最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

幼児の知育教育への偏見と誤解、AERAへの反論

2012-07-05 11:20:09 | 日記
【5月17日のBW教室byはやし浩司】(学外教育への偏見と誤解)「AERAへの反論」

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

このところ6月中旬の陽気とか。
全国で熱中症で倒れる人が続出したという。
たしかに暑かった。
そのせいもあり、プラス疲れも出たこともあり、昨日(5/17)はバテぎみ。
そんな状態で、子どもたち(=生徒たち)と接した。
集中力、ゼロ。

私のほうが、楽しませてもらった。
「教えてやろう」という気持ちはほとんどなかった。
子どもたちとワイワイと騒ぎながら、ストレス解消。
(子どもたちも、楽しそうだったが……。)
昨日は、そんな1日だった。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【年中児の勉強】(文字と数&順)

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【小1&2児の、対称図形】

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【小2&3児の、対称図形】

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Hiroshi Hayashi+++++++May. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●日本の家計

 現在、日本の家計は火の車。
大火災、進行中。
今ごろ消費税率をあげたところで、どうこうなるような状態ではない。
10%UPどころか、25%UPでも、焼け石に水。
昨日、野田首相は、「EUの経済危機は、対岸の火事ではない」と言い切った。
つまり他人ごとではない、と。

 事実、その通り。

 そんな危機的状況であるにもかかわらず、日本の国会は、麻痺状態。
機能停止状態。
「公約がどうの」「低所得者の負担がどうの」とか。
そんな問題では、ないだろ!
日本全体が、今まさに、ひっくり返ろうとしている。

 のんきというか、バカげている。
ピントがずれている。
たとえて言うなら、大火事の最中、逃げる順番をくじ引きで決めているようなもの。
そんなヒマがあったら、まず逃げろ!

 オーストラリアでは、消費税は、10%。
ただし食料品には、消費税をかけていない。
本当に低所得者のことが心配なら、消費税をかけてよいものと、そうでないものをより分ければよい。

 一方、こんな報道も。
何でも官僚たちは、7%、給料を削減され、やる気を失っているとか。
たったの7%!
民間の自営業者たちは、青息吐息。
給料らしい給料もなく、生活を切り詰めて生きている。
甘ったれるのも、いいかげんにしたらよい。

 今となっては手遅れだが、あの中曽根首相の時代に、公務員の人件費は50%カットすべきだった。
橋本首相の時代に、消費税を25%にすべきだった。

 日本が生き残るゆいいつの方法は、計画インフレ。
ここまでくると、もうそれしかない。
計画的にハイパーインフレを起し、実質的に国の借金を、10分の1にする。
もちろん物価は、10倍になる。
ラーメン1杯、8000円。
覚悟しよう!

●「塾なんか(行っても意味がない)」という主張

 「塾」の問題ではない。
言葉の問題。
「なんか」という、言葉の問題。

 この「なんか」という言葉の裏には、相手をさげすむ意味が込められている。
「勉強なんか、やっても意味はない」
「外国なんか、行っても意味がない」
さらには、「英語なんか、勉強しても、意味はない」など。

 で、昨日、ある教育評論家のサイトをのぞいてみたら、その言葉があった。
「塾なんか行かなくても、成績は伸びる」と。
元小学校教師という。
私はそれを一読した直後、こう思った。
この評論家(先生)は、塾を参観したことがあるのだろうか、と。
ひょっとしたら、頭の中だけで、「塾」の内容を想像しているだけではないのか、とも。

 しかもこの言い方は、論理的にも矛盾している。

 この主張が正しいというためには、つぎの命題を満足させなければならない。

(1)学校だけで、すべての子どもの学力を平均的に伸ばすことができる。
(2)塾へ行っても、みな、無駄に終わっている。

 もしそうなら、「塾なんか」ということになる。
さらに言えば、この発想は、全体主義国家の発想。
世界の教育の潮流に、完全に背を向けている。

 今、世界では、「自由教育」が主流になっている。
EUでも、(現在、EUは、たいへんな経済危機を迎えているが)、アメリカでも、学外教育が、主流になりつつある。
どうなりつつあるかは、自分で行き、調べてみたらよい。
ドイツでは、中学生たちは、たいてい午前中で授業を終え、そのままいろいろなクラブに通っている。

 アメリカでは、ホームスクーラーが、2000年に、推定で200万人を超えている。

 今の日本のように、「学校以外に道はなく、学校を離れて道はない」という状態のほうが、異常なのである。
画一的な人間を育てるには、すぐれたシステムである。
が、その程度。

 「なんか」という言葉に、カチンときたので、少し前に書いた原稿を再掲載する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●朝日新聞社の「AERA」誌への反論。

少し前、「AERA」誌も、「なんか」という言葉を使った。
この中で、AERAの記者は、大阪万博の前の年に発表された論文を根拠にしている点に注意してほしい。
その論文をもとに、たとえば「幼児期に文字を教えても、学校へ入ればすぐ追いつかれる。
つまり早期教育はやっても無駄」と。

それについて……。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●反響(AERA・アエラの記事への反論)

+++++++++++++++++++++

数日前、雑誌「AERA」の記事に対して、
反論原稿を書いた。
その原稿にたいする反響には、ものすごい
ものがある。
直接的な意見はまだ届いていないが、「アラーム」
という機能を使うと、反響の大きさが、数字でわかる。
私の原稿を取り上げたBLOGやHPの数が、
そのまま、数字として、表示されるしくみになっている。

+++++++++++++++++++++

●「AERA」の記事

 「早期教育効果は小学生で消える」と題した、雑誌「AERA」の記事を要約すると、こうなる。
 早期教育の一例として、「読み書き」をあげ、幼児期に読み書きを教えても、その効果は小学校で消える。
そればかりか、無理な学習が、子どもを勉強嫌いにしてしまう。
「臨界期」というのは、科学的に証明されたものではない。
むしろ家で、先取り教育をすると、子どもは学校での勉強をつまらなく思ってしまうようになる……などなど。

 その一例として、5~6歳児が、小学5年生で学ぶ漢字を書いた子どもの例、高校へ入ったとたん、無気力になってしまった子どもの例などが、書いてあった。

 その底流に見え隠れするのは、「塾必要悪論」、もしくは、「家庭教育不要論」。
結論は、「あわてて教育しても、無駄」と。
私はその記事を一読して、「これはいつの原稿か?」と、ライターの常識というよりは、年齢を疑った。
今から25年ほど前の原稿というのなら、まだ話もわかる。
しかし今、どうしてこの時代に?

●親子のふれあい
 たまたま先月、私は、「ママターナル・デプリベイション(Maternal Deprivation)(母性愛欠乏)」についての原稿を書いた。

マターナル・デプリベイションというのは、「乳幼児期の母子関係の不全」をいう。
乳幼児期に、母子関係が不全だったりすると、それが後々、さまざまな症状の遠因となることがある。

その一部を、転載する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

子どもというのは、心豊かな家庭環境、とくに心豊かな母子関係の
中で、心をはぐくむ。
が、母親側に何かの問題があり、本来あるべき母子関係が
築けなくなることがある。
育児拒否、ネグレクト、育児放棄、母性愛の欠落、虐待、暴行など。
また自分の子どもであっても、子どもを愛せない母親は、
8~10%はいる。
こうした母親側の育児姿勢が日常化すると、子どもには独特の
症状が現れるようになる。
ホスピタリズム(施設病)に似た症状を示すと説く学者もいる(後述)。
その第一が、他者との共鳴性の欠落。
わかりやすく言えば、心の温もりを失い、心の冷たい子どもになる。
他人の心の痛みが理解できない。
相手の立場に立って、ものを考えることができない、など。
そのため年齢を重ねるについれて、自分より弱い者をいじめたり、
自分より弱い立場にある動物を、虐待したりするようになる。
さらに成人してから、心の病気となって発現することもある。
ネットを使って、そうではないかと思われる症状をもった人を、
参考までに拾ってみた(2チャンネルより)。
もちろんここにあげた人たちの症例が、マターナル・デプリベイション
が原因というわけではない。
その疑いがあると、私が思うだけの話である。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●早期教育
 雑誌「AERA」では、「親子のふれあいこそ大切」と書いている。
しかしそんなことは、今では、常識。
常識中の常識。

が、それはここにも書いたように、「マターナル・デプリベイション」という分野で、考えられるべき問題。

が、どうしてそれが、「早期教育」と結びつくのか?
「早期教育不要論」と結びつくのか?

 要するにAERAのライターは、「無理な早期教育の結果、親子のふれあいが犠牲になる」と言いたいのだろう。
が、ここでライターは、巧みに言葉のトリックを使っている。

(あるいは、「早期教育」の意味さえ、知らないのでは?
「先取り教育」と「早期教育」を混同している?)

何も文字の「読み書き」だけが、早期教育ではない。
また早期教育をしたからといって、親子関係が破壊されるというものでもない。

 AERAでは、無理に進学塾へ通わされた子どもの例や、目的の学校へ入学したとたん、無気力になってしまった子どもの例などをあげている。
そしてその上で、「臨界期なるものは、科学的に証明されたものではない」と。

 ?????

 ライターは、自説を補強するため、20年前、40年前の資料を、(~~教授)などと実名を添えて、並べている。
こうした手法は、多くのライターが使う。
自説に不安を感じたとき、権威者の名を借りて、それを補強する。
それにしても古すぎる!

 が、「臨界期」はある。
また臨界期をはずすと、人間は人間でなくなってしまうこともある。
その一例が、「野生児」である。
インドで1920年代に見つかったオオカミ姉妹にしても、同じころフランスで見つかった、ビクトールという少年にしても、それ以後、人間生活に復帰することはなかった。
言葉すら、覚えなかった。
人間らしい人間の心を取り戻すこともなかった。

 もっと簡単な例で言えば、小学校へ入学してから、音楽教育をほどこしても、そこそこの才能を見せるようになることはあっても、そこまで。
あえて言うなら、「読み書き」(=国語能力)について言えば、親子のふれあいというよりは、母親の言語能力が子どもに大きな影響を与える。
母親が、「ホラホラ、バスバス、ハンカチ、もった?」というような話し方を日常的にしていて、どうして子どもに国語力がつくというのか。
こういうとき母親は、子どもには、こう言う。
「もうすぐ、お迎えのバスが来ます。あなたはハンカチをもっていますか」と。
つまりこれが、わかりやすく言えば、「早期教育」である。

 AERAは、5~6歳の子どもが、小学5年生で習う漢字を書いている例をあげている。が、私は、40年近く幼児と接しているが、そんな子どもを見たことがない!
もしいるとしたら、自閉症(アスペルガー)の子どもということになる。
このタイプの子どもは、ある特定のことがらに、ふつうでない(こだわり)をもつことがある。

●小学校で消失?

 「計算力」と「算数の力」は、別。
計算力は、訓練で身につく。
しかし算数の力は、簡単には身につかない。
生活環境やその子どもの知的能力が、大きく影響する。

 同じように、「読み書き」と「国語の力」は、別。
読み書きは、訓練で身につく。
しかし国語の力は、簡単には身につかない。
生活環境やその子どもの知的能力が、大きく影響する。
ともに「思考力」の問題ということになる。

 その「思考力」を養うのに、早すぎるということはない。
乳幼児期でも、早すぎるということはない。
 が、AERAは、(読み書き)を例にあげ、そうした力は、小学校で消失する、と。
だから「早期教育は不要」と。
バカバカしいというか(失礼!)、反論するのも、疲れる。

●過熱する幼児教育

 少子化の問題もある。
それもあって、たしかに幼児教育が加熱している。
しかし問題は、なぜ加熱しているかということ。
その背景にまで、メスを入れないと、この問題は解決しない。
「早期教育は無駄」と、ハシゴをはずすのは簡単。
しかしハシゴをはずされた親たちは、どうすればよいのか。
どこへ向かえばよいのか。
それを書いてこそ、「さすがAERA!」ということになる。
まことにもって、無責任というか、乱暴なコラムということになる。

 もっとも朝日新聞社(AERAの出版元)の「塾必要悪論」は、今に始まったものではない。
私が37歳前後のことだったから、今から25年ほど前ということになる。
朝日新聞は、連日、「塾必要悪論」を展開していた。
が、そのときすでに、「塾で勉強した子どもは、学校での勉強をつまらなく思う」というような意見はあった。
教職員の間から、さかんにそういう意見が出てきた。
が、当のライターは、その時代から、一歩も進歩していない。
(使っている資料を見ても、それがよくわかる。)

 しかし、時代は変わった。
教え方も変わった。
親たちの意識も変わった。
今時、泣いていやがる子どもを、(幼児でもよいが)、無理矢理塾通いさせる親はいない。
またそんな教え方をしている塾は、ない。
さらに言えば、学校の勉強をつまらなくさせるように教えている塾は、ない。
ライターは、自分が受けた古い教育(=古傷)を原点に、自説を、自分流に料理しているだけ。

私はAERAの記事を読んだとき、「辛かった。お母さんにはいやだとは言えずに我慢していた。幼稚園の友達と、もっと遊びたかった。中学受験なんて必要なかった」と言った少女は、ライター自身のことではないかと疑った。

●反響

 世界の教育は自由化に向けて、まっしぐらに進んでいる。
アメリカのホームスクール、カナダの学校設立自由化、EUのクラブ制(塾制)などなど。
EUでは、大学の単位すら共通化された。
私が学んだオーストラリアのメルボルン大学では、40年も前から、世界の大学と単位交換をしていた。

 二男は、アメリカの私立大学で2年学んだあと、州立大学へ移籍。
しばらく民間企業に勤めたあと、現在はI大学(アメリカ)で、CERNのコンピュータ技師として仕事をしている。
また二男の嫁は、文学部出身だが、主婦業をするかたわら、司法試験に合格。
現在はロースクールに席を置いている。

 これを「自由化」という。
世界の若者たちは、自分の力とやる気に応じて、好き勝手なことをしている。
わかるかな、AERAさん?
そういう環境作りをする。
それを「自由化」という。
私たち日本人も、そういう世界を目指す。

 話が脱線したが、「読み書き」や、極端な例を取り上げ、「早期教育は小学校で消失」という意見は、まことにもって、暴論。
暴論というよりは、無知。
もしそうだとするなら、幼児教育とは何かということになってしまう。

 で、最後に「早期教育」について。
もちろんまだ未熟で不完全かもしれないが、その重要性は、年々、さらに大きく高まってきている。
脳科学の発達とともに、(近年、急速に発達しているが)、早期教育がどうあるべきか、その道筋も示されつつある。
繰り返すが、今時、「読み書き」?
日本人に与える影響の大きい雑誌だけに、残念。
これからも、AERAのコラムをテーマに、この問題について、書いてみたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 AERA アエラ 早期教育は小学校で消失 早期教育無用論)

【補足】

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数日前に書いた原稿を、添付する。

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●早期教育効果は小学生で消える(?)「AERAの記事に、疑問あり!」(改訂版)

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こんな記事が、AERAという雑誌に載っていた(2010年)。
いわく「早期教育効果は、小学生で消える」と。
つづいて、

「……小学校入学前に読み書きを習得する子どもは多い。その風潮に警鐘を
鳴らす研究が報告されている。本質的な学力を決めるのは親子関係だという」と。

しかしこの原稿には、いくつかの言葉のトリックがある。
その第一、「早期教育」を、「読み書き」にすり替えている。
たしかに「読み書き」については、その効果は「小学校で消える」。
たとえば計算力にしても、幼児期に速くできるようになったからといって、
それがそのまま「数の力」に結びつくとはかぎらない。
よい例が、幼稚園によっては、かけ算の九九を暗唱させているところがある。
が、九九が言えるようになったからといって、「算数の力」が身についた
ということには、ならない。

が、こんなことは常識。

その常識を、逆手に取って、「小学生で消える」とは?
さらに言えば、消えたところで、無駄とは言い切れない。
その上に、さらに新しい知識を組みあげていく子どももいる。

(そうでない子どもも、もちろんいるが……。)

あえて言えば、「早期教育」と言っても、「知識教育」から離れ、最近では「考える子ども」
にするのが、ひとつのテーマになってきている。

ごく最近では、「Active Learning」という言葉も使われるようになった。
「ものごとに積極的に取り組む子どもにするための指導」という意味である。
「文字の読み書き」ではない!

+++++++++++++++++++++++++++++++++++

●読み書き

 「読み書き」をもって、早期教育と位置づける。
「だから、早い時期から学んでも、意味がない」と。
この原稿の最大のミスは、ここにある。
つまりこの原稿を書いた人は、「幼児教育」というのが、何であるか、よくわかっていない。
「早期教育」、さらには「先取り教育」の意味もよくわかっていない。
さらに最近話題になっている、「臨界期」という言葉も、知らない?

 たとえば、こんなことも書いてある。
「また、別の研究でも、漢字の習得では、早期教育を受けなかった子どもとの差は小学校2年生ごろに消滅し、むしろ国語嫌いは早期教育を受けた子に多かったということもわかっている(黒田実郎、「保育研究」)」(AERA)と。

(しかしこの資料も、調べてみたところ、1969年「日本保育学会」「就学前の幼児の恐怖」の中に収録されているものとわかった。
1969年といえば、40年以上も前!
大阪万博の前の年の資料!)

 それはさておき、それはその通り。
無理な文字指導が、子どもを文字嫌いにするという例は、多い。
その(文字嫌い)が悪循環となって、子どもを(国語)から、遠ざける。
たとえば年中児でも、「名前を書いてごらん」と声をかけただけで、体をこわばらせる子どもは、いくらでもいる。
中には涙ぐむ子どもさえいる。
文字に対して恐怖心をもっているためである。

 こんなことは、少し幼児に接してみれば、だれにでもわかること。
また幼児に接した経験のある人なら、だれでも知っている。
それを、ことさら学者名まで出して強調するところが、わざとらしい。

 逆に、世界広しといえども、幼児期の幼稚園教育で、文字の読み書きを教えないのは、この日本だけ。
そういう事実をさておいて、あたかも「幼児期に、文字教育は必要なし」というような印象を与えるのは、どうか。
誤解というより、偏見。

 そして「文字教育」を例にあげながら、「幼児期には何もしないほうがいい」というような印象を読者に与える。
こうした論法には、「?」マークを10個くらい、並べたい。
大切なことは、「教える」ではなく、「文字の読み書きは楽しい」ということを教えること。
それが幼児教育。
またそれが重要!

●偏見

 さらに……。

「……早期教育熱はやがて中学受験熱に変わる。Aさんの長女は、過酷な競争を勝ち抜き都内の難関の中高一貫進学校への入学を果たしたが、その後勉強熱が急速に冷めてしまった。競争の激しい進学校で成績は伸びず、大学受験は苦労した。

 有名中学に合格し、張り詰めていた緊張の糸がプツンと切れてしまったかのように、その後の成績が伸び悩む例は多い。子どものストレスは早期教育で終わらない。小学校に入れば塾通い、中学受験、それが終わっても大学受験と、常に急き立てられていく」(AERA)と。

 これを読んだときには、ア然とした。
このライターは、「燃え尽き症候群」「荷下ろし症候群」という言葉さえ、知らない?
そんな印象すらもった。

 たしかにこのタイプの子どもは、多い。
浜松市内の進学高校でも、高校入学と同時に、約20%の子どもが、燃え尽きる。
そのため無気力になったり、怠学に陥ったりする。
それはそれだが、だからといって、みながみな、そうなるわけではない。
何も受験競争の肩をもつわけではないが、「だから教育は無駄」式の論法には、首をかしげる。

 つまりここでも、「受験競争」と「早期教育」を、言葉のトリックを使ってすりかえ、読者を煙に巻いている。

●親子のかかわり

 幼児教育の第一は、「親子のかかわり」で始まる。
またそれで終わる。
その重要性は、基本的信頼関係に始まって、心の育成などなど、今さらあえて説くまでもない。
が、ここでも、このライターは、言葉のトリックを使っている。
つぎの文章を、よく読んでほしい。

 「……長男は文字をほとんど書けないまま小学校に入学した。入学後、近所の5歳の女の子が持っていた「お勉強ノート」を見て圧倒された。画数の多い小学校中学年向けの漢字がびっしりとノートのマスを埋めていた。入学後も、わが子がカタカナに四苦八苦する傍らで「5年生の漢字が書けるよ」「九九できるよ」と豪語する級友の存在を知り、長男が勉強についていけるか心配になった。

 しかし、お茶の水女子大学の内田伸子教授(発達心理学)は、文字の読み書きなどの早期教育に批判的だ。内田教授は昨年秋の東アジア学術交流会議で「幼児のリテラシー習得に及ぼす社会文化的要因の影響」調査を発表した」(AERAより)と。

 ある親は、ほかの子どもが、スラスラと漢字を書いている子どもを見て、ショックを受けたという。

(5~6歳の子どもが、5年生の漢字を書く?
しかし私は幼児教育を40年もしているが、そんな子どもを見たことがない!
本をスラスラと読む子どもはいたが、漢字を書いた子どもは知らない。
もし本当にいるとするなら、心に何らかの障害をもった子どもということになる。
その子どもがそうというわけではないが、たとえば自閉症の子どもは、ある特定のことがらに、ふつうでない(こだわり)を示すことがある。
全国の駅名を暗記する、どんな音楽でも一小節を聞いただけで、曲名を当てる、など。
5歳児が、5年生の漢字を書くというのは、おおげさというか、きわめてマレなケース。)

 つまりそういうトンデモナイ例を引きながら、その一方で自分の原稿に権威付けをするため、大学の教授名を並べる。

いわく、「……すでに内田教授は20年以上前に実施した調査で、3、4歳で文字を習得している子と、習得していない子との差は、小学校入学後に急速に縮まり、1年生の9月には両者の差は消えてしまうということを指摘してきた」と。
 (この資料も、20年前の資料!)

●過熱する幼児教育?

 早期教育というと、文字教育と考える。
早計というか、無知。
無知というか、誤解。
あるいは偏見。
私も「文字」をテーマに、レッスンを進めることは多い。
しかし「文字を教えよう」という気持ちは、さらさらない。
先にも書いたように、「文字は楽しい」ということは、教える。
もっと言えば、子どもたちを、楽しませる。
「文字は楽しい」という思いが、良循環となって、その子どもを前向きに引っ張っていく。
それが幼児教育。
その重要性は、ここに改めて書くまでもない。

 それをさておいて、「子どもには、必要な栄養食品だけを与えておけばいい」
「料理は無駄」と。
さらに言えば、こんなことも言える。
「大学へ入っても、無駄。人生の結論は、死ぬときの死に際の様子で決まる」と。
どこかのカルト教団が、信者たちにさかんに説いている言葉である。
このライターの(おかしさ)は、その一点に集約される。

●不適切な指導

 このライターの意見によるまでもなく、不適切な指導で、伸びる芽すら摘まれていく子どもは、多い。
たとえばここでは「読み書き」がひとつのテーマになっている。
実のところ私の二男もそうだった。

 私の二男は、生まれつき、左利き。
私たち夫婦は、自然の流れに任せた。
が、小学校へ入学して一変した。
学校の先生から、「文字は右手で書かせてください」と。
担任の先生が、書道の先生であったことも、災いした。

 毎晩、二男は泣きながらノートに漢字を書いていた。
鏡文字はもちろんのこと、書き順もめちゃめちゃ。
で、1年もたったころ、私は学校の先生に向かって、こう宣言した。
「息子は、左利きで通します。無理な指導は結構です」と。

 それに対して先生は、こう反論してきた。
「冷蔵庫でも、何でも、右利き用にできています。
不便を感ずるのは、あなたのお子さんですよ」と。

 が、さらに私は反論した。
「そんなことは、慣れれば何でもないことです!」と。

 そういう問題はある。
あるが、一方的に、「消滅するから無駄」という論法には、かなり強い違和感を覚える。
●針小棒大論

 受験塾の受験競争には、私も批判的。

擁護したことは、一度もない。
しかしそれは「学習」という面からではなく、「心の育成」という面から、問題にしてきた。
またそのような趣旨で、原稿を書いてきた。

 それをストレス説と結びつけて、「子どもの教育はストレスにつながる」と一方的に決めつけている。
さらにいつの論文かは知らないが、「脳神経学的に胎児期や乳幼児期の早期教育の有効性を正当化する科学的根拠はないとしている」(お茶の水女子大学の榊原洋一教授は、著書『子どもの脳の発達臨界期・敏感期』)と。

 だったら、「野生児」の問題など、なかったはず!
ある時期、親子のふれあいのなかった子どもが、どうなるか?
野生児と呼ばれた子どもを知っていれば、こんな意見は出てこないはず。
「科学的根拠」というが、その研究は、今、始まったばかり。
「臨界期」という言葉が、再びクローズアップされてきたのは、ここ数年のこと。

 そこでこの本(『子どもの脳の発達臨界期・敏感期』)の発行年月日を調べてみたら、2004年とわかった。
6年前!
現在は、廃刊になっている。
当時は「科学的に」は、無理だったかもしれない。
が、ここ数年の、脳科学の進歩には、著しいものがある。
脳の中の動きを、リアルタイムで観察することもできるようになった。

●「塾通いは悪」という偏見

 このライターは、世界の潮流というものを、知らないらしい。
EUでは、むしろ逆に、学校教育より、クラブ制のほうに、教育の重点を移動している。
子どもたちがそれぞれ放課後、好き勝手なクラブに通い、好き勝手なことをしている。
たとえばドイツでは、中学校では単位制を導入し、午後はみな、それぞれのクラブに通っている。

 その費用は、チャイルドマネーとして、満27歳になるまで、一律に支給されている。
額は1万5000円前後。
クラブの月謝が、1000円程度だから、その額だけで、約15のクラブに通えることになる。
学校の内部にクラブがあることもある。
日本がこの先めざすべき教育は、むしろ、そちらのほうではないのか。
10年一律というか、AERA(朝日新聞社)のばあいは、30年一律のごとく、「塾、必要悪論」を展開している。

 そこには、「学校や幼稚園でやることは問題なし」という、ぬぐいがたい偏見すら覚える。
が、事実は逆で、むしろ「民活」、つまり民間の活力を利用したほうが、よい面も多い。
たとえば英会話にしても、民間に任せた方が、ずっとよい教育をする。
実際に、よい教育をしている。

 それに第一、今時、泣きながらいやがっている子どもを、無理に塾へ通わせる親は、い・な・い!
いったいこの話も、何年前の話かと、聞きたくなる。
(20~30年前には、こういう話はよく耳にしたが……。)

その部分を、ここに転載させてもらう。

「…… Aさんの長女は、大学入学後に幼い頃の塾通いについて、
「辛かった。お母さんにはいやだとは言えずに我慢していた。幼稚園の友達と、もっと遊びたかった。中学受験なんて必要なかった」

 と涙を溢れさせながら訴えた」(AERAより)と。

 このライターは、自説の偏見を補強するため、ペタペタとあちこちの悪例を張りつけている。
わかるかな?

●塾で勉強したら……?

 さらにAERAの記事は、つづく。
「日本には飛び級制度はないし、習熟度別クラスも少ない。塾などで勉強したことを学校で「復習」する状態が常に続くと、学校での勉強がつまらなくなる」(AERAより)と。

 ヘエ~~?

 今時、こんなことを書くライターがいること自体、信じられない。
学校第一主義というか、学校神話信仰者というか。
つい先日、韓国で発表された調査結果をもう一度、ここにあげてみる。

●居眠りする高校生たち

(授業中、居眠りをしている高校生)
居眠りについて、「普通の行動」、または「たびたびおこなっている行動」
    日本人    45.1%    
    韓国人    32.3%
    アメリカ   20.8%
    中国      4.7%

 「学校の勉強がつまらない」のは、塾で先取り教育をしているからではない。
構造的な問題。
つまり公教育がかかえる構造的な問題に起因する。
これは高校生についての調査だが、中学校でも似たような現象が起きている。
小学校でも似たような現象が起きている。
また「塾」といっても、今時、このライターが書いているような授業をしていたら、生徒など、1人も集まらないだろう。

たとえて言うなら、「まずい料理を並べるレストラン」のようなもの。
それを「食べろ!」と押しつけても、今時の子どもは、食べない。
親だって、食べさせない。

●結論

 また動き盛りの子どもを、無理に机にしばりつけ、「読み書き」を教えれば、ストレスがたまるに決まっている。
体や心が変調をきたすのも、当然。
あえて「尿検査」をするまでもなく、子どもたちの表情を見れば、それがわかる。
「教育」というのは、そういうもの。
子どもの表情と様子を見て、判断する。

それを「……1997年に幼稚園児の尿を採取してストレス値を比較したところ、早期教育を受けている幼児は、受けていない幼児に比べてストレスが高かった」と。
1997年当時といえば、「早期教育」の定義も、まだあいまいだったはず。
またそのころから、不登校児が急増し、不登校が社会問題化した。
が、その一方で、水泳教室、書道など、おけいこ塾へ通っていない子どもなど、いなかったはず。

都会地域では、ほぼ100%。
地方の農村地帯でも、70%。
(この数字は記憶によるものなので、不正確。)

 ここでも「読み書き」と「早期教育」を混同させるという、言葉のトリックを使っている。

さらに言えば、ライターの思いこみを(柱)にし、あちこちから寄せ集め的に、古い資料をペタペタと張りつけている。

 で、問題があるとするなら、なぜ親たちが、こうまで過熱するのか。
(過熱しているなら、という前提だが……。)
その中まで、メスを入れる必要がある。
またそういう視点で、この問題を切り込んでほしい。
またメスを入れてこそ、「さずがAERA!」ということになる。
こうした記事を書くことによって、どういう問題が、どう解決するとういうのか?
ハシゴをはずすのは、簡単なこと。
「では、どうすればいいのか?」。

 親たちは、この日本にはびこる不平等性を、いやというほど、毎日見聞きしている。
人生の入り口で幸運に恵まれた人は、生涯、恵まれた生活を楽しむことができる。
そうでない人は、そうでない。
「受験」がその関門になっていることは、だれの目にも明らか。
親たちは日常的に、(あせり)と、(不安)を感じている。
そういう事実をさておいて、「読み書き」を「早期教育」にすりかえて、「早期教育は危険」と警鐘(?)を鳴らす。

 AERAが書くべきことがあるとすれば、「では、どうすればよいか」ということ。
「幼児をどう楽しく指導すればよいか」ということ。
ものごとは、後ろ向きに考えるのではなく、前向きに考える。
 
●AERAを、そのまま転載

 誤解があるといけないので、インターネット上に配信された、AERAの記事をそのまま転載させてもらう。

++++++++++++以下、AERAよりそのまま転載+++++++++++

●AERAより 2010年4月19日(月)

 都内に住む30代の母親は最近、4歳の女の子が図書館で読んでいる本を見て驚いた。絵はなく、漢字まじりの文字ばかり並ぶ小学校中学年用の読み物だ。自分の小学1年生の子どもは、入学してようやくひらがなを習ったばかりだというのに。思わず「すごいね」と声をかけると、女の子は「漢字も書けるよ」と言って、スラスラと漢字を書いた。女の子の母親と話すと、通っている有名私立幼稚園では珍しくない光景だという。

■所得よりも養育態度

 最近、地方都市から東京に転居してきた40代の母親の長男が通った保育園は、外遊びを重視し、幼児の読み書きなど早期教育には批判的な方針だった。長男は文字をほとんど書けないまま小学校に入学した。入学後、近所の5歳の女の子が持っていた「お勉強ノート」を見て圧倒された。画数の多い小学校中学年向けの漢字がびっしりとノートのマスを埋めていた。入学後も、わが子がカタカナに四苦八苦する傍らで「5年生の漢字が書けるよ」「九九できるよ」と豪語する級友の存在を知り、長男が勉強についていけるか心配になった。

 しかし、お茶の水女子大学の内田伸子教授(発達心理学)は、文字の読み書きなどの早期教育に批判的だ。内田教授は昨年秋の東アジア学術交流会議で「幼児のリテラシー習得に及ぼす社会文化的要因の影響」調査を発表した。

 ちょうどその2カ月ほど前、文部科学省は全国学力テストの結果を分析し、親の所得が高いほど子どもの学力が高いという調査を発表していた。親の年収が1200万円以上では国語、算数の正答率が全体の平均より8~10ポイント高く、200万円未満では逆に10ポイント以上低かった。

 だが、内田教授の調査では、子どもの学力格差は親の所得格差ではなく、親子のかかわり方が大きく影響していた。たしかに「読み・書き」能力だけみれば、3歳では親の所得や教育投資額が多いほど高かった。しかし、その差は子どもの年齢が上がるにつれて縮まり、小学校入学前に消滅した。文字などの早期教育の効果はわずか、数年しか続かないのだ。

 すでに内田教授は20年以上前に実施した調査で、3、4歳で文字を習得している子と、習得していない子との差は、小学校入学後に急速に縮まり、1年生の9月には両者の差は消えてしまうということを指摘してきた。また、別の研究でも、漢字の習得では、早期教育を受けなかった子どもとの差は小学校2年生ごろに消滅し、むしろ国語嫌いは早期教育を受けた子に多かったということもわかっている(黒田実郎、「保育研究」)。

■想像力豊かな子は…

 一方、幼児の語彙力については、親の所得や教育投資額が多いほど高かった。しかし、詳細な分析をした結果、語彙の成績を左右するのは所得や教育投資額ではなく、親の養育態度であるとわかった。

 内田教授は、こう話す。
「語彙力というのは自律的思考力を支えるものです。所得が低い家庭であっても、子どもとのふれあいを大事にして、楽しい経験を共有するような『共有型』の養育スタイルの家庭の子どもの語彙得点は高いのですが、所得が高くても大人の思いを押しつけ、トップダウンで禁止や命令、体罰などを多用する場合は子どもの語彙の成績は低いのです。他の子どもとの比較や勝ち負けの言葉を多用するとか、子ども中心で親が犠牲となる教育も、学力基盤を育むのに効果はありません」

 つまり親の「人間力」こそ、子どもの語彙力の発達には重要だということだ。しかも、この語彙力こそ学童期以降の子どもの学力と関連があると話す。
 また内田教授が文字を習得している幼児と習得していない幼児に、それぞれ空想でお話をつくってもらったところ、文字を習得していない子どもの方が想像力豊かな内容だったという。こうした研究を通じて、過熱する一方の早期教育に警鐘を鳴らしてきた内田教授は、こう話す。
「幼児期には五感を使って親子で体験を共有することが大切です。親子のコミュニケーションや会話のやりとりを通じて、子ども自身が考えて判断し、親子の絆が深まっていく中で子どもの語彙力は豊かになる。お金をかけなくても子どもは伸びるのです」

■鈍る昼間の活動

 研究者の間では以前から「早期教育」の効果に懐疑的な声は多かった。小児科医でもある、お茶の水女子大学の榊原洋一教授は、著書『子どもの脳の発達臨界期・敏感期』の中で、脳神経学的に胎児期や乳幼児期の早期教育の有効性を正当化する科学的根拠はないとしている。

 むしろ、早期教育の弊害として一番心配されるのは、子どものストレスだ。東北生活文化大学の土井豊教授らが、1997年に幼稚園児の尿を採取してストレス値を比較したところ、早期教育を受けている幼児は、受けていない幼児に比べてストレスが高かった。さらに早期教育を受けている幼児は、昼間の幼稚園での活動が鈍くなっていた。幼稚園後の「お勉強」に備え、日中は活動を休止して子どもなりに心と体のバランスをとっているのだろう。日中の活動の低下は子どもの発育にとってよくはない。ほかにも早期教育を受けた子どもがストレスで情緒障害を引き起こしたケースや、親子の愛着関係に悪影響を及ぼした事例も報告されている。

 都内に住むAさんは、長女の妊娠中からクラシック音楽や絵本の読み聞かせで胎教した。乳児期からは水泳、リトミックのほか、有名幼児教室にも電車で通った。自宅では幼児教室の教材やパズル、フラッシュカードで毎日1時間以上の早期教育を実践した。友達と自由に遊ぶ時間は少なかったが、長女に嫌がる様子も見えなかった。どんどん子どもが吸収していくのが嬉しかったし、何よりも子どものためと信じていた。

 早期教育熱はやがて中学受験熱に変わる。Aさんの長女は、過酷な競争を勝ち抜き都内の難関の中高一貫進学校への入学を果たしたが、その後勉強熱が急速に冷めてしまった。競争の激しい進学校で成績は伸びず、大学受験は苦労した。

 有名中学に合格し、張り詰めていた緊張の糸がプツンと切れてしまったかのように、その後の成績が伸び悩む例は多い。子どものストレスは早期教育で終わらない。小学校に入れば塾通い、中学受験、それが終わっても大学受験と、常に急き立てられていく。

■のしかかるストレス

 先の榊原教授は、こうした塾や学習教室での先取り学習も逆の効果を生む危険性があると話す。日本には飛び級制度はないし、習熟度別クラスも少ない。塾などで勉強したことを学校で「復習」する状態が常に続くと、学校での勉強がつまらなくなる。

 先の40代の母親の長男が通う小学校では「(学校の勉強は)簡単すぎてばからしい」と言う子どももいる。こうした子どもたちは、結果として学校の勉強に対するモチベーションが低下し、集中力も低下する。それこそが中学校以降の学力低下につながりかねないのだ。

 だが、榊原教授は早期教育や中学受験に熱心な親たちを一概には非難できないと話す。格差が広がるばかりの社会で、親が子どもの幸せのためにできることといえば、よりよい教育を受けさせることと思いつめるのも無理からぬことだからだ。フラッシュカードで天才児が育つかのような、教育産業のマニュアル化した教材は魅力的に見える。

 榊原教授はこう話す。
「早期教育が子どものストレスにならず『親子のふれあい』に寄与する程度なら使っても良いでしょう」

 フラッシュカードは、知能開発のためではなく、親子のコミュニケーションのために使えばよい。

 Aさんの長女は、大学入学後に幼い頃の塾通いについて、
「辛かった。お母さんにはいやだとは言えずに我慢していた。幼稚園の友達と、もっと遊びたかった。中学受験なんて必要なかった」
 と涙を溢れさせながら訴えた。

 Aさんは「頭にガツンとパンチをもらった感じ」だった。今まで注ぎ込んだお金と時間と苦労を思うと「間違いだった」とは認めたくない気持ちも残る。でも、「ごめんね」と、長女に心の底から詫びた。

 早期教育の効果はわずか数年足らず。だが、子どものストレスは成長した後も心に長く重くのしかかる。内田教授は、
「子どもはお母さんが大好きだから嫌とは言わない。だからこそ、親は子どものストレスのサインを見逃してはいけない」
 と話している。
ライター AS

(4月26日号)

++++++++++++以上、AERAよりそのまま転載+++++++++++

●ホ~~~~~~!

 AERAはこう書いている。

『「Aさんの長女は、大学入学後に幼い頃の塾通いについて、
「辛かった。お母さんにはいやだとは言えずに我慢していた。幼稚園の友達と、もっと遊びたかった。中学受験なんて必要なかった」
 と涙を溢れさせながら訴えた』(AERA)と。

 ホ~~~~~~!

 もう一度、昨日の私のレッスンの様子を、そのまま紹介する。
なおこの日は、いきなり6月中旬なみの暑気ということで、私も生徒たちも、かなりバテていた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 AERA 偏見記事 学校第一主義 万能主義 早期教育の誤解 偏見 AERA)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

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Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●AERA誌へ

 さらに見てくださるようであれば、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
より
「BW公開教室」へどうぞ!

20年前、43年前の話ではなく、「今」の話を書いてください。

教え子に歯の治療をしてもらう

2012-07-05 11:00:09 | 日記
【良心的な歯医者さん】

●K歯科医院

心の美しい人に出会うと、こちらの心まで洗われる。
ほっとするような安堵感を覚える。
今日(7-4)、こんなことがあった。

……私は現在の入野町(地名)に住むようになって、35年になる。
それ以前は、歯科医院には、行った記憶がない。
が、ある日、虫歯が痛み出した。
それで近くにある、X歯科医院へ行った。
そこでのこと。

 治療が終わって待合室に座っていると、院長(歯科医師)自らが、そこへやってきた。
私の横に座った。
体をかがめて、「林さん、これだけ出してくれれば、いい歯にしますよ」と。
院長は、5本の指を伸した。
「?」と思っていると、「50万円です」と。
(これは事実! 声を大にして強調したい!)

 この話は事実であり、もしX医院の院長がそれをどうのこうのと騒いだら、私はその院長と闘う。
今でもX歯科医院は、近くの団地内で、医院を経営している。

 ……ということもあり、つぎに私は、少し離れたところにある、S歯科医院に通うようになった。
良心的な歯科医師だった。
院長は誠実さが、体の芯からしみ出てくるような人だった。
で、私や家族は、以後、30年以上、そのS歯科医院に通った。

 が、S歯科医院の医院長が、病気で倒れた。
そのまま閉院。
去年(2011)のことだった。
困った。
困ってワイフに相談すると、「K医院にしたら……」と。

●K歯科医院

 実は、K歯科医院は、よく知っている。
私が最初に開いた小さな教室の、すぐ近くにあった。
歩いて数分くらいのところだった。
6畳一間くらいの小さな医院で、夏などは、窓を開け広げて、治療していた。
私はその医院のそばを通るたびに、中の治療室をのぞいた。

 で、そのK歯科医院の長女のKさんが、やがて私の教室に通ってくれるようになった。
母親が二女を背中に負い、いつも連れてきてくれた。
自宅からは、かなりの距離がある。
車で、15分くらい。
が、迷わず、K歯科医院にした。
先にも書いたように、世の中には、X歯科医院のような歯科医院もある。
悪徳中の悪徳。
そのときも、ロクに治療らしい治療もせず、歯を2本も抜いてしまった。
医院を選ぶといっても、どうしても慎重にならざるをえない。

●レントゲン

 私は歯科医院で受けるレントゲンが、嫌い。
ここ3~4年ほど、久しぶりに行ったりすると、かならずと言ってよいほど、レントゲン写真を撮られる。
そういうシステムになっているらしい。

 で、あるとき、S歯科医院で、歯科医にこう言った。
「できれば、レントゲンを避けたいのですが……」と。
しかしS医師は、応じてくれなかった。
「ごく微量ですから」と。

 で、今回は、覚悟した。
「はじめてだから、しかたないか」と。

●1回の治療

 歯科医院によって、治療システムはちがう。
そういう話は、どこかで聞いたことがある。
が、K歯科医院は、今までの歯科医院と、すべてがちがっていた。

 予約制ではない。
受け付け順。
で、入ると、1回の治療で、すべてを治してくれた。
(今どき、1回の治療ですべてをすませてくれるところは、少ない!)
義兄も同じK歯科医院に通っているという。
「あのK先生はね、すべて保険の範囲で治療してくれるよ」と。

 何よりもうれしかったのは、レントゲンを撮られなかったこと。
プラス、K医師の妻が、私のことを覚えていてくれた。
「もう30年になりますね」と言ったので、「いえ、35年です」と。

 私は待合室で待っている間、ずっと年数を数えていた。
それで即座に「35年」と答えることができた。

●善人

 X歯科医院のような歯科医院は例外であるとしても、S歯科医院でも、治療は1回につき、15分程度。
ひとつの虫歯でも、最低でも、5~7回は通わねばならなかった。
それに保険で治療をしてくれるのは、目立たない奥歯だけ。
目立つ歯は、それぞれ10万円前後の実費がかかった。

 私はその(ちがい)に驚いた。
同時に、うれしかった。
それは混沌とした闇夜で、善人に出会ったようなうれしさだった。
K医師は、穏やかで、やさしそうな表情をしていた。
私のことを覚えていてくれた。

 「懐かしいです」と一言。
ぐっと胸が詰まった。
治療の合間に、私はK医師の顔を何度ものぞいた。
顔のしわのなかに、35年という年輪を感じた。
あの治療室で、懸命に治療している、K医師の姿が、そのまま浮かんできた。

●娘さん

 治療が終わった。
1回の治療で終わった。
が、どうも終わり方がすっきりしない。
で、「つぎはいつ来ればいいですか?」と聞くと、「じゃあ、また来週にでもおいでください」と。
私は「はい、来ます」と答えた。
治療室を出た。

 今、あのとき教えていた娘さんが、父親の跡を継いで、父親といっしょに仕事をしている。
つまり娘さんも、歯科医師になった。
私は、今までに、何百人という医師や歯科医師を、この世に送り出してきた。
しかし自分の教え子に、治療してもらったのは、今日がはじめて。
本当に、はじめて。

 それがどういうわけか、うれしかった。
安堵感に、満足感が加わった。
車に乗ったとき、じんと胸が熱くなった。
2012/07/04


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●ヒッグズ粒子&CERN(サーン)

 「ヒッグズ粒子」なるものが、発見された。
「神の素粒子」とも呼ばれている。
Yahooニュースは、つぎのように伝えている。
 
 『4日に行われたBBC(英国放送協会)とのインタビューでホーキング博士は、「これは重要な発見だ。ピーター・ヒッグス氏はノーベル賞をもらうべきだ」と述べつつも、「しかしこの物理学上の偉大な進歩が、われわれが予想していなかった結果を出した実験からもたらされたというのは、ある意味で残念なことだ」とつづけた』と。

●CERN(サーン)

 この日本では、「CERN」の名前を知る人は少ない。
「息子はCERNで働いています」と言っても、みな「?」の顔をする。

CERN……『スイスのジュネーヴ郊外でフランスと国境地帯にある、世界最大規模の素粒子物理学の研究所。
「欧州合同原子核研究機構」、「欧州合同原子核研究機関」、「ヨーロッパ合同原子核研究機構」、または「欧州原子核共同研究所」などとも呼ばれる。
研究内容が素粒子物理学を中心としていることから、「ヨーロッパ素粒子物理学研究所」、「欧州素粒子原子核研究機構」などの通称もある』(以上、ウィキペディア百科事典)と。

 実際には、CERNで出てきた研究結果(データ)は、そのまま2つのルートで世界に流される(息子談)。
そのうちひとつは、衛星を介して、一度インディアナ州のインディアナ大学に集められる。
大学といっても、端から端まで、車で2時間弱もかかる広大なキャンパスを誇る。
その情報を、一部は、スパコンを使って分析する。
が、スパコンの能力には限界がある。
そこでその情報は、世界中の大学の中型コンピューターに分散して流される。
もちろん、その中には、東京大学も含まれる。

 その管理を、息子と他の2人の研究者がしている。
他の2人は、ニューヨークとラスベガスにいる。
「どうしてそんな仕事ができるのか?」と聞くと、息子はこう答えた。
「常時、テレビ電話で、つながれている」と。
「ときどき東京大学からも、研究者が来るよ」とも。

 現在、先にも書いたように、CERNから出てきたデータは、2つのルートで世界に流される。
「アメリカ方式」と「ヨーロッパ方式」と呼ばれている。
使っているソフトがちがう。
そこで息子は、その2つのソフトの統合ソフトの開発も手がけている。

 なお息子に言わせると、「今は、もうスパコンの時代ではない」とのこと。
あくまでも息子がそう言っているだけだが、無数の中型コンピューターをつないだほうが、効率のよい分析ができるそうだ(息子談)。
(息子は、州立大学の学生のときから、コンピューターの接続を専門としていた。)

 このあたりの話になると、私にもまったく理解できない。
で、昨年、こういう会話をした。

「東京では、そういう仕事はできないのか?」と。
日本も、この分野では、最先端を行くと私は思っていた。
が、息子は、こう答えた。
「東京には、そういう仕事はない。パパ、日本は相手にされていないよ」と。

 悲しい話だが、これも日本人の知らない事実のひとつ。
それはともかくも、そのCERNで、「神の素粒子」が発見された。
目下確認中だが、発見は、ほぼまちがいないようだ。
「ピーター・ヒッグス氏はノーベル賞をもらうべきだ」という話も出ている。

 そんなわけで、CERNの名前が出るたびに、どこか誇らしい気持ちになる。
うれしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 二男 CERN CERN 神の素粒子)2012/07/05記


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2012++++++はやし浩司・林浩司





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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●沼津・家庭教育学級(2012年5月15日)(主催:沼津市教育委員会)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

沼津市の家庭教育学級で、講話をさせていただきました。
こじんまりとした会場でしたが、2時間という長い時間、みなさん真剣に聞いてくださいました。
ありがとうございました。

なおその帰り道、焼津市にあるグランドホテルに一泊させてもらいました。
そのときの様子をつづけて送ります。

Hiroshi Hayashi+++++++May. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【家庭学級】(やる気のある子どもにするには!)

(1)

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(2)

<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/0ihPwaMSGN8" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

【焼津・グランドホテルにて】(すばらしい朝焼けでした)

<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/J_G1gTS-t88" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●愚人と賢人(2004年に書いた原稿より)



 ずいぶんと昔だが、私に面と向かって、こう言った女の子(中3)がいた。



 「あんた(=私のこと)も、くだらねエ仕事、してるねエ。私やア、おとなになったら、

あんたより、もう少し、マシな仕事をすっからア」と。



 私は、その女の子を見ながら、怒るよりも先に、「なるほどなア」と思った
私のしている仕事は、その程度だということは、自分でも、よくわかっている。
しかし私は、その女の子の前では、本当の私の姿を見せていない。
見せる必要も、ない。



 まただからといって、その女の子を、責めているのでもない。
(実際には、そのまま退塾させたが……。)
最近の若い人たちは、多かれ少なかれ、みな、そうだ。
何も、彼女が、特別というわけでもない。
この時期の子どもは、生意気になることで、自分を主張しようとする。



 それに、多分、今でも、子どもたちから見る私は、バカで、ドジで、どこかダサイ、初老の男なのだろう。
私も、あえて子どもたちの前で、そういう男を演じてみせている。



 で、私は、一つの事実に気がついた。



 愚人には、賢人がわからない。
どの人が賢人であるか、その区別さえできない、と。



 たとえばこんなことがある。



 幼児クラスで、私が、わざと、「3+4」の問題を、まちがえてみせたとする。
すると、子どもたちは、「先生、ちがう!」と騒ぎだす。常識で考えれば、(あくまでもおとなの常識でだが……)、私という人間が、そんな簡単な足し算で、まちがえるはずはない。



 しかし子どもたちには、それがわからない。
中には、本気で怒ってしまう子どもさえ、いる。「あんた、本当に、先生!」と。



 しかし賢人には、愚人がよくわかる。あたかも手に取るかのように、よくわかる。
何をどう考え、どう思っているか。
そしてその先、どういう結論をだすかまで、わかる。
この足し算のケースでいうなら、子どもが怒りだすところまで、わかる。



 つまり冒頭にあげた女の子は、そのレベルの子どもということになる。
(私が賢人であるかという話は、別にして……。)
少なくとも、私は、その女の子よりは、賢人である。
だから、「なるほどなア」と思った。
またそう思うことで、自分の心を、処理した。



 で、私は、そのあと、その女の子と、こんな会話をした。



私「君は、将来、どんな仕事をするの?」

女「まあね、いろいろ」

私「たとえば……」

女「まあね。でもね、先生、私も将来、何もすることがなくなったら、塾の講師でもすっから。そのときは、先生、よろしくね」と。



 つまりその女の子は、対、私との関係では、愚人ということになる。
自分が愚人であるとさえ、気づいていない。
(だから、愚人ということになるが……。)
だから私が、どういう人間であるかさえ、わからない。
理解もできない。



 こうして私は、一つの結論を導いた。
それが、つぎの一文である。



 『愚人は、決して、自分を愚人と思わない。
しかし賢人は、いつも自分を愚人と思う。

そして愚人からは、賢人がわからない。
自分と同じ人間だと思う。が、賢人からは、愚人がよくわかる。
これが愚人と賢人のちがいである』である。



●愚人論



 簡単な例では、『堂々巡り』という言葉がある。
あるいは、『小田原評定』というのもある。
同じことを繰りかえし考えるだけで、前に進まないことをいう。
これを、「思考のループ」という。



 一度、このループ状態にはいると、進歩が止まるのみならず、ばあいによっては、後退する。



 たとえば昨夜、私はテレビのチャンネルをかえるとき、あるバラエティ番組をのぞいてみた。
夜の9時台だった。



 見ると、お笑いタレントとしてよく知られている、Sという男が、ペラペラと何かをしゃべっていた。
軽妙なタッチで、若い人たちには、それなりに受けはよい。
しかし私は、ふと、こう思った。
「この男は、5年前にも、そして10年前にも、同じことを言っていたぞ」と。



 実のところ、同じかどうかはわからない。
しかし昔、彼がしゃべったのを何度か聞いたことがあるが、どの一つも、記憶に残っていない。
何かしら、いっしょに笑ったような覚えはあるが、それだけ。



 お笑いタレントのSが、ループ状態に入って、同じようなことをしゃべるのは、構わない。
それが彼の仕事である。
問題は、それを見たり聞いたりする、視聴者である。
実は、この視聴者も、ループ状態に入る。



 もう少しわかりやすい例で考えてみよう。



 たとえばプロ野球が、ある。



 私はあるとき、プロ野球を見ながら、こう考えたことがある。



 「毎年、毎年、こうしてプロ野球は、繰りかえされる。しかし中身は、同じではないか」と。



 もちろん中身は、ちがう。試合の内容も、ちがう。
しかし三〇年前のプロ野球も、最近のプロ野球も、プロ野球は、プロ野球。
パターンこそちがうが、「プロ野球」という全体のワクは、同じ。



 ワイフと、こんな会話をした。



私「たとえばその日の献立を考える。そのとき、『何を食べようか』と考える。
考えながら、頭の中で、いくつかの料理を思い浮かべる。
そのとき思い浮かべる料理の内容はちがうか
もしれないが、献立を考えるというワクは、同じ」

ワ「だから、どうなの?」

私「思考も、これによく似ている。
いろいろなことを考えるが、一定のワクができると、そのワクの中だけで、同じようなパターンを繰りかえすようになる。
しかしこうなると、思考は、進歩を停止する」



 思考が停止した状態になると、明日も今日と同じ、あさっても、その明日と同じという状態になる。
しかしこうなれば、その人は、死んだも同然。



私「人間は考えるから、人間なのだ」

ワ「いつものあなたのセリフよ」

私「そうだ。考えることによって、前に進むことができる」

ワ「考えなかったら……?」



 私は、老人たちの会話を例にあげた。
どこかの公園に集まって、毎日、毎日、同じ会話を繰りかえしている、あの老人たちである。



 もちろんそれが悪いというのではない。
人は、人、それぞれ。またほとんどの人は、みな、そうなる。
しかし若い人は、そうであってはいけない。



私「若い人でも、思考のループに入ってしまう人はいくらでもいる」

ワ「そういう人は、死んでいるの?」

私「思考的には、そういうことになる」



 そこで問題は、どうすればそのループ状態から、抜け出ることができるかということ。

いや、その前に重要なことは、自分が、ループ状態にあることに気がつかなければならない。



 たとえば、今のあなたを、10年前のあなたとくらべてみればよい。
20年前のあなたとくらべてみればよい。
が、それがわからなければ、あなたの近くにいる、叔父や叔母を一人選んで、その人を外から観察してみればよい。



 あなたなら、あなた。
その人なら、その人が、10年前と同じ、あるいは20年前と同じというのであれば、あなたや、その人は、ループ状態にいるとみる。
このタイプの人は、10年一律なことばかりを、口にする。
そして同じことを、同じパターンで繰りかえす。



 では、どうするか。
そういうループ状態から抜け出るには、どうするか。
このことを、あの釈迦は、『精進(しょうじん)』という言葉を使って説明した。
つまり常に、今のカラを破り、前に進む。
そこに生きる、人間の尊さがある。
人間の価値がある、と。



私「大切なことは、考えること。この一語に、行きつく」

ワ「どう考えるの?」

私「いいか、思想というのは、言葉でできている。だから考えるということは、ものを書くことということにもなる人間は、書きながら考え、考えながら、書く。
そうすると、荒野の荒地に、ときどき小さな、光るものを見つけることがある。
あとは、その光るものを、どこまでも追いつづければいい」と。



ワ「それが精進ってことね」

私「そう。あえて言うなら……」

ワ「何よ……」

私「先へ進めば進むほど、相対的に、まわりの人が、幼稚に見えてくる」

ワ「愚かに見えてくるということ?」



私「はっきり言えば、そういうことになるかもしれない。
だから10年前、あるいは20年前につきあった人と、会ってみればいい。
そういう人と会って話してみたとき、自分が、昔のままだと感じたら、たがいにループ状態にいるとみていい。
しかし相手が愚かに見えたら、自分はループ状態から、抜け出たとみていい」と。



 こうして人間は、死ぬまで、歩きつづける。
求めて、求めて、歩きつづける。もちろんゴールは、ない。
そう言いきるのは危険なことかもしれない。
しかしゴールは、ない。
荒野は、どこまでも果てしなく、つづく。
そしてゴールだと思っても、必ず、その先は、ある。



 最後にもう一度。



 愚人は、決して、自分を愚人と思わない。
しかし賢人は、いつも自分を愚人と思う。
そして愚人からは、賢人がわからない。
自分と同じ人間だと思う。
が、賢人からは、愚人がよくわかる。
これが愚人と賢人のちがいである。
(040127記)

(はやし浩司 愚人 賢人 愚人論 賢人論 はやし浩司 くだらない仕事 マシな仕事 ある女子中学生 生意気な子ども つまらない仕事)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●不便と不快感

 こうして考えてみると、「あえて不便」には、2つの意味があることがわかる。

 ひとつは、行動面の不便。
これはわかりやすい。
で、もうひとつは、精神面の不便。
が、これは(不便)というよりは、(不快感)。
一見、まったく別の不便さに見えるかもしれない。
しかし脳内で起こる反応は同じ。
その処理方法も、メカニズム的には、同じ。

 わざと楽でない方法を選びながら、自分の脳に刺激を与えていく。
(不便)や(不快感)から、逃げていたのでは、刺激にならない。
あえて不便を求め、不快感を求める。
それはちょうど、寒い夜にサイクリングに出かけるような気分に似ている。
出かけたいか、出かけたくないかと問われれば、だれだって(?)、出かけたくない。
しかしサイクリングから戻ってきたときの爽快感が、たまらない。
その爽快感を知っているから、あえてサイクリングに出かける。

 ……逆に、もし、(不便)や(不快感)のない生活になってしまったら、(もちろんそれには限度というものがあるが……)、何とつまらないことか。
それこそただ「息(いき)る」だけの人生になってしまう。

 何としても、それだけは避けなければならない。
……ということで、今日も、「あえて不便」を求めて、がんばろう。
2012/05/17朝記

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 あえて不便 息る 生きる)

(追記)

 あのときあの女子中学生をそのまま退塾させたのには、別の理由がある。
日ごろの言動が生意気なのに併せて、学習態度が粗放。
ほかの子どもたちがその影響を受け始めたからである。
念のため。


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【息(いき)る人生】

●あえて不便

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

このところ、「あえて不便」に、心がけている。
(便利)イコール、(望ましいこと)ではない。
あえて不便にし、生活のリズムを変える。
たとえば、パソコン上からカレンダーを消した。
とたん、日にちがわからなくなった。

それまでは、目を横にやれば、その日の日にちがわかった。
曜日もわかった。

で、今は、そのつど、壁に張ったカレンダーを見る。
日にちを調べる。
曜日を調べる。

こうした(不便)は、脳を活性化させる?
というか、生活がマンネリ化すると、刺激が乏しくなる。
単調になる。
それ以外のことが、できなくなる。

そうでなくても、使わない知識や知恵は、どんどんと消えていく。
それに気がつかないまま、どんどんと消えていく。
それがこわい。

だから「あえて不便」。
不便な道を選ぶ。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「だから、それがどうしたの?」

 私の年齢になると、「だからそれがどうしたの?」という疑問が、すぐ追いかけてくる。
いつも追いかけてくる。
たとえば「長寿」。
「長生きしたからといって、それがどうしたの?」と。

 答え方をまちがえると、そのまま自己否定の世界に陥ってしまう。
自己否定ほど、恐ろしいものはない。
だから多くの人は、自分の過去にしがみつく。
学歴、肩書き、地位にしがみつく。
それを否定されたら、自分が自分でなくなってしまう。
それこそ「何のための人生だったの?」となる。

●生きる目的

 昨日、講演の依頼があった。
講演というより、講話。
ある小学校の学年単位の講話である。
講演に大小があるとするなら、もっともミニサイズの講演ということになる。
講演料も安い。
1万円。

 が、1万円が悪いというのではない。
すぐ先方に電話を入れ、確認。
「……もし、先生が自腹を切られるというのであれば、無料で結構です」と。

 また講演時間も、短い。
計画表を見ると、45分とある。
しかし45分で、何が話せるのか。
……ということで、時間を延ばしてもらった。
1時間半にしてもらった。

 よく誤解されるが、講演というのは、長いからつらいとか、短いから楽ということはない。
使うエネルギーは同じ。
……というか、いくらミニサイズの講演会でも、私は手を抜かない。
かならず10ページ前後のレジュメを用意する。
それを会場で配付してもらう。

 もちろん、(仕事)には、ならない。
しかし「だから、それがどうしたの?」と自問したとき、そういう講演会ほど、明確な答が返ってくる。

 「それが生きる目的」と。

●無私、無欲

 一方、数日前、ある相談があった。
フォーム(=個人連絡用)での相談だった。
子どもの発達障害に関するものだった。
で、転載許可を求めると、「いかなる場合も、不許可」と。
「一文たりとも、許可しない」と。

 こういうばあいは、私は、簡単な返事を書いたあと、即、削除することにしている。
深く読めば、内容が記憶に残る。
それがどこかで亡霊のようになって出てくる。
そのとき、それがトラブルの原因となる。

 無私、無欲とはいうが、返事を書くのに、最低でも1~2時間はかかる。
それにこの種の相談は、繰り返しやってくる。
そのつど、いつも同じような返事を書く。
が、それが問題ではない。
私にとっては、その1~2時間が、惜しい。
1~2時間もあれば、新しい知識を吸収することができる。

 だから即、削除。
記憶に残さない。

 で、すかさず抗議のメールが入った。

いわく「あなたに相談したことを、後悔している。相談内容を、ぜったいに公開しないことを約束してほしい」と。

●リンカーン・コンチネンタル

 生きる目的というのは、そのつど複雑に交錯する。
損を考えたり、得を考えたり……。
ときにその意味さえ、見失う。
「ああ、私も、このままこの先、朽ちていくのか」と。
というのも、今まで、私は多くの成功者や失敗者を、直接見てきた。
若いころは、今の私ですら本当にそんなことがあったのかと思えるような世界に住んでいた。

 30代のはじめには、運転手付のリンカーン・コンチネンタル・マーク4に乗っていた。
どこかの金持ちが、貸してくれた。
それで東京と浜松の間を、行き来していた。
また東京では、ホテル・ニューオータニ以外には泊まったことがない。
そんな私だったが、今は、TOYOTAのプリウス。
燃費を気にしながら、細々と乗り回している。
そうそうこんなこともあった。

●ある女子中学生

 15年ほど前のこと。
手がつけられないほど、生意気な女子中学生がいた。
ドラ娘。
まさにドラ娘、そのもの。
トイレから戻ってくると、あるとき、こう言った。

「私ね、汚れたトイレは苦手なのよね。生理的嫌悪感を覚えるのよね」と。

 で、そのあと、私はその女子中学生を、あれこれと説教した。
「ぼくたちの時代には、ボットン便所が当たり前だった」というような話もした。
が、しばらくすると、私にこう言った。

「あんた(=私のこと)も、くだらねエ仕事(=塾教師)、してるねエ。私やア、おとなになったら、あんたより、もう少し、マシな仕事をすっからア」と。

 この一言が私を激怒させた。
私はその場で、その女子中学生を、退塾させた。
「今日は、このまま帰りなさい!」と。

 ……この話は以前にも書いた。
原稿を探してみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(以下、日付は、2004年になっている。
が、現在、この女子中学生は、40歳くらいになっているはず。)

Hiroshi Hayashi+++++++May. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【浜松市・雄踏町に現れたUFOを検証する】はやし浩司 2012-05-19

●信頼できるBT氏


 12年来の友人でもあり、信頼できるできるBT氏が、昨夜(5月18日)、1枚の写真を届けてくれた。
「何かが写っている」と、BT氏は言った。


 まず、その写真をここに紹介する。


(1)元の写真(矢印部に注目)


 なお矢印は2か所につけたが、左の矢印のやや右側にも、もう1個、白い物体が写っているのがわかる。


UFO(1)


(2)元の写真の明度をあげてみた。


 白い物体を、より鮮明にしてみた。


UFO(2)


(3)左の矢印部を拡大してみた。


UFO(3)


(4)右の矢印部を拡大してみた。


UFO(4)


 昨夜(18日)と、今日(19日)、2度、現場へ行って検証してみた。
左側の物体は、屋根の上にあるように見える。
右側の物体は、道路から、10~13メートル高いところに浮かんでいたことがわかった。
詳しくは、後述する。


●現場へ


 昨夜(5月18日)、午後11時ごろ、現場へ行ってみた。
場所は、BT氏より詳しく聞いていたこともあり、すぐわかった。
フラッシュなしで、撮影してみた。


DSC02694


●再び現場へ


 今日(5月19日)、午前11時30分ごろ、オーストラリアの友人とワイフ、それに私の3人で、現場へ行ってみた。
この写真の写っている家の家人(女性)から話を聞くことができた。


(1)50歳くらいの女性だったが、写真を見て、たいへん気味悪がった。
(2)枕などではないかと聞いたが、裏の屋根(北側の屋根)では、ものを干さないと答えた。
(3)白い物体に、思い当たるものはないかと何度も念を押し聞いたが、「ない」と答えた。
(4)写真を撮った位置に立ち、私たちも現場を検証してみたが、右側の白い物体は、道路から高さ10メートル以上の位置にあることがわかった。
(目測では、10~13メートル前後だった。
少なくとも、工事用のバルーン型照明器具ではないことは確認できた。)


DSC02695


ほぼ同じ位置から撮影してみた。


DSC02697


道路(浜松市内から雄踏町へ抜ける道路がある。その道路に向かって、20メートルほど、先に進んでみた。この写真の、山の大きさから、右側の物体が、かなり高いところに浮いていたことがわかる。)


●考察


 このタイプのUFOは、各地で頻繁に目撃されている。
集団で現れることが多いよう。
結論は、まさにUFOということになった。
未確認飛行物体ということになる。
あとの判断は、読者諸氏に任せる。
2012/05/19記


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 UFO 雄踏町に現れたUFO はやし浩司 浜松市 雄踏町 UFO)


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【K君との会話】はやし浩司 2012-05-20

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

昨日、市内のホテルで、K君と食事をした。
K君は、メルボルン大学(オーストラリア)で、修士号(Master’s Degree)を取得したあと、現在に至るまで、モナーシュ大学(メルボルン)に籍を置いている。
大学の教官(インストラクター)を、総合的に指導する立場にある。
その場でのこと。
いろいろな話をした。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●ノーベル賞受賞者

 モナーシュ大学に、現在、ノーベル賞受賞者はいるかと尋ねると、「いない」と。
理由を聞くと、「受賞すると、みな、ほかの大学や研究機関に移ってしまう」と。
欧米では、学生はもちろん、教授たちも、よりよい教育(待遇)を求めて、大学から大学へと渡り歩く。
日本の大学で見るような、徒弟制度そのものがない。

 「インターナショナルハウス(メルボルン大学)には、毎週のようにノーベル賞受賞者がやってきて、泊まっていった」と話すと、「それは今でも、そうだ」と。
が、そのあと、K君は、こう言った。

「ヒロシは、あのノーベル賞という賞が、公平と思うか」と。

●ノーベル賞

 K君はいくつかの例をあげ、ノーベル賞の問題点をあげた。
まず推薦人制度。
それぞれの国には、推薦人が割り当てられている。
どういう基準で、だれが選ばれるか、だれも知らない。
その推薦人が、ノーベル受賞者をノルウェー政府に推薦する。

 つぎに今では、研究といっても、単独で研究する例は少ない。
複数以上の研究者が集まって、共同で研究する。
しかし賞を受けるのは、その「長」ということになっている。

 実際K君が知っている例でも、部下に研究を任せ、自分では何もしなかった研究者がノーベル賞を受けた例もあるという。
「日本でも、昔、SEという元首相が、ノーベル平和賞を受けたことがある」と話すと、K君は、笑った。

●知識人

 私は率直にこう言った。
「ぼくは、君がうらやましい。毎日、第一級の知識人(インテリジェントな人)と、接することができる」と。

 が、K君はこう言った。
「ヒロシ、インストラクター(教授たち)といっても、ほとんどが、頭がおかしい。君がうらやましがるような世界ではない」と。

私「しかし、ぼくはいつも、知識に飢えている。知識人に会う機会が、ほとんどない」
K「ぼくは大学にいても、いつも本ばかり読んでいる。今はインターネットがある。ヒロシも、そうすればいい」と。

 学生時代のK君は、毎日本ばかり読んでいた。
今でも世界中を回りながら、古本をあさるのが、K君の趣味にもなっている。
が、K君は、私の住んでいる世界を知らない。
あえて言えば、私の住んでいる世界は、砂漠のような世界。
一方、K君は、知識が水のようにこんこんとわき出る、オアシスのような世界に住んでいる。

 「知識」に対する基準、そのものが、ちがう。
「飢え」の感じ方、そのものが、ちがう。

●有名人

 たまたま私の前の席に、その世界では有名なスポーツ選手が座った。
年齢は30歳くらい。
妻らしき女性と、数人の家族が同席していた。
私がK君に、「あの男は日本でも有名な、プロ~~だ」と教えると、すかさず、K君はこう言った。
「バカ顔(no brain)に見える」と。

K「日本ではどういう人を、有名(famous)と言うのか」
私「正しくは、よく知られた人(well-known)と言うべきだったかもしれない」
K「商業主義の世界では、人は正しく評価されない」
私「そう。ぼくも、その意見に同感だ。この4月に、慶応大学に9000人の化学者が集まった。ぼくの知人がその場で、基調講演をした。が、この日本では、ただの一行も、またただの1秒も報道されなかった」
K「オーストラリアでも、そうだ」と。

 で、その一方で、商業主義に乗った人たちが、この日本では、「よく知られた人」となり、それを自分の名声や財力につなげていく。

●低進国

 「低進国」という言葉は、私が考えた。
「後進国」というのは、経済用語。
「低進国」というのは、文化用語。
この日本は、先進国かもしれないが、低進国。

 英語でどう表現したらよいか。
それが議論になった。
たとえば以前は、後進国と言った。
が、20年ほど前から、発展途上国と言うようになった。
だから「低進国では、まずい」と。
あえて言うなら、「文化的発展途上国(Culturally Newly-developing Country)」。

 「日本では、テレビへの露出度で、文化人が決まる」と話したら、オーストラリアでは、それはないと教えてくれた。
「社会への貢献度で決まる」と。

●ハーバード大学で講演?

 こんな話もした。

 もう20年ほど前のこと。
日本のある宗教指導者が、ハーバード大学で講演をしたという。
が、この話そのものが、「?」。

 外国の大学を少しでも知っている人なら、だれしも首をかしげる。
そこで私は、すかさずハーバード大学へ電話を入れた。

 もちろんハーバード大学といっても、広い。
会場となるような会館(ホール)は、いくつもある。
広い講義室を貸すこともある。
もちろん有料。
で、やっとそのホール(会場)を見つけた。

 で、電話で聞くと、「どこかの団体に貸したことはある」と。
「詳しくは文書で返事するから、文書で問い合わせてほしい」とも。

 そこですぐ私は手紙を書いた。
折り返し返事が届いた。
それにはこうあった。

 「在米のある団体に、会場(講義室の1室)を貸した。利用目的、内容は、大学としては、関知しない」と。

 が、この日本では、そういうことが堂々と宣伝に利用される。
あたかもハーバード大学に招へいされ、講演でもしたかのように装う。

 そんな話をK君にしたら、K君は、フンと鼻先で笑った。

●SKI

 話は家族、さらには遺産の話にも及んだ。
オーストラリアでも、息子や娘には遺産を残さない人がふえているそうだ。
それを、つまり、子どもに遺産を残さないことを、英語では、「SKI(スキー)」と言うと。

 「Spend the Kids’ Inheritance(子どもの遺産を消費する)」を略して、「SKI」と。

 私がどういう言い回しをするのかと尋ねると、「I am going to SKI.(スキーに行く=ぼくは息子や娘たちに財産を残さない)」と教えてくれた。

 オーストラリアでは制度として整っているから、息子や娘が親の老後の世話をするということは、めったにない。
K君自身も、国からの年金など、あてにしていない。
民間の保険会社に積み立てた私的年金で老後を、老人ホームで過ごすつもりという。

 SKI……おもしろい言い方なので、ここに記録する。

●忘却

 ほかにもいろいろな話をした。
が、数日もたつと、そのほとんどを忘れてしまう。
その場だけでも、2時間も話した。
が、こうして記録できることは、たったのこれだけ。
読めば、5分足らずの文章でしかない。
残りの1時間55分は、どこへ消えたのか。

 考えてみれば、これほど恐ろしい話は、そうはない。
2012/05/20記


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2012++++++はやし浩司・林浩司


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