最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●人間の粘着力

2012-07-13 12:00:15 | 日記
●人間どうしをつなぐ粘着力

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心理学の世界には、「共依存」という言葉がある。
それについては、たびたび、書いてきた。
よくあるケース。
暴力的な夫と、その夫に、涙ぐましいほどまでに、
献身的に仕える妻。
「ふつうなら……」ということになるが、一度、
共依存関係ができてしまうと、その関係を
断ち切るのは容易なことではない。
まず、共依存について書いた原稿をさがしてみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●共依存(改)2011-06-29

酒に酔って暴れる夫。殴られても蹴られても、そういう夫に尽くす妻。
典型的な共依存関係である。
妻に依存することで、自分の立場を確保する夫。
依存されることで、自分の立場を確保する妻。
妻を殴ったり蹴ったりすることで、妻の従順性を確かめる夫。
殴られたり蹴られたりすることに耐えながら、夫への従順性を証明しようとする妻。
たがいに依存しあいながら、自分を支える。
傍から見ると何とも痛ましい夫婦関係だが、親子の間でもときとして、同じことが起きることもある。

家庭内暴力を繰り返す息子と親の関係。
ニートとなり家の中に引きこもる子どもと親の関係。
子どもを突き放すことができない。
親自身も、無意識のうちに子どもに依存しているからである。

(補記)

●共依存

 依存症にも、いろいろある。
よく知られているのが、アルコール依存症や、パチンコ依存症など。
もちろん、人間が人間に依存することもある。
さしずめ、私などは、「ワイフ依存症」(?)。

しかしその依存関係が、ふつうでなくなるときがある。
それを「共依存」という。典型的な例としては、つぎのようなものがある。

夫は、酒グセが悪く、妻に暴力を振るう。
仕事はしない。
何かいやなことがあると、妻に怒鳴り散らす。
しかし決定的なところまでは、しない。
妻の寛容度の限界をよく知っていて、その寸前でやめる。
(それ以上すれば、本当に、妻は家を出ていってしまう。)
それに、いつも、暴力を振るっているのではない。
日ごろは、やさしい夫といった感じ。
サービス精神も旺盛。ときに、「オレも、悪い男だ。
お前のようないい女房をもちながら、苦労ばかりかけている」と、謝ったりする。
一方妻は、妻で、「この人は、私なしでは生きていかれない。
私は、この人には必要なのだ。
だからこの人のめんどうをみるのは、私の努め」と思い込み、夫の世話をする。

こうして夫は、妻にめんどうをかけることで、依存し、妻は、そういう夫のめんどうをみることで、依存する。

ある妻は、夫が働かないから、朝早くに家を出る。
そして夜、遅く帰ってくる。
子どもはいない。
その妻が、毎朝、夫の昼食まで用意して家を出かけるという。
そして仕事から帰ってくるときは、必ず、夕食の材料を買って帰るという。
それを知った知人が、「そこまでする必要はないわよ」「ほっておきなさいよ」とアドバイスした。
しかしその妻には、聞く耳がなかった。
そうすることが、妻の努めと思いこんでいるようなところがあった。

つまり、その妻は、自分の苦労を、自分でつくっていたことになる。
本来なら、夫に、依存性をもたせないように、少しずつ手を抜くとか、自分でできることは、夫にさせるといったことが必要だった。
当然、離婚し、独立を考えてもよいような状態だった。

が、もし、夫が、自分で何でもするようになってしまったら……。
夫は、自分から離れていってしまうかもしれない。
そんな不安感があった。
だから無意識のうちにも、妻は、夫に、依存心をもたせ、自分の立場を守っていた。

ところで一般論として、乳幼児期に、はげしい夫婦げんかを見て育った子どもは、心に大きなキズを負うことが知られている。

「子どもらしい子ども時代を過ごせなかったということで、アダルト・チェルドレンになる可能性が高くなるという」(松原達哉「臨床心理学」ナツメ社)。

「(夫婦げんかの多い家庭で育った子どもは)、子どもの人格形成に大きな影響を与えます。
このような家庭環境で育った子どもは、自分の評価が著しく低い上、見捨てられるのではないかという不安感が強く、強迫行動や、親と同じような依存症に陥るという特徴があります。

子ども時代の自由を、じゅうぶんに味わえずに成長し、早くおとなのようなものわかりのよさを身につけてしまい、自分の存在を他者の評価の中に見いだそうとする人を、『アダルト・チェルドレン』と呼んでいます」(稲富正治「臨床心理学」日本文芸社)と。

ここでいう共依存の基本には、たがいにおとなになりきれない、アダルト・チェルドレン依存症とも考えられなくはない。
もちろん夫婦喧嘩だけで、アダルト・チェルドレンになるわけではない。
ほかにも、育児拒否、家庭崩壊、親の冷淡、無視、育児放棄などによっても、ここでいうような症状は現れる。
で、「見捨てられるのではないかという不安感」が強い夫が、なぜ妻に暴力を振るうのか……という疑問をもつ人がいるかもしれない。
理由は、簡単。

このタイプの夫は、妻に暴力を振るいながら、妻の自分への忠誠心、犠牲心、貢献心、服従性を、そのつど、確認しているのである。
一方、妻は妻で、自分が頼られることによって、自分の存在感を、作り出そうとしている。
世間的にも、献身的なすばらしい妻と評価されることが多い。
だからますます、夫に依存するようになる。

こうして、人間どうしが、たがいに依存しあうという関係が生まれる。
これが「共依存」であるが、しかしもちろん、この関係は、夫婦だけにはかぎらない。
親子、兄弟の間でも、生まれやすい。
他人との関係においても、生まれやすい。
生活力もなく、遊びつづける親。それを心配して、めんどうをみつづける子ども(娘、息子)。

親子のケースでは、親側が、たくみに子どもの心をあやつるということが多い。
わざと、弱々しい母親を演じてみせるなど。
娘が心配して、実家の母に電話をすると、「心配しなくてもいい。お母さん(=私)は、先週買ってきた、イモを食べているから……」と。

その母親は、「心配するな」と言いつつ、その一方で、娘に心配をかけることで、娘に依存していたことになる。
こういう例は多い。
息子や娘のいる前では、わざとヨロヨロと歩いてみせたり、元気なさそうに、伏せってみせたりするなど。

前にも書いたが、ある女性は、ある日、駅の構内で、友人たちとスタスタと歩いている自分の母親を見て、自分の目を疑ってしまったという。
その前日、実家で母親を訪れると、その女性の母親は、壁につくられた手すりにつかまりながら、今にも倒れそうな様子で歩いていたからである。
その同じ母親が、その翌日には、友人たちとスタスタと歩いていた!
その女性は、つぎのようなメールをくれた。

「母は、わざと、私に心配をかけさせるために、そういうふうに、歩いていたのですね」と。
いわゆる自立できない親は、そこまでする。

「自立」の問題は、何も、子どもだけの問題ではない。
言いかえると、今の今でも、精神的にも、自立できていない親は、ゴマンといる。
決して珍しくない。
で、その先は……。

今度は息子や娘側の問題ということになるが、依存性の強い親をもつと、たいていは、子ども自身も、依存性の強い子どもになる。マザコンと呼ばれる子どもが、その一例である。
そのマザコンという言葉を聞くと、たいていの人は、男児、もしくは男性のマザコンを想像するが、実際には、女児、女性のマザコンもすくなくない。
むしろ、女児、女性のマザコンのほうが、男性のそれより、強烈であることが知られている。
女性どうしであるため、目立たないだけ、ということになる。

母と成人した息子がいっしょに風呂に入れば、話題になるが、母と成人した娘がいっしょに風呂に入っても、それほど、話題にはならない。
こうして親子の間にも、「共依存」が生まれる。
このつづきは、また別の機会に考えてみたい。

(はやし浩司 共依存 アダルトチェルドレン アダルト チェルドレン 依存性 マザコン 女性のマザコン 自立 自立できない子供 相互依存 はやし浩司 DV 夫の暴力 ドメスティックバイオレンス 家庭内暴力 夫の暴力行為)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●読み返してみて……

 前述の原稿は、ずいぶん前に書いた原稿である。
「勝手な解釈をしているな」と思うところもないわけではない。
しかしこれは心理学一般に共通することだが、心理学の世界では、数学でいえば、いわゆる「公式」的なことしか書いてない。
具体例が書いてある本というのは、少ない。
さらに「では、どうすればいいか」というところまで書いてある本は、さらに少ない。
「心理学」というのは、そういうものかもしれない。
言うなれば、心の作用を、結晶化したもの。
それを並べて説明したのが、心理学。

 言い換えると、心の作用は複雑。
複雑というより、もろもろの心理作用が、複雑にからみあって、その人の心理作用を決める。

共依存についても、純粋な意味での「共依存」というのは、ない。
だからそのあとは、「それぞれの人の解釈で……」となる。

 こうした勝手な解釈は、アカデミックな世界では許されないことかもしれない。
自分の意見を付け足すことについても、そうだ。
が、しかし逆に言えば、心理学だけで、人間の心の採用をすべて説明できるわけではない。
たとえば、こんな例で考えてみよう。

●仮面夫婦

 「仮面夫婦」という言葉がある。
私たち夫婦もそれかもしれない。
あなたがた夫婦も、それかもしれない。
表面的には夫婦だが、中身は空っぽ。
形だけの夫婦をいう。

 が、そういう夫婦の方が多いことを思えば、「それが夫婦」ということになる。
結婚当初のように、ラブラブの関係にある夫婦というのは、まず、いない。
またそういう夫婦を基準にしてはいけない。
恋愛は、ロマンス(=夢の中のできごと)だが、結婚は、現実である。

●悪妻

 私は率直に言うが、Nさん(女性、45歳)ほどの悪妻を、ほかに知らない。
まさに悪妻中の悪妻。

 突発的に錯乱状態になり、夫を蹴る、殴るは当たり前。
一足数万円もするようなハイヒールの靴を、夫に投げつけたりする。
さらにはげしくなると、台所からフライパンをもってきて、それを夫に投げつけたりする。

 見るに見かねて、夫の両親と夫の兄が、Nさんを精神病院へ連れて行こうとしたことがある。
しかしNさんは、さらに暴れて、それを拒否。
近所中に聞こえるような声で、泣きわめいた。

 が、一晩……というより、数時間もすると、まったく別人になってしまう。
まったくの別人である。
穏やかで、やさしい。
言葉の使い方も、ていねい。
が、よく観察すると、どこか不自然。
どこか演技ぽい。
別の心を、どこかで押し殺しながら、そうする。

 こんなことがあった。

 夫は、宅配便の運転手をしている。
稼ぎは、それほど、多くない。
そのこともあり、生活費が足りなくなると、Nさんは、夫の実家へ行く。
やや痴呆症になりかけた父親と病弱な母親がいる。
それをよいことに、「100万円、出せ!」「200万円、出せ!」と。
 夫の両親は、ともに80歳を超えている。

会計士として蓄えた財産はあるが、それにも限度がある。
そこで母親が、「5万円くらいなら……」と言うと、Nさんは、その現金を、母親の顔に叩きつけて、その場を去っていったという。

 が、夫は、Nさんと離婚はしない。
2人の子どもがいた。
それにNさんの夫は、心のやさしい男性だった。
妻に蹴られたり、殴られたりしても、オロオロと逃げ回るだけ。

●心の病気

 こういう関係を、どう理解するか。
「共依存」という言葉だけでは、説明がつかない。
Nさんが突発的に錯乱状態になるのは、多分に心の病気がからんでいる。
夫にしても、そういう妻であるにしても、孤独であるよりはよい。
あるいは夫自身も、何かの心の病気をかかえているのかもしれない。
それに毎日がそうであるというわけでもない。
Nさんが突発的に錯乱状態になるのは、10日に1度くらい。
多くて、5日に1度くらい。
それ以外のときは、先にも書いたように、むしろおだやかで、やさしい。

 そこで私は、……つまりNさんの夫のことを思いめぐらすうち、「心の粘着力」という言葉を思いついた。
もちろん心理学上の言葉ではない。
私が勝手につけた名前である。

●心の粘着力

 人間関係には、ある程度の粘着力がある。
強弱の差はあるかもしれない。
粘着力の強い人間関係もあるだろうし、弱い人間関係もある。
強い人間関係は、「ネバネバ」ということになる。
弱い人間関係は、「パサパサ」ということになる。

 夫婦の関係。
友人の関係。
親類、縁者の関係。
近隣の人たちとの関係。
もちろん親子の関係、などなど。

 最近の若い人たちの傾向としては、前にも書いたが、デジタル型の人間関係が目立つ。
人間関係を、「ON」と「OFF」だけで、割り切ってしまう。
一度、「OFF」にすると、まったくのゼロにしてしまう。

 で、ここではもう一歩、話を進めて、ではどういうときにネバネバになり、またどういうときにパサパサになるか。
それについて考えてみたい。

●ネバネバ

 最近、私とワイフの関係は、加齢とともに、よりネバネバになってきたように感ずる。
「先が短くなった」という思いもある。
積み重ねてきた思い出も多い。
とくに私たち夫婦は、すべてを、2人だけでしなければならなかった。
だれの助けも期待できなかったし、だれも助けてくれなかった。

 3人の息子たちにしても、ワイフは自分で助産院に行き、ひとりで子どもたちを産んだ。
そのあとも、だれにも助けてもらわなかった。

 一方、私は仕事オンリー。
それでも家計は苦しかった。
当時はそういう時代だった。
だから余計に、私はがむしゃらに働いた。
20~30代のころは、休日は、月に1日だけ。
そんな年が何年もつづいた。

 だからというわけでもないが、私たち夫婦は、言うなれば「ネバネバ夫婦」。
どんなはげしい夫婦げんかをしても、1~2日のうちには、もとに戻る。
もとに戻って、また手をつないで歩く。
が、私がここで書きたい「ネバネバ」は、それとは意味が少しちがう。

 先のNさん夫婦のばあいである。
「ふつうなら、離婚」ということになるが、離婚しない。
「子はかすがい」とは言うが、それもあるのかもしれない。
が、何が2人をつないでいるのか。
そのつないでいるものが、ここでいう「ネバネバ」ということになる。

●理解のワク

 もう一度、共依存の話に戻る。
共依存の関係にある夫婦は、たしかにネバネバしている。
ほかにも、夫婦の間の会話が完全に途切れてしまった知り合いもいる。
まったく、しない。
そこでその夫婦のばあい、息子たちが、夫婦の、(つまり両親の)、連絡係をしている。
が、それでも夫婦。
離婚しないのか、できないのか、あるいはなぜそうなのか。

 そういうのを「仮面夫婦」というが、仮面の向こうに隠されたネバネバは、常識では理解できない。
外見だけからは、わからない。
それこそ私のような人間が、いくら想像力を働かせても、理解できるようなものではない。
理解のワクを超えている。
「私なら、即、離婚」と口で言うのは、たやすい。
しかし、問題は、そんな簡単なことでもない。

●離婚率35・4%

 もちろん反対に、「パサパサ夫婦」というのも、いる。
昔は、「成田離婚」というのも、あった。
新婚旅行から帰ってきたそのとき、成田空港で離婚する。
だから「成田離婚」。

 パサパサといえば、パサパサ。
成田離婚は別として、さしたる理由もないまま、簡単に離婚していく人も、これまた少なくない。

一般論からいうと、(統計的にもそういう数字が出ているが)、身近に離婚経験者がいると、その影響を受けて、その夫婦も離婚しやすいという。
姉夫婦が離婚したとたん、妹夫婦も、離婚する。
親が離婚経験者だと、子も離婚しやすくなる、など。

 何も離婚することが悪いと書いているのではない。
離婚など、今どき、珍しくも何ともない。
厚生労働省が発表している人口動態総のデータによれば、平成19年度に結婚した人の数が約72万人に対して、離婚した人の数は25万5000人ということになっている※。
72万人に対して、25万人。
離婚率でみるかぎり、254832÷719822=35・4%!

 この数字をどう読むかだが、意外と、都会に住む人ほど、離婚率が低いというのも、興味深い(同、統計)。

(注※)結婚届を出す数が、毎年72万人。
離婚届けを出す人が、毎年25万人ということ。
結婚年数や、結婚→離婚を繰り返す人の数などは、考慮に入っていない。

(注※)2010年について
『厚生労働省の「2010年・人口動態特殊報告」によると、つぎのようになっている。
婚姻数……98万2044人
離婚数……36万9140人』

 この数字から、「結婚した10組のうち、4組が離婚する」(厚生労働省)ということになる。(37万÷98万=0・38)

●二人三脚

 私の考えでは、夫婦でも、「形」にしばられることなく、人間関係が破綻したら、さっさと離婚したほうがよいのでは、と思う。
思うだけで、では、実際、自分たちがそうなったら……というときのことを考えると、自信はない。
それでもネバネバとがんばるかもしれない。

 世間体もある?
もちろん子どもたちのこともある?
が、それ以上に、今は、もう夫婦でありつづけるしかない。
二人三脚でも生きていくのがむずかしい。
ひとりになって、どうやって生きていくというのか。

 が、結論から先に言うと、つまり、これがこのエッセーの結論ということになるが、人間関係が、近年、ますますパサパサになってきた。
ネバネバ感が消え、パサパサになってきた。
つまり人間どうしをつなぐ、粘着力が、弱くなってきた。
それがよいことなのか、悪いことなのか、私にはわからない。
その結果は、もう少し先になってみないとわからない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 粘着力 パサパサ人間 ネバネバ人間 離婚率 日本人の離婚率)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司(以上、2011年6月に書いた原稿)

●離婚率

 離婚率の計算はむずかしい。
厚生労働省が発表する人口動態調査にしても、どの部分をどうみればよいのか、それがよくわからない。

たとえば直近の2010年についてみれば、(離婚届数)を(婚姻届数)で割ってみると、約38%という数字があがってくる。
つまり現代は、10組の夫婦のうち、4組までが離婚する時代ということになる。

 一方、厚生労働省は、こんな数字もあげている(人口動態調査)。

「……婚姻率、5・3%(2011年)、離婚率、1・86%」と。

 表のトップに、「人口千対(人口1000人に対して)」という注釈が入っている。
が、ここがよく理解できない。
「率」で示すのなら、「人口千対」は、必要ない。
1000人だろうが、1億人だろうが、率は、変わらない。
それとも、「人口1000人に対して、結婚した人が、5・3人、離婚した人が、1・86人」という意味なのだろうか。
しかし人口動態調査には、「婚姻率」「離婚率」とある。

 ともあれ、こと離婚率をみるかぎり、2002年の2・30をピークに少しずつだが、さがり始めている。
俗説だが、不景気になればなるほど、離婚率は下がるという。
理由は容易に推察できる。

●私たち夫婦

 私たち夫婦も、何度か危機を経験している。
けっして無事というわけではなかった。
言い換えると、仮面夫婦であれ何であれ、離婚の一歩手前でふんばっている夫婦も多いということ。
離婚届けを出す夫婦は、まさに氷山の一角。

 また同じ夫婦でも、いろいろな時がある。
夫婦喧嘩、離婚騒動を、年中行事にしている夫婦だっている。
「離婚していないから、いい夫婦」というふうには、考えていけない。

 で、私たちの結論。
「夫婦も、友人ね」と。

●終の棲家(ついのすみか)

 人生も最終段階に入ってきた。
昨夜もワイフが、「終の棲家はどうするの?」と、数度、聞いた。
家の建てなおしをいう。

 ……といっても、計画は、すでに立ててある。
あとはいつそれを実行するか。
現在の住居地の3分の1を売る。
それで得たお金で、家を建てなおす。
老人向けの家にし、どちらかが独りになっても、生活できるようにする。

 「老人向け」というのは、老人向け。
居間と寝室、風呂、洗面所、トイレを、効率的に結合する。
壁すべてに、手すりをつける。
車椅子のまま、道路へ出られるようにする、など。

 で、最終的に、残された1人が動けなくなったら、有料の老人ホームに身を寄せる。
それが私たち夫婦の、最期の計画。

●「外見(そとみ)だけはなア……」

 が、それよりも深刻な問題。
つまりいつ、どのような形で、「負け」を認めるか。
このところ、そういう問題が、浮上してきた。
というのも、ちょうど2年ほど前、こんな事件があった。

 で、その前に、養老孟司氏について書いておく。
解剖学の権威である。
個人的には、数回、面識がある。
愛知万博の諮問委員をしているときに、会った。
氏の「バカの壁」という本だけは読んだことがある。
それ以外には、知らない。
養老孟司氏を意識したこともないし、目標にしたこともない。

 で、その会に出たときのこと。
だれかが、私にこう言った。
「林君(=私)は、養老孟司の若いときに似ているな」と。
多分白髪まじりのボサボサの頭を見て、そう言ったと思う。
が、横にいたX君(同年齢)が、すかさず、こう言った。
「外見だけはなア……」と。

 X君は、少し、酔っていた。
それを差し引いても、辛辣(しんらつ)な言葉である。
そのときは、ハハハと笑ってすましたが、あとになってその言葉が、私の心に大きな穴をあけたのを知った。

●敗北宣言

 いろいろやってはみたけれど……ということになる。
いろいろやってはみたけれど、所詮(しょせん)、私は、この程度の人間。
それをいつ、どのような形で認めるか。
敗北宣言という深刻なものではないにしても、それに近い。

 といっても、私は何も名声や地位、財力を求めてきたわけではない。
「自由」を求めてきた。
が、その自由も、「死」を前にすると、粉々に吹き飛んでしまう。
いくら「私は自由だ」と叫んでも、そこには限界がある。

 まずやってくるのが、肉体的な限界。
足腰が弱くなる。
歩けなくなる。

 つぎにやってくるのが、精神的な限界。
気力の限界と言い換えても、よい。
脳みその限界と言い換えても、よい。
「死」は、そのあとに、やってくる。

 そうした限界を乗り越えるためには、サルトル※が説いたように、「無の概念」を取り入れるしかない。
徹底して、自分を「無」にする。
「失うものは何もない」という状態にする。
そのとき私たちは、「限界(限界状況)」を乗り越えることができる。
もっとわかりやすく言えば、「私」を消す。
それがここでいう敗北宣言ということになる。
「身を運命に差し出す」。

(注※)サルトル……ジャン・ポール・サルトル
フランスの哲学者。
1905年6月21日生まれ、1980年4月15日(74歳)没。

●孤独

 わかりやすく言えば、「離婚どころではない」ということになる。
たとえて言うなら、崖っぷちに向かって進んでいる車の中で、夫婦喧嘩をしているようなもの。
また仮に離婚したからといって、未来は何も変わらない。
(どちらかに愛人でもいれば、話は別だが……。)
そこで待ち構えているのは、孤独だけ。
そうでなくても、独りで生きていくのは、むずかしい。
さらに言えば、離婚するエネルギーが残っているなら、そのエネルギーは、別のことに使いたい。

 ……というような話を、昨夜、こたつに入って、ワイフとした。

私「あのX君ね、ズバリ、痛いところを突いてくれた」
ワ「……」
私「ぼくはX君が言うように、外見だけの人間だった……」
ワ「でも、あなたは名誉も地位も、蹴飛ばして生きてきたわよ」
私「本当は、そうではない」
ワ「?」
私「そのチャンスがなかった。あれば、シッポを振っていたかもしれない」と。

●今日は今日

 さて今日も始まった。
時刻は、午前5:34分を示している。
ワイフが起きたら、入浴。
そのあと、庭掃除。
それがすんだら、たき火。

 で、昼から、映画を見に行くことになっている。
『MIB(メン・イン・ブラック)』。
楽しみ。

 それから現在、我が家の最大の関心ごとは、ぼたんインコの「ピッピ」。
息子は、昨夜も、「ぼたんインコの飼い方」という本を熱心に読んでいた。
ぼたんインコは、たしかに、かわいい。
「ラブ・バード」ともいう。
頭もよい。
感情は、人間並み。
で、だれかがこう言った。

『インコを飼ったことがない人は、人生の半分を無駄にしたようなもの』と。

 その言葉を知ったときには、「何を、おおげさな!」と思った。
しかし今は、その言葉に同意する。
安心しきって、私の手の中で眠っているのを見るだけで、心が休まる。

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評論 はやし浩司 サルトル 自由の限界 無の概念 はやし浩司 終の棲家 離婚問題 離婚率)はやし浩司 2012-05-27記


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2012++++++はやし浩司・林浩司