最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●乳幼児期から児童期へ、(心の形成期)

2011-12-05 10:49:03 | 日記
【子どもは人の父】(朗読版)byはやし浩司

●「子どもは人の父」(ワーズワース)
  子どもの心はいかに形成されていくか


"The Child is Father of the Man"
How the minds of children are formed.


(抄訳)


子どもを知ることによって、私たち自身を知ることができる。あのワーズワースは、『子どもは人の父』といった。私たち自身にも子ども時代があり、その時代に私という人間が作られていった。子どもの心の形成過程を、乳幼児期から思春期まで、段階的に追いかけてみた。自分発見の手がかりになればうれしい。


By knowing children, we can know ourselves better.
William Wordsworth once wrote, "The Child is Father of the Man".
Once we were all children and our minds were formed during this age of childhood.
In this article I have written about the process of how the minds of children are formed in stages from the age of infancy to adolescence.
I hope this article will be of some help to you in getting to know yourselves better.


(1)
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(2)
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Hiroshi Hayashi+++++++Dec.2011++++++はやし浩司・林浩司

●ADHD児をどう指導するか

2011-12-05 09:17:54 | 日記
【ADHD児について】はやし浩司(2011-12-05マガジンより転載)


●教育観

 教育観は、教師によって、みなちがう。
180度ちがうときもある。
たとえば私は、いつも、(そこにいる子ども)を原点にし、子どもを考える。
さまざまな問題があっても、それはそれ。
仮に何かの障害(?)をもっていても、不問。
IQなど、話題にしたこともない。
すべてが、そこからスタートする。

 一方、テストにテストを重ね、「ここに問題がある」「あそこに問題がある」と子どもの
問題を指摘しながら、指導する教師もいる。
もちろんIQテストも頻繁に繰り返す。
子どもの問題や能力を、数値化する。
指導の結果も、数値化する。
どこか教育の視点が、無機質化している。

 が、この方法は、私のやり方ではない。
AD・HD児を例にあげて、考えてみたい。

●「教育」と「エデュケーション」

 「教育」と「エデュケーション」は、基本的に方向性が、逆。
反対向き。
「教育」とは、「教え育てる」ことをいう。
寺の本山教育を思い起こせばよい。
わかりやすく言えば、「教え育てることによって、子どもを一定のワクに閉じこめようよす
る」。

 一方、エデュケーションは、「educe」が語源になっている。
もともとは「引き出す」という意味である。

 それぞれの子どもには、すでに自ら伸びる能力が宿っている。
その能力を引き出すのが、「educe」。
が、その能力は、みな、ちがう。
個性をもっている。
わかりやすく言えば、「子どもがもつそれぞれの能力を、じょうずに引き出してやる」。
それが「エデュケーション」ということになる。

●AD・HD児

 ……という話は、何度も書いてきた。
田丸謙二先生は、いつもそう言っている。
が、この(ちがい)には、もうひとつ、重要な意味が隠されている。
たとえばこんな例で考えてみよう。

 AD・HD児と呼ばれる子どもがいる。
昔は、多動児とか、多動性児とか、あるいは活発型遅進児(まったく遅れてなどいないが)
とか、呼ばれた。
このタイプの子どもでも、小学3~4年生を境に、急速に症状が落ち着いてくる。
自己認識能力(=自分を客観的に評価する能力)と、自己管理能力(=自分を自らコント
ロールする力)が、身についてくるからである。

 が、幼児期や児童期においては、そうでない。
どう(そうでない)かは、すでに、みな、よくご存知の通り。
「問題児」とか、「指導困難児」とか呼ばれている。

●私の経験

 AD・HD児という言葉がさかんに使われるようになったのは、2000年前後から。
そのころ、日本にはまだ診断基準もなかった。
時の厚生省が研究班を組織し、特定の大学に診断基準の作成を依頼したのも、そのころの
こと。
が、ADHD児と呼ばれる子どもは、すでに40年前にもいた。
(当然のことだが・・・。)

 私は一度、このタイプの子どもに、自分の研究授業をメチャメチャにされたのをきっか
けに、たいへん興味をもつようになった。
強く叱っても、効果は一時的。
10~15秒も効果はつづかなかった。

 で、勤めていた幼稚園の園長に相談し、このタイプの子どもだけを数人、教えさせても
らうことにした。
数人が限度だった。
が、教えるというよりは、毎日、プロレスごっこ。
20代の私でも、1時間、接しただけで、ヘトヘトになるほどだった。

●診断名

 西洋医学の世界では、体に不調が起きると、まず診断名をつける。
診断名をつけたあと、診断名に応じて、攻撃的な治療にとりかかる。
これが西洋医学的なものの考え方であり、治療法である。

 つまり診断基準を設けるということは、すでにその時点において、西洋医学的な視点で
子どもを見ているということになる。
「この子どもは、ADHD児である」と。
一見科学的(?)だが、しかし重要な視点を見落としている。
「相手は、人間である」。

 しかし40年前の当時には、そんな診断名すら、なかった。
またなくても、困らなかった。
私はやがて、・・・といっても、それを知るまでに、10年以上もかかったが、こう考えるよ
うになった。
「時を待てば、自然に解決する」と。
脳の器質的障害(=機質的障害)は別として、AD・HDのような機能的障害については、
子ども自身に自己治癒能力が備わっている。
年齢とともに、脳の機能が、自らを正常化していく。

 その結果というわけではないが、それ以後の研究によれば、あのモーツアルトも、エジ
ソンも、そしてチャーチルも、AD・HD児だったと言われている。
さらに最近では、あのアインシュタインも、そうであったと、言われ始めている。

 もちまえのバイタリィテイが、ある年齢以上になると、よい方向に作用し始める。

●複雑化

 が、2000年以後、診断基準が確立されると、「リタリン」という薬がこの日本でも使
用されるようになった。
私は、即、その薬についての文献を、アメリカでさがした。
が、驚いたことにすでにそのとき(2000年ごろ)、リタリンの副作用や弊害が指摘され
ていた。
そのことは、私のHPにそのまま翻訳し、収録した。
(現在でも、その当時の文献は、そのままHPに残っている。)
が、それから数年の間、リタリンは、ADHD児の特効薬として、ごくふつうに、学校内
部でも使用された。
昼休みの時間などに、保険の教師が、子どもに投与しているのを、私は何度も見かけたこ
とがある。

 が、子どものばあい、とくに幼児のばあい、脳の機能(=脳間伝達物質)をいじる薬物
治療については、慎重であったほうがよい。
脳には、フィードバック機能というのがある。
ある特定の脳間伝達物質を服用すると、脳自体が本来もつ機能を停止してしまう。
これがかえって症状を、悪化させてしまう。

 それが理由だと思うが、現在、リタリンの使用は、AD・HD児に関しては、使用がき
びしく制限されている。

●幼児性

 つまり私はADHD児という言葉がポピュラーになる前、すでに30年近い経験を積ん
でいたことになる。
(こんなことを自慢しても、何にもならないが・・・。)
そこへ降ってわいたように、AD・HD児という言葉が出てきた。
治療法(?)も、出てきた。
学校によっては、診断基準に応じて、特別学級が用意されるようになった。

 たしかにAD・HD児は、「指導困難児」である。
それは事実。
教育の場である「教室の秩序」を、容赦なく破壊してしまう。
が、幼児期から児童期にかけ、症状さえこじらさなければ、先にも書いたように、症状は
やがて落ち着いてくる。
が、こじらせば、話は別。

 薬物療法を受けた子どもや、はげしい指導(強圧的、威圧的な指導)を受けた子どもは、
AD・HDの症状のほか、複合的な症状をあわせもつようになる。
当然のことながら、その分だけ、「立ち直り」が遅れる。
顕著な症状としては、人格の核(コア)形成の遅れがあげられる。
その年齢(学年)なのに、その年齢(学年)に比して、著しく幼い印象を与える。
小学6年生なのに、小学3~4年生のように見えるなど。

 だから指導のポイントは、つぎのようになる。
「症状をこじらせないよう、あとは時期を待つ」。

●自然治癒力

 話を戻す。

 そこにAD・HD児がいたとしても、それはそれ。
まずその子どもが、そういう子どもであることを認める。
診断名がついていたとしても、教育の場では、不問。
わかっていても、知らぬフリをし、指導を開始する。

 指導が「困難」といっても、「不可能」ではない。
それにワクに入らないからといって、「問題児」と決めつけてはいけない。
(日本人は、古来より、「型」を重要視する。
ワクからはみ出る子どもを、嫌う。
しかしこれこそ、悪しき「本山教育」の弊害。)

 ポイントは、先にも書いたように、症状をこじらせることがないよう、時期を待つ。
つまりここで「引き出す」という言葉が生きてくる。
仮にAD・HD児であっても、子ども自身がもつ、自然治癒力や自然平衡能力、そういっ
た力が自然に機能するまで、待つ。

 平たく言えば、脳の機能も、年齢とともに成長する。

●終わりに

 要するに(引き出す)ということ。
つまりこと教育に関して言うなら、(診断)→(治療)という、西洋医学的な視点は、参考
にはなっても、本題であってはならない。
なぜなら、どんな子どもでも、1人の人間であり、現にそこにいるからである。
相手がどんな子どもであっても、そこにいる子どもを認め、その上で、指導を組み立てて
いく。

 教育者の考えるワクに入らないからといって、その子どもを問題視するほうが、まちが
っている。
いわんや「型」に押し込めようとするのは、まちがっている。
もし教師がやるべきことがあるとするなら、その子どもがもつ、自然治癒力を引き出すと
いうことになる。

……という意味で、今一度、「educe(引き出す)」の意味を考えてみた。
その一例として、AD・HD児について、考えてみた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 教育とエデュケーショ
ン 引き出す教育 ADHD児 AD・HD児 多動性児 多動児 はやし浩司 教育に
おける診断と治療)


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司