最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●情報をどう思考に変えていくか

2011-12-12 22:46:36 | 日記
●情報と思考(物知りと賢い子)

 数日前、テレビを見ながら、ワイフが何かを言った。
言った内容は忘れた。
テレビの内容も忘れた。
何かを言ったのは、覚えている。
そのとき、つぎのように言った。

「情報というのは、頭の中で反芻(はんすう)し、加工しなければ意味がないよ」と。
つまり情報の一方的な受け入れは、意味がない。

●野球中継

 このことは野球中継を見ているとわかる。
たとえば10年前の野球中継を、音声を切った状態でながめてみる。
サッカーの試合でもよい。
(実際に、そういう実験をしたわけではないが……。)
そのときその中継を、10年前のものだとわかる人は、まずいない……と思う。
よほどの野球通でも、わからないだろう。
いわんや、野球中継をたまにしか見ていない人には、ぜったいにわからない。

 端的に言えば、10年前の野球中継も、5年前の野球中継も、そして今見る野球中継も、同じ。
情報というのは、そういうもの。
つまり覚えては忘れる。
その繰り返し。

●反芻(はんすう)と加工

 手に入れた情報は、一度脳の中で、反芻する。
一方的に受け入れてしまうのは、危険なことでもある。
情報を提供する側に、よいように操られてしまう。

 野球中継にしてもそうだ。
興業側の餌にされながら、自分が餌になっていることに、気がつかない。

 ……思い出した。
ワイフが見ていた番組は、太極拳についてのものだった。
1人の女性が中国本場の太極拳を取材していた。
女優だったかもしれない。
「C式太極拳」の取材だったと思う。

 その番組を見ながら、その女性が日本人離れしている体型であることに気づいた。
日本人というより、欧米人。
背が高く、細い体をしていた。
足も長かった。

●スタイル

 たまたまその日、別のニュースサイトで、日本の中高校生たちが、細くなっているという記事を読んだ。
「スタイルを気にする若者がふえた」と。

 私はその記事のことが頭に残っていたので、その女性を見ながら、こう思った。
「最近の若い人は、こういう体型にあこがれているのだ」と。

 その女性は、周囲の中国人とは、明らかにちがう体型をしていた。
が、私が気になったのは、「胸」。
ほかの女性たちは、太極拳をしながら、ユラユラと胸を揺らしていた。
その女性の胸は、大きさは周囲の中国人の女性と、それほどちがわなかった。
しかしまったく、揺れなかった。

 ……なぜか……ということについては、私にはわからない。
しかしそういう体型が、健康的な体型かというと、私は、そうは思わない。
アジア人にはアジア人の体型がある。
それを無視し、体型を欧米人のそれに近づけようと、無理をすればするほど、健康を害する。
もちろんその女性が、そうというのではない。
が、気にはなった。

●太極拳

 さらに言えば、こんな心配もある。
太極拳については知らないが、こうした健康法は、得てしてカルトと結びつきやすい。
オウム真理教を例にあげるまでもない。
オウム真理教は、ヨガと教義を巧みに混ぜ合わせながら、信者を獲得していった。

番組の中でも、指導(?)を始める前に、「老師」と字幕の出た指導者が、(中国語では「老師」というのは、年齢に関係なく、「先生」という意味なのだが)、先祖の墓に参るシーンが出てきた。
「先祖にあいさつしてから、指導する」と。

 まさに宗教的行為!

 さらに気になったのは、その老師の家での食事。
「日本から来た客(?)」ということで、もてなしをしたのだろう。
テーブルの上には、所狭しと、料理が並んでいた。
しかしよくよく考えてみると、へん(?)。
どうしてその老師は、まったくの素人に近いその女性を、そんなにも歓待するのか。
ふつうなら、そんな歓待はしない。
なぜか?

 テレビカメラを背負った人が、そばにいたからなのか。
テレビカメラを背負った人は、どこへでもズカズカと入り込んでいく。
よい例が、NHKの「昼時~~」何とかいう番組。
平気で民家へあがりこみ、ときには、そこに並べてあった昼食までいっしょに食べていく。

が、どうもそれだけではないようだ。
老師は、こう言った。
「日本へも、たびたび(指導に)行っています」と。
それでピンと来た。
宣伝に利用している!

 ……であるなら、なおさら、疑ってみる必要がある。
こうした健康指導団体は、組織化しやすい。
「法輪功」と呼ばれる教団も、そのひとつ。
組織化が悪いというのではない。
が、どうして組織化するのか。
健康指導団体が、どうして組織化するのか?
(そのC式太極拳がそうであるというのではない。誤解のないように!)

●ウソと本当

 こうして番組を見ながら、自分の頭で考え、判断をくだす。
これが「反芻と思考」ということになる。
が、それをしないで、一方的に、「すばらしい」「私もやってみよう」などと、短絡的に行動してはいけない。
中には「天下のBSで紹介されていたから、安全」と考える人もいるかもしれない。
が、NHKがアテにならないことは、今回の3・11大震災で証明された。
「ウソは言わないが、本当のことも言わない」。

●情報に操られる
 
 私たちは知らず知らずのうちに、情報に操られる。
 子どもの世界も、また同じ。
1年前のこと。
PSP(ソニーのゲーム機)のソフトで、「モンスター・ハンター・サード(3rd)」が発売になった。
そのソフトについて、予約で買った子どもが、私の生徒の中にも何人かいた。
「中身を確かめてから買ったのか?」と聞くと、「そんな必要はない」と。
「どうして?」と聞くと、「おもしろいに決まっている」と。

 子どもたちの世界では、いかに他人より1歩抜きんでるかが、重大事。
1日でも早く先へ進むのが、ステータスにもなっている。
が、そんな子どもたちは、(もちろんそれだけの知恵も経験もないから、しかたないが)、自分たちが情報に操られていることに、気づいていない。
もっと辛辣な言い方をすれば、おとなたちの金儲けの餌になっているだけ。

●では、どうするか

 情報を得たら、反芻し、その情報をもとに、自分の思想を組み立てる。
方法はいろいろある。
近くの人と議論するのもよし。
日記風に書きとめるだけでもよい。
さらに言えば、それについて、自分なりの意見をまとめてみる。

 こわいのは、情報の渦に、のみ込まれてしまうこと。
それを無批判なまま、脳の中に格納してはいけない。
もし「反芻する時間がない」というのであれば、むしろそういう情報には接しないほうがよい。
そうでなくても、現代社会は、情報にあふれている。
10分、ネットサーフィンしただけで、頭の中が満杯になる。
が、さらにこわいことがある。
情報には、中毒性がある。

●情報中毒

 「情報中毒」について、以前、こんな原稿を書いたことがある。
日付は、2007年10月になっている。

●情報、過剰社会(2007年10月に書いた原稿より)

++++++++++++++

いつも音を聞いていないと、
落ち着かない……とまあ、
そんな人は多いですね。

何かの雑誌に書いてあったので
すが、日本では、エレベーターの
中、バス停でも、音声ガイダンス
が流れますね。それについて、ある
外人が驚いていたそうです。

日本人には、静かな環境で、静かにものを
考えるという習慣そのものがない?

あるいは、日本人は、静かに
ものを考えるという習慣そのものを
放棄してしまったのかもしれません。

情報、また情報。
情報の洪水の中で、情報が途切れたとたん、
不安になってしまう?

よい例が、バスガイドのガイドです。
聞いてもすぐ忘れるような情報を、
つぎからつぎへと流す。

またそれをもって、サービス?、と
誤解している。
どこかおかしいですね。

++++++++++++++

●情報の洪水

 先日、パソコンで、メモリー診断をしようと思いついた。VISTAには、メモリー自己診断ツールが標準でついている。以前には、何度か使ったことがある。

 が、である。その何度か使ったはずのツールがどこにあるかわからない。あちこちをさがしてみたが、結局は、見つからなかった。その説明をしてある雑誌をさがしてみたが、その雑紙もどこかへ、なくしてしまった。

 たった数か月前にできたことが、できない? 私は改めて、脳みその底にできた(穴)に驚いた。私たちは情報の洪水の中で生きている。それはわかる。が、一方で、その情報は、容赦なく、脳みその底にできた(穴)から、外へ流れ出てしまう。

 情報の洪水は、つぎつぎとやってきて、またどこかへ消えていく。脳みその中に残る情報というのは、ほんとうに少ない。その少ない情報も、時間とともに、どこかへ消えていく……。

●情報中毒

 いつも情報にさらされていないと落ち着かないという人は、多い。情報の流入が途切れたとたん、不安になるらしい。少し前まで、私の母がそうだった。

 実家に行くたびに、テレビはガンガンとかけっぱなしだった。私がそれを止めようとすると、母は、がんこに抵抗した。「見ていないのだからいいだろ?」と言っても、母は納得しなかった。母は、テレビの音が聞こえていないと、落ち着かなかったのだ。

 こういうのを、「情報中毒」という。意味のある情報とか、ない情報とか、そういうことは、考えない。選択することもない。料理番組、健康番組、ニュース……まさに、何でもござれ。そういう情報を、つぎつぎと脳みその中に入れ、また出していく。

 何かの雑紙に書いてあったが、日本へ来た外人が、こんなことに驚いていた。日本では、エレベーターの中、バス停にすら、音声ガイダンスがある、と。その記事を最初に読んだときには、「どうして?」と私は、思った。「どうして、そんな程度のことで、驚いたのか?」と。

 少し前、観光バスで、オーストラリアの友人夫妻を長野県のほうへ連れていってやったのだが、そのときも、そうだった。オーストラリアの友人夫妻は、情報の洪水に驚いていた。バスガイドが、間断なくしゃべりつづけていたからだ。それにどこの観光地へ行っても、ガイド、ガイド、またガイド。「右に見えますのが~~山、左に見えますのが、~~湖」と。

 一度、情報中毒にかかると、情報なしでは、落ち着かない。つまり音が聞こえていないと落ち着かない。

●情報と思考

 何度も書くが、(情報)と(思考)は、まったく別のもの。情報量が多いからといって、その人に思考力があるとはかぎらない。たとえていうなら、幼稚園児が、かけ算の九九を暗記して口にするようなもの。それができたからといって、「算数ができる子ども」ということにはならない。

 しかしほとんどの人は、幼児が、かけ算の九九を口にしただけで、「算数のできる子ども」と思い込んでしまう。しかしそれは誤解。まったくの誤解。

 同じように、バスガイドが、観光地にまつわる歴史的な話をしても、だれも、そのガイドが、歴史のプロだとは思わない。(思う人もいるかもしれないが……。)どうせどこかのガイドブックに出ていたような内容を、丸暗記しているだけ(失礼!)。

 先日も、紀伊半島のほうへ行ったときも、織田信長ゆかりの地を、あちこち回った。そのつど、ガイドは、もの知り顔に、あれこれ説明してくれた。が、どれも、まちがいだらけ。しかしそういう話を聞いて、質問する人は、いない。かけ算の九九を暗記している幼児に向かって、その意味を問いただしても意味はない。それと同じ。

●考えるという習慣

 考えるという習慣のない人に、(考える)ことの重要性を説いても意味はない。(考える)という意味すら、理解できない。できないばかりか、情報の量をもって、つまりもの知りであることをもって、「私は頭がいい」と思いこんでいる。

 しかし重要なのは、(考えること)。さらに言えば、(考えるという習慣)。

 たとえば健康を維持するため、毎朝、ジョギングしている人がいる。毎日の運動が、健康にとっていかに大切であるかを、そういう人たちは知っている。運動をした日と、しない日とでは、体の調子はまるでちがう。運動したあとには、体の細胞のひとつひとつが、ピチピチとはじける音すら、感ずる。

 しかしそういう習慣のない人に、運動の大切さを説いても意味はない。ないばかりか、たとえばテレビの健康番組に流されるまま、「酢がいい」と聞けば、酢を買い、「ニンニクの焼酎漬けがいい」と聞けば、自分でそれを作ってみたりする。無駄とは思わないが、そのつど情報に振り回されているだけ。

 同じように、重要なのは、(情報)ではなく、(それを選択し、加工するという習慣)である。

●考えさせない社会

 日本の社会は、騒々しい。ほんとうに騒々しい。どこへ行っても、騒音、また騒音。情報の洪水、また洪水。

 また観光バスの話にもどるが、うるさいのはガイドだけではない。静かな人も多いるが、その一方で、おしゃべりな人も多い。バスに乗っている間中、となりの人と、ペチャペチャと間断なくしゃべっている。概してみれば、女性に多いが、男性にもいる。

 話している内容といえば、たわいもない世間話。あるいはその繰りかえし。私はそういう人たちを見ながら、「こういう人たちは、どこでものを考えているのだろう」と思う。「あるいは、どこでそういう時間をもっているのだろう」とも。

 もっと言えば、日本の社会構造そのものが、そうなっている。つまり、人が静かにものを考えるという社会構造になっていない。さらにもっと言えば、教育の段階で、ものを考える子どもを育てていない。

●情報の選択

 だからといって、情報が無駄であると言っているのではない。良質で、適確な情報は、思考の基盤となる。その情報に上に、私たちは自分の思考を組み立てることができる。

 そこで私たちがすべきことは、情報の選択。洪水なら洪水でもよい。しかしその中から、情報を選択していく。たとえて言うなら、無数の絵画の中から、名画と、そうでないものを選ぶのに似ている。これはそれほどむずかしいことではない。ほんの少し訓練すれば、だれにでもできるようになる。

 私自身は、つぎのようにして選択している。

(1) その人自身の言葉であるか、どうか。
(2) その人自身が、どういう思想的背景をもっているか。
(3) その人自身が、どういう経験をしているか。
(4) その人自身が、どういう経緯で、その情報を手に入れたか。
(5) 普遍性はあるのか。視野の広さはどうか、公正であるか、など。

 つまりその人自身の言葉でないと、意味がないということ。その人自身を見て、判断するということ。

 当然のことながら、苦労に苦労を重ねた人の言葉は、重い。意味がある。そうでない人の言葉は、そうでない。人生も永遠なものであれば、無駄な情報も、それなりに生きることを楽しくしてくれるかもしれない。しかし今は、もうそうではない。今さらパチンコの攻略本を読んで、それを応用してみようなどという気持ちには、とてもなれない。

●生きるということは、考えること

 人は、考えるから、人である。考えない人は、人というより、サル。だからといって、サルが人より劣っているというのではない。サルのほうが、ひょっとしたら、人間より考えているかもしれない。幼児だって、そうだ。

 私たちは、幼児イコール、幼稚と考えやすいが、これはとんでもない誤解。幼児は幼児なりに、懸命に考えている。そういう幼児に出会うと、心底、感動を覚える。ずいぶんと前のことだが、こんなことがあった。

 ある日、幼稚園へ行くと、1人の子ども(年長男児)が、地面を掘っていた。「何をしているの?」と聞くと、その子どもは、こう言った。「石の赤ちゃんをさがしている」と。

 その子どもは、石は、土の中で生まれるものと思っていた。だから地面を掘れば、石の赤ちゃんがそこにあると思っていた。その幼児は、その幼児なりに、懸命にそう考えて、穴を掘っていた。

 レベルの問題ではない。たしかに私たちおとなから見れば、幼稚(?)な行動かもしれないが、そこに、私は、生きる価値を見た。もしそれを否定するとなると、つまり私たち自身も、否定されることになる。

 人間にしても、まだ進化の過程にある。1000年後、あるいは1万年後の人たちが、現在の私たちを見て、幼稚だと思うかもしれない。しかしだからといって、それを批評することは、許されない。それを許すということは、とりもなおさず、私たちが、私たち自身を否定することになる。

私たちは私たちで、懸命に生きている。考えている。内容は幼稚かもしれないが、そこに人が生きる価値がある。それがわからなければ、ここに書いた幼児を頭の中で、もう一度、想像してみてほしい。

●考えることのすばらしさ

 ところで考えることは、宝さがしに似ている。ひとり荒野の中を歩いている。そこで小さな宝石を見つけるのに似ている。小さな宝石かもしれないが、キラリと輝く。それを見つけたときは、うれしい。ほんとうに、うれしい。

 が、考えることは、けっして、楽な作業ではない。難解な数学の問題を前にして、その問題を解くようなもの。考えることには、苦痛や苦労がともなう。しかもその問題は、必ずしも、解けるとはかぎらない。解答用紙もない。

 だからできるなら、考えないですませたいと思う。もっとも手っ取り早い方法は、宗教なら宗教に身を寄せること。思想をだれかに注入してもらうこと。しかしそれは同時に、その人の「死」を意味する。

 パスカルの言葉を借りるまでもなく、たとえか弱く、細いアシであっても、人は、自らの足で立ち上がる。そこに人が生きる意味があるし、気高さも、そこから生まれる。しかし、その価値はある。

 考える人からは、考えない人がどういうものか、よくわかる。反対に考えない人からは、考える人がどういうものか、わからないだろう。だからいって、私がその考える人というわけではない。つまりは相対的な立場でしかない。

 私よりものをよく考える人は、いくらでもいる。そういう人たちから見れば、私など、何も考えない部類の人間でしかない。しかし一度、考える習慣を身につけると、それまで見ていた世界が一変する。

 それは山登りに似ている。下から見ると低く見える山でも、登ってみると、意外と視野が広いのには驚く。そのすばらしさは、山に登ったことがある人でないとわからない。

 同じように、考えることによって、だれでも、思考の山に登ることができる。そしてその視野の広さに驚くことができる。

 さあ、あなたも勇気を出して、考えてみよう。あなたも、きっとそのすばらしさを、実感するはず。……という結論で、この話は、おしまい。
(以上、2007年10月記)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●再び、2011年12月(現在へ)

 2007年に書いた原稿を、今、こうして読み直してみる。
内容的には、それ以前に、あちこちで書いたものを寄せ集めただけの原稿である。
で、ここが重要だが、そういう原稿を4年前に書きながら、ではその私は、この4年間で、4年分の進歩をしたかということ。

 答は、「NO」に近い。

 ただ情報を一方的に受け入れることだけは、2007年の当時も、今もしていない。
繰り返しになるが、あの3・11大震災を契機に、私は情報のもつ恐ろしさというか、洗脳されることの恐ろしさを、いやというほど、思い知らされた。
政府にせよ、NHKにせよ、「ウソは言わないが、本当のことも言わない」。

 その(本当のことも言わない部分)で、私たちは日々に少しずつ、洗脳されていく。
すでに今ですら、「原発事故は片づいた」と考えている人は多い。
少し前だが、中学3年生のOさんですら、そう言った。
学年でもトップクラスの成績を収めている子どもである。

私「何も片づいていないよ」
O「ウッソー!」
私「あのね、被害が出てくるのは、これからだよ。チェルノブイリでも被害が出始めたのは、2年後から5年後。10年後にピークを迎えた。現在の今でも、チェルノブイリでは被害がつづいているよ」
O「今でも……?」
私「今でも、だ。そのとき汚染された子どもが母親になり、その母親が子ども産む。その子どもに症状が現れている」と。
 
 不必要に心配することはない。
しかし必要以上に安心するのも、よくない。
今、「もう片づいた」と考えている子どもがいること自体、私たちが情報に操作されていることを示す。
もろもろのどうでもよい情報の洪水の中で、思考力そのものを失っている。
つまり、それが、コ・ワ・イ。

●最後に

 ここに書いたことを参考に、(物知りな子ども)と、(賢い子ども)について考えてみてほしい。
遠回しな言い方をしたが、このエッセーで書きたかったことは、この1点に尽きる。
情報が多いことイコール、思考力があるということではない。
情報と思考は、まったく別のもの。

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評論 はやし浩司 情報と思想 情報中毒 思考力 反芻と思考 はやし浩司 物知り もの知り 賢い子ども 考える子ども はやし浩司 情報の反芻 はやし浩司 思想と情報 はやし浩司 情報論)


Hiroshi Hayashi+++++++Dec.2011++++++はやし浩司・林浩司 

●悪魔の論理

2011-12-12 10:27:32 | 日記




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凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /
\   /(″ ▽ ゛)\    厂 ̄偶
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 子育て最前線の育児論byはやし浩司   12月  23日号
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選ばれました!
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【BW教室より・カタカナ(年中児)の学習】

満4・5歳(4歳6か月)を境に、幼児は急に文字に興味をもち、自らそれを学ぼうとし
ます。この時期をうまくとらえ、指導もしくは種まきをしておくと、子どもは自然な形で
(=無理をしなくても)、文字を覚えてしまいます。「文字は楽しい」という印象作りを大
切に! そういう目的をもって、今日のレッスンを進めました。

(1)
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(2)
<iframe width="480" height="360" src="http://www.youtube.com/embed/4_NMNyhB3-c" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>


(3)
<iframe width="480" height="360" src="http://www.youtube.com/embed/yMILqUmM2eo" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>


(4)
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Hiroshi Hayashi++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●悪魔の論理(強者の合理主義vs弱者の論理)

++++++++++++++++++++++

抑圧が長くつづくと、心は悪魔的になる。
サイコパスもそのひとつだが、それ以前の段階で、
ものの考え方がゆがんでくる。

たとえばこんな例で考えてみよう。

たとえば今、あなたは失業しているとする。
働いても、働いても、たいした収入にはならない。
子どももいる。
家計は火の車。
明日の食費すらままならない。
もしそんな状態が、1年から10年単位でつづいたとする。

こんな状態で、ものの考え方を正常に保つのは不可能。
ひがみ、ねたみ、不平、不満、怒り、不安、心配……。
これらが混然一体となって、あなたの心をゆがめる。

が、これは個人にかぎらない。
国全体が、そうなることもある。

たとえば北朝鮮。
先のワールドカップ3次予選では、日本側チーム、サポーターは、
「冷遇」(ニュース各社)されたという。
どう冷遇されたかは、すでにみなさんご存知の通り。

それに対して、北朝鮮が、猛然と反論してきた。
「冷遇したのは、日本側」と。
読めば読むほど、ガラスに爪をたて、それをかきむしるような不快感が充満してくる。
しかしこれが「悪魔の論理」である。
国も心がゆがむと、そこまでゆがむ。

MSNの記事を、そのまま紹介する。

+++++++++++++以下、MSN記事より++++++++++++++

●「まるで監獄だった」北が日本での待遇を逆非難

 北朝鮮・平壌で15日に行われたサッカーワールドカップ(W杯)予選の日朝戦で、日
本代表が空港で足止めされるなど異例の対応を受けたと、日本メディアが報じたことに対
し、北朝鮮は機関紙を通じて9月に日本であったW杯予選での北朝鮮代表への待遇を挙げ、
「まるで監獄だった」と逆非難した。

 ラヂオプレス(RP)によると、朝鮮労働党機関紙「労働新聞」は18日、ウェブサイ
トで、北朝鮮選手に対して日本警察がトイレまで付いてきたりしたとし、「まるで監獄に行
ってきたようだ」との選手の話を紹介した。入国時にチョコレートを没収されたとも訴え
たが、真偽は全く不明だ。

 日本サポーターは日の丸などの応援グッズを没収され、観客席の一角に押し込まれる“冷
遇”を受けたが、「選手団も応援団、取材団も平壌に来て、商店をはじめ行きたいところに
自由に行った」と事実に反する主張を繰り広げている。

+++++++++++++以上、MSN記事より++++++++++++++

●相手にしない

 こういう国は、相手にしないほうがよい。
言いたいように言わせておけばよい。
こちらが本気になればなるほど、相手の思うつぼ。

 で、ここでは話を、もう一歩、先に進める。

●まともでない国

 経済学がそのつど、かならずといってよいほど、デッドロックに乗り上げるのは、悪魔
の論理を計算に入れていないから。
つまり経済学は、(まともな論理)を基盤にし、その上に成り立っている。
が、世界には、(まともでない国)のほうが、多い。
北朝鮮もそうだが、たとえばスペインも症状は軽いが、そのひとつ。

 多額の国家負債をかかえ、明日にでもデフォルト(債務不履行)を起こすかもしれない。
が、スペイン自体は、どこか居直っている?
一部の人たちは都市で、緊縮予算反対などと騒いでいるが、あくまでも一部。
たいはんの人たちは今日も裏通りで、バックギャモンに興じている。

それに対して、ドイツやフランスが、大あわて。
表向きはスペイン救済を口にしているが、実際には、自分たちの救済。
「国」ではなく、「一家」にたとえてみると、それがよくわかる。

●アンダーワールド

 あなた(スペイン)は年収の何倍もの借金をかかえている。
明日の生活を維持するためには、さらに借金を重ねるしかない(=国債を発行するしかな
い)。
利息も、バカにならない。
この先、増収分よりも、利息のほうが多くなる。
つまり働いても働いても、そこはアリ地獄。

 もうこうなったら、自己破産(デフォルト)するしかない。
自己破産して、借金をチャラにする。
その上で、もう一度、一家を立て直す。

 が、金を貸している銀行(ドイツ銀行)は、そうでない。
もしここでチャラにされたら、元も子もなくなる。
相手が個人なら、財産の没収ということもできるが、相手が国ではそれもできない。
スペインの半分の領土を、ドイツに渡せとも言えない。
本当に、元も子もなくなる。

 つまり(まともな論理)を振りかざすドイツと、(まともでない論理)を振りかざすスペ
イン。
ここで両者がたがいに、はげしく衝突する。
が、その衝突を裏で支えるグループがある。
それが23%とも言われる、失業中の若年労働者たち。
この人たちにしてみれば、もうこれ以上、失うものは何もない。
このグループが、「力」で、政治を裏で操ろうとする。
つまりここで悪魔の論理が働く。
まともな経済学の論理が通じない、いわば、アンダーワールドの世界。

 このアンダーワールドの世界が、こわい。

●弱者の論理

 悪魔の論理をさらに理解するためには、弱者の論理を知らなければならない。
弱者には弱者独特の論理がある。
またその上で、ものを考える。

++++++++++++++++++はやし浩司

 2006年6月に書いた原稿より。

++++++++++++++++++はやし浩司

【主義の限界】

++++++++++++++++++++

なぜ、共産主義も、資本主義も、そして
民主主義も、最後の最後のところで、
行きづまってしまうのか?

わかりやすく言えば、そのどれも、
最後の、あと一歩というところで、
ほころびを生じてしまう。ボロボロに
なってしまう。

よい例が、今のイラク。民主主義は最善
とばかり、それを押し付けようとする、
アメリカ。

しかしその民主主義とやらを、イラクの
人たちは、どうやら別の目で見ている?

なぜか?

++++++++++++++++++++

●教育論の限界

 教育論という「論」がある。それはそれとして、その「論」にも、限界がある。いくら
高尚な教育論を説いたとしても、そこには、一定の限界がある。

 こんな例で考えてみよう。

 私たちが「子ども」というときは、子ども全体をさす。1人ひとりの子どもについて書
くこともあるが、しかしそれでも、「個人」については、書かない。また書いてはならない。

 私たちが「子ども」というときは、顔をもたない、子どもたちの世界、全体を意味する。

 教育論は、そうした「子ども」を前提として、組み立てる。が、最後の最後のところで、
子どもをもつ親は、こう言う。

 「先生、うちの子は、だいじょうぶでしょうか?」と。

 つまり、「うちの子は、ちゃんと目的どおり、SS中学校へ、入学できるでしょうか」と。

 これが教育論の限界である。私たちは「論」を説きながらも、そこにいつも、一定の限
界があることを知る。

●主義の限界

 資本主義にも、共産主義にも、似たような限界がある。民主主義にも、ある。ある一定
のところまでは、その「主義」は、有効であり、それなりの支持を得る。が、それを越え
ると、とたんに、ほころびが生ずる。ボロが出る。矛盾が生ずる。

 なぜか?

 こうした限界も、教育論がもつ限界を当てはめてみると、簡単に理解できる。

 「高尚な教育論も結構だが、私という親が目的とすることは、自分の子どもを、SS中
学に入れることなのです」と。

 つまり今日の生活にも困っている人に向かって、資本主義や共産主義、さらには、民主
主義という「主義」を説いても意味はない。「高尚な主義も結構だが、今日の生活を、まず、
何とかしてくれ。主義の話をするのは、そのあとで、結構!」となる。

●強者の論理vs弱者の論理

 こうした「限界」を、如実に表しているのが、「経済理論」である。ご存知のように、経
済理論ほ
ど、ツギハギだらけの理論はない。ツギハギにツギハギを重ねながら、何とかその場、そ
の場をしのいでいる。ごまかしている。

 遠い昔には、アダム・スミスがいた。ケインズがいた。マルクスがいた。最近では、ド
ラッカー(1909~)がいた。しかし一度とて、その理論どおりに、経済が動いたため
しがない。

 理由は、簡単である。

 こうした経済理論は、いわば、強者の論理でしかないからである。わかりやすく言えば、
とりあえずは、日ごろの生活には困らない、それなりのエリートたちが考えた論理だから
である。

 それに対して、弱者と呼ばれる人たちは、いつも別の論理で、ものを考え、行動する。
しかも不幸なことに、そういった弱者は、「もの言わぬ民」である。自分たちの主義(?)
を、論理として、まとめることもできない。今日という現在を、生きていくだけで、精一
杯。明日の生活を心配しながら、不安な毎日を送っている。

 そのためには、ときには、法もやぶる。悪いこともする。そうでもしないと、生きてい
かれない。そういう人たちが、時として、主流となり、エリートたちが説く「主義」を、
ことごとく否定していく……。

●教育の世界でも……

 高尚な教育論など、受験塾の玄関をくぐれば、そのままどこかへ吹き飛んでしまう。そ
こでは、教育そのものが、個人の欲得の追求の場になっている。

 「1人でも多く、他人を蹴落とせ」
 「点数こそ、すべて」
 「人間の勝ちも、それで決まる」と。

 しかしだれが、そういう受験塾を否定することができるだろうか。彼らは、みな、決ま
ってこう言う。

 「私の目的は、SS中学校の入試に、合格すること」と。

 わかりやすく言えば、歴然とした社会的格差をそのままにしておいて、いくら、高尚な
教育論を説いても意味はない。親や子どもたちは、日々の生活を通して、否応なしに、そ
の格差を、肌で感じ取っている。

 「来月はどうやって生きていこうか」と悩んでいる人もいれば、数千万円の年収を稼ぎ、
外車を何台も乗り回している人もいる。

 その入り口に、「教育」がある。つまり彼らにとっての「教育」とは、そういう教育をい
う。そして私たちが説く教育論とは、まったく異質のものである。

●民主主義の限界

 民主主義といっても、いかにいいかげんなものであるかは、すでに、みさなん、ご存知
のとおり。国政選挙があるたびに、だれしも心のどこかで、何かしらの疑問を感じている。
「こんなことで、本当に政治が変わるのだろうか」と。

 このH市でも、中央から天下り官僚がやってきて、選挙に出馬する。当選する。そして
また中央へと戻っていく。それが明治の昔から、慣例になっている。

 で、選挙が終わっても、生活は、何も変わらない。相変わらず、今日という「今」を生
きていくだけで、精一杯。

 もっとも、これは「個人」の話だが、これが、「国家」の話になることもある。

 欧米先進国が、いくら高尚な民主主義を説いたところで、国によっては、今日という「今」
を生きていくだけで精一杯という国もある。

 そういう国へ行けば、「何が民主主義だ!」となる。つまりこれが、民主主義の限界とい
うことになる。

●弱者の論理

 こうした「限界」を乗り越えるためには、弱者の論理でものを考え、そのレベルで主義
を作らねばならない。が、しかしそうした主義は、今度は、強者の利害と、まっこうから
対立する。

 これも教育の場で考えてみると、それがよくわかる。

 「とにかく、この日本では、学歴のあるものが勝ち」
 「勝てば、官軍」
 「1点でも、点数をあげろ。すべては偏差値で決まる」と。

 講演などでも、「日本の教育の未来」という演題では、人は、集まらない。しかし「こう
すれば、あなたの子どもを、目的の大学へ入学させることができます」と言えば、人は、
集まる。

 現実の世界は、そこにある。

 しかし教育論を説く人が、そんな話をするわけには、いかない。先にも書いたが、「子ど
も」といっても、子ども、そのものが、ちがう。こんな私にしても、ものを書きながら、
その限界を、毎日のように感じている。

●主義の限界

 つまりは主義には、限界があるということ。それがつまりは、共産主義にせよ、民主主
義にせよ、資本主義の限界ということにもなる。

 もちろん限界があることが、悪いというのではない。またそれがあるからといって、そ
れぞれを否定するのも、おかしい。

 大切なことは、いくら主義をもっても、それは強者の論理でしかないということ。弱者
は弱者で、別の論理で動く。たとえば宗教、さらにはカルト、迷信、占い、まじないにし
ても、それを「おかしい」と思うのは、その人の勝手だが、だからといって、そういうも
のに身を寄せている人を、「まちがっている」と言ってはいけない。

 そういうものに身を寄せることで、懸命に自分を支えている人だっている。

 それを忘れると、いくらすばらしい主義を唱えても、やがて矛盾を露呈し、ここに書い
たように、ボロボロになってしまう。

 なぜあのイラクで、ブッシュ大統領が説く民主主義が定着しないかという理由も、こん
なところにあるのではないか。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
主義 はやし浩司 弱者の論理 貧者の論理 主義の限界 民主主義 経済学の限界)


Hiroshi Hayashi++++++++++July 06+++++++++++はやし浩司

●弱者の論理vs依存性

+++++++++++++++++

弱者が必ずしも正しいというわけではない。
弱者の論理が、同じように、正しいというわけではない。
弱者の論理の根底を流れるのが、「依存性」。
弱者の論理を、依存性の観点から、考えてみた。
それがつぎの原稿。
日付は2009年の2月(BLOG)になっている。

+++++++++++++++++

●依存性(Dependence)

++++++++++++++++++++++++++++

依存性には中毒性がある。
依存される側を、「主者」とする。
依存する側を、「従者」とする。
一度、二者の間で依存関係ができると、主者はいつも主者となり、
従者は従者となる。
途中で、立場が入れ替わるということはない。
これについては、前にも何度か書いた。
そこでここでは、もう一歩、話を進める。

++++++++++++++++++++++++++++

●親子の依存性

 実は、親子関係においても、この依存性が生まれることがある。
親が主者となり、子が従者となるケースが多い。
が、反対に、親が従者となり、子が主者となるケースもある。
一般的に、精神的欠陥、情緒的未熟性があると、従者になりやすい。
親側にそれがあれば、親が従者になる。

 で、こうした依存性を、自分の中に感じたら、できるだけ早い時期に、
依存性と決別したほうがよい。
自分の親や、自分の子どもに感じたときも、そうである。
主者はますます主者になり、従者はますます従者になる。

従者は、「助けてもらうのが当たり前」という考え方をする。
そのためお金やモノの流れが、一方的になる。

で、親子のばあいは別として、(親子でもそうなるケースは多いが)、
従者が主者にそれだけ感謝しているかというと、それはない。
立場が逆転したとき、その分だけ、今度は従者が、主者を助けてくれるかというと、
それはない。

 こんな例がある。

●麻痺する感覚

 A氏(50歳)は、実母の実家ということで、長い間、伯父を財政的に援助してきた。
伯父は実家を守っていたが、定職はなかった。
そこで「小遣い」と称して、実母はそのつど、伯父に渡していた。
もとはと言えば、A氏が実母に渡したお金である。
ハンパな額ではない。
合計すると、年間、数百万円にはなった。
それを10年近く、つづけてきた。

 が、A氏が50歳になったとき、A氏の事業が行き詰った。
一時的に多額の借金を負った。
そこでA氏はそれとなく伯父に打診してみたのだが、伯父は、だんまりを決め込んだ。
A氏はこう言った。

 「私の窮状を知りつつ、音なしの構え。そればかりか、それとなく『うちは貧乏』と、
そればかりを口にするようになりました。
それもズルイ言い方をするのですね。『この3年間、旅行などしたことがない』とか、
『家の改築費に、600万円かかった。ローンの返済で、たいへん』とかなど。
実際には、町に空き地を買い上げてもらっていたのですが……」と。

だからA氏はこう言う。

 「依存関係ができたら、その人を援助しても無意味です。感謝されるのは、最初だけ。
しばらくすると、それが当たり前になり、さらにしばらくすると、援助しないでいると、
逆に請求されるようになります。
それに応じないと、かえって恨まれることもあります」と。

なぜか。

●弱者の立場で

 従者の心理を理解するためには、一度、弱者の立場に自分を置いてみる必要がある。
弱者には、弱者の論理がある。
こんな例で考えてみよう。

あなたの隣に、金持ちが住んでいる。
大型の外車に乗り、大きな家に住んでいる。
毎日、ごちそうを食べている。
が、あなたは貧乏。
その日の食費さえ、満足にない。
子どもの学費もままならい。

 そんなある日、隣人が、金銭的な援助をしてくれた。
あなたは涙を出して、それを喜んだ。
が、あなたは一時的には感謝するかもしれないが、その気持ちは、いつまでも
つづかない。

 あなたはそれまでにも、そしてそのときにも、別の心で、隣人をねたみ、そういった
不公平があることについて、大きな不満を感じていた。
だから「隣人が自分を助けてくれるのは当然」とまでは考えないにしても、
助けてくれたからといって、それまでのねたみや不満が消えるわけではない。
そのねたみや不満が、それまでにもていった慢性的な(怒り)が、
感謝の念を消してしまう。
むしろ助けてもらったことによって、ねたみや不満を増大させてしまうこともある。

●日本政府の援助

 よい例が、日本政府が外国に対してする、政府間援助。
日本は毎年、東南アジアを中心に、70~80億ドル規模の、援助をしている
(政府開発援助・06)。
しかしそういう国々が、日本に対して感謝しているかといえば、それはない。
中国にせよ、韓国にせよ、東南アジアの国々やアフリカ諸国の国々にせよ、
いまだかって、日本に感謝したという例は、ひとつもない。
「援助をやめる」と言っただけで、逆に抗議される。

 あのK国にいたっては、核兵器で脅して、日本から援助をとりつけようとしている!

だから冒頭の話に戻る。
依存性には、中毒性がある、と。

 が、それでもだれかを助けたくなったら、どうするか?
そういうときは、無私、無欲、自分とは関係のない人に対してしたらよい。
人間関係を破壊したくなかったら、そうする。

 そうそうもうひとつ。
援助するならするで、相手をよく見極めてからするのがよい。
「逆の立場だったら、この人は、私を助けてくれるか」と。
そういう目で、相手を見ながら援助するのがよい。

●依存性の内容について

 依存性にも、(1)攻撃型と、(2)同情型、(3)服従型がある。
ある親に向って、自分の努力なさを棚にあげて、「こんなオレにしたのは、お前だろ!」と
叫んだ男性がいた。
「だから、オレの責任を取れ」と。
これを攻撃型依存性という。

 一方、弱々しい自分を演じながら、相手に依存する人もいる。
相手が援助しなければならないように、相手を追い込んでいく。
ある男性は、「あなたが助けてくれなければ、一家心中です」と言って、相手に
援助させていた。
これを同情型依存性という。

 さらに相手に、「あなたにすべてを任せます」といった様子を売りこんで依存する
ケースもあります。
ある女性は、実弟が生活費を渡すたびに、こう言った。
「大切に使わせてもらいます」と。
つまり(もらう)のが当然という考え方をする。
これを服従型依存性という。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
依存性 攻撃型依存性 服従型依存性 同情型依存性)

++++++++++++++++++はやし浩司

●弱者の論理

+++++++++++++

最後に、私が好きな私の原稿。
この原稿を読むたびに、ジンと
胸が熱くなる。
(中日新聞発表済み)

+++++++++++++

●尾崎豊の「♪卒業」論

 学校以外に学校はなく、学校を離れて道はない。
そんな息苦しさを、尾崎豊は、『卒業』の中でこう歌った。
「♪……チャイムが鳴り、教室のいつもの席に座り、何に従い、従うべきか考えていた」
と。

 「人間は自由だ」と叫んでも、それは「♪しくまれた自由」にすぎない。
現実にはコースがあり、そのコースに逆らえば逆らったで、負け犬のレッテルを張られて
しまう。
尾崎はそれを、「♪幻とリアルな気持ち」と表現した。

 宇宙飛行士のM氏は、勝ち誇ったようにこう言った。
「子どもたちよ、夢をもて」と。
しかし夢をもてばもったで、苦しむのは、子どもたち自身ではないのか。つまずくことす
ら許されない。
ほんの一部の、M氏のような人間選別をうまくくぐり抜けた人だけが、そこそこの夢をか
なえることができる。 

大半の子どもはその過程で、あがき、もがき、挫折する。
尾崎はこう続ける。

 「♪放課後街ふらつき、俺たちは風の中。孤独、瞳に浮かべ、寂しく歩いた」と。
 日本人は弱者の立場でものを考えるのが苦手。
目が上ばかり向いている。

 たとえば茶パツ、腰パン姿の学生を、「落ちこぼれ」と決めてかかる。
しかし彼らとて精一杯、自己主張しているだけだ。
それがだめだというなら、彼らにはほかに、どんな方法があるというのか。
そういう弱者に向かって、服装を正せと言っても、無理。尾崎もこう歌う。
「♪行儀よくまじめなんてできやしなかった」と。
彼にしてみれば、それは「♪信じられぬおとなとの争い」でもあった。

 実際この世の中、偽善が満ちあふれている。
年俸が二億円もあるようなニュースキャスターが、「不況で生活がたいへんです」と顔をし
かめて見せる。

 いつもは豪華な衣装を身につけているテレビタレントが、別のところで、涙ながらに難
民への寄金を訴える。
こういうのを見せつけられると、この私だってまじめに生きるのがバカらしくなる。
そこで尾崎はそのホコ先を、学校に向ける。
「♪夜の校舎、窓ガラス壊して回った……」と。

 もちろん窓ガラスを壊すという行為は、許されるべき行為ではない。が、それ以外に方
法が思いつかなかったのだろう。いや、その前にこういう若者の行為を、誰が「石もて、
打てる」のか。

 この「卒業」は、空前のヒット曲になった
。CDとシングル盤だけで、二〇〇万枚を超えた(CBSソニー広報部、現在のソニーM
E)。「カセットになったのや、アルバムの中に収録されたものも含めると、さらに多くな
ります」とのこと。

 この数字こそが、現代の教育に対する、若者たちの、まさに声なき抗議とみるべきでは
ないのか。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 尾崎豊 卒業)

Hiroshi Hayashi++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●合理との対立関係

 人の心もゆがむときには、ゆがむ。
が、問題は、どうゆがむかではなく、なぜゆがむかということ。
そこにメスを入れないかぎり、この世の中は、ますますゆがんでいく。

 わかりやすく言えば、人間が原罪的にもつ(欲望)。
その欲望をどうコントロールしていくか。
そのあたりまで掘り下げないと、この問題、つまり弱者の論理(貧者の論理)は、解決し
ない。
いつまでたっても、合理と対立関係を維持したまま、私たちの住む世界を、ゆがめていく。
2011/11/21

Hiroshi Hayashi++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●寒い! (はやし浩司 2011-11-22)

+++++++++++++++++

時計は見なかった。
午前4時半ごろだった。
顔に肌を刺すような冷気を感じ、そのまままたふとんの中へ。

昨夜遅く、30分ほど、自転車で走った。
そのときも寒かった。
が、今朝は一段と冷えていた。
(現在時刻は5:53AM。
デスクの上の気温は、11・9度。)

枕元にあったパソコンをネットにつなぐ。
欧米の経済動向を探る。
そのままふとんの中で30分ほど、過ごす。

++++++++++++++++++

●無私無欲

 昨日は2つのテーマについて考えた。
ひとつは、「貪欲」について。
もうひとつは、「弱者の論理(貧者の論理)」について。

 楽しかった。

 書いている間、オーストラリアの友人からメールが入った。
「時には休息も必要だから、休息をとれ」と。
「休息は、土への肥料のようなもの」とも。
オーストラリア人らしい言い方である。
つまり休息をとることによって、それが心の肥料になる、と。

 が、どうか誤解しないでほしい。
私はこうしてものを考えているときが、いちばん楽しい。
無私、無欲で書いているから、なお楽しい。
苦しいときもあるが、それを乗り越えたとき、その苦しみが大きな喜びに変わる。

 つまり休息のとり方は、人それぞれ。
問題は、そのあと。
その休息を、そのあと何のために使うか。

●……だから、それがどうしたの?

 イギリスの格言に、『休息を求めて、疲れる』というのがある。
愚かな生き方の代名詞のようにもなっている格言である。
つまり「いつか楽になろう、楽になろうとがんばってきた。
で、やっと楽になったと思ったら、疲れてしまって、何もできない」と。

 が、この格言を反対から読むと、こうなる。

『楽にはなった。しかし気がついてみたら、何もやることがない』と。
これも愚かな生き方ということになる。
だから私はいつも自分にこう問いかける。
「……だから、それがどうしたの?」と。

 たとえば休暇になった。
気分を休めた。
羽を伸ばした。
……だから、それがどうしたの?、と。

 ただ休息のための休息であるなら、意味はない。
時間の無駄という。

●誤解

 オーストラリアの友人は、もうひとつ誤解していることがある。
ものを書くというのは、運動技術に似ている。
たとえば1週間でも、ものを書かないでいると、そのあと調子を戻すのに苦労する。
もしそれが1か月にでもなったら、さらにそうで、考えそのものが、まとまらなくなる。

 毎日書いているから、ものを書くことができる。

 ……と書くと、「何を偉そうに!」と思う人がいるかもしれない。
「いっぱしの作家気取りで、何を言うか!」と。

 もちろん私は作家ではない。
無名。
ベストセラーとなった本は、1冊しかない。
あとはよくて2、3刷で絶版。
ほとんどの本は、初版だけで、絶版。
皮肉なことに、若いころゴーストライターとして書いた本のほうが、今でもよく売れてい
る。
が、支持者がいないわけではない。
HPやBLOGへのアクセス数は、月間、50万件以上を記録している。
もちろんみながみな、好意的というわけではない。
それはわかっているが、しかしその「数」こそが、私を支えていてくれる。
私はそうした人たちの期待を裏切ることができない。

●実験
 
 さらに一言。
私はときどき、こう思う。
「私は今、おもしろい実験をしている」と。

 実験というのは、こうしてものを書くことが、どういう意味をもつのか、それを知るこ
とをいう。
まったく意味のないことをしているのか。
そいれとも意味のあることをしているのか。

 ネットに乗せた原稿だけでも、すでに20万枚を超えている。
(40字x36行を、1枚とする。) 
あるいはそれ以上かもしれない。

 こうして書いた原稿は、10年後にはどうなっているか。
20年後にはどうなっているか。
今年は2011年だから、もし興味のある人は、10年後でもよい。
20年後でもよい。
そのころ気がついた人がいたら、はやし浩司の原稿がどうなっているか、一度、チェック
してみてほしい。
それが今、私がしている実験の結果ということになる。

●田丸謙二先生から

 同じころ、田丸謙二先生からメールが届いた。
先週の月曜日、体の調子を悪くし、先週の土曜日、退院したとか。
田丸謙二先生は、すでに歴史上の人物になっている。
この先、何十万、何百万の人たちが、田丸謙二先生の名を口にすることになる。

●悲観的な見方

 話は変わる。
こういう時期だから、どうしても経済の話になる。

 で、いろいろな見方があるだろう。
悲観論、楽観論……。
しかし現在のEUは、ソ連崩壊のあのときの状況に似ている。
かなり悲観的な見方だが、大きな流れは、まっすぐその方向に向かって進んでいる。

 で、現在、民主党主導による「仕分け作業」がつづいている。
しかし今は、そんなばあいではない。
そんなことをしているばあいではない。
このまま進めば、日本という国家すら危うくなる。
破産するかもしれない。

 たとえて言うなら、原子力発電所が爆発するかもしれないときに、節電を呼びかけてい
るようなもの。
日本が今すべきことは、そこにある巨大な危機を、どう回避するかということ。
そのあと日本をどう再生させるかということ。
「仕分け」などという手ぬるい手法では意味がない。
一刀両断に国家予算を緊縮する。

まず手をつけるべきは、公務員の人件費の削減。
不要な箱物行政の縮減。
そういうこともさておいて、何が年金制度の改革だ!
消費税の税率アップだ!
「危機」を先取りしながら、その準備をする。
今の日本人に欠けるのは、その危機意識。

 今、世界で何が起こりつつあるか。
永田町の政治家たちには、それが見えないらしい。

●基軸通貨

 結局は、アメリカのひとり勝ちになるのか。
すでにユーロからドルへ、再び基軸通貨の動きが、加速し始めている。
つまり再び、ドルが世界の基軸通貨になるということ。
(今でもそうだが……。)

 何だかんだといっても、アメリカは強い。
強大な軍事力を擁している。
資源もある。
農産物もある。

 EU危機を巧みに利用しながら、「肉を切らせ、相手の骨を切る」という戦術に出ている。
したたかなアメリカ。

 『ロイヤル・バンク・オブ・スコットランドのストラテジスト、ブライアン・キム氏(コ
ネティカット州スタンフォード在勤)は、「米国の格付けが再び引き下げられるのかどうか、
市場は見極めようとしている」と指摘。
「リスクを回避し、ドルを選好する傾向になっている」と述べた』(Bloomberg)と。

●ドジのドジ、大ドジのバカ

 ドジといえば、この事件。

『……衆参両院のコンピューターシステムがサイバー攻撃を受けた問題で、参議院は21
日、一部のサーバーがウイルスに感染し、すべての国会議員のIDやパスワードが流出し
た可能性があると発表しました』(TBSーi・11/22)と。

 開いた口が塞がらないというか、バカげているというか……?
「すべての国会議員のIDやパスワードが流出した」という部分が恐ろしい。

その深刻さが、国会議員たちには、わかっているのだろうか。
日本の国家機密が、そのままどこかの国へ、筒抜けになっていた。
無知な議員が、どこかのファイルを開いてしまったのだろう。
改めて国会議員の知的レベルの低さに驚く。

●11月22日

 ……ということで、今日も激動の1日になりそう。
私の予想では、今日も300円前後、株価(日経平均)は下がるはず。
証券株と銀行株を注視!

++++++++++++++++++はやし浩司

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●この現実を、みな、知っているのか? (撤退する外資企業)

2011-12-12 09:56:06 | 日記
【撤退する外資企業・理由は翻訳料と言葉の壁】

●今ごろ、何?(今ごろ外国向けパンフ?)
今ごろ「海外投資家向けの情報発信を強化する」(東証)だって?

+++++++++++++++++++++

●英語教育

 どこかのお馬鹿教授がこう言った。
「日本に英語教育は必要ない。英語よりも論語を教えろ」と。
その教授は、小学校での英語教育に猛烈に反対していた。
さらにこうも言っている。
「武士道こそが、日本人の精神的バックボーンである」と。
さらに自著の中で、「恥を教えれば、いじめはなくなる」とも。

 子どもを直接教えたことのないお馬鹿教授の戯言(たわごと)。
たしかに今、小学校における英語教育は、さまざまな困難にぶつかっている。
しかし現代というこの時代にあって、「英語が必要ない」とは!
あきれると言うより、馬鹿げている。

 私の意見ではない。
以下のような事実を、どれだけ多くの人が知っているだろうか。

●時事通信(2008年記事)より

「……さらに悲しむべきことに、東証一部の外国企業は、とうとう10社になってしまった(2010年9月現在、(「日本の論点」・文藝春秋))。
ニューヨーク、ロンドン、シンガポールの証券取引所には、それぞれ数百社以上もの外国企業が上場しているというのに、10社以下。
理由は、翻訳料の負担」(同書)と。

 また時事通信社は、「日本語による経営情報の開示など企業側の負担が大きく、
コストに見合う上場メリットが見いだせないことも外資の撤退に拍車を
かけている」と報道している(以上、2008年)。

 その結果、外資企業は、拠点をシンガポールへ移してしまった。
アメリカへ行ったことがある人なら、みな知っている。
現在、アジアの経済ニュースは、(日本の経済ニュースも含めて)、シンガポール経由でアメリカへ入っている。
日本ではない。
シンガポールである。
そのこともあって、国民1人当たりのGDP所得では、日本はシンガポールにさえ、抜かれている。

 以前、こんな原稿を書いた。
一部内容が重複するが、許してほしい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●遅れた教育改革(以下、2009年3月記)

 2002年1月の段階で、東証外国部に上場している外国企業は、たったの36社。
この数はピーク時の約3分の1(90年は125社)。
さらに2003年に入って、マクドナルド社やスイスのネスレ社、ドレスナー銀行やボルボも撤退を決めている。

理由は「売り上げ減少」と「コスト高」。売り上げが減少したのは不況によるものだが、コスト高の要因の第一は、翻訳料だそうだ(毎日新聞)。
悲しいかな英語がそのまま通用しない国だから、外国企業は何かにつけて日本語に翻訳しなければならない。

 これに対して金融庁は、「投資家保護の観点から、上場先(日本)の母国語(日本語)による情報開示は常識」(同新聞)と開き直っている。
日本が世界を相手に仕事をしようとすれば。
今どき英語など常識なのだ。
しかしその実力はアジアの中でも、あの北朝鮮とビリ二を争うしまつ。
日本より低い国はモンゴルだけだそうだ(TOEFL・国際英語検定試験で、日本人の成績は、165か国中、150位・99年)。

日本の教育は世界の最高水準と思いたい気持ちはわからないでもないが、それは数学や理科など、ある特定の科目に限った話。
日本の教育水準は、今ではさんたんたるもの。
今では分数の足し算、引き算ができない大学生など、珍しくも何ともない。「小学生レベルの問題で、正解率は59%」(国立文系大学院生について調査、京大・西村)だそうだ。

●日本の現状

 東大のある教授(理学部)が、こんなことを話してくれた。
「化学の分野には、1000近い分析方法が確立されている。
が、基本的に日本人が考えたものは、一つもない」と。
オーストラリアあたりでも、どの大学にも、ノーベル賞受賞者がゴロゴロしている。
しかし日本には数えるほどしかいない。
あの天下の東大には1人もいない。ちなみにアメリカだけでも、250人もの受賞者がいる。ヨーロッパ全体では、もっと多い。

「日本の教育は世界最高水準にある」と思うのはその人の勝手だが、その実態は、たいへんお粗末。今では小学校の入学式当日からの学級崩壊は当たり前。
はじめて小学校の参観日(小一)に行った母親は、こう言った。
「音楽の授業ということでしたが、まるでプロレスの授業でした」と。

●低下する教育力

 こうした傾向は、中学にも、そして高校にも見られる。
やはり数年前だが、東京の都立高校の教師との対話集会に出席したことがある。
その席で、一人の教師が、こんなことを言った。
いわく、「うちの高校では、授業中、運動場でバイクに乗っているのがいる」と。
すると別の教師が、「運動場ならまだいいよ。
うちなんか、廊下でバイクに乗っているのがいる」と。
そこで私が「では、ほかの生徒たちは何をしているのですか」と聞くと、「みんな、自動車の教習本を読んでいる」と。

さらに大学もひどい。
大学が遊園地になったという話は、もう15年以上も前のこと。
日本では大学生のアルバイトは、ごく日常的な光景だが、それを見たアメリカの大学生はこう言った。「ぼくたちには考えられない」と。
大学制度そのものも、日本のばあい、疲弊している! つまり何だかんだといっても、「受験」が、かろうじて日本の教育を支えている。
もしこの日本から受験制度が消えたら、進学塾はもちろんのこと、学校教育だってあぶない。
(以上、2009年3月記)

【教育改革】(以下、2009年3月記)



●この現実を、知っているか?



++++++++++++++++++++



日本の証券取引所から、外国企業の撤退が

つづいている。

現在、東京証券取引所の上場している外国企業は、

「16社と、ピークだった1991年(127社)の

8分の1減少した」

(時事通信・08・12・27)。



かつては127社あったのが、現在は、たったの16社。

(2002年には36社。3分の1に減った。

さらにそれから2分の1以下に減ったことになる。)



その理由として第一にあげられるのが、

「日本語による経営情報の開示など企業側の負担が大きく、

コストに見合う上場メリットが見いだせないこと」(同)

ということ。



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時事通信(12・27)は、つぎのように伝える。



++++++++++以下、時事通信より++++++++++



外国企業の上場廃止も英金融大手バークレイズなど9社に上り、前年(3社)の3倍になった。
株式取引の低迷に加え、日本語による経営情報の開示など企業側の負担が大きく、コストに見合う上場メリットが見いだせないことも外資の撤退に拍車を掛けている。
東証上場の外国企業は16社とピークだった1991年(127社)の8分の1に減少した。 

(時事通信・12・27)



++++++++++以上、時事通信より++++++++++



日本から逃げた外資企業は、どこは行ったか?

今さら言うまでもなく、その行き先は、シンガポール。

すでに10年ほど前から、アメリカへ入ってくるアジアの経済ニュースは、

シンガポール経由。

東京ではない。

シンガポール。

東京の経済ニュースすら、シンガポール経由である。

いったい、こうした事実を、日本人はどれほど知っているのか。

深刻にとらえているのか。



言葉の問題だけではない。



シンガポールには、アメリカ本土とそっくりそのまま同じ、アメリカ人向けの

医療機関が整っている。

医療保険も、そのまま使える。



だからアメリカ人ならだれしも、アジアのどこかに拠点を構えるとしたら、

東京ではなく、シンガポールを選ぶ。

逆の立場で、考えてみればわかる。



もしあなたがヨーロッパに、あなたの会社の支店を作ろうと考えたとする。

そのときあなたは、言葉もちがい、医療制度もちがう、A国を選ぶだろうか。

それとも、言葉はそのまま使え、医療制度が同じ、B国を選ぶだろうか。



日本の証券取引所は、投資者保護(?)という名目のため、「経営情報の開示」

も含めて、ほとんどの書類を、日本語に翻訳することを義務づけている。

が、この負担が大きい。

日本における経費の大半が、翻訳にかかるという話を聞いたことがある。



だったら、翻訳を義務づけるのをやめればよいということになるのだが……。



こんなことをしていれば、そのうち日本の証券取引所から、外資系企業は

消えることになる。

(事実、すでに消えかかっているが……。)



日本がアジアの経済の中心地という話は、とうの昔の話。

「国際化」などという言葉は、この日本では、絵に描いた餅(もち)の

ようなもの。

日本のどこを、どのようにとったら、そう言えるのか。



東京へ行くにも、へき地の成田空港で降りなければならない。

どうして羽田空港であっては、いけないのか?



もう一度、私が6年前に書いた原稿を読んでみてほしい。



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●日本から逃げる外資



 今日、1月4日、日本の株価は、戦後最大とも言える、大暴落を経験した。
終値で616円安。
それについて、東証のS社長は、欧米やアジアの主要株式相場に比べて日本株が出遅れていることに触れ、「(日本株の低迷は東京市場が)投資したい場所としての魅力を失いつつあることを示唆しているようにも映る」と危機感を募らせたという(日本経済新聞)。



 この記事を読んで、数年前に書いた原稿を思い出した。
つぎのが、それである。
日付は、2002年になっている。



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【みんなで考えよう、日本の教育改革】(以下、2002年記)
(Open the door and liberate the market)



More and more foreign enterprises are going out of Japan. In 1990, there used to be 125
enterprises in Tokyo Exchange Market but in 2002 there were only 36 enterprises. The
number of enterprises are decreasing. The reason is very simple. It costs a lot of money for
translation from their languages to Japanese. We should open the door to the world and
liberate the market. Or more and more foreign enterprises will go out of Japan. Here is my
article which I wrote 6 years ago in 2002.



●遅れた教育改革



 2002年1月の段階で、東証外国部に上場している外国企業は、たったの36社。
この数はピーク時の約3分の1(90年は125社)。
さらに2003年に入って、マクドナルド社やスイスのネスレ社、ドレスナー銀行やボルボも撤退を決めている。



理由は「売り上げ減少」と「コスト高」。
売り上げが減少したのは不況によるものだが、コスト高の要因の第一は、翻訳料だそうだ(毎日新聞)。
悲しいかな英語がそのまま通用しない国だから、外国企業は何かにつけて日本語に翻訳しなければならない。



 これに対して金融庁は、「投資家保護の観点から、上場先(日本)の母国語(日本語)による情報開示は常識」(同新聞)と開き直っている。
日本が世界を相手に仕事をしようとすれば。
今どき英語など常識なのだ。しかしその実力はアジアの中でも、あの北朝鮮とビリ二を争うしまつ。
日本より低い国はモンゴルだけだそうだ(TOEFL・国際英語検定試験で、日本人の成績は、165か国中、150位・99年)。



日本の教育は世界の最高水準と思いたい気持ちはわからないでもないが、それは数学や理
科など、ある特定の科目に限った話。
日本の教育水準は、今ではさんたんたるもの。
今では分数の足し算、引き算ができない大学生など、珍しくも何ともない。
「小学生レベルの問題で、正解率は59%」(国立文系大学院生について調査、京大・西村)だそうだ。



●日本の現状



 東大のある教授(理学部)が、こんなことを話してくれた。
「化学の分野には、1000近い分析方法が確立されている。
が、基本的に日本人が考えたものは、一つもない」と。



オーストラリアあたりでも、どの大学にも、ノーベル賞受賞者がゴロゴロしている。
しかし日本には数えるほどしかいない。
あの天下の東大には1人もいない。
ちなみにアメリカだけでも、250人もの受賞者がいる。
ヨーロッパ全体では、もっと多い。



「日本の教育は世界最高水準にある」と思うのはその人の勝手だが、その実態は、たいへんお粗末。
今では小学校の入学式当日からの学級崩壊は当たり前。
はじめて小学校の参観日(小一)に行った母親は、こう言った。
「音楽の授業ということでしたが、まるでプロレスの授業でした」と。



●低下する教育力



 こうした傾向は、中学にも、そして高校にも見られる。
やはり数年前だが、東京の都立高校の教師との対話集会に出席したことがある。
その席で、一人の教師が、こんなことを言った。
いわく、「うちの高校では、授業中、運動場でバイクに乗っているのがいる」と。
すると別の教師が、「運動場ならまだいいよ。
うちなんか、廊下でバイクに乗っているのがいる」と。
そこで私が「では、ほかの生徒たちは何をしているのですか」と聞くと、「みんな、自動車の教習本を読んでいる」と。



さらに大学もひどい。
大学が遊園地になったという話は、もう15年以上も前のこと。
日本では大学生のアルバイトは、ごく日常的な光景だが、それを見たアメリカの大学生はこう言った。
「ぼくたちには考えられない」と。
大学制度そのものも、日本のばあい、疲弊している! つまり何だかんだといっても、「受験」が、かろうじて日本の教育を支えている。



もしこの日本から受験制度が消えたら、進学塾はもちろんのこと、学校教育そのものも崩壊する。
確かに一部の学生は猛烈に勉強する。
しかしそれはあくまでも「一部」。
内閣府の調査でも、「教育は悪い方向に向かっている」と答えた人は、26%もいる(2000年)。
98年の調査よりも8%もふえた。むべなるかな、である。



●規制緩和は教育から



 日本の銀行は、護送船団方式でつぶれた。
政府の手厚い保護を受け、その中でヌクヌクと生きてきたため、国際競争力をなくしてしまった。
しかし日本の教育は、銀行の比ではない。
護送船団ならぬ、丸抱え方式。
教育というのは、20年先、30年先を見越して、「形」を作らねばならない。



が、文部科学省の教育改革は、すべて後手後手。南オーストラリア州にしても、すでに10年以上も前から、小学3年生からコンピュータの授業をしている。
メルボルン市にある、ほとんどのグラマースクールでは、中学1年で、中国語、フランス語、ドイツ語、インドネシア語、日本語の中から、1科目選択できるようになっている。



もちろん数学、英語、科学、地理、歴史などの科目もあるが、ほかに宗教、体育、芸術、コンピュータの科目もある。
芸術は、ドラマ、音楽、写真、美術の各科目に分かれ、さらに環境保護の科目もある。



もう一つ「キャンプ」という科目があったので、電話で問い合わせると、それも必須科目の一つとのこと(メルボルン・ウェズリー・グラマースクール)。 



 さらにこんなニュースも伝わっている。
外国の大学や高校で日本語を学ぶ学生が、急減しているという。
カナダのバンクーバーで日本語学校の校長をしているM氏は、こう教えてくれた。
「どこの高等学校でも、日本語クラスの生徒が減っています。
日本語クラスを閉鎖した学校もあります」と。
こういう現状を、日本人はいったいどれくらい知っているのだろうか。



●規制緩和が必要なのは教育界



 いろいろ言われているが、地方分権、規制緩和が一番必要なのは、実は教育の世界。
もっとはっきり言えば、文部科学省による中央集権体制を解体する。
地方に任すものは地方に任す。
せめて県単位に任す。



だいたいにおいて、頭ガチガチの文部官僚たちが、日本の教育を支配するほうがおかしい。
日本では明治以来、「教育というのはそういうものだ」と思っている人が多い。
が、それこそまさに世界の非常識。
あの富国強兵時代の亡霊が、いまだに日本の教育界をのさばっている!



 今まではよかった。「社会に役立つ人間」「立派な社会人」という出世主義のもと、優良な会社人間を作ることができた。
「国のために命を落とせ」という教育が、姿を変えて、「会社のために命を落とせ」という教育に置きかわった。
企業戦士は、そういう教育の中から生まれた。
が、これからはそういう時代ではない。



日本が国際社会で、「ふつうの国」「ふつうの国民」と認められるためには、今までのような教育観は、もう通用しない。
いや、それとて、もう手遅れなのかもしれない。



 いや、こうした私の意見に対して、D氏(65歳・私立小学校理事長)はこう言った。
「まだ日本語もよくわからない子どもに、英語を教える必要はない」と。
つまり小学校での英語教育は、ムダ、と。
しかしこの論法がまかり通るなら、こうも言える。
「日本もまだよく旅行していないのに、外国旅行をするのはムダ」「地球のこともよくわかっていないのに、火星に探査機を送るのはムダ」と。



私がそう言うと、D氏は、「国語の時間をさいてまで英語を教える必要はない。
しっかりとした日本語が身についてから、英語の勉強をしても遅くはない」と。



●多様な未来に順応できるようにするのが教育



 これについて議論を深める前に、こんな事実がある。
アメリカの中南部の各州の小学校では、公立小学校ですら、カリキュラムを教師と親が相談しながら決めている。
たとえばルイサ・E・ペリット公立小学校(アーカンソー州・アーカデルフィア)では、4歳児から子どを預かり、コンピュータの授業をしている。



近くのヘンダーソン州立大学で講師をしている知人にそのことについて聞くと、こう教えてくれた。
「アメリカでは、多様な社会にフレキシブル(柔軟)に対応できる子どもを育てるのが、教育の目標だ」と。



事情はイギリスも同じで、在日イギリス大使館のS・ジャック氏も次のように述べている。「(教育の目的は)多様な未来に対応できる子どもたちを育てること」(長野県経営者協会会合の席)と。
オーストラリアのほか、ドイツやカナダでも、学外クラブが発達していて、子どもたちは学校が終わると、中国語クラブや日本語クラブへ通っている。こういう時代に、「英語を教える必要はない」とは!



●文法学者が作った体系



 ただ英語教育と言っても、問題がないわけではない。
日本の英語教育は、将来英語の文法学者になるには、すぐれた体系をもっている。
数学も国語もそうだ。
将来その道の学者になるには、すぐれた体系をもっている。
理由は簡単。もともとその道の学者が作った体系だからだ。
だからおもしろくない。だから役に立たない。



こういう教育を「教育」と思い込まされている日本人はかわいそうだ。
子どもたちはもっとかわいそうだ。
たとえば英語という科目にしても、大切なことは、文字や言葉を使って、いかにして自分の意思を相手に正確に伝えるか、だ。
それを動詞だの、3人称単数だの、そんなことばかりにこだわっているから、子どもたちはますます英語嫌いになる。
ちなみに中学1年の入学時には、ほとんどの子どもが「英語、好き」と答える。
が、一年の終わりには、ほとんどの子どもが、「英語、嫌い」と答える。



●数学だって、無罪ではない 



 数学だって、無罪ではない。あの一次方程式や二次方程式にしても、それほど大切なものなのか。
さらに進んで、三角形の合同、さらには二次関数や円の性質が、それほど大切なものなのか。
仮に大切なものだとしても、そういうものが、実生活でどれほど役に立つというのか。



こうした教育を正当化する人は、「基礎学力」という言葉を使って、弁護する。
「社会生活を営む上で必要な基礎学力だ」と。
もしそうならそうで、一度子どもたちに、「それがどう必要なのか」、それを説明してほしい。
「なぜ中学1年で一次方程式を学び、3年で二次方程式を学ぶのか。
また学ばねばならないのか」と、それを説明してほしい。
その説明がないまま、問答無用式に上から押しつけても、子どもたちは納得しないだろう。



現に今、中学生の56・5%が、この数学も含めて、「どうしてこんなことを勉強しなければいけないのかと思う」と、疑問に感じているという(ベネッセコーポレーション・「第3回学習基本調査」2001年)。



●教育を自由化せよ



 さてさきほどの話。
英語教育がムダとか、ムダでないという議論そのものが、意味がない。
こういう議論そのものが、学校万能主義、学校絶対主義の上にのっている。
早くから英語を教えたい親がいる。早くから教えたくない親もいる。
早くから英語を学びたい子どもがいる。
早くから学びたくない子どももいる。
早くから英語を教えるべきだという人がいる。
早くから教える必要はないという人もいる。



大切なことは、それぞれの自由にすればよい。
今、何が問題かと言えば、学校の先生がやる気をなくしてしまっていることだ。
雑務、雑務、その上、また雑務。
しつけから家庭教育まで押しつけられて、学校の先生が今まさに窒息しようとしている。



ある教師(小学5年担任、女性)はこう言った。
「授業中だけが、体を休める場所です」と。
「子どもの生きるの死ぬのという問題をかかえて、何が教材研究ですか」とはき捨てた教師もいた。



そのためにはオーストラリアやドイツ、カナダのようにクラブ制にすればよい。
またそれができる環境をつくればよい。
「はじめに学校ありき」ではなく、「はじめに子どもありき」という発想で考える。
それがこれからの教育のあるべき姿ではないのか。



また教師の雑務について、たとえばカナダでは、教師から雑務を完全に解放している。
教師は学校での教育には責任をもつが、教室を離れたところでは一切、責任をもたないという制度が徹底している。
教師は自分の住所はおろか、電話番号すら、親には教えない。



だからたとえば親がその教師と連絡をとりたいときは、親はまず学校に電話をする。するとしばらくすると、教師のほうから親に電話がかかってくる。
こういう方法がよいのか悪いのかについては、議論が分かれるところだが、しかし実際には、そういう国のほうが多いことも忘れてはいけない。



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 6年前に書いた原稿だが、この6年の間に、日本の教育も大きく変わった。
しかし、それでは不十分。



 同じように、日本の経済構造も、旧態依然のまま。東証のS社長の言葉が、それを如実に表している。(以上、2002年記)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(注※)東京証券取引所に株式を上場しているオランダの生命保険大手とスイスの大手金融 グループが、来月までに相次いで上場を取りやめることになり、東証で株式を取り引き
できる外国企業の数は、ピーク時の10分の1まで減少することになりました。

東京証券取引所では、「1部」に株式を上場している外国企業のうち、▽オランダの
大手生命保険会社、「AEGON」が27日、上場廃止となったのに続いて▽スイスの
大手金融グループの「UBS」も来月16日に上場廃止になることが決まっています。

この2社は日本でビジネスは続けますが、これで、東証で株式を取り引きできる
外国企業は13社となり、最も多い127社が上場していた平成3年の時と比べますと、
およそ10分の1にまで落ち込むことになります。
(以上、BIZ速報HP・2010年3月29日より)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(注※)(参考資料:東京証券取引所の弁明とウソ)(2011年12月12日)

市場開設以降、2004年10月まで、上場外国会社の形態は全て本国市場に上場している重複上場でした。
この重複上場の形態は、ITが進展した今日、売買が本国市場に集中する傾向が顕著であるため、重複上場の主目的は、重複上場国における知名度維持・向上や現地通貨での資金調達にあると一般に考えられます。
これまでの東証からの上場廃止外国会社を見ても、売買高の少なさを主たる理由に挙げた会社が最も多く、重複上場会社数の減少は、今日の環境下にあっては、ある意味必然的な面もありました。

そこで、東証は、外国会社にも市場機能を十分提供できるよう、2000年以降においては、本国に上場していない外国会社も上場のターゲットと捉え、特に、アジア地域における資金需要旺盛な会社に焦点を当ててプロモーション活動を展開し始めました。

単独上場会社としては、新華ホールディングス(2004年上場)、ジャパンインベスト・グループ(2006年上場)及びチャイナ・ボーチー(2007年上場)があります。
2011年3月末現在、単独上場外国会社数は3社となっています。
(以上、東京証券取引所HPより)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●現状(2011年12月12日記)

 現在、単独上場外国企業は、たったの「3社」(東京証券取引所)!
東京証券取引所は、こう述べている。

 「これまでの東証からの上場廃止外国会社を見ても、売買高の少なさを主たる理由に挙げた会社が最も多く、重複上場会社数の減少は、今日の環境下にあっては、ある意味必然的な面もありました」と。

 簡単に言えば、外資企業は、規制と規則、それに翻訳料(時事通信)から逃げた。
それを今ごろになって、「海外向け情報誌」?

 Bloomberg(2011ー12ー12)の記事を紹介する。
私はこの記事を読んで、「今ごろ?」と、思わず笑ってしまった。

「……12月12日(ブルームバーグ):11月に経営統合を発表した東京証券取引所と大阪証券取引所が、海外投資家向けの情報発信を強化する。
国際的な存在感が低下傾向にある日本の株式市場、企業の魅力を訴えることで海外の取引所に対抗し、日本市場の活性化につなげたい考え。
東証は海外向けの広報誌を創刊、大証は初めてベンチャー企業の海外IR活動を主催する」(2011ー12-12、Bloomberg)より。

 今まで海外情報誌すらなかった?
この記事を裏から読むと、そうなる。

 教育界もそうだが、経済界も、そう。
日本の経済が好調なとき、その上で、あぐらをかいてしまった。
未来を見据え、その準備をすることを忘れてしまった。
その結果が、今。

 まことにもって悔しい話だが、私はすでに2000年ごろから、この事実に気づいていた。
原稿も書いてきた。

 恐らくこの原稿も無視され、さらに10年後、つまり2020年には、日本の衰退は、より確実なものになるだろう。

 最後に一言!

 いいかげんに、日本よ、日本人よ、目を覚ませ!!!

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 外資企業 東京証券取引所 外資企業 逃げる外資 はやし浩司 理由は翻訳料 閉鎖主義 鎖国主義 はやし浩司 英語教育 英語教育論 低下する教育力 東証外国部 上場企業の撤退 はやし浩司撤退する外資 たったの3社 はやし浩司 TOEFL 北朝鮮とビリ2)


Hiroshi Hayashi+++++++Dec.2011++++++はやし浩司・林浩司