなたの子ではないか!」とよく言われるが、親とて、どうしようもないのだ。

 たしかに自分の子どもは、自分の子どもだが、自分の力がおよばない部分のほうが大きい。
そんなわけで、たまたまあなたの子育てがうまくいっているからといって、うまくいっていない人の子育てをとやかく言ってはいけない。

 日本人は弱者の立場でものを考えるのが、苦手。
目が上ばかり向いている。
たとえばマスコミの世界。
私は昔、K社という出版社で仕事をしていたことがある。
あのK社の社員は、地位や肩書きのある人にはペコペコし、そうでない(私のような)人間は、ゴミのようにあつかった。
電話のかけかたそのものにしても、おもしろいほど違っていた。
相手が大学の教授であったりすると、「ハイハイ、かしこまりました。
おおせのとおりにいたします」と言い、つづいてそうでない(私のような)人間であったりすると、「あのね、あんた、そうは言ってもねエ……」と。
それこそただの社員ですら、ほとんど無意識のうちにそういうふうに態度を切りかえていた。
その無意識であるところが、まさに日本人独特の特性そのものといってもよい。

 イギリスの格言に、『航海のし方は、難破したことがある人に聞け』というのがある。
私の立場でいうなら、『教育論は、教育で失敗した人に聞け』ということになる。
実際、私にとって役にたつ話は、子育てで失敗した人の話。
スイスイと受験戦争を勝ち抜いていった子どもの話など、ほとんど役にたたない。
が、一般世間の親たちは、成功者の話だけを一方的に聞き、その話をもとに自分の子育て
を組みたてる。

 たとえば子どもの受験にしても、ほとんどの親はすべったときのことなど考えない。
すべったとき、どのように子どもの心にキズがつき、またその後遺症が残るなどということは考えない。
この日本では、そのケアのし方すら論じられていない。

 問題のある子どもを責めるのは簡単なこと。
ついでそういう子どもをもつ親を責めるのは、もっと簡単なこと。
しかしそういう視点をもてばもつほど、あなたは自分の姿を見失う。
あるいは自分が今度は、その立場に置かされたとき、苦しむ。
聖書にもこんな言葉がある。
「慈悲深い人は祝福される。なぜなら彼らは慈悲を示されるだろう」(Matthew5-9)と。
この言葉を裏から読むと、「人を笑った人は、笑った分だけ、今度は自分が笑われる」ということになる。
そういう意味でも、子育てを考えるときは、いつも弱者の視点に自分を置く。
そういう視点が、いつかあなたの子育てを救うことになる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●すなおな子ども論

 従順で、おとなしく、親や先生の言うことを、ハイハイと聞く子どものことを、「す
なおな子ども」とは、言わない。すなおな子どもというときには、二つの意味があ
る。一つは情意(心)と表情が一致しているということ。うれしいときには、うれし
そうな顔をする。いやなときはいやな顔をする。たとえば先生が、プリントを一枚
渡したとする。そのとき、「またプリント! いやだな」と言う子どもがいる。一見
教えにくい子どもに見えるかもしれないが、このタイプの子どものほうが「裏」が
なく、実際には教えやすい。いやなのに、ニッコリ笑って、黙って従う子どもは、
その分、どこかで心をゆがめやすく、またその分、心がつかみにくい。つまり教
えにくい。

 もう一つの意味は、「ゆがみ」がないということ。ひがむ、いじける、ひねくれ
る、すねる、すさむ、つっぱる、ふてくされる、こもる、ぐずるなど。ゆがみという
のは、その子どもであって、その子どもでない部分をいう。たとえば分離不安の
子どもがいる。親の姿が見えるときには、静かに落ちついているが、親の姿が
見えなくなったとたん、ギャーとものすごい声をはりあげて、親のあとを追いかけ
たりする。その追いかけている様子を観察すると、その子どもは子ども自身の
意思というよりは、もっと別の作用によって動かされているのがわかる。それが
ここでいう「その子どもであって、その子どもでない部分」ということになる。

 すなおな子どもに育てるには、心(こころ)豊かで、心穏やかで、かつ心静かな
環境で育てることだが、それ以上に大切なことは、子ども自身の心を大切にす
ること。過干渉、過関心、威圧、暴力や暴言が日常化すると、子どもの心は、抑
圧された分だけゆがむ。そしてここが重要だが、幼児期に一度心ゆがむと、そ
の心はまずなおらない。唯一なおす方法があるとするなら、子ども自身がいつ
かそれに気づいて、子ども自身が努力するしかない。

 もっとも考えてみれば、ほとんどの人は、多かれ少なかれ、そのゆがみをもっ
ている。言いかえると、ほとんどの人が毎日、そのゆがみと戦いながら生きてい
る。ただ言えることは、ゆがみがあることが悪いのではなく、そのゆがみに気づ
かないまま、そのゆがみに振り回されることだ。そしていつも同じようなパターン
で、同じような失敗を繰り返す……。もしそうならあなたも一度、あなた自身のゆ
がみを、じっくりと観察してみるとよい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●親が子育てで行きづまるとき

 ある月刊雑誌に、こんな投書が載っていた。

 「思春期の二人の子どもをかかえ、毎日悪戦苦闘しています。
幼児期から生き物を愛し、大切にするということを体験を通して教えようと、犬、モルモット、カメ、ザリガニを飼育してきました。
庭に果樹や野菜、花もたくさん植え、収穫の喜びも伝えてきました。
毎日必ず机に向かい、読み書きする姿も見せてきました。
リサイクルして、手作り品や料理もまめにつくって、食卓も部屋も飾ってきました。
なのにどうして子どもたちは自己中心的で、頭や体を使うことをめんどうがり、努力もせず、マイペースなのでしょう。
旅行好きの私が国内外をまめに連れ歩いても、当の子どもたちは地理が苦手。
息子は出不精。
娘は繁華街通いの上、流行を追っかけ、浪費ばかり。
二人とも『自然』になんて、まるで興味なし。
しつけにはきびしい我が家の子育てに反して、マナーは悪くなるばかり。
私の子育ては一体、何だったの? 私はどうしたらいいの? 
最近は互いのコミュニケーションもとれない状態。
子どもたちとどう接したらいいの?」
(内容を改変・K県・五〇歳の女性)と。

 多くの親は子育てをしながら、結局は自分のエゴを子どもに押しつけているだけ。
こんな相談があった。ある母親からのものだが、こう言った。
「うちの子(小三男児)は毎日、通信講座のプリントを三枚学習することにしていますが、二枚までなら何とかやります。
が、三枚目になると、時間ばかりかかって、先へ進もうとしません。
どうしたらいいでしょうか」と。
もう少し深刻な例だと、こんなのがある。これは不登校児をもつ、ある母親からのものだが、こう言った。
「昨日は何とか、二時間だけ授業を受けました。
が、そのまま保健室へ。
何とか給食の時間まで皆と一緒に授業を受けさせたいのですが、どうしたらいいでしょうか」と。

 こうしたケースでは、私は「プリントは二枚で終わればいい」「二時間だけ授業を受けて、今日はがんばったねと子どもをほめて、家へ帰ればいい」と答えるようにしている。
仮にこれらの子どもが、プリントを三枚したり、給食まで食べるようになれば、親は、「四枚やらせたい」「午後の授業も受けさせたい」と言うようになる。

こういう相談も多い。「何とか、うちの子をC中学へ。それが無理なら、D中学へ」と。
そしてその子どもがC中学に合格しそうだとわかってくると、今度は、「何とかB中学へ……」と。
要するに親のエゴには際限がないということ。
そしてそのつど、子どもはそのエゴに、限りなく振り回される……。

 投書に話をもどす。

 「私の子育ては、一体何だったの?」という言葉に、この私も一瞬ドキッとした。
しかし考えてみれば、この母親が子どもにしたことは、すべて親のエゴ。
もっとはっきり言えば、ひとりよがりな子育てを押しつけただけ。
そのつど子どもの意思や希望を確かめた形跡がどこにもない。
親の独善と独断だけが目立つ。
「生き物を愛し、大切にするということを体験を通して教えようと、犬、モルモット、カメ、ザリガニを飼育してきました」「旅行好きの私が国内外をまめに連れ歩いても、当の子どもたちは地理が苦手。息子は出不精」と。
この母親のしたことは、何とかプリントを三枚させようとしたあの母親と、どこも違いはしない。あるいはどこが違うというのか。

 一般論として、子育てで失敗する親には、共通のパターンがある。
その中でも最大のパターンは、

①「子どもの心に耳を傾けない」。
「子どものことは私が一番よく知っている」というのを大前提に、子どもの世界を親が勝手に決めてしまう。
そして「……のハズ」というハズ論で、子どもの心を決めてしまう。
「こうすれば子どもは喜ぶハズ」「ああすれば子どもは親に感謝するハズ」と。
そのつど子どもの心を確かめるということをしない。
ときどき子どもの側から、サインを出しても、そのサインを無視する。
あるいは「あんたはまちがっている」と、それをはねのけてしまう。

 このタイプの親は、子どもの心のみならず、ふだんから他人の意見にはほとんど耳を傾けないから、それがわかる。
私「明日の休みはどう過ごしますか?」、
母「夫の仕事が休みだから、近くの緑花木センターへ、息子と娘を連れて行こうと思います」、
私「緑花木センター……ですか?」、
母「息子はああいう子だからあまり喜ばないかもしれませんが、娘は花が好きですから……」と。

あとでその母親の夫に話を聞くと、「私は家で昼寝をしていたかった……」と言う。
息子は、「おもしろくなかった」と言う。娘でさえ、「疲れただけ」と言う。

 親には三つの役目がある。
①よきガイドとしての親、
②よき保護者としての親、
そして③よき友としての親の三つの役目である。

この母親はすばらしいガイドであり、保護者だったかもしれないが、③の「よき友」としての視点がどこにもない。
とくに気になるのは、「しつけにはきびしい我が家の子育て」というところ。

この母親が見せた「我が家」と、子どもたちが感じたであろう「我が家」の間には、大きなギャップを感ずる。
はたしてその「我が家」は、子どもたちにとって、居心地のよい「我が家」であったのかどうか。
あるいは子どもたちはそういう「我が家」を望んでいたのかどうか。結局はこの一点に、問題のすべてが集約される。

が、もう一つ問題が残る。それはこの段階になっても、その母親自身が、まだ自分のエゴに気づいていないということ。
いまだに「私は正しいことをした」という幻想にしがみついている! 
「私の子育ては、一体何だったの?」という言葉が、それを表している。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●アルツハイマーの初期症状

 アルツハイマー病の初期症状は、異常な「物忘れ」。
しかしその初期症状のさらに初期症状というのがあるそうだ。
①がんこになる、
②自己中心的になる、
③繊細な感覚がなくなるなど。こうした症状は、早い人で四〇歳くらいから現れ、しかも全体の五%くらいの人にその傾向がみられるという(※)。

五%といえば、二〇人に一人。学校でいうなら、中学生をもつ親で、一クラスにつき、三人はその傾向のある親がいるということになる(生徒数三〇人、父母の数六〇人として計算)。

 問題はこういう親にからまれると、かなり経験のある教師でも、かなりダメージを受けるということ。
精神そのものが侵される教師もいる。
このタイプの親は、ささいなことを一方的に問題にして、とことん教師を追及してくる。
私にもこんな経験がある。ある日一人の母親から電話がかかってきた。
そしていきなり、「日本の朝鮮併合をどう思うか」と質問してきた。
私は学生時代韓国にユネスコの交換学生として派遣されたことがある。
そういう経験もふまえて、「あれはまちがっていた」と言うと、「あんたはそれでも日本人か」と。
「韓国は日本が鉄道や道路を作ってあげたおかげで、発展したのではないか。
あんたはあちこちで講演をしているということだが、教育者としてふさわしくない」と。
繊細な感覚がなくなると、人はそういうことをズケズケと言うようになる。

 もっとも三〇年も親たちを相手にしていると、本能的にこうした親をかぎ分けることができる。
「さわらぬ神にたたりなし」というわけではないが、このタイプの親は相手にしないほうがよい。
私のばあい、適当にあしらうようにしているが、そうした態度がますます相手を怒らせる。
それはわかるが、へたをすると、ドロドロの泥沼に引きずり込まれてしまう。
先の母親のケースでも、それから一年近く、ああでもないこうでもないという議論が続いた。

 アルツハイマー病の患者をかかえる家族は、それだけもたいへんだ。
(本人は、結構ハッピーなのかもしれないが……。)
しかしもっと深刻な問題は、まわりの人が、その患者の不用意な言葉でとことんキズつくということ。
相手がアルツハイマー病とわかっていれば、それなりに対処もできるが、初期症状のそのまた初期症状では、それもわからない。
私の知人は、会社の社長に、立ち話で、リストラされたという。
「君、来月から、もう、この会社に来なくていい」と。
その知人は私に会うまで、毎晩一睡もできないほどくやしがっていたが、私が「その社長はアルツハイマーかもしれないな」と話すと、「そういえば……」と自分で納得した。
知人にはほかにも、いろいろ思い当たる症状があったらしい。

 さてもちろんこれだけではないが、今、精神を病む教師は少なくない。
東京都教育委員会の調べによると、教職員の全休職者のうち、約五二%が精神系疾患によるものとし、九七年度には一六一九人がそのため休職している。
もちろんこれは氷山の一角で、精神科へ通院している教員はその一〇倍。
さらにその前段階で苦しんでいる教員はそのまた一〇倍はいる。
まさに現在は、教師受難の時代とも言える。
ああ、先生もたいへんだ! 

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●神や仏も教育者だと思うとき 

●仏壇でサンタクロースに……?
 
 小学一年生のときのことだった。私はクリスマスのプレゼントに、赤いブルドーザーのおもちゃが、ほしくてほしくてたまらなかった。
母に聞くと、「サンタクロースに頼め」と。
そこで私は、仏壇の前で手をあわせて祈った。
仏壇の前で、サンタクロースに祈るというのもおかしな話だが、私にはそれしか思いつかなかった。

 かく言う私だが、無心論者と言う割には、結構、信仰深いところもあった。
年始の初詣は欠かしたことはないし、仏事もそれなりに大切にしてきた。
が、それが一転するできごとがあった。
ある英語塾で講師をしていたときのこと。
高校生の前で「サダコ(禎子)」(『原爆の子の像』のモデルとなった少女)という本を、読んで訳していたときのことだ。
私は一行読むごとに涙があふれ、まともにその本を読むこともできなかった。
そのとき以来、私は神や仏に願い事をするのをやめた。
「私より何万倍も、神や仏の力を必要としている人がいる。
私より何万倍も真剣に、神や仏に祈った人がいる」と。
いや、何かの願い事をしようと思っても、そういう人たちに申し訳なくて、できなくなってしまった。

●身勝手な祈り

 「奇跡」という言葉がある。しかし奇跡などそう起こるはずもないし、いわんや私のような人間に起こることなどありえない。
「願いごと」にしてもそうだ。「クジが当たりますように」とか、「商売が繁盛しますように」とか。
そのように祈る人は多いが、しかしそんなことにいちいち手を貸す神や仏など、いるはずがない。
いたとしたらインチキだ。
一方、今、小学生たちの間で、占いやおまじないが流行してる。携帯電話の運勢占いのコーナーには、一日一〇〇万件近いアクセスがあるという(テレビ報道)。

 どうせインチキな人が、でまかせで作っているコーナーなのだろう。
が、それにしても一日一〇〇万件とは! あの『ドラえもん』の中には、どこでも電話というのが登場する。
今からたった二五年前には、「ありえない電話」だったのが、今では幼児だってもっている。
奇跡といえば、よっぽどこちらのほうが奇跡だ。
その奇跡のような携帯電話を使って、「運勢占い」とは……? 
人間の知性というのは、文明が発達すればするほど、退化するものなのか。
話はそれたが、こんな子ども(小五男児)がいた。窓の外をじっと見つめていたので、「何をしているのだ」と聞くと、こう言った。
「先生、ぼくは超能力がほしい。超能力があれば、あのビルを吹っ飛ばすことができる」と。

●難解な仏教論も教育者の目で見ると

 難解な仏教論も、教育にあてはめて考えると、突然わかりやすくなることがある。
たとえば親鸞の『回向(えこう)論』。「(善人は浄土へ行ける。)いわんや悪人をや」という、あの有名な言葉である。
これを仏教的に解釈すれば、「念仏を唱えるにしても、信心をするにしても、それは仏の命令によってしているに過ぎない。
だから信心しているものには、真実はなく、悪や虚偽に包まれてはいても、仏から真実を与えられているから、浄土へ行ける…………」(石田瑞麿氏)と続く。

 こうした解釈を読んでいると、何が何だかさっぱりわからなくなる。
言葉の煙に包まれたかのような気分にすらなる。
要するに親鸞が言わんとしていることは、「善人が浄土へ行けるのは当たり前ではないか。
悪人が念仏を唱えるから、そこに信仰の意味がある。
つまりそういう人ほど、浄土へ行ける」と。
しかしそれでもまだよくわからない。
そこでこう考えたらどうだろうか。「頭のよい子どもがいい有名大学へ入るのは当たり前のことだ。
頭のよくない子どもが、有名大学へ入るところに意味がある。
またそこに人間が人間として生きるドラマ(価値)がある」と。
もう少し別のたとえで言えば、こうなる。
「問題のない子どもを教育するのは、簡単なことだ。
そういうのは教育とは言わない。
しかし問題のある子どもを教育するから、そこに教育の意味がある。またそれを教育という」と。
私にはこんな経験がある。

●バカげた地獄論

 ずいぶんと昔だが、私はある宗教団体を批判する原稿を、ある雑誌に書いた。
その教団の機関誌に、こんなことが書いてあったからだ。
いわく、「この宗教を否定する者は、無間地獄に落ちる。
他宗教を信じている者ほど、身体障害者が多いのは、そのためだ」(N宗機関誌)と。
こんな文章を、身体に障害のある人が読んだら、どう思うだろうか。
あるいは   その団体には、身体に障害がある人がいないとでもいうのだろうか。

 が、その直後からあやしげな人たちが私の近辺に出没し、私の悪口をいいふらし始めた。
「今に、あの家族は、地獄へ落ちる」と。
こういうものの考え方(?)は、明らかにまちがっている。
他人が地獄へ落ちそうだったら、その人が地獄へ落ちないように祈ってやるのが、愛ではないのか。
慈悲ではないのか。私だっていつも、批判されている。
子どもたちにさえ、批判されている。
中には「バカヤロー」と悪態をついて、教室を出ていく子どももいる。
しかしそういうときでも、私は、「この子は苦労するだろうな」とは思っても、「苦労すればいい」とは思わない。
神や仏ではない私だって、それくらいのことは思う。いわんや神や仏をや。

 批判されたくらいで、いちいちその批判した人を地獄へ落とすようななら、それはもう神や仏ではない。悪魔だ。だいたいにおいて、地獄とは何か? 悪いことをして、失敗し、問題のある子どもをもつことが地獄なのか。しかしそれは地獄でも何でもない。教育者の目を通して見ると、そんなこともわかる。

●キリストも釈迦も教育者?

 私はときどきこう思う。
キリストにせよ釈迦にせよ、もともとは教師ではなかったか、と。
ここに書いたように、教師の立場で、聖書を読んだり、経典を読んだりすると、意外とよく理解できる。
さらに自分が神や仏の気持ちが理解できることがある。
たとえば「先生、先生……」と、すり寄ってくる子どもがいる。
しかしそういうとき私は、「自分でしなさい」と突き放す。
「○○大学へ入学させてください」と言ってきたときもそうだ。
いちいち子どもの願いごとをかなえてやっていたら、その子どもはドラ息子になるだけ。
自分で努力することをやめてしまうだけ。
そうなればなったで、かえってその子どものためにならない。
人間全体についても同じ。
スーパーパワーで、病気を治したり、国を治めたら、人間は自ら努力することを、やめてしまう。医学も政治学もそこでストップしてしまう。
それはまずい。しかしそう考えるのは、まさに神や仏の心境と言ってもよい。

 そうそうあのクリスマス。
朝起きてみると、そこにあったのは、赤いブルドーザーではなく、赤い自動車だった。
子どもながらに、「神様もいいかげんだな」と思ったのを、私は今でもはっきりと覚えている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

かわいた冬の風

●心を破壊する受験勉強●温もりの消えた日本

 昔、バリバリの猛烈社員がいた。ある企画会社の男だったが、彼は次々とヒ
ット作を世に送り出していた。その彼と半年あまり一緒に仕事をしたが、おかし
なことに気づいた。彼の頭の中にあるのは、営業成績だけ。数字だけ。友人の
姿はおろか、家族の姿すらなかった。「仕事が生きがい」と言えば、聞こえはよ
いが、その実、仕事の奴隷。私はその男を見ながら、どうしてこういう人間が生
まれるのか、それに興味をもった。しかしその原因はすぐわかった。

 受験期を迎えると、子どもの心は大きく変化する。選別されるという恐怖と将
来への不安の中で、子どもの心は大きく動揺する。本来なら家庭がそういう心を
いやす場所でなければならないが、その家庭でも、親は「勉強しろ」と、子どもを
追いたてる。行き場をなくした子どもはやがて、人とのつながりを自ら切る。切り
ながら、独特の価値観を身につける。

 話はそれるが、こんな役人がいた。H市役所でもトップクラスの役人だった。あ
る日、私にこう言った。「林君、H市は工員の町なんだよ。その工員に金をもた
せると、働かなくなるんだよ。だから遊ぶ施設をたくさん作って、その金を吐き出
させなければならないんだよ」と。この話で思い出したが、こんなことを言った通
産省の役人もいた。「高齢者のもつ貯金を、財政再建に利用できないものか」
(テレビ)と。

 受験勉強の弊害を説く人はほとんどいない。戦後、教師も親も、そして子ども
たちも、それが「善」であると信じて、受験勉強をとらえてきた。しかしそれによっ
て犠牲になったものも多い。その一つが、「心」ということになる。もちろん「勉
強」が悪いのではない。受験にまつわる「競争」が悪い。青春期の一番大切な
時期に、この競争で子どもを追いまくると、子どもから温かい人間的な心が消え
る。「他人を蹴落としてでも…」という人生観が支配的になり、ものの考え方が、
ドライになる。冷たくなる。親子という人間関係すらも、数字でみるようになる。
今、日本の若者のほとんど(六六%)は、「生活力に応じて、(老後の)親のめん
どうをみる」(総理府調査)と答えている。

 子どもが有名大学へ入ったりすると、親は、「おかげさまで」と喜んでみせる。
しかしその背後で吹きすさぶのは、かわいた冬の風。その風が、今、日本中を
おおっている。そのかわいた風を、ひょっとしたら、あなたもどこかで感じている
はずだ。


コメントを投稿