最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●子育てポイントbyはやし浩司

2011-08-19 06:19:40 | 日記
子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司


 501-600



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(501)

いこいと、やすらぎと、そして、いやし

 家庭の役目は三つある。①いこい(憩い)、②やすらぎ(安らぎ)、③いやし(癒し)。
●いこいというのは、家族との心のふれあいをいう。たがいに心を開いた状態をいう。閉じてい
ては、いこうことはできない。
 心が開いているとき、子どもは自然な形で、親に甘えたり、スキンシップを求めてきたりする。
(甘えたり、スキンシップを求めてくることを悪いことと決めてかかってはいけない。)が、心が閉
じると、「すなおさ」が消える。いじけたり、つっぱったり、すねたり、ひねくれたりする。言いたい
ことを言いあい、したいことをしあうというのが、本来のあるべき家庭の姿ということになる。
●家庭は安らぐ場所でなければならない。そこでテスト。あなたの子どもは、あなたのいるとこ
ろや、あなたの見えるところで、平気で体を休めたりしているだろうか。もしそうなら、それでよ
し。そうではなく、あなたの姿を見ると、どこかへ消えたり、好んであなたのいないところで体を
休めているようなら、家庭のあり方をかなり反省したほうがよい。
●家族はいやしあう。そのために五つの働きがある。助け合い、はげましあい、いたわりあ
い、守りあう、教えあう。
 日本人は、封建時代の昔から、「家」という形にこだわる一方、そのため中身を粗末にしてき
た。そのため「家庭論」とか、「家族論」というのが、ほとんど発達しないまま、現在に至ってい
る。ウソだと思うなら、アメリカへ行って、本屋をのぞいてみるとよい。どこの本屋でも、学校教
育の本と並んで、それと同じくらい数の、家庭教育の本が並んでいる。もともとアメリカでは家
庭教育が発達して、それが学校教育になったという歴史的な背景もある。それはそれだが、ホ
ームスクーラー(学校へ行かないで、家庭で学習する子ども)には、州政府が、教員まで派遣し
て、家庭での学習を指導している(アーカンソー州など、ほとんどの州)。学校という場でも、「よ
き家庭人」を育てるが、教育の柱になっている。
 一方日本では、学校という場が、人間を選別する場として機能してきた。今もその機能は根
強く残っている。そのため「教育」というのが、「受験のための教育」と変貌(へんぼう)し、家庭
教育そのものをゆがめた。それでよいのか悪いのかという議論は、もうそれ自体、無意味とい
ってもよい。今こそ、日本の教育、なかんずく、家庭教育のあり方を考えなおすときではないの
か。
 

子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(502)

あなたの家庭診断(試作)

 あなたの家庭は、子どもの側からみて、家庭として機能しているだろうか。こんな診断テスト
を考えてみた。あなたとあなたの子どもの関係に焦点をあてて、判断してみてほしい。(あなた
にとって居心地のよい家庭でも、子どもにはそうでないケースは、多い。このテストでは、子ども
の側からみた、あなたの家庭を診断する。)
( )去年とくらべて、同じようなリズムで親子の生活が流れている。親は親で、子どもは子ども
で、それぞれのリズムで、生活している。大きな変化はない。(+1)
( )疲れたとき、さみしいとき、つらいときなど、家庭がその「逃げ場」になっているようだ。学校
から帰ってくると、ほっとするような様子を見せる。(+1)
( )子どもはあなたに何でも言いたいことを言えるようだ。あなたの前でも態度も大きく、したい
ことを平気でしているようだ。(+1)
( )何か新しいことができるようになったとき、あるいはよいニュースがあったようなとき、それ
が家族全体の話題になる。たがいにそれを喜びあう雰囲気がある。(+1)
( )家庭の中にも、居場所や逃げ場をもっていて、それぞれが、いてもいなくても、気をつかう
ことなく、体を休めたり、心をいやしたりすることができる。(+1)
 一方、以上の五項目とは反対に……
( )親子のリズムがつかめない。どこかチグハグで、去年と比べても、大きく変化したようだ。
どこか毎日、あたふたとしているうちに過ぎていくといった感じ。(-1)
( )外から帰ってくるようなとき、どこか雰囲気が暗いときがある。気晴らしをするときも、好ん
で外の世界で(あるいは閉じこもって)しているようだ。(-1)
( )あなたの前では静かで、話しかけても、あまり返事をしない。どこかよい子ぶっているとこ
ろがある。何を考えているかわからないときがある。(-1)
( )親子の間に感動が少なくなった。よいニュースがあっても、自分だけの世界にそれを閉じ
こめようとする。自分だけで問題を解決しようとすることが多いようだ。(-1)
( )できるだけ親の顔や姿が見えないところで、体を休めている。家族と顔をあわせるのを避
け、顔を見ると、どこかへ姿を消すことが多い。(-1)
 以上の質問で、プラス・マイナスを合計して、プラス点であればよし。マイナス点であれば、こ
の時点を原点として、一年単位で「よき家庭づくり」を始める。「よき家庭」というのは、そういう
意味で、健康に似ている。怠惰(たいだ)な生活をしていると、すぐ崩壊する。「よい家庭」という
のは、家族が力をあわせて、つくりあげるもの。決して、向こうからやってくるものではない。




子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(503)

まじめな子ども

 基本的なまじめさは、幼児期に決まる。この時期までの、バランスのある生活が、子どもの
「まじめさ」をつくる。ここでいう「バランスのある生活」というのは、心静かで、おだやかな生活
をいう。まずいのは、アンバランスな生活。極端な甘やかしと、極端なきびしさが同居するよう
な生活は、子どもを育てる環境としては、決して好ましいものではない。よくある例は、極端に
きびしい母親と、子育てに無関心な父親、あるいはデレデレに甘い祖父母と、しつけにきびし
い母親との組みあわせ。育児拒否や家庭内騒動がよくないことは、言うまでもない。こういう環
境では、子どもは静かに考えること自体できない。
 そのまじめさは、いかに自分を律するかで決まる。こんな子ども(小四女子)がいた。たまた
まバス停で会ったので、私が「缶ジュースを買ってあげようか」と声をかけたときのこと。その子
どもはこう言った。「いえ、いりません。これから家に帰って夕ご飯を食べますから」と。こういう
子どもを、まじめな子どもという。
 一方、自分で考える習慣のない子どもは、行動がどこか、常識ハズレになりやすい。あるとき
年長児のクラスで、私が、「ブランコを横取りされたら、君はどうしますか」と聞いたときのこと。
一人の子ども(男児)は、こう言った。「そういうヤツはぶん殴ってやる。どうせ口で言ってもわ
かんねエ~」と。
 まじめな子どもは、当然のことながら、自分を律する力が強い。よく子どもの非行が話題にな
るが、非行に走るか走らないかは、その子どもの抵抗力による。もっとわかりやすく言えば、抵
抗力に弱い子どもが、非行に走るようになる。で、その抵抗力というのは、ここでいう「自分を
律する力」をいう。まじめな子どもは、誘惑を受けたときも、その誘惑を自分で判断し、一時的
に負けることはあっても、やがてその誘惑に打ちかつ。しかしそうでない子どもは、そのまま誘
惑に負けて、非行へと進む。
 ……だから乳幼児期の教育が重要と書けば、私の手の内が見えてしまう。しかし事実は、そ
のとおりで、私の視点からすると、小学一年生ですら、おおきな子どもに見える。中学生ともな
ると、もう手の届かない、おとなに見える。だから中学生をもつ親から、「どうしたらいいでしょう
か」という相談を受けると、私は実のところ、何と答えてよいのかわからなくなる。「手遅れ」とい
う言葉は使いたくないが、しかしそれに近い印象をもつことは事実だ。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(504)

別れぎわの美学

 その月の最後のレッスンのとき。しかもその日の授業が終わったとき、生徒の一人が、私に
メモを渡した。見ると、「今日で、BW(私の教室)をやめます」と。母親の字だった。私はそのメ
モを読んで、体が震えた。「やめる」は、この世界では、クビ切りと同じ。そういうクビ切りを、た
った一枚のメモですますとは!
 ……と言っても、そういうことはこの世界では、日常茶飯事。いちいち怒っていたのでは、仕
事はできない。「元気でね、さようなら」と言い終わるときには、もうその生徒のことは忘れるこ
とにしている。が、それは同時に、私にとっても、決別のときでもある。そういうやめ方をする人
の子どもは、二度と教えない。それは私の意地というよりも、この世界に生きる人間のプライド
のようなものだ。地位や肩書きのない人間は、この日本では軽く見られる。その軽く見られた
分だけ、私は私の生きざまをつらぬく。
 が、当の親には、その意識がない。数週間もすると、またメールを送ってきて、「来週から、ま
たお世話になります」などと言ってきたりする。あるいは図々しくも(?)、今度は兄のことで相談
してきたりする。私はそういうとき、はっきりと「断わります」と言う。が、断われば断わったで、
そういう親ほど、デパートで販売拒否にでもあったかのように怒り出す。もともと私をその程度
の人間にしか見ていないからだ。
 先日もこんなことがあった。私の書いた原稿を、私に無断で、あちこちに転送した女性がい
た。しかも私の原稿をズタズタにしたうえ、ほとんど一行ごとに、コメントを書き添えて、だ。それ
には「美人はとくね」と、私を揶揄(やゆ)したようなコメントまであった。最終的には、その原稿
は私のところへ回送されてきたが、そのときほど体が怒りで震えたことはない。私はしがないも
の書きだが、女房ですら、そこまではさせない。(女房だって、しない。)以後、その女性とは縁
を切ったが、この女性にも罪(?)の意識はなかった。何度かメールで、「どうして返事をくれな
いのですか」と言ってきた。が、返事など書けるものではない。平気で私信を、それも許可なく
転送する人に、返事など書けない。
 ……と、まあ、他人の批判ばかりしているが、私も他人に対して、同じようなことをするときが
ある。もともと性格がゆがんでいるから、キズつけられるよりも、キズつけることのほうが多い
かもしれない。偉そうなことは言えない。しかしこれだけは言える。
 人と出会うのは、簡単なことだ。しかし別れるときは、そうでない。言いかえると、人のつきあ
いは、別れぎわの美学で決まる。つまりいかに美しく、わだかまりなく別れるかで、その人の価
値が決まる。「価値」というと少しおおげさに聞こえるかもしれないが、人間の価値は、人との
「かかわり」の中で決まる。その「かかわり」は、別れるとき清算される。別れぎわが汚いという
ことは、それまでの「かかわり」を否定することになる。決してメモ一枚で、相手と別れてはいけ
ない。






子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(505)

親に甘えない子ども

 親に甘えることができない子どもは、多い。あなたの子どものことではない。あなた自身のこ
とだ。あなたは自分の親に、甘える、つまり全幅に心を開くことができるか。
 ある母親はこう言った。「今でも親の前へ行くと、気が疲れます」と。「実家へ帰るのが、苦痛
でならない」と言った母親もいた。「両親とも教師で、私は今でも親の前では、いい子ぶっていま
す」「親子なのに、私は親とは儀礼的なつきあいしかできません」と言った母親もいた。親子だ
から、それなりに親密のはずと決めてかかってはいけない。私が知る範囲でも、何割かの母親
は、実の親たちとのつきあいのことで、悩んでいる。
 が、もっと大きな悲劇は、そういう息子や娘をもちながら、とうの親たちは、「できのよい子ど
も」と誤解しているところにある。一人の母親は、こうメールに書いてきた。「私の両親は、私の
ことをできのいい娘と思っているようです。それに私が東京のT大学(国立)を出たことを自慢し
ていますが、私にはそれが不愉快でなりません。両親は私の仮面しか見ていないからです」
と。
 そこで今、あなたとあなたの子どもの関係をみてほしい。あなたの子どもは、あなたに対し
て、全幅に心を開いているだろうか。言いたいことを言い、したいことをしているだろうか。ある
いは反対に、ひょっとしたら、あなたの前で仮面をかぶってはいないだろうか。あなたの前でよ
い子ぶったり、仮面をかぶっていないだろうか。前者のようであればよし。しかしそうでなけれ
ば、親子のあり方を、かなり反省したほうがよい。とくに権威主義は、親子のあいだに、大きな
キレツを入れる。「私は親だ」「親に向かって、何だ」というような言い方をしていて、どうして子
どもはあなたに心を開くことができるのか。
 繰り返すが、「たがいに心を開いて、わかりあえる」。それが家族の第一の役目である。家族
が家族である理由は、すべてこの一語に行きつく。そのほかの問題は、すべてマイナーな問
題。どうでもよいとは言わないが、しかしこの役目の前では、ささいな問題と考えてよい。
 


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(506)

よい親子でいるために

 心というのは、一度、閉じると、開くのは容易ではない。中学生や高校生でも、親と会話すら
しない子どもは、いくらでもいる。なぜそうなるかは別として、子どもの心を安易に考えてはいけ
ない。一度閉じた心を開くのは、それこそ五年単位の時間と努力を必要とする。成人してから
も、ほとんど会話のない親子はいくらでもいる。私の知人のK氏は、今年三五歳になるが、父
親(六二歳)と、食事すら別々。廊下ですれ違うときも、目をそむけあっている。同居しているだ
けに、ことは深刻である。K氏の妻はこう言った。「毎日が一触即発の状態です。先日も、『殺
す』『殺してみろ』のおおげんかをしました」と。
 そこでもしあなたが、今、あなたの子どもの心が閉じ始めているのを感じたら、できるだけ初
期のうちに、手を打つのがよい。この問題だけは、遅れれば遅れるほど、こじれる。ある母親
は息子(小五)の受験勉強に狂奔しながら、こう言った。「私は息子には、ひどい母親に見える
かもしれません。しかしいつか息子が目的の中学校に入学したとき、私のことを理解し、感謝し
てくれると思います」と。が、残念ながら、そういうことはありえない。絶対にありえない。こういう
ケースのばあい、閉じるどころか、心そのものが破壊される。
 親というのは、皮肉なものだ。自分だって一度は子どもであったにもかかわらず、その子ども
の心がわからない。わからないまま、「子どものことは私が一番よく知っています」と、子どもの
心を、親の立場で決めてしまう。そしてやがて行き着くところまで行き、そこで失敗する。その途
中で、私のようなものがアドバイスしても、ムダ。「私にかぎって」とか、「うちの子にかぎって」と
か言って、その時期を見逃してしまう。どれもこれも、結局は子どもの心を安易に考えるところ
から始まる。繰り返すが、子どもの心を決して安易に考えてはいけない。
(チェックテスト)
●あなたは子どもの心を安易に考えていないか。
●あなたは子どもの心をつかんでいると誤解していないか。
●あなたは自分のエゴを子どもに押しつけていないか。
 
 

子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(507)

顔の見えない親たち

 まさに顔が見えない。インターネットで、メールを交換していると、「文」だけの関係になる。そ
のためおかしな現象が起きる。
 たとえばA市に住むAさんから、子育ての相談を受けたとする。で、数回、メールを交換したと
する。で、しばらくしたあと、今度はB市に住むBさんから、別の相談を受けたとする。で、同じ
ように数回、メールを交換したとする。こういうことを、全体として、何度も繰り返していると、だ
れがだれだかわからなくなってしまう。当然といえば、当然だが、そんなとき、「以前、相談した
ことのあるC市のCです」というようなメールをもらうと、頭の中が大混乱してしまう。
 ひとつの解決策としては、その人の写真を同時に送ってもらうことだが、まさか「写真を送って
ください」とは、言えない。相手が母親だとまずいが、父親だと、もっとまずい。へんに誤解され
てしまう。たぶんこのことは、相手の人にもそうだろう。「はやし浩司は一対、どんな男なのだろ
う」と思いながら、相談してくる人も多いと思う。今のところどのように解決したらよいのかわか
らないが、そのうちもう少しインターネットが発達すれば、テレビ電話のようなことができるよう
になるかもしれない。そうなれば、たがいに顔を見ながら、メールを打つことができるようになる
だろう。
 そこで私のばあいは、メールをくれる人には、住所と名前を書いてもらうことにしている。これ
はイタズラメールや、ウィルス入りのメールを防ぐ目的もあるが、そうすることで、「個性」を確認
することにしている。が、ここでもおかしな現象が起きる。名前やその人が住んでいる土地で、
その人のイメージが、勝手に頭の中でつくられてしまう。たとえば……(不謹慎だが、相手が母
親だと……)、
京都の京子さんという名前だと、舞妓さんのような女性をイメージしてしまう。大阪のマユミさん
という名前だと、都会的なキャリアウーマンをイメージしてしまう。一方岩手の岩枝さんだと…
…、これは書けない。ともかくも勝手に頭の中でイメージがつくられてしまう。そしてこれが誤解
と偏見の原因となる。
さてさてどうしたらよいものか? ……と思いつつ、今朝も数人の方に、メールの返事を書い
た。



子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(508)

子どものトラブル解決法(1)


 子どもどうしのトラブルが、一定の限度を超えて、子どもの心に影響が出てくることがある。た
とえば深刻なケースとしては、不登校(学校恐怖症)にまで発展することもある。が、そこまでは
いかないにしても、相手の子どもの暴力や暴言、いじめなどが原因で、子どもの心が変調をき
たすことがある。ぐずったり、元気がなくなったり、反対に家で荒れたりする。そういうトラブルが
つづくと、当然のことながら親は、「学校に言うべきかどうか」で悩む。ひとつのケースを、モデ
ルに考えてみる。
【K君、小三男児のケース】
 K君は、スポーツも得意で、よくハメをはずすことはあるが、学校でも人気者で、性格も明る
かった。毎日そのため、いつも友だちの家で回り道をして帰ってきた。算数教室にも通ってい
たが、一度、友だちの家に集合し、そこからみなといっしょに算数教室へ通っていた。
 そのK君の様子がおかしくなったのは、秋も深くなった一一月のことだった。K君が「学校は
いやだ」「学校へ行きたくない」と言い出した。朝、起きてもぐずぐずしているだけで、したくすら
しない。そこで父親が理由を聞くと、「M君(同級生)がいじめるからだ」と。M君は、キレると別
人のように暴れるタイプの子どもだった。父親はこう言った。
 「それまでは、回り道をして帰ってくるのがふつうだったKですが、このところまっすぐ家に帰っ
てきます。それがかえって不自然な感じがします。それに母親が『算数教室のプリントをしたら』
というと、突発的に興奮状態になって、暴れます」と。
 不登校が長期にわたることが多いのに、学校恐怖症がある。この恐怖症には、ある一定の
前兆現象があるのが知られている。K君のケースでも、朝起きたとき、ぐずる、不平、不満が
多くなるなどの症状がみられる。ほかの神経症による症状、たとえば腹痛、頭痛などの症状が
今のところ見られないので、まだ初期の、初期症状と考えてよい。しかし様子は慎重に判断し
なければならない。この段階で、無理をして、子どもの心を見失うと、症状は一挙に加速、悪化
する。
 ここでは不登校を問題にしているのではない。ここでは、だれに、どのように相談し、問題を
解決したらよいかという問題を考える。当然、最終的には学校ということになるが、その前にや
るべきことは多い。(不登校については、別のところ読んでほしい。)
(1)家庭を心をいやすやすらぎの場と心得ること。外の世界で疲れた子どもを、温かくしっかり
と包み込むような雰囲気を大切にする。子どもの生活態度や生活習慣が乱れ、だらしなくなる
ことが多いが、それはそれとして、大目にみる。
(2)食事面で、Ca、Mgの多い食生活にこころがけ、子どもの心を落ちつかせることを大切に
する。そして家では子どもを、「あなたはよくやっている」というような言い方をして、子どもの心
を裏から支えるようにする。






子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(509)

子どものトラブル解決法(2)

 子どもどうしのトラブルが、限界を超えたら、(どこが限界かを判断するのはむずかしいが)、
学校の先生に相談、ということになる。その相談について……。
 これはどんなばあいでもそうだが、自分の子どものことを先生に相談するときは、子どもの症
状だけを、ていねいに訴えて、それですますこと。親が原因さがしをしたり、理由づけをしては
いけない。いわんや相手の子どもの名前を出したり、先生を批判してはいけない。あくまでも子
どもの症状だけを訴えて、それですます。判断や指導は、プロである先生に任す。それがわか
らなければ、たとえばあなたが病気になったときのことを思い浮かべればよい。あなたはドクタ
ーに、自分の診断名や治療法を話すだろうか。そんなことをしても、意味がない。ないばかり
か、かえって、診断や治療のさまたげになる。学校という社会では、先生は、まさに教育のドク
ター。が、それだけではない。
 この種のトラブルは、たとえばあなたが相手の子どもの名前を口にしたりすると、問題が思わ
ぬ方向に、飛び火したりする。一〇人もいれば、一人はまともでない親がいる。そのうちさらに
一〇人のうち一人は、頭のおかしい親(失礼!)がいる。そういう人をトラブルの中に巻き込む
と、それこそたいへんなことになる。現に今、私が知っている人の中には、「言ったの、言わな
いの」が、こじれて、親どうしで裁判闘争している人さえいる。こうなると、子どものトラブルでは
すまなくなる。
 私は、つぎのような格言を考えた。
●親どうしのつきあいは、如水淡交……親どうしのつきあいは、水のように淡(あわ)く、サラサ
ラとつきあうようにする。教師との関係もそうで、濃密だから、子どもに有利とか、そういうふう
に考えてはいけない。
●行為を責めても、友を責めるな……これはイギリスの格言だが、子どもが非行に走っても、
その行為を責めるにとどめ、友を責めてはいけない。「あの子と遊んではダメ」と子どもに言う
ことは、子どもに「親をとるか、友をとるか」の択一を迫るようなもの。あなたの子どもがあなた
をとればよいが、友をとれば、同時にあなたと子どもの間には大きなキレツが入ることになる。
同じように、学校でのトラブルでも、仮に先生に問題があっても、先生を責めてはいけない。症
状だけを訴えて、あとの判断は先生に任す。(もっともあなたが転校を覚悟しているのなら、話
は別だが……。)
●子どもどうしのトラブルは、一に静観、二にがまん。三、四がなくて、五にほかの親に相談…
…「ほかの親」というのは、同年齢もしくはやや年齢の大きい子どもをもつ親のこと。そういう親
に相談すると、「うちもこんなことがありまたよ……」というような会話で、大半の問題は解決す
る。学校の先生に相談するのは、そのあとということになる。





子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(510)

世間体論

 クイズ……「A氏(六五歳男性)の母親はBさん(他界)。しかし戸籍上は、A氏とBさんは弟姉
になっている。こんなことはありえるだろうか」
 古い世代の人は、このクイズはすぐ解ける。しかし若い世代の人には、むずかしい。つまり昔
の人は、それくらい世間体を気にした。
 先日もある母親から、こんな相談があった。「離婚をしたが、子どもを連れて、実家へは帰れ
ない。どうしたらいいか」と。私が「どうして?」と聞くと、「実家の両親が、世間体もあるから、実
家へ入れるわけにはいかないと言っている」と。つまり娘が離婚し、子ども(孫)を連れて帰って
くることを、親たちは「恥ずかしい」というのだ。
私はこの話を聞いたとき、第一に、その母親のことよりも、その実家の両親のことをかわしそう
に思った。年齢を察するに、私と同じくらいか。その親が、いまだに自分の人生観を確立するこ
とができないでいる! それだけではない。子どもを愛するということが、何であるかさえわかっ
ていない!
 あなたは世間体という魔物を知っているか? この世間体に毒されると、自分を見失う。家族
の心を見失う。この世間体は、もともと戦前の、もしくはそれ以前からの全体主義的なものの
考え方に由来する。みなと同じことをしていれば安心。そうでなければ不安。みなと同じことをし
ている人を受け入れる。そうでない人を排斥する。そういうものの考え方が基本にあって、日本
人は、その世間体を気にするようになった。「世間が笑う」「世間が許さない」という言い方も、
そこから生まれた。
 また子どもを愛するということは、子どもをあるがまま受け入れるということ。この親たちは、
子どもの苦しみや悲しみさえわかっていない。あるいはその苦しみや悲しみを、共有しようとい
う意識さえない。いったいこの親たちは、何のために、どうして子育てをしてきたのか? 娘の
苦しみや悲しみを救うことよりも、世間体のほうが大切にしている。自分のメンツや見てくれ、
体裁のほうが大切にしている。その母親は離婚という状況に追いこまれたが、今どき、離婚な
ど、どうということはない。その両親は、さかんに孫のことを、「かわいそうだ」「あわれだ」と言っ
ているそうだが、本当にかわいそうなのは、孫ではない。娘というその母親でもない。その母親
の両親だ。自分をつかめない、両親だ。
 さて冒頭のクイズ。そのA氏は、私X児(今、この言葉は禁止語になっている)として生まれ
た。そこで世間体を気にしたBさんの父親が、自分の息子として戸籍に入れた。だから戸籍上
は、A氏とBさんは、戸籍上では、弟姉となった。戦前まではよくあったことである。あなたはこ
のクイズが解けただろうか。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)





子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(511)


時間論


 久しぶりに、自宅から市内にある教室まで歩いてみた。地図の上では、六キロだが、歩くと七
〇分もかかった。たまたまワールドカップの最中だったので、「前半と後半で、計九〇分間も走
り回るのも、結構たいへんだなあ」と、へんな感心をしながら歩いた。それともうひとつ。「江戸
時代には、みんなこの道を歩いたのかなあ」とも。が、そのうち、「時間」について考えるように
なった。
 車で行けば、一〇~一五分の距離。それを歩いていくのは、時間のムダなのか。それともム
ダでないのか、と。ときどき若い男が、車で猛スピードで私の横を通り過ぎていったが、それを
見たとき、今度は反対のことを考えた。彼は時間を大切にしているのか。それとも大切にして
いないのか、と。
 話はぐんと現実的になるが、今、平均的な高校生で、一日、四~五時間(各種調査)は、家で
テレビを見ている。学校での授業を、五〇分かける五時限として、一日、二五〇分。時間にな
おすと、四時間と少し。つまり学校で授業を受ける時間より、家でテレビを見る時間のほうが、
長い。影響ということを考えるなら、子どもたちは学校で受ける影響よりも、テレビでのほうで、
はるかに強い影響を受けている。しかしこういうのを時間のムダというのではないのか。「娯
楽」と言えば聞こえはよいが、低俗なバラエティ番組を見ながら、ギャーギャーと笑うことが、本
当に娯楽なのか。また高校生に、そんな娯楽が必要なのか。……と書くのは、ヤボなことだ
が、私はこのところ、「だからどうなのか?」ということをよく考える。年齢のせいかもしれない。
「急いで帰って、それがどうなのか」とか、「テレビを見て楽しんで、それがどうなのか」と。最近
は、億単位のお金を稼ぐ人の話を聞くと、「必要以上に、お金を稼いで、それがどうなのか」と
考えることもある。これは私のひがみのようなものかもしれない。
 結論から言うと、歩くことは、決してムダではない。健康にもよいが、それ以上に、時間という
ものを、しっかりと自分でつかむことができる。一方、何か理由があって急ぐのならともかくも、
そうでなければ車に乗ることは……? ムダとは言いきれないが、「だからどうなのか」という部
分が、どうしても浮かびあがってこない。若い男が猛スピードで走り去るのを見たときも、そうだ
った。私は「そんなに急いで、どうするのか?」と。
 考えてみれば人生で一番大切な財産は、時間だ。この時間は、お金にはかえられない。で、
そこで重要なことは、いかに自分のものとして、そのときどきの時間をつかむか、だ。いかにし
て納得してすごすかということになるかもしれない。その方法は、人さまざまだが、私のばあ
い、「生きる」ということは、「考える」こと。考えたときが、まさにつかんだ時間ということになる。
だからたとえばつまらないビデオを見たりして時間をムダにしたと感じたりすると、「しまった!」
と思うことがある。
 私はその六キロを歩きながら、そんなことを考えた。





子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(512)

日本の仏教

 日本の仏教には、多くの矛盾がある。矛盾だらけと言ってもよい。少し前になくなったが、東
大のN名誉教授は、さかんに「大乗非仏説」を唱えていた。つまりインドからヒマラヤ山脈の北
を回って中国、日本へと伝わった仏教(大乗仏教、北伝仏教)は、釈迦が唱えた仏教とは異質
のものである、と。
 私はすべてがそうだとは言わないが、矛盾がないわけではない。たとえば、インドでは男性だ
ったカノンが、日本では観音様という女性になっていること。日本の仏像が、(ガンダーラの仏
像もそうだが)、古代インドの服装ではなく、すべてヘレニズム文化の影響を受けた古代ギリシ
アの服装を身につけていること。また経典の中に、よく、貨幣の話が出てくるが、釈迦の時代に
はまだ貨幣はなかったこと、などなど。釈迦の生誕地に残る仏典(法句経)は別として、それ以
外は、どうも?、というものが多い。そういうものを根拠にして、仏教を説いても、あまり意味が
ないのではないのか。さらに総じてみれば日本の仏教は、あのチベット密教の影響をモロに受
けている。それが中国の土着宗教と結びついて、日本へ入ってきた。チベット密教そのものと
言う人もいる。
 だからといって私は仏教を否定しているのではない。仮に仏教が否定されたとしても、
その仏教とともに生きてきた、何億何千万もの人たちの人生まで否定することはできない。た
だ、盲信するのはいけない。中には、経典の一言半句にまで深い意味を求める人もいるが、し
かしここにも書いたように、矛盾がないわけではない。そういう矛盾、つまり明らかなまちがい
まで押し殺して盲信するのは、危険なことでもある。
 大切なことは、自分で考えることだ。先日もある著名な仏教哲学者U氏の講演をテレビで見
ていたが、その中でその哲学者はこう言っていた。「○○経にXXという言葉がありますが、つま
り人間はみな、平等と釈迦は教えているのです」(NHK、〇二年六月)と。しかし、だ。何もおお
げさに経典の一節をもちださなくても、人間がみな平等というのは常識ではないのか。ほんの
少し自分自身の「常識」に照らし合わせれば、小学生にだってわかる。それにその哲学者は、
こうも言っていた。「人間は白人も、黒人も、黄色人種も、みな平等だと、そういうことを釈迦は
教えているのです。すばらしいことです」と。しかしこの話はウソ。釈迦の時代に、釈迦の周辺
に、白人や黒人、黄色人種はいなかった!
 私たちは何の疑いもなく、日々の生活の中で、仏教的な儀式を繰り返している。そしてそれ
があるべき方法だと、信じて疑わないでいる。しかしそういう姿勢こそ、ひょっとしたら、釈迦が
もっとも嫌った姿勢ではないのか。話せば長くなるが、法句経で述べている釈迦の精神とは、
どこか違うような気がする。
 ここではこの程度にしておくが、もし興味があったら、あとは皆さんが、自分でたしかめてほし
い。